「んんっ、これ美味しいわ! 鯖の味噌煮なんて、食べたのいつぶりかしらねぇ」
私の目の前で、哀川先生は次々と鯖を口に運んでいる。
鯖を料理すると決めた私たちは、家庭科の先生に連絡し、家庭科室と諸々の調味料を借りて料理をした。先生には鯖を切ってもらい、私はレシピとにらめっこしながら料理をする。そうしてなんとかできあがった鯖の味噌煮は、意外にも悪くない出来だった。
「悪くないどころか、とても良いわよこれ。毎日作ってほしいくらい」
「褒めすぎです。レシピが良かったんですよ」
そう言いながらも、本当は嬉しかった。お母さんの代わりに料理をしようとすると「そんな暇があれば勉強しなさい」と言われていたから、まともに料理をしたのは家庭科の授業以外で初めてだった。そんな私の料理でも先生が喜んでくれて、胸がほかほかと温かくなる。
哀川先生はしばらく味噌煮を楽しんでいたが、半分ほど食べたところで私の方を向いてきた。
「さて、これからが本題だけれど」
「えっ、なんのですか?」
唐突な話題に首をかしげる。
「決まっているじゃない。共犯の件よ」
思わず目を見張った。その話は、とっくに終わったと思っていたのに。しかも今からが本題だなんて、先生はどういうつもりなのだろう。
戸惑う私の顔を、哀川先生は探るような目で見つめてくる。
「解剖しているとき、どう思った? 鮪の目玉は授業でやったけれど、一匹じっくり解剖するのは初めてだったでしょう?」
「どうって……普通です」
しかし先生は首を振る。
「もっとよく考えて。解剖刀を鯖に刺した時は? 鯖の内臓を観察したときは? なんでもいいの。でも普通は禁止。ゆっくりでいいから、思って、感じたことを、ちゃんと自分の言葉にしてみて」
「……でも、もし私の感想が間違っていたら」
「そんなこと気にしないでいいわ。先生は、貴方の話が聞きたいの」
言われて私は思い返す。
鯖の感触。解剖刀の切れ味。お腹を切り開いた瞬間。
全部普通だと思っていた。けれど本当に、ほんの少しだけ、違う感情もあった気がする。
「鯖を切った時は……解剖刀って結構切れるんだなって。内臓は、思ったよりも綺麗だった。お母さんがさばいた時とは大違いで、さばき方でこんなに違うんだなと。でも……解剖自体はすごいなって思ったけど、先生みたいには思えない。多分、好きな訳じゃなかったんだと思う」
一つ一つ。心の底の底に落ちていた感情たちを拾い上げる。ただそれだけなのに、勉強している時よりも頭を使った気がした。同時に驚いた。自分が解剖に対して、それほど色々考えていたのかと。
話し終えて顔をあげると、哀川先生は安心したように頷いていた。
「そう。ちゃんと自分の感情を理解できるじゃない」
「でも、これが好きなものや、やりたいこととどう関係が?」
「それを見つけるために大事なのが、感情なのよ」
哀川先生の手が、そっと私の手に重なった。
「貴方を見ていたら、私と逆なのだと思ったわ。私は特に欲望に忠実に生きている人間だからか、色々と好き嫌いが激しいの。だからこそ、自分の好きなことも、やりたいこともすぐ分かる。けれど貴方はその逆で、周りで起こったことに対して自分がどう思っているか理解できない……理解しようとしていないのね。けれど少しずつ考えていけば、いずれは好きなものややりたいことが見つかるわ」
先生の話はなんとなく分かった。けれど教えてもらった通りにするのは躊躇われる。
「自分の感情を考えるなんて、いいんですか?」
「もちろんよ。考えない方がいいって思っていたの?」
「優等生なら、そうするべきかなと」
例えば、お母さんが望むかどうか、とか。感情より優先しなければいけないことが、優等生にはたくさんある。
けれども私の返答を聞いた哀川先生は、深刻そうな顔になる。何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……白沢さん。確認なのだけれど、今まで担任になった先生に何かを相談したり、逆に相談に乗ろうと言ってもらったことはあるかしら?」
「いえ、特には」
「そう……ならもう一つ。貴方は、本当に自分の欲望を見つけたいと思っているのよね?」
「はい」
優等生であるためには、普通の人間が持っているものを持たなければ。お母さんの望む姿になるためにも、みんなが持っている欲望を、私も手に入れておきたかった。
「うん、それだけ聞ければ十分よ」
頷いた私に、まっすぐな目が向けられる。
「白沢さんは、まず自分の感情を大事にするところから始めましょうか。何が好きで、何が嫌いか。どんなことがよくて、どんなことが嫌なのか。全部一つ一つについて考えるの。そしてそこでどんな感情を抱いても、それを否定せず受け入れて。周りの人も――お母さんだって関係ない。貴方の感情は貴方だけのものだから。初めは辛いと思うけれど……そうすればいつか、自分の欲望も見つかるはずよ」
「でも、もし間違った感情や欲望を抱いてしまったら……?」
「感情や欲望に間違いはないわ。自分で制御さえできていれば、なんの問題もないもの。ほら、ここに実例がいるでしょう?」
哀川先生は笑って自分を指さした。確かに世間的には認められない殺人願望を抱えて生きている先生の言葉は、妙に納得できる。
「どんな関係の人であっても、他人の感情を否定したり、操作したりしてはいけないの。もしそういう人が周りにいるなら……まずは何事も、自分で考えるようにすること。その上で抱いた感情を否定されるようなことがあれば、先生に相談にいらっしゃい。いつでも聞いてあげるわ」
まるで私が欲望を抱かないよう、裏で操っている人がいるような言い方だった。心当たりはないけれど、欲望を手に入れるためには言うとおりにした方がいいだろう。私が頷くと、先生は満足そうな表情を見せる。
「忘れないで。この先どんな答えが出たとしても、貴方は絶対に悪くないから」
「そんな、大げさですよ」
軽く先生の言葉を笑い飛ばして、これからできそうなことを考える。しかし何から始めればいいのか、さっぱり思いつかなかった。
それを告げると、先生はしばし頭をひねらせた後に微笑んだ。
「そうねぇ。まずは今週の模試の志望校欄に、どこを書くか考えてみたら?」
私の目の前で、哀川先生は次々と鯖を口に運んでいる。
鯖を料理すると決めた私たちは、家庭科の先生に連絡し、家庭科室と諸々の調味料を借りて料理をした。先生には鯖を切ってもらい、私はレシピとにらめっこしながら料理をする。そうしてなんとかできあがった鯖の味噌煮は、意外にも悪くない出来だった。
「悪くないどころか、とても良いわよこれ。毎日作ってほしいくらい」
「褒めすぎです。レシピが良かったんですよ」
そう言いながらも、本当は嬉しかった。お母さんの代わりに料理をしようとすると「そんな暇があれば勉強しなさい」と言われていたから、まともに料理をしたのは家庭科の授業以外で初めてだった。そんな私の料理でも先生が喜んでくれて、胸がほかほかと温かくなる。
哀川先生はしばらく味噌煮を楽しんでいたが、半分ほど食べたところで私の方を向いてきた。
「さて、これからが本題だけれど」
「えっ、なんのですか?」
唐突な話題に首をかしげる。
「決まっているじゃない。共犯の件よ」
思わず目を見張った。その話は、とっくに終わったと思っていたのに。しかも今からが本題だなんて、先生はどういうつもりなのだろう。
戸惑う私の顔を、哀川先生は探るような目で見つめてくる。
「解剖しているとき、どう思った? 鮪の目玉は授業でやったけれど、一匹じっくり解剖するのは初めてだったでしょう?」
「どうって……普通です」
しかし先生は首を振る。
「もっとよく考えて。解剖刀を鯖に刺した時は? 鯖の内臓を観察したときは? なんでもいいの。でも普通は禁止。ゆっくりでいいから、思って、感じたことを、ちゃんと自分の言葉にしてみて」
「……でも、もし私の感想が間違っていたら」
「そんなこと気にしないでいいわ。先生は、貴方の話が聞きたいの」
言われて私は思い返す。
鯖の感触。解剖刀の切れ味。お腹を切り開いた瞬間。
全部普通だと思っていた。けれど本当に、ほんの少しだけ、違う感情もあった気がする。
「鯖を切った時は……解剖刀って結構切れるんだなって。内臓は、思ったよりも綺麗だった。お母さんがさばいた時とは大違いで、さばき方でこんなに違うんだなと。でも……解剖自体はすごいなって思ったけど、先生みたいには思えない。多分、好きな訳じゃなかったんだと思う」
一つ一つ。心の底の底に落ちていた感情たちを拾い上げる。ただそれだけなのに、勉強している時よりも頭を使った気がした。同時に驚いた。自分が解剖に対して、それほど色々考えていたのかと。
話し終えて顔をあげると、哀川先生は安心したように頷いていた。
「そう。ちゃんと自分の感情を理解できるじゃない」
「でも、これが好きなものや、やりたいこととどう関係が?」
「それを見つけるために大事なのが、感情なのよ」
哀川先生の手が、そっと私の手に重なった。
「貴方を見ていたら、私と逆なのだと思ったわ。私は特に欲望に忠実に生きている人間だからか、色々と好き嫌いが激しいの。だからこそ、自分の好きなことも、やりたいこともすぐ分かる。けれど貴方はその逆で、周りで起こったことに対して自分がどう思っているか理解できない……理解しようとしていないのね。けれど少しずつ考えていけば、いずれは好きなものややりたいことが見つかるわ」
先生の話はなんとなく分かった。けれど教えてもらった通りにするのは躊躇われる。
「自分の感情を考えるなんて、いいんですか?」
「もちろんよ。考えない方がいいって思っていたの?」
「優等生なら、そうするべきかなと」
例えば、お母さんが望むかどうか、とか。感情より優先しなければいけないことが、優等生にはたくさんある。
けれども私の返答を聞いた哀川先生は、深刻そうな顔になる。何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……白沢さん。確認なのだけれど、今まで担任になった先生に何かを相談したり、逆に相談に乗ろうと言ってもらったことはあるかしら?」
「いえ、特には」
「そう……ならもう一つ。貴方は、本当に自分の欲望を見つけたいと思っているのよね?」
「はい」
優等生であるためには、普通の人間が持っているものを持たなければ。お母さんの望む姿になるためにも、みんなが持っている欲望を、私も手に入れておきたかった。
「うん、それだけ聞ければ十分よ」
頷いた私に、まっすぐな目が向けられる。
「白沢さんは、まず自分の感情を大事にするところから始めましょうか。何が好きで、何が嫌いか。どんなことがよくて、どんなことが嫌なのか。全部一つ一つについて考えるの。そしてそこでどんな感情を抱いても、それを否定せず受け入れて。周りの人も――お母さんだって関係ない。貴方の感情は貴方だけのものだから。初めは辛いと思うけれど……そうすればいつか、自分の欲望も見つかるはずよ」
「でも、もし間違った感情や欲望を抱いてしまったら……?」
「感情や欲望に間違いはないわ。自分で制御さえできていれば、なんの問題もないもの。ほら、ここに実例がいるでしょう?」
哀川先生は笑って自分を指さした。確かに世間的には認められない殺人願望を抱えて生きている先生の言葉は、妙に納得できる。
「どんな関係の人であっても、他人の感情を否定したり、操作したりしてはいけないの。もしそういう人が周りにいるなら……まずは何事も、自分で考えるようにすること。その上で抱いた感情を否定されるようなことがあれば、先生に相談にいらっしゃい。いつでも聞いてあげるわ」
まるで私が欲望を抱かないよう、裏で操っている人がいるような言い方だった。心当たりはないけれど、欲望を手に入れるためには言うとおりにした方がいいだろう。私が頷くと、先生は満足そうな表情を見せる。
「忘れないで。この先どんな答えが出たとしても、貴方は絶対に悪くないから」
「そんな、大げさですよ」
軽く先生の言葉を笑い飛ばして、これからできそうなことを考える。しかし何から始めればいいのか、さっぱり思いつかなかった。
それを告げると、先生はしばし頭をひねらせた後に微笑んだ。
「そうねぇ。まずは今週の模試の志望校欄に、どこを書くか考えてみたら?」


