猫と、解剖刀

 哀川先生はピンセットを持って、それぞれの臓器を示しながら説明していく。

「この大きいのは肝臓、こっちは胃。エラの下の方に隠れているのは心臓よ。この辺りが腸で……」

 相変わらず熱っぽい表情をしている。勉強と言いつつも、先生は自分で一つ一つの臓器を愛でているようにも見えた。今この瞬間、先生の欲望が満たされているのだろう。こんな風に心を大きく動かされるものは、やっぱり自分には無いと思った。

「分かった? 小さいけれど、魚にだって人間と同じ臓器があるのよ」
「それくらい知っています。小学生じゃないんですから」

 興奮気味の哀川先生にため息をつく。同時に失望した。やっぱり哀川先生は、自分の趣味に私を付き合わせただけではなかろうか。結局いまだに、好きなものや、やりたいことは分からないままだ。

「この後は? もう一通り終わりましたよね」
「そうねぇ。私だけならもっと内臓を観察しているところだけれど、初心者の猫ちゃんには刺激が強すぎるでしょうし。一旦片付けましょうか」

 終わりを告げられ、悲しいような騙されたような、もやもやとした気持ちが胸に広がる。暗い気持ちで解剖刀やピンセットを洗ってそれぞれ棚に収めていった。
 器具の片付けを終えて机に戻ると、まな板の上の鯖はいつのまにか三枚おろしになっていた。解剖したから、半身はよく分からない形になっているけれど。

「それ、どうするんですか?」
「もちろん処理するのよ。じゃなきゃ、やったのがバレちゃうわ」

 また怪しい言い回しをしているが、つまり食べるということらしい。けれど哀川先生は腕組みをしたまま、鯖を見つめて唸っている。

「どうしたんですか?」
「どうやって処理しようか迷っているのよ」

 あまりに単純な迷いに、思わず呆れてしまった。

「いつもやっている通りにすればいいのでは?」
「それがそうもいかなくて。いつもはお刺身で食べているのだけれど、鯖はアニサキスがいるでしょう?」

 少し前、ネットニュースで話題になっているのを見かけた気がする。人が食べてしまうと、ひどい腹痛を引き起こす寄生虫だったか。

「じゃあ料理すればいいじゃないですか」
「それこそ無理よ。私、料理できないもの」
「はい?」

 つい頓狂な声を上げてしまった。

「あの、調理部の元顧問だったんですよね? なのに、料理ができない?」
「別に料理ができなくても、顧問の仕事はできるのよ。私はただ、定期的に魚をさばく機会が欲しかっただけ。家庭科の先生はご家族がいらっしゃって、顧問は気乗りしなかったみたいだしね」
「職権乱用……」
「まあ、否定はしないわ」

 哀川先生は既に開き直っていた。
 刺身は無理。先生は料理できない。ならばこの鯖の切り身は捨てるしかないのか。
 いや、さすがにそれはもったいなさすぎる。食べられるものを無駄にするのは、優等生的には許されない。
 私はスマホを取り出し、ネットを開いて検索をかけた。しばらく調べていると、ちょうど良さそうなサイトを見つけた。

「先生、調味料はありますか?」
「ん? 家庭科の先生に頼めば貸してもらえると思うけれど……」
「私が、鯖を料理します」

 先生の顔が、救世主でも見つけたかのように輝いた。