第二理科室が、哀川先生との約束の場所だった。
 大事な模試の前に、勉強もさせず共犯になれと言ってくる哀川先生は、担任としてどうかと思う。けれどそれと同じくらい、私もどうかしていた。三日前のあの日、先生を暴いた後に自分まで暴かれ、混乱していた中で交わしたあの約束を、正気に戻った後でも取り下げようとは思わなかったのだから。
 お母さんが望む優等生であるべきだという思いは変わらずあるのに、それとは違う行動を取ろうとする自分が最近胸の中に住み始めている。まるで自分の中に二人の人間がいるようで落ち着かない。
 これがお母さんの言っていた、哀川先生が与えた悪い影響なのだろうか。例えそうだとしても、先生と距離を置こうという気にはならなかった。

「ふふっ、来たわね」

 扉を開けると、待っていましたとばかりに哀川先生が出迎えてくれた。すぐ横の机には、先生の犯罪道具――まな板と解剖刀がそろっている。もちろん死体も既にまな板の上に横たわっていた。今日の犠牲者は鯖らしい。

「あと少し遅れていたら、先に始めてしまうところだったわ」

 哀川先生は既に青い手袋を嵌めている。嘘偽りなく、私が遅れていたら本当に解剖してしまうつもりだったのだろう。誘ってきたのは先生なのに、無責任にも程がある。

「本当に好きですね、解剖」
「このために生物教師をやっているのだもの」

 半ば呆れながら返した私に、先生は悪びれもせずそう言って、小さな箱を渡してきた。中には先生のと同じ、青い手袋が詰まっている。付けろということらしい。私は荷物を入り口近くの机に置くと、一セットを引っ張り出した。
 手袋を嵌め終えると、先生は解剖刀を差し出してくる。

「どうぞ、猫ちゃん。今日は主犯を貴方に譲ってあげるわ」
「その呼び方はやめてください。それから、主犯という言い方も」

 また反抗的な言い方をしてしまった。互いに全てを見せてしまっているからか、この先生にはどんなことでも行ってしまう。
 けれどなんとなく、何を言っても大事にはならない気がしていた。事実先生も、気にしていない様子で返答してくる。

「間違ってないでしょう? これから私たちは、死体を解体するのだから」
「魚を解剖するんです。犯罪でも何でもありません」

 先生が提案してきた『共犯』。それは一緒に魚を解剖しようという誘いだった。解剖がどうして好きな物ややりたいことに繋がるのかは分からない。けれど先生が言うなら、きっと何かに繋がるのだろう。

「もう、こういうのは雰囲気が大事なのに」

 哀川先生は子供のように唇を尖らせていた。薄々感じていたが、この人は自分の好きなことになると、感情表現が豊かになるらしい。こういう変化も欲望のなせる技なのかと思うと、妙にうらやましくなってくる。うまく共犯をやり遂げれば、私も先生のようになれるのだろうか。
 解剖刀を受け取って、まな板の上の鯖と向き合う。生気を失った鯖は、うつろな瞳で目の前に横たわっていた。死んだ魚の目なんて魚屋やスーパーで見慣れているはずなのに、よくよく見ているとぞっとしてくる。
 哀川先生はすぐ隣にやってきて、指で切るべき場所を指示してくれる。

「まずは肛門に刃を入れて、頭の下まで切り進めて。内臓を傷つけないよう、慎重にね。難しそうなら解剖ばさみを出してくるけれど、どうする?」
「いえ。解剖刀でやってみます」

 先生と同じやり方でやることに、意味がある気がした。
 言われた通り、肛門に刃を差し入れる。鋭い刃が柔らかい身体へ沈んでいった。刃を押し進め、慎重に腹を切っていく。途中骨が当たって止まってしまったりしながらも、先生の指示通りに腹を裂き、エラに沿って上に刃を進め、最後にエラの先から肛門を直線で結ぶように、鯖の肉を切り取った。
 赤の内臓が露出する。傷ついていない魚の内臓は、思いのほか綺麗だった。

「ふふふっ、なかなか筋がいいじゃない。さすが私の見込んだ共犯者。初めて解剖刀を使って内臓を傷つけずにお腹を開くなんて」
「それ、どういう気持ちになればいいんですか?」
「褒めているのだから、素直に受け取ればいいのよ。それじゃ、簡単にお勉強しましょうか」