哀川先生と関わるようになったのは、高校三年になってからだった。

「A組の担任になった哀川由美です。生物選択の子は授業でいつも会っているから、知っていると思うけど」

 始業式後のホームルームで、哀川先生は白衣のポケットへ手を入れたままそう自己紹介した。男子生徒は顔を赤らめそわそわし、女子生徒はうらやましげにすらりとした身体を見つめている。まだ二十代後半らしい哀川先生は、色々な意味で高校生の興味を引くのだろう。
 けれども私は哀川先生が担任になった事実に対して、特になにも思わなかった。
 確かに先生は二年の頃から生物の授業で会っていたが、個人的に話す機会はなかった。美人ながらも教師としての腕は抜群で、教え方もわかりやすい、一般的に言えば「良い先生」ではあると思う。けれどそれ以上の感想を抱きはしない。私にとって「先生」はあくまで「先生」でしかなく、誰が担任になるかは「好き嫌い」や「良い悪い」という枠の外にある事柄だった。そもそも誰かを好みで判断するなんて、たぶん優等生じゃないだろう。
 それに「誰が先生か」という問題よりも大事なことが、新年度に入って最初のホームルームにはある。

「じゃあ早速、クラスの学級委員長決めをやるわよ」

 哀川先生はカツッとヒールを鳴らして後ろを向き、黒板に「学級委員長」と書いた。
 来た。
 学級委員長はあまり誰もやりたがらない、面倒な仕事だ。クラスの雑用係とも言っていい。しかし面倒だからこそ、その仕事をしなければならないのだ。何故なら私は、優等生。その仕事に就くことを、望まれているのだから。
 それに高校一年、二年と毎年委員長をやってきたから、仕事自体には慣れている。

「まずは立候補から。誰か委員長をやりたい人は?」

 哀川先生がクラスを見渡す。誰も手を上げない――私も上げなかった。
 すぐに上げれば意欲が強すぎると思われ、変わり者扱いされてしまう。クラスの輪を乱すのは避けたかった。
 いいタイミングは分かっている。誰も反応がない状態から三秒後だ。
 だから膝に手を置いたまま、そのときを待つ。
 三、二、一――――

「センセー、女子は白沢さんがいいと思いまーす」

 手を上げる寸前で、隣の男子が私を指名する。去年も同じクラスだった男子だ。誰も反応しない状況に飽き飽きして、適当に指名したのだろう。

「確かに白沢さん、去年も学級委員長やっていたもんね」
「頭も良いし優しいし、俺も白沢さんに一票」

 一つの意見はどんどん広がっていき、あっという間に教室中を飲み込んだ。こうなってはもう拒否できない。万が一ノーと言おうものなら、「空気が読めない」というレッテルを貼られてしまう。もっとも私には断るつもりはないから、杞憂だけれど。

「はい。私、やります」

 手を上げて立ち上がると、クラスメイトから拍手が上がった。

「……なら前に来て」

 手招きされて前に出ると、哀川先生は白いチョークをこちらに差し出しながらひそひそ声で囁いてきた。

「いいの、白沢さん? 本当はやりたくなかったんじゃない?」

 気遣うような優しい声だった。きっと私が場に流されて立候補したと思っているのだろう。こういうところが、人にいい先生と思わせるのかもしれない。

「大丈夫です。元から立候補しようと思っていたので」
「本当に? でも初めは手を上げてなかったでしょう」
「いきなり立候補するのは、なんとなく恥ずかしかったというか」
「そういう気持ちはわかるけれど。でも、それにしては貴方……」

 哀川先生がじっとこちらを見つめてきた。なんだか探られているみたいで居心地が悪く、思わず顔を逸らしてしまう。

「大丈夫ですよ」

 ささっと黒板にチョークで名前を書いた。この先生が何を思っているのかは知らないけれど、名前さえ書いてしまえばもう撤回はできないはずだ。

「……そう。ま、貴方がそれでいいならいいけれど」

 先生の呟きには呆れらしきものが混じっていた。何が先生をそう思わせたのかはわからないけれど、自分の行動が否定されたみたいで少しだけもやもやする。けれども先生に反抗するのは優等生とは違うはず。こういうときに取り繕うのは得意だった。
 チョークを置き、微笑みながら哀川先生に一礼して、大人しく席へ戻る。
 深呼吸して前を向くと、先生は狐につままれたような顔をしていた。どうしてそういう反応になるのだろう。他の先生やクラスメイトなら、何も気にせずそれぞれの会話に戻っていくのに。
 哀川先生はきっといい先生だ。けれど話してみると少しだけ胸がわだかまる。
 ホームルームを進める哀川先生を眺めながら、私は認識を改めた。