「お帰り。遅かったじゃない」
家に帰ると、リビングでお母さんが腰に手を当てて待ち構えていた。外出用のきれいめな服を着たままだから、きっと日勤から帰って来たばかりなんだろう。
「今日は午前中だけだったんでしょう。何をしていたの。まさか遊んでいたんじゃないでしょうね」
鋭い声に身体が固まる。メッセージを送ったはずなのに、ちゃんと見て貰えなかったのだろうか。
それでもお母さんが怒るようなことはしていないはずと、びくびくしながら口を開く。
「じ、自習室で自習してたの。気付いたら夕方で」
「あらそう!」
自習、と聞いたお母さんは、ぱっと表情を緩ませる。腰から手を離し、口角を上げて、鼻歌を歌いながらラフな格好に着替え始めた。見るからに上機嫌だ。
怒られないのは分かってはいたが、実際に機嫌がよくなった姿を見ると安心する。身体の緊張もゆっくりほぐれていった。
「お勉強ならいいわよ。本当に清花ちゃんは真面目で賢くてできる子ねぇ。さすがはお母さんの子だわ。このまま頑張って医学部に行って、お医者さんになるのよ」
医学部に、はいつものお母さんの口癖だ。お母さんは幼稚園の頃に医者のお父さんと離婚してから、ずっと私に優秀な人間になって医学部に行くようにと語っていた。お母さん曰く、それ以外の学部に行っても意味がないらしい。
お母さんは仕事をしながら、ずっと私を一人で育ててくれた。大変な思いをして育ててくれたお母さんに、私は娘として恩を返さないといけないんだと思う。だからお母さんの望む通り優等生になって、医学部に行って、医者になるのが私の正解。
そうすればお母さんも満足して、怒られることもなくなるだろう。
「うん、頑張るね。あとこれ、頼まれた鯖」
鯖の入った白い無地のビニール袋をお母さんに差し出す。着替え終わったお母さんは袋を受け取ると、台所へ入っていった。けれど夕飯ができる間に着替えてこようとしたところで、台所から悲鳴が上がる。
「ちょっと! この鯖、さばいてもらってないじゃない!」
「えっ?」
慌てて台所へ向かいまな板の上の鯖を見る。言われてみれば、スーパーで売っている鯖と違ってお腹の部分が開いていない。
「ごめん、忘れていたみたい……」
「はぁ……なにしてるのよ。内蔵とか出すの、面倒くさいんだから!」
聞こえた大きなため息に、身体が小さくなった気がした。
お母さんはぶつぶつ文句を言いながら、鯖のお腹に包丁の先を突き刺した。ピンク色の内蔵と、黒と赤が混じった体液がどろりと出てくる。気持ち悪い液体は、まな板の薄茶色を侵食していった。
「清花ちゃんは優秀なんだから、こういうところでもちゃんとしなきゃ駄目でしょ。じゃなきゃ医学部に行けないわ!」
「はい、わかりました……」
「もういいわよ。早く着替えてきなさい!」
「うん……」
台所を追い出され、私は重い足取りで自分の部屋へと向かう。どうやら私は、優等生として失敗してしまったようだった。お母さんの思う優等生になるには、まだまだ先は長いらしい。
鞄を置いてスウェットに着替えたが、すぐに戻るのはためらわれた。なんとなく時間を潰してからダイニングに向かうと、ちょうど食事ができあがったところだった。
「さ、食べましょうか」
二人で席につき、食事を始める。今日のメニューはご飯に、朝食の残りの味噌汁。それからさっき買った鯖で作ったらしい塩焼きだ。うまくさばけなかったのか、三枚おろしをしたにしては身が少なかった。
けれど何かを言うなんてできない。元はと言えば私のせいだ。仕事で疲れたお母さんに手間を掛けさせるという、優等生としてあるまじき行動を取った私のせい。どこかで挽回しなければ、お母さんの望む姿にはなれない。
暗い気持ちで食事を進めていると、お母さんが口を開いた。
「今日の学校はどうだったの?」
その声色は普段通りだった。もう怒ってはいないらしい。少しだけほっとすると、私は今日の出来事を思い返す。
「始業式だからあまりなにもしなかったかな。学級委員長を決めたくらい」
「あら、学級委員長! 今年はどうなったの?」
「女子は私になったよ」
お母さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱり清花ちゃんは優等生ね。そういうのは積極的にやっておいた方がいいわ。きっと医学部に行くときもプラスになるわよ」
「うん、そう思って」
これでさっきの鯖の件は気が紛れただろうか。……いや、気が紛れるだけじゃ駄目だ。もっと満足して貰わなければ、意味が無い。
「そういえば、担任は誰になったの?」
唐突な話題にぎくりとする。担任の話になるとは思っていなかった。
「哀川由美先生。生物の」
「うーん……知らないわねぇ。どんな先生?」
「ええと……」
魚屋での出来事がフラッシュバックする。あの不気味な光景をそのまま話すのは、なんだか気が引けた。だから今まで受けた印象を、できるだけオブラートに包んで口にする。
「多分いい先生だけど、ちょっと変わってるかも」
「変わってる、ね……熱血教師とか、考え方が変とか?」
「考え方が変、に近いかな」
するとお母さんは眉間に皺を寄せ、悩ましげにため息をついた。
「そう……清花ちゃんたちが影響を受けなければいいのだけど」
確かに魚屋の魚を「死体」と呼ぶような先生なんて普通じゃないし、もしもクラスのみんなが何かしらの影響を受けてしまったら大変だ。私たちは高校三年生。将来を決める受験が迫った、大事な時期なのだから。
とはいえ生徒の私たちにできることはないような気がする。けれどお母さんは真剣な目を私に向けた。
「清花ちゃんも、先生をしっかり見極めるのよ。もし本当に変な先生だったら、学校に言った方がいいわ」
「え……大げさじゃないかな?」
「そんなことないわよ! 清花ちゃんは委員長なんだから、クラスのみんなの為にもそうした方がいいわ。担任の先生にお勉強を邪魔されるのはよくないもの。そうでしょう?」
「そう、かも」
「もし清花ちゃんがみんなを先生から救ったなんて聞いたら……お母さん、鼻が高いわぁ」
なるほど。先生を探ってみんなを救えば、お母さんは喜んでくれるらしい。ならその通りに行動すれば、お母さんの望む優等生により近づけるかもしれない。
哀川先生のことは、注意して見ておこう。
不格好な鯖の塩焼きを食べながら、私は心の片隅でそう思った。
家に帰ると、リビングでお母さんが腰に手を当てて待ち構えていた。外出用のきれいめな服を着たままだから、きっと日勤から帰って来たばかりなんだろう。
「今日は午前中だけだったんでしょう。何をしていたの。まさか遊んでいたんじゃないでしょうね」
鋭い声に身体が固まる。メッセージを送ったはずなのに、ちゃんと見て貰えなかったのだろうか。
それでもお母さんが怒るようなことはしていないはずと、びくびくしながら口を開く。
「じ、自習室で自習してたの。気付いたら夕方で」
「あらそう!」
自習、と聞いたお母さんは、ぱっと表情を緩ませる。腰から手を離し、口角を上げて、鼻歌を歌いながらラフな格好に着替え始めた。見るからに上機嫌だ。
怒られないのは分かってはいたが、実際に機嫌がよくなった姿を見ると安心する。身体の緊張もゆっくりほぐれていった。
「お勉強ならいいわよ。本当に清花ちゃんは真面目で賢くてできる子ねぇ。さすがはお母さんの子だわ。このまま頑張って医学部に行って、お医者さんになるのよ」
医学部に、はいつものお母さんの口癖だ。お母さんは幼稚園の頃に医者のお父さんと離婚してから、ずっと私に優秀な人間になって医学部に行くようにと語っていた。お母さん曰く、それ以外の学部に行っても意味がないらしい。
お母さんは仕事をしながら、ずっと私を一人で育ててくれた。大変な思いをして育ててくれたお母さんに、私は娘として恩を返さないといけないんだと思う。だからお母さんの望む通り優等生になって、医学部に行って、医者になるのが私の正解。
そうすればお母さんも満足して、怒られることもなくなるだろう。
「うん、頑張るね。あとこれ、頼まれた鯖」
鯖の入った白い無地のビニール袋をお母さんに差し出す。着替え終わったお母さんは袋を受け取ると、台所へ入っていった。けれど夕飯ができる間に着替えてこようとしたところで、台所から悲鳴が上がる。
「ちょっと! この鯖、さばいてもらってないじゃない!」
「えっ?」
慌てて台所へ向かいまな板の上の鯖を見る。言われてみれば、スーパーで売っている鯖と違ってお腹の部分が開いていない。
「ごめん、忘れていたみたい……」
「はぁ……なにしてるのよ。内蔵とか出すの、面倒くさいんだから!」
聞こえた大きなため息に、身体が小さくなった気がした。
お母さんはぶつぶつ文句を言いながら、鯖のお腹に包丁の先を突き刺した。ピンク色の内蔵と、黒と赤が混じった体液がどろりと出てくる。気持ち悪い液体は、まな板の薄茶色を侵食していった。
「清花ちゃんは優秀なんだから、こういうところでもちゃんとしなきゃ駄目でしょ。じゃなきゃ医学部に行けないわ!」
「はい、わかりました……」
「もういいわよ。早く着替えてきなさい!」
「うん……」
台所を追い出され、私は重い足取りで自分の部屋へと向かう。どうやら私は、優等生として失敗してしまったようだった。お母さんの思う優等生になるには、まだまだ先は長いらしい。
鞄を置いてスウェットに着替えたが、すぐに戻るのはためらわれた。なんとなく時間を潰してからダイニングに向かうと、ちょうど食事ができあがったところだった。
「さ、食べましょうか」
二人で席につき、食事を始める。今日のメニューはご飯に、朝食の残りの味噌汁。それからさっき買った鯖で作ったらしい塩焼きだ。うまくさばけなかったのか、三枚おろしをしたにしては身が少なかった。
けれど何かを言うなんてできない。元はと言えば私のせいだ。仕事で疲れたお母さんに手間を掛けさせるという、優等生としてあるまじき行動を取った私のせい。どこかで挽回しなければ、お母さんの望む姿にはなれない。
暗い気持ちで食事を進めていると、お母さんが口を開いた。
「今日の学校はどうだったの?」
その声色は普段通りだった。もう怒ってはいないらしい。少しだけほっとすると、私は今日の出来事を思い返す。
「始業式だからあまりなにもしなかったかな。学級委員長を決めたくらい」
「あら、学級委員長! 今年はどうなったの?」
「女子は私になったよ」
お母さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱり清花ちゃんは優等生ね。そういうのは積極的にやっておいた方がいいわ。きっと医学部に行くときもプラスになるわよ」
「うん、そう思って」
これでさっきの鯖の件は気が紛れただろうか。……いや、気が紛れるだけじゃ駄目だ。もっと満足して貰わなければ、意味が無い。
「そういえば、担任は誰になったの?」
唐突な話題にぎくりとする。担任の話になるとは思っていなかった。
「哀川由美先生。生物の」
「うーん……知らないわねぇ。どんな先生?」
「ええと……」
魚屋での出来事がフラッシュバックする。あの不気味な光景をそのまま話すのは、なんだか気が引けた。だから今まで受けた印象を、できるだけオブラートに包んで口にする。
「多分いい先生だけど、ちょっと変わってるかも」
「変わってる、ね……熱血教師とか、考え方が変とか?」
「考え方が変、に近いかな」
するとお母さんは眉間に皺を寄せ、悩ましげにため息をついた。
「そう……清花ちゃんたちが影響を受けなければいいのだけど」
確かに魚屋の魚を「死体」と呼ぶような先生なんて普通じゃないし、もしもクラスのみんなが何かしらの影響を受けてしまったら大変だ。私たちは高校三年生。将来を決める受験が迫った、大事な時期なのだから。
とはいえ生徒の私たちにできることはないような気がする。けれどお母さんは真剣な目を私に向けた。
「清花ちゃんも、先生をしっかり見極めるのよ。もし本当に変な先生だったら、学校に言った方がいいわ」
「え……大げさじゃないかな?」
「そんなことないわよ! 清花ちゃんは委員長なんだから、クラスのみんなの為にもそうした方がいいわ。担任の先生にお勉強を邪魔されるのはよくないもの。そうでしょう?」
「そう、かも」
「もし清花ちゃんがみんなを先生から救ったなんて聞いたら……お母さん、鼻が高いわぁ」
なるほど。先生を探ってみんなを救えば、お母さんは喜んでくれるらしい。ならその通りに行動すれば、お母さんの望む優等生により近づけるかもしれない。
哀川先生のことは、注意して見ておこう。
不格好な鯖の塩焼きを食べながら、私は心の片隅でそう思った。


