「哀川先生のこと?」
「うん。なんでもいいよ」

 翌日、登校した私は近くにいた佐野さんに哀川先生について訊ねていた。
 注意しようと思ったものの、そもそも私は先生について何も知らない。だから他の生徒が哀川先生をどう見ているか気になったのだ。
 人気者の佐野さんなら色々と情報を知っているはず。それに昨日、私と話してみたいと言ってくれたから、快く受けてだろう。とはいえ突然聞くのは怪しい気もするから、念のため建前を付けておく。

「学級委員長をやる上で、担任の先生が気になって。私は先生を、生物教師っていう以外に知らないから」
「なるほどー! それなら任せてよ!」

 佐野さんは腰に手を当てガッツポーズを取った。相変わらずのリアクションだが、誤魔化しに成功したのはわかりやすい。
 佐野さんは腕組みしながら、考え込むように頭をひねる。

「そうだなぁ……部活は調理部の顧問だったはずだよ。調理部だった先輩が言ってた」
「調理部って、確か去年で廃部になった?」

 三年生が辞めて部員が誰もいなくなったから無くなると、去年の終わりにホームルームで言われた気がする。部活動には入っていないから興味がなかったけれど。

「顧問は家庭科の先生じゃなかったんだね」
「ねー、うちも先輩から聞いてびっくりした。けど包丁捌きがすごいらしいよ。魚とか、さささって三枚おろしにしちゃうんだって。それもめちゃめちゃ綺麗なの」

 ほら見て、と佐野さんはスマホの画面をこちらに向けてきた。そこには家庭科の教科書の写真と思うほど、綺麗に三枚おろしされた鰺の写真が映っている。佐野さんが言うには、哀川先生が一からさばいたものらしい。昨日のお母さんの鯖とは大違いだった。

「これだけ綺麗に三枚おろしできたら、彼氏に料理作ってあげたりする時もよろこばれそー。まあ哀川先生は……アセクシャル? アロマンティックだっけ……とにかくそういうのらしいから、彼氏とかはいないだろうけど」

 アセクシャルに、アロマンティック。他人に性的欲求や恋愛感情を抱けない人たちのことだ。まさか先生がそうとは思わなかった。

「これも知らんかった? 結構有名な話だよ」

 佐野さんによると、哀川先生は若さとその見た目から、男子生徒や男性教師にしばしば言い寄られるらしい。けれどその度に「自分は他人を好きになれないから」と断っているとか。

「女子からも人気があるのはそれが理由。片思い相手とか奪われる心配ないしね」

 性的マイノリティを公言している先生なんて中々いない。そんなにインパクトの大きい話なら自分も聞いていておかしくなさそうなのに。
 僅かな不安がよぎる。しかし考えてみれば、昼休みは大抵自習室へ行き、放課後は部活も寄り道もせず家に向かう日々の中では、噂を聞く暇なんて無かった。仕方ない。優等生であろうとすれば、時々こういうこともある。
 気を取り直し、引き続き佐野さんに話を聞いていく。部活と性的指向以外にも、休日はよく写真展に行っていること、住まいは学校近くのアパートだということを教えてくれた。案外、私の家の近所だった。
 しかしそこまで聞いても特段怪しいところは何もない。生物教師が調理部の顧問をしていたのは多少の違和感を覚えたくらいだ。
 けれどもさらに詳しい話を聞こうとしたとき、カツッとヒールの音が側で響いた。

「しーらーさーわーさん」

 振り向くと哀川先生が側に立っていた。いつの間にか朝のホームルームが始まる時間になっていたらしい。相変わらず白衣のポケットに手を突っ込んだままの先生は、私を見下ろしにっこり笑った。

「先生を知りたいなら、直接質問に来ればいいのに。何でも答えてあげるわよ」

 なんだか気まずくなってきた。警戒とまでは行かないものの、先生を怪しんでいることには変わりないのだから。

「では後ほど、真核生物の減数分裂の過程に見られるDNA量のグラフについて聞きに行ってもいいですか。問題集の解説を見てもわからなくて」

 笑顔で誤魔化すと、哀川先生は肩をすくめた。

「あらあら、真面目ねぇ。まあいいわよ、本当に質問したければいらっしゃい」

 そう言い残して、先生は「ホームルーム始めるわよー」と教卓へ向かっていった。
 さも誤魔化しを見抜いているような口ぶりに心がもやつく。けれど聞きに行きたいと言った手前そうしないのは優等生らしくない気がしたので、一応放課後、哀川先生を訪ねたのだった。