「ほら、これでも飲んで落ち着きなさい」
「……ありがとう、ございます」
先生からミルクティーを差し出され、ベンチに座っていた私は素直に受け取った。
あの後、先生に画廊から連れ出されて、近くの公園にやってきた。ミルクティーの缶を開けて一口飲むと、ほどよい甘さが心に染み渡っていく。幾分乱れた気持ちも落ち着いてきた。
「貴方の優等生観とかストーカーとか、聞きたいことはいろいろあるけど……ま、いいわ。これに懲りたら、もう人の秘密を探ろうなんて思わないことね」
哀川先生は私の隣に座りながらそう告げた。けれどその言葉に棘はない。諭すような、先生らしい口調だった。
そのせいか、頷く代わりに口をついて疑問が出る。
「……先生は、人の死体が好きなんですか?」
「ネクロフィリア……死体に性的興奮を感じる人間、という意味なら違うわよ」
哀川先生は特段動揺もせず答えてくれた。写真展に同行するのを許した時点で、聞かれると予想していたのかもしれない。
「なら、どうして死体の写真を見てあんな顔を?」
「憧れみたいなものかしらね。私は、あれを作りたいのよ」
「あれって、死体をですか」
「そう。死体って、美しいでしょう? それをこの手で作ってみたくて」
うっとりと話す哀川先生に、心臓がひゅっと縮まった。
「さ、殺人鬼――!」
堪らずベンチから立ち上がった。ミルクティーの缶が音を立てて地面に落ちる。中身が飛び散ったが、それにも構わず私はその場から逃げようとした。しかしその腕を先生に強い力で掴まれる。
「待ちなさい」
「嫌っ、離して――!」
私は必死に抵抗した。殺人鬼なら先生は冗談抜きで危険人物だ。その秘密を知ってしまった以上、早く逃げなければ殺されてしまう。
しかし先生は無理矢理私をベンチに引き戻し、呆れたようにため息をついた。
「心配しなくてもいいわよ。本当に人殺しはしないから」
「う、嘘……」
「嘘じゃないわ。でないと普通に教師なんてやっていられないでしょう」
殺人を犯せばニュースになって、やがて真相は警察に暴かれる。それを考えれば、今の先生のように堂々と教師なんてやっていられない。私が黙り込んでいると、先生はようやく手を離し、ミルクティーの缶を近くのゴミ箱に捨てに行きながら話を続けた。
「確かに私には、昔から生き物を殺したいという欲求があったわ。でもそれと同じくらい、殺人や動物虐待が悪いとと分かっている。だから社会のルールに反するような、非人道的なことはしないわ。そのせいで自分が死体になるのは嫌だもの」
「でも魚の解剖をしたり、写真を持っていたり、死体の写真を見たり……」
「どれも法に触れてはいないでしょう」
確かに気持ち悪さや不道徳さはあるものの、法律で罰せられるほどではない。生物教師が解剖をするのはあり得ないことではないし、死体の写真も芸術や表現の自由と言われたらそれまでだ。
先生はゴミ箱から戻ってきて、再び私の隣へ腰掛けた。
「人間、好きなことや興味のあることはやってみたいものだけれど、私みたいな欲求を持っている人は、社会的に実行できないでしょう? でも我慢したままだと逆に良くないと思うから、時々できる範囲で発散しているの。魚を解剖したり、写真を見たりしてね。生物教師になったのも、その影響よ。解剖しても怒られなくて、その上社会に貢献できるなんて素敵じゃない」
「……それなら解剖医とかの方がよかったのでは? 合法的に人間を解剖できるのに」
「駄目よ、解剖医って医学部に行かなきゃいけないでしょう? 病院実習中に病人と薬を見たりしたら、耐えられる気がしないもの」
哀川先生が浮かべた妖艶な笑みに、背筋が粟立つ。何に耐えられないのかは、今までの話から大体推察できた。
「危険なものを身近に置かない。こまめに欲求を発散する。それが私のモットーなの」
「じゃあ、先生がアセクシャルやアロマンティックと言っているのは……」
「ただの隠れ蓑。私の前で完全無防備になる人間を作りたくないだけで、性欲も恋愛感情も普通にあるわ。まあ実際そこまで興味もないのだけれど」
「……十分、危ない人じゃないですか」
「自分を律していると褒めてほしいわね」
危ない人、という言葉を、先生はもう否定しなかった。写真展へ行く前は誤魔化したかっただけで、先生は自分の属性が他人からどう思われるか、本当はきちんと自覚しているのだろう。これだけ素直に態度に出されると、逆に信用できる気がしてくる。なにより哀川先生の秘密を追い続けることに、既に疲れてしまっていた。
「……ありがとう、ございます」
先生からミルクティーを差し出され、ベンチに座っていた私は素直に受け取った。
あの後、先生に画廊から連れ出されて、近くの公園にやってきた。ミルクティーの缶を開けて一口飲むと、ほどよい甘さが心に染み渡っていく。幾分乱れた気持ちも落ち着いてきた。
「貴方の優等生観とかストーカーとか、聞きたいことはいろいろあるけど……ま、いいわ。これに懲りたら、もう人の秘密を探ろうなんて思わないことね」
哀川先生は私の隣に座りながらそう告げた。けれどその言葉に棘はない。諭すような、先生らしい口調だった。
そのせいか、頷く代わりに口をついて疑問が出る。
「……先生は、人の死体が好きなんですか?」
「ネクロフィリア……死体に性的興奮を感じる人間、という意味なら違うわよ」
哀川先生は特段動揺もせず答えてくれた。写真展に同行するのを許した時点で、聞かれると予想していたのかもしれない。
「なら、どうして死体の写真を見てあんな顔を?」
「憧れみたいなものかしらね。私は、あれを作りたいのよ」
「あれって、死体をですか」
「そう。死体って、美しいでしょう? それをこの手で作ってみたくて」
うっとりと話す哀川先生に、心臓がひゅっと縮まった。
「さ、殺人鬼――!」
堪らずベンチから立ち上がった。ミルクティーの缶が音を立てて地面に落ちる。中身が飛び散ったが、それにも構わず私はその場から逃げようとした。しかしその腕を先生に強い力で掴まれる。
「待ちなさい」
「嫌っ、離して――!」
私は必死に抵抗した。殺人鬼なら先生は冗談抜きで危険人物だ。その秘密を知ってしまった以上、早く逃げなければ殺されてしまう。
しかし先生は無理矢理私をベンチに引き戻し、呆れたようにため息をついた。
「心配しなくてもいいわよ。本当に人殺しはしないから」
「う、嘘……」
「嘘じゃないわ。でないと普通に教師なんてやっていられないでしょう」
殺人を犯せばニュースになって、やがて真相は警察に暴かれる。それを考えれば、今の先生のように堂々と教師なんてやっていられない。私が黙り込んでいると、先生はようやく手を離し、ミルクティーの缶を近くのゴミ箱に捨てに行きながら話を続けた。
「確かに私には、昔から生き物を殺したいという欲求があったわ。でもそれと同じくらい、殺人や動物虐待が悪いとと分かっている。だから社会のルールに反するような、非人道的なことはしないわ。そのせいで自分が死体になるのは嫌だもの」
「でも魚の解剖をしたり、写真を持っていたり、死体の写真を見たり……」
「どれも法に触れてはいないでしょう」
確かに気持ち悪さや不道徳さはあるものの、法律で罰せられるほどではない。生物教師が解剖をするのはあり得ないことではないし、死体の写真も芸術や表現の自由と言われたらそれまでだ。
先生はゴミ箱から戻ってきて、再び私の隣へ腰掛けた。
「人間、好きなことや興味のあることはやってみたいものだけれど、私みたいな欲求を持っている人は、社会的に実行できないでしょう? でも我慢したままだと逆に良くないと思うから、時々できる範囲で発散しているの。魚を解剖したり、写真を見たりしてね。生物教師になったのも、その影響よ。解剖しても怒られなくて、その上社会に貢献できるなんて素敵じゃない」
「……それなら解剖医とかの方がよかったのでは? 合法的に人間を解剖できるのに」
「駄目よ、解剖医って医学部に行かなきゃいけないでしょう? 病院実習中に病人と薬を見たりしたら、耐えられる気がしないもの」
哀川先生が浮かべた妖艶な笑みに、背筋が粟立つ。何に耐えられないのかは、今までの話から大体推察できた。
「危険なものを身近に置かない。こまめに欲求を発散する。それが私のモットーなの」
「じゃあ、先生がアセクシャルやアロマンティックと言っているのは……」
「ただの隠れ蓑。私の前で完全無防備になる人間を作りたくないだけで、性欲も恋愛感情も普通にあるわ。まあ実際そこまで興味もないのだけれど」
「……十分、危ない人じゃないですか」
「自分を律していると褒めてほしいわね」
危ない人、という言葉を、先生はもう否定しなかった。写真展へ行く前は誤魔化したかっただけで、先生は自分の属性が他人からどう思われるか、本当はきちんと自覚しているのだろう。これだけ素直に態度に出されると、逆に信用できる気がしてくる。なにより哀川先生の秘密を追い続けることに、既に疲れてしまっていた。


