始業式の日の授業は、得てして午前中だけだ。その日も例に漏れず、学級委員長決めのホームルームだけで授業が終わる。時間ができた喜びと進級の興奮が入り交じり、クラスメイトたちはみな浮き足立っていた。

「ひまー。これからどうする?」
「カラオケ行かない? それかゲーセン行って三年になったお祝いプリ撮ろ」
「両方行けばいいじゃん。まだ十二時にもなってないし」

 近くの席で女子三人組が、寄り道の場所を相談している。筆箱を鞄に入れていると、そのうち一人が私の机に寄ってきた。

「ねえねえ、委員長」

 ポニーテールに小麦粉色の肌。確かテニス部の佐野加奈さんだ。一度もクラスは被っていないけれど、人当たりの良い性格の彼女は、学年の人気者になっていた。
 佐野さんはにぱっと人なつこい笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「委員長も一緒に行かない? うち、一回話してみたくてさー」

 つまり佐野さんは私を遊びに誘ってくれているのだろう。嬉しかったけれど、すぐに返事はできなかった。
 何故なら私たちはもう高校三年生。大学受験がすぐそこまで迫ってきている時期だ。期待されている通りの優等生でありたいなら、遊んでいる時間があるなら少しでも勉強をした方がいい気もする。いざというとき後悔しないためにも。
 答えを出せないままでいると、残りの二人組がやってきて佐野さんの腕を取った。

「もー加奈。白沢さんが困ってるよ」
「優等生の白沢さんがカラオケとかゲーセンに行くわけないでしょ」
「あ。それもそっか」

 二人の話に佐野さんは納得したようだった。彼女は胸の前で両手を合わせ、大げさに頭を下げてくる。

「ごめんね~、誘っちゃって! また昼休みとかに話そ!」
「いいよ、気にしないで」

 そう言ったのに、佐野さんはぺこぺこ頭を下げながら二人に連れられ教室を出て行った。リアクションが豊かなだなと思う。彼女のような人が一般的に、人好きされるタイプなのだろう。私はなにも感じなかったけれど。
 三人を見送った後、スクールバッグの中に目を落とす。筆箱、ノート、スマホ、それと家から持ってきた問題集が入っていた。

「……自習でもして帰ろうかな」

 私はスマホで親に遅くなる旨を連絡し、自習スペースのある図書館へと向かう。
 自習スペースの席はガラガラだった。新学期早々から勉強する人はいないのだろうか。けれど一人で努力するのも、多分きっと優等生らしいはず。
 私は一番奥の席に陣取ると、問題集を開いてノートにシャーペンを走らせた。
 時間を忘れて勉強に耽っていると、やがてスマホのバイブが震えた。はっと気付いて画面を見ると、お母さんからのメッセージが届いていた。

『遅くなった理由は説明して貰うから。それと帰りに魚屋で鯖を買ってきてちょうだい』

 スマホの表示時間は16:05。いつのまにか五時間近く勉強していたらしい。慌てて勉強道具をバッグの中に放り込む。商店街の魚屋が閉まるのは16:30だ。急がなければ間に合わない。もしも買いそびれてしまったら、お母さんに怒られてしまう。
 駆け足気味に学校を出て、街の商店街へと向かう。通学路の途中に位置するこの商店街は、お母さんは昔からよく通っている場所らしい。あちこち店を回るのは大変だろうから、近くの大きなスーパーに行けばいいのにと私は密かに思っていた。言うと怒られそうで考えないようにしているけれど。
 太陽は西に傾き、辺りはオレンジ色に包まれていた。少ない人がさらにまばらになった商店街の中を進み、中腹辺りにお母さん行きつけの魚屋を見つけた。
 けれど、その前には先客がいた。

「哀川、先生?」

 夕日の中、魚屋の前に一人佇んでいたのは哀川先生だった。白衣を脱ぎ、シャツと膝丈のスカート姿だったけれど、ウェーブの茶髪と高めのヒールはいつも通りだ。
 哀川先生は並べられた大小様々の発泡スチロールを凝視していた。その中には当然、魚が入っている。鰺や鯛、私が買う予定の鯖、それから鰤。うろこを鈍く光らせて、生気の無い目で並んでいる魚たちを、哀川先生はじっと見つめていた。
 きっと買い物だ。夕食のおかずを買いに来て、どれにするか迷っているんだろう。
 そんな予想は、しかし先生の表情に気付いて吹き飛んだ。
 先生は、笑っていた。真っ赤な唇を妖しく歪ませ、心底嬉しそうな表情をしている。目元はやけに潤んで熱っぽい。最愛の恋人にでも会ったかのようだった。
 ただの魚を見て、普通の人がこんな表情をするだろうか。戸惑っていると、不意に先生の顔がこちらを向いた。

「あら、白沢さん」

 気付かれた。やましいことをしていた訳でもないのに、嫌な汗が背中から噴き出す。

「こんな時間に何してるの? 授業は午前中だけだったでしょ」
「ええと、図書室で自習をしていたので。その後、母のお使いでここに」
「あらそう。受験までまだまだなのに、真面目ねぇ」

 先生の調子は昼間に話したときと変わらない。けれども今の状況のせいか、なんだか不気味に見えてきて、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。しかしお使いをしないまま帰れないので、誤魔化すように会話を絞り出す。

「先生も、夕飯の買い物ですか?」
「いえ、今日は見ているだけよ」

 ここは魚屋であって水族館ではない。なのに熱心に魚を見ている行為自体に違和感がある。けれど相手は担任で、その感情を表に出すべきではないだろう。私は平静を装いながら、笑顔を作る。

「そうなんですか。好きなんですね、魚」
「いえ、魚の死体は普通よ。鰤や鮪になると別だけれど」
「したい……?」
「……ああ、違う違う。魚は普通って言いたかったの。そんなに食べないものね」

 したい。シタイ。死体。
 言い直したけれど、今確かに哀川先生は言った。「魚の死体」と。
 普通、魚屋の魚を「死体」と表現するだろうか。
 頭の中がぐるぐる回る。考えが整理できないでいると、店の奥から仏頂面の店長さんが出てきて、私たちを交互に見た。
「お二人さん、何か買うなら買っとくれ。もう店じまいだよ」
 私は慌てて鯖を一匹買い、足早に商店街を後にした。