「ともかく今の話は、他の先生や生徒には秘密よ。こうでもしないと貴方が納得しそうになかったから話しただけ。余計な混乱を引き起こしたくないもの」
言われなくても、話さないつもりだった。哀川先生は思考が危ない人間だったと言うだけで、結局のところなにもしていない。先生がしたことを並べ立て、殺人願望のある異常者だと学校に話しても、飛躍しすぎだと一蹴されるだけだろう。けれど色々と振り回された手前、素直に頷くのは癪だった。
「もし、約束を破ったら?」
「そのときは……どうなるか分かっているわよね?」
先生は意味深にそう言った。意趣返しのつもりなのかもしれないが、先生の本性を考えると笑えない。
「やあねぇ。ジョークよジョーク。怖がらないでよ」
先生はくすくす笑って空を見上げた。白い雲がゆっくり流れる青空を見つめる先生の目は、どこか悲しそうだった。
殺人願望という許されない欲望を持っているのなら、今まで何度も苦しんだり悩んだりしてきたのだろう。けれどそんな顔をするほどに辛いことがあってもなお、哀川先生は社会のルールに否定されない範囲で行動し、欲望を満たしているのだ。
「すごいですね、先生は」
「ええ、どこが?」
「社会に否定されても抱き続けるほどの欲望を持っていることが」
すると先生は目を瞬かせた。
「だって欲望は、簡単に捨てられるものじゃないでしょう? どうやっても諦めきれない、捨てられない。そんな強い感情が、欲望なのだから」
それが当然というように、哀川先生は続ける。
「人間、みんな誰しも多少なりとも欲望を持っているものよ。欲望っていうとアレだけど……好きなものとか、やりたいこととか。そういうのは、貴方にだってあるんじゃない?」
「好きなもの、やりたいこと……」
確かにある。お母さんの望む優等生、それが私のなるべきものだ。
――――いや、違う。
好きなものは好意。やりたいことは願望。
対して、なるべきものは義務だ。先生の言うものとは違う。
私は優等生になるべきだと思っている。
では、私は優等生になりたいと思っている?
わからない。少なくとも先生の言う強い感情や衝動はない。
でも、じゃあ――私の好きなものは? やりたいことは?
…………なにも、分からない。
いや、それどころか――
私はこれまで、何かに好意や願望を抱いたことがあっただろうか?
「大丈夫? また吐きそうなの?」
私の様子を変に思ったのか、哀川先生が声を掛けてくる。気遣うような声色に縋ってしまいたくなり、思わず先生の服の裾を掴んだ。
「分からないんです、私……好きとか、嫌いとか。やりたいとか、やりたくないとか。なにも、分からなくて……」
話しているうちに、だんだん身体が震えてきた。今までの自分の人生が、ばらばらと音を立てて崩れていく。
みんな少なからず好きなものや、やりたいことを持っている。けれど私はそうじゃない。
好きなものもない。やりたいこともない。なら自分は何のために生きてきたのだろう。これから何のために生きていくのだろう。普通と違うからっぽな自分が、ひどく恐ろしかった。これではお母さんの望む優等生なんかになれるはずがない。
「ちょっと、落ち着いて。分からないって……そもそも貴方、私をストーカーしてきたじゃない。それは自分から望んでやっていたのでしょう?」
戸惑うような哀川先生の声に、私は首を横に振る。
「違うんです。それだって、お母さんが……」
「お母さん?」
「お母さんが、先生を見極めなさいって……」
「…………」
哀川先生はしばし沈黙した後、「なるほどね」と呟いて、混乱する私を抱きしめてくれた。先生の腕は柔らかかった。とくとくと動く小さな胸の鼓動を聞いていると、なんだか涙が出そうになってくる。
「混乱させてしまってごめんなさい。でも、ようやく分かったわ。学級委員長決めのとき、委員長になりたいと言いながら、貴方が死んだ魚みたいな目をしていた理由が」
先生が何か言っている。けれど直ぐ側にいるはずなのに、私にはよく聞こえなかった。脳内の混乱を処理するのに、精一杯だったから。
「ずっと貴方を猫かぶりの優等生だと思っていたけれど……そうじゃなかったのね。貴方は猫になっちゃっていたんだわ。被って被って、自分が分からなくなっちゃった猫。気付けなくて本当にごめんなさい」
先生が謝る理由が分からない。そんなことを気にするより、なんとかして心の安らぎを得たかった。
「先生、私、どうすれば……」
「んー、そうねぇ……」
哀川先生は腕を緩めた。身体が離れ、先生と向き合う形になる。
美しい顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。
「とりあえず、私の共犯になってみる?」
「きょうはん……? でも、良くないことは母さんに……」
けれども先生は楽しそうにウインクした。
「大丈夫、ストーカーに比べたら私の共犯なんて全然マシだもの。それに私は先生なのよ。生徒を導くだけなのに、お母さんに怒られるはずないでしょう?」
先生が何を企んでいるのかは分からない。お母さんに怒られることはしたくない。
けれど今はこの訳の分からない苦しさから逃れたくて、私はゆっくりと頷いた。
こうして私は、哀川先生の共犯になったのだった。
♢ ♢ ♢
言われなくても、話さないつもりだった。哀川先生は思考が危ない人間だったと言うだけで、結局のところなにもしていない。先生がしたことを並べ立て、殺人願望のある異常者だと学校に話しても、飛躍しすぎだと一蹴されるだけだろう。けれど色々と振り回された手前、素直に頷くのは癪だった。
「もし、約束を破ったら?」
「そのときは……どうなるか分かっているわよね?」
先生は意味深にそう言った。意趣返しのつもりなのかもしれないが、先生の本性を考えると笑えない。
「やあねぇ。ジョークよジョーク。怖がらないでよ」
先生はくすくす笑って空を見上げた。白い雲がゆっくり流れる青空を見つめる先生の目は、どこか悲しそうだった。
殺人願望という許されない欲望を持っているのなら、今まで何度も苦しんだり悩んだりしてきたのだろう。けれどそんな顔をするほどに辛いことがあってもなお、哀川先生は社会のルールに否定されない範囲で行動し、欲望を満たしているのだ。
「すごいですね、先生は」
「ええ、どこが?」
「社会に否定されても抱き続けるほどの欲望を持っていることが」
すると先生は目を瞬かせた。
「だって欲望は、簡単に捨てられるものじゃないでしょう? どうやっても諦めきれない、捨てられない。そんな強い感情が、欲望なのだから」
それが当然というように、哀川先生は続ける。
「人間、みんな誰しも多少なりとも欲望を持っているものよ。欲望っていうとアレだけど……好きなものとか、やりたいこととか。そういうのは、貴方にだってあるんじゃない?」
「好きなもの、やりたいこと……」
確かにある。お母さんの望む優等生、それが私のなるべきものだ。
――――いや、違う。
好きなものは好意。やりたいことは願望。
対して、なるべきものは義務だ。先生の言うものとは違う。
私は優等生になるべきだと思っている。
では、私は優等生になりたいと思っている?
わからない。少なくとも先生の言う強い感情や衝動はない。
でも、じゃあ――私の好きなものは? やりたいことは?
…………なにも、分からない。
いや、それどころか――
私はこれまで、何かに好意や願望を抱いたことがあっただろうか?
「大丈夫? また吐きそうなの?」
私の様子を変に思ったのか、哀川先生が声を掛けてくる。気遣うような声色に縋ってしまいたくなり、思わず先生の服の裾を掴んだ。
「分からないんです、私……好きとか、嫌いとか。やりたいとか、やりたくないとか。なにも、分からなくて……」
話しているうちに、だんだん身体が震えてきた。今までの自分の人生が、ばらばらと音を立てて崩れていく。
みんな少なからず好きなものや、やりたいことを持っている。けれど私はそうじゃない。
好きなものもない。やりたいこともない。なら自分は何のために生きてきたのだろう。これから何のために生きていくのだろう。普通と違うからっぽな自分が、ひどく恐ろしかった。これではお母さんの望む優等生なんかになれるはずがない。
「ちょっと、落ち着いて。分からないって……そもそも貴方、私をストーカーしてきたじゃない。それは自分から望んでやっていたのでしょう?」
戸惑うような哀川先生の声に、私は首を横に振る。
「違うんです。それだって、お母さんが……」
「お母さん?」
「お母さんが、先生を見極めなさいって……」
「…………」
哀川先生はしばし沈黙した後、「なるほどね」と呟いて、混乱する私を抱きしめてくれた。先生の腕は柔らかかった。とくとくと動く小さな胸の鼓動を聞いていると、なんだか涙が出そうになってくる。
「混乱させてしまってごめんなさい。でも、ようやく分かったわ。学級委員長決めのとき、委員長になりたいと言いながら、貴方が死んだ魚みたいな目をしていた理由が」
先生が何か言っている。けれど直ぐ側にいるはずなのに、私にはよく聞こえなかった。脳内の混乱を処理するのに、精一杯だったから。
「ずっと貴方を猫かぶりの優等生だと思っていたけれど……そうじゃなかったのね。貴方は猫になっちゃっていたんだわ。被って被って、自分が分からなくなっちゃった猫。気付けなくて本当にごめんなさい」
先生が謝る理由が分からない。そんなことを気にするより、なんとかして心の安らぎを得たかった。
「先生、私、どうすれば……」
「んー、そうねぇ……」
哀川先生は腕を緩めた。身体が離れ、先生と向き合う形になる。
美しい顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。
「とりあえず、私の共犯になってみる?」
「きょうはん……? でも、良くないことは母さんに……」
けれども先生は楽しそうにウインクした。
「大丈夫、ストーカーに比べたら私の共犯なんて全然マシだもの。それに私は先生なのよ。生徒を導くだけなのに、お母さんに怒られるはずないでしょう?」
先生が何を企んでいるのかは分からない。お母さんに怒られることはしたくない。
けれど今はこの訳の分からない苦しさから逃れたくて、私はゆっくりと頷いた。
こうして私は、哀川先生の共犯になったのだった。
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