どこの学校にも幽霊は『居る』。しかし、それは本当に居るという意味じゃない。たとえ目に見えなくても、私たちの周りには菌やウィルスが居ると、私たちは信じている。同じように、自分たちの学校には幽霊が居ると信じてしまえば、それは居なくても『居る』ことになっちゃうのだ。
 私が通う高校も例外じゃない。今、私がいる定時制4年C組の教室には、ずっと昔から幽霊が『居る』ことになっている。しかし、夜九時過ぎの誰もいない教室に一人でいるのに、私はちっとも怖くない。
 「女の子なのによく平気ね」と言われそうだが、そうなのだ。私は元々幽霊なんて信じてなかったし、2年近くもこの教室に通っても、異様な気配さえ感じたこともないのだから怖いと思わなくても不思議じゃない。
 なぜ私が同じ4年C組の教室に2年近くも通い続けているかと言うと、それは私が、去年の春に卒業できず、二度目の四年生をしているからだ。
 そして今、私は、教室の一番前の自分の席に座り、去年と同じ運命をたどりそうな自分を憐れんでいる最中だ。
 私自身のことはさておき、話を幽霊のことに戻そう。
 4年C組の教室に出るという教師の幽霊、通称「化け先」は、卒業式が近づいた頃に、よく姿を見せるという。幽霊は男だって話だけど、どんな姿をしているのかは伝わっていない。背が高いのか低いのか、痩せているのかデブなのか、イケメンなのか不細工なのか、何一つ分かっていない。だから、そもそも、その幽霊が教師だと分かっているのも変な話だ。
 どうして幽霊になったかの理由も誰も知らない。『教室で首を吊った』、『教室で逆恨みの生徒に殺された』、『女子生徒と共に窓から飛び降りた』、など様々な話が流れているけど、どれもみな作り話のようにしか聞こえない。
 そして、何より、自分の周りには実際に幽霊を見たという人は一人もいなかったのだから、幽霊がいるなんて思わなくて当然だ。
 幽霊を見たという人は一人もいなかった。そう、つい最近までは。
 
 2

 それは先週の半ばの出来事だ。
 夕方、教室に駆け込んできた栄子が、大ニュースを発表でもするかのようにクラス全員に向けて大声で叫んだ。
「ねえ、ねえ、聞いてよ。私、昨日、ここで幽霊見ちゃった」
「ええ、マジ?」
 オカルト好きの真由美がすぐに話に飛びついて、栄子に近づいて行った。
「ほら、あそこの教卓の後ろに突っ立てたのよ」
 栄子は興奮収まらずと言った話しぶりだった。
「ねえ、幽霊ってどんな人だった?」
 真由美は興味津々で尋ねた。
「なんかね、ぼんやりしか見えなくて良く分からなかったの」
 そらきた、はっきりしない話、やっぱり嘘だ。私は、すぐにそう思った。
 しかし、真由美は栄子の答えにがっかりする様子もなく能天気に呟いた。
「すごいなあ、私も幽霊見てみたくなったな」
 こんなふうにして、居もしない幽霊は『居る』ことになってゆくのだろうと私は思った。

 でも、話はそれで終わりじゃなかった。
 その二日後、夕方のホームルームで、担任の山木先生が顔を歪めるようにして報告をした。
「突然で驚くかもしれないが、野上栄子が昨日退学した」
「ええ、卒業間際なのにどうして?」
 栄子と仲の良かった千鶴が叫んだ。
「いや、それは個人情報なので教えられない」
 山木先生の事務的な答えを、私は何とも思わなかった。栄子とはほとんど繋がりがなかったからだ。
「先生、何よ、それ、薄情じゃない」
 千鶴にすれば、そう言いたくなるのも無理はないかと思った。
 千鶴はホームルーム中であるにもかかわらずスマホを取り出すと、SNSで栄子にメッセージを送ったようだった。
「嘘!届かないよ」
 狼狽えながら、千鶴は、今度は栄子の所に電話を掛けたらしい。
「『この番号は現在使われていません』だって嘘でしょう」
 千鶴の声は今にも泣きだしそうだった。
「ねえ、先生、栄子はもしかして幽霊が怖くなって退学したんですか?」
 そう尋ねたのは真由美だった。
「まさか、そんなわけないだろう」
 山木先生は、少し呆れていた。
「じゃあ、もしかして、幽霊に祟られて死んじゃったとか?」
 真由美の次の言葉には、さすがに山木先生も怒り出した。
「馬鹿なことを言うんじゃない。退学の理由は個人情報だから言えないが、栄子はちゃんと生きている。良いか、みんな、祟りだとかいう話は他のクラスの生徒には絶対にするな。分かったか?」
 山木先生の必死の訴えは、残念ながらあっさりと裏切られた。
 その日の内に、栄子は幽霊に祟られて退学したらしいとう噂は学校中に広まっていた。

 しかし、私は、騒いでいる他の生徒たちが馬鹿にしか見えなかった。私は、栄子の退学が幽霊のせいじゃないことを知っていた。前日、たまたま職員室で山木先生と栄子の話を聞いちゃったからだ。
 栄子の退学の理由は、出席日数の不足による卒業不可という情けないものだった。見栄っ張りの栄子は、それをクラスメートには言い出せずに姿をくらましたのだ。
 栄子は昨年の秋、願書さえ出せば誰でも入れるようなFランクの大学に推薦で合格していた。定時制の生徒たちが、卒業後に昼間の四年制大学に進学することはめったにない。進学するにしても夜間の専門学校がせいぜいだ。
 周りがそんななのに、栄子は『自分は昼間の四年制大学に行くのだ』と自慢しまくっていた。それが、進学どころか卒業もできなくなっちゃえば、見栄っ張りの栄子としては、黙って逃げるしかなかったのだろう。
 幽霊を見たという話は嘘に違いない。でも、栄子も旨い嘘をついたもんだ。栄子は幽霊に祟られて学校を去ったと、大方の生徒は信じちゃったんだから。

 そもそも、代々の4年C組は、通称『化け先』に祟られた『化け組』と呼ばれ、妙な目で見られていた。だから三年生の終り頃には、誰もが、進級したら4年C組にないことを祈る。実際にはそんなことはないのに、『問題児が4年C組に集められる』という噂もあった。お陰で、今年度も、昨年度も、4月の始業式で4年C組に集まった生徒たちの顔はどれも皆沈んで見えた。
 元々そんなだったのに、栄子が退学したせいで、私たち4年C組の生徒は、前よりも変な目で見られるようになった。
 本当は居もしないくせに、長年にわたって生徒の心をかき乱し続けている『化け先』は、とんでもないヤバイ教師だった。

 3

 そんな中だというのに、私が夜九時過ぎの教室に一人でいるのは、私が追い詰められているからだ。
 私は祟られている。ただしそれは、幽霊みたいな居もしないオバケにじゃない。貧乏神という実在するオバケにだ。

 私は勉強が得意じゃない。でも、決して救いようのないバカじゃなかった。今は定時制にいるけど、中三で受験した時は、中の下ぐらいの偏差値の全日制の高校にきちんと合格していたのだから。
 高校に入ったらダンス部に入ろう。バイトをして稼いだお金で髪を染めよう、耳に穴を開けてピアスをしよう、可愛い服を着て渋谷を歩こう。全日制の高校に合格してからは、そんなことばかり考えていた。
 中二から付き合っていた彼氏も同じ高校に行くことが決まっていたから、甘い日々が待っていそうな気がした。
 そして、高校卒業後は昔からの夢だった美容師になるために専門学校に行くんだ。そうだ、私にはこれからバラ色の高校生活が待っているのだと思っていた。
 
 しかし、私にはバラ色の高校生活はやってこなかった。中学卒業を間近に控えたある日、「高校進学は諦め、就職して家に金を入れて欲しい」と両親に言われた。その少し前、妹が難病に罹って入院していたのだが、妹の入院は、これからずっと続くと分かったからだ。
 思春期の中学生が快く聞き入れられる話ではなかった。狂ったように泣きわめく私に、父も母も、「ごめんね」と繰り返すばかりだった。
 
 中学の担任に相談した結果、私は美容院で下働きをしながら、定時制高校に通うことになった。高校入学後、生活リズムが合わなくなった彼氏にはすぐに捨てられた。
 私は、学校にも馴染めなかった。自分は本来、ここにいるはずの人間ではないという変なプライドを捨てきれなかったからだ。だから、私は高校五年目の終りになっても友達と呼べる相手は一人もいなかった。
 私の高校生活は惨めだった。私はクラスメートたちに嫉妬していた。親からもらったお小遣いやバイトしたお金で髪を染め、ピアスをし、可愛い服を着て恋バナをしているクラスメートが羨ましくて仕方がなかった。少ない給料から家に金を入れ、専門学校に行くためのお金を貯めている私には、安物のピアスさえ手が届かなかった。
 職場もまた地獄だった。美容室にやってくる女子高生を見るのが辛かったからだ。彼女たちがまぶしくて仕方なかった。同じ年頃で、同じ場所にいるのに、彼女たちと私は、王女様と奴隷ほどに身分が違うような気がした。
 そして四月になれば、専門学校を卒業した新人が店にやって来るのが決まっていた。私は自分と同じ年の子が、美容師として働いているのを恨めし気に見ていることしかできない。
 まだ専門学校の学費を貯め切れていない私は、高校を卒業できたとしても、四月から専門学校には行けるわけではなかった。美容師になるどころか、専門学校にさえまだ入学できていない自分が、惨めな思いをするのは目に見えていた。
 更に、美容室の店長は厳しい人だった。同じ間違いを繰り返すと、容赦なく怒鳴られた。去年私が、卒業できないと決まった時、唯一激怒したのは、両親でも、当時の担任でもなく、店長だった。「高校を卒業する気がないなら即クビだ」と言われ、私には二度目の四年生をする以外の道はなくなった。
 家もまた居心地が悪かった。「金を貸してくれないか?」と、たまに親に訊かれるからだ。でも、私は断り続けるしかなかった。専門学校の学費として貯めている貯金にまで手を付けたら、もう私には生きている意味など何もなくなるからだ。
 とは言え、私は今、親に偉そうなことを言えない立場にあった。今年もまた、卒業が難しい状況に追い込まれていたからだ。
 
 私は、昔から英語が苦手だった。英語の単位を落としながらどうにか四年生まできたものの、四年生の英語の単位が取れず、去年、卒業できなかったのだが、今年も英語の単位を取るのがかなり厳しそうなのだ。
 卒業試験が一週間後の月曜日に迫った今日、私は英語の先生から「60点以上取れ」と言われた。普段、30点もままならない私は、死刑を宣告されたような気分だった。いっそのこと、「もう卒業はできない」と言い切られた方が、諦めがつくような気がした。
 諦めてしまおうかと思った。不意に、美容室のお得意様であるキャバクラのオーナーの言葉が蘇った。
「高校なんて出なくても良いじゃないか。もう二十歳なんだから酒も飲める。俺の店で働けよ。君ならばバリバリ稼げるよ」
 その言葉を聞いた時、気持ちが揺らいだ。美容師になるとい夢さえ諦めれば、私は惨めな暮らしから抜け出せるのだと思った。
 でも、私は、まだ諦めきれなかった。だから、英語の勉強をするつもりで、夜の教室に残っていたのだ。
 私は、英語の教科書とノートを開いた。けれど、一体どこからどう手をつけていいのやらさっぱり分からなかった。情けなくて、不意に目に涙が滲んできた。私は机の上に並べた勉強道具を全て薙ぎ払うと、机に突っ伏して泣いた。涙は中々止まらなかった。
 『誰か助けて』、そう願った。全日制の高校に通えないと分かってから、私は一度も他人に助けを求めたことはなかった。ずっと一人で頑張ってきたとは言い難いが、少なくとも耐えてきた。しかし、今年も卒業できなければ、三度目の四年生をやる気力は、私にはもうなかった。
 『誰か助けて』、私は強く願った。
 その時、傍で声がした。
「君、英語が嫌いなの?」
 顔を上げると、男の人が私の前に立っていた。年齢は三十を少し超えたくらいに見えた。定時制の先生ではなかった。たぶん、全日制の先生なのだろうと思った。全日制の職員室も、いつも遅くまで明かりがついているのが普通だったから、定時制の授業終了後に、全日制の先生が何か用があって教室に来たとしても何の不思議もなかった。
 その人は、私が机から叩き落とした教科書やノートなどを拾い集めると、それらを私の机の上に置いた。
「何か悩んでいるみたいだね。何があったのか、良かったら話してくれないかな。一応、僕も教師だからね。自分の胸の内だけにしまっておかないで、誰かに話すだけでも随分と楽になるものだよ」
 その人の顔が余りにも優しそうに見えたせいだろうか。私は胸につかえていたものを全て吐き出してしまった。どうして、そんなことになったのか自分でも良く分からなかった。

 私が話し終えると、その人は私に深く同情した。
「なるほど、大変だったんだね。僕にも君の辛さは良く分かるよ」
 でも、その言葉を聞いた時、私は腹が立った。
「先生に私の気持ちなんて分かる訳ないじゃない。教師になれたくらいだから、一流の大学を出たエリートなんでしょう。『君の気持ちが分かる』なんて気安く言わないでよ」
 私にわめき散らされても、先生は怒った様子は見せなかった。代わりに少し申し訳なさそうな顔をして話し始めた。
「僕もね、家が貧しくて定時制の高校に通っていたんだ。大学も二部、つまり夜間の学校だった。教員採用試験も現役の学生の時を含めて4回も落ちたんだ。結婚を前提に付き合っていた女性もいたんだけど、3回目に試験に落ちた時に見放されたよ。ようやく教師になった後もひどいものでね。二年目から定時制の担任になって、あと少しで卒業という頃になって体調を崩してね。担任の仕事を全うして生徒たちの卒業を見届けることができなかったんだ。どうだい?僕たちは結構似た者同士だと思わないかい」
 言い終えて先生は少し照れ臭そうに笑った。そして、私が言葉を返せずにいると、思い出したように自己紹介をした。
「ああ、僕は、まだ自分の名前も名乗ってなかったね。僕は藤沢敏彦。君の名前も教えてくれるかな?」
「私は、福本明美です」
「そうか、福本さん。実は僕の担当は英語なんだ。良かったら君の勉強の手伝いをさせてもらえないかな?」
 私にとっては願ってもない話だった。
「ええ、忙しいのに良いんですか?」
「もちろんだよ。じゃあ、早速だけど、試験範囲を教えてくれないかな?」
 私は喜んで藤沢先生に試験範囲を教えた。藤沢先生は教科書の試験範囲に一通り目を通した後、少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、今日は試験範囲の新出単語から始めようか」
「はい」
 その後、藤沢先生は、新出単語を、綴りや発音、アクセントまできちんと覚えなければいけない単語と、意味だけ覚えておけば良いものに分けていった。自分には、とてもできないことだった。
 更に藤沢先生は発音とアクセントの問題のポイントも詳しく教えてくれた。自分には理解不能だと決めつけていた発音記号が実はそれほど難しいものではなく、すごく便利だと知って驚いた。

「それじゃあ、明日は熟語の勉強をするよ。教科書の試験範囲の部分のコピーをして持って来てね。修正液か修正テープも用意しておいて。あと、出題傾向を知りたいから、今までの定期試験の問題も手に入れてきて」
「はい、分かりました」
「じゃあね、気をつけて帰ってね」
 藤沢先生に、そう声を掛けられて、私の一日目の課外授業は終わった。

 4

 次の日の夕方、登校すると、私は綾香ちゃんを頼った。いじめが原因で偏差値の高い全日制の高校から転校してきた綾香ちゃんは頭が良かった。綾香ちゃんは私の期待通り今までの試験問題を全て保管していて、快くそれらを私に貸してくれた。
 しかし、私の上機嫌は近づいてきた千鶴に台無しにされた。
「福本先輩、もしかして、幽霊に憑りつかれちゃったんじゃないですか?」
 何を馬鹿なことを言っているのだろうと思った。
「何よ。変なこと言わないでよ」
 私に言い返されて、千鶴は機嫌を損ねた。
「変じゃないですよ。私、昨日、忘れ物を取りに来た時に見たんです。先輩は誰もいない教室で、一人で何かぶつぶつ言っているようでした。でも、その後、気づいたんです。先輩は独り言を言っているんじゃなくて、私には見えない誰かと話をしているんだって。私、怖くなって逃げちゃいました」
「失礼なこと言わないでよ。私、全日制の先生に英語を教わってたのよ」
「それって、やっぱり憑りつかれているってことじゃない。私、先輩の姿しか見えなかったよ。先輩が誰かと話してたって言うなら、相手は絶対幽霊だよ」
 下らないと思った。
「心配してくれてありがとう。じゃあね」
 嫌味っぽく言いながら、私は自分の席に戻った。

 放課後、私が綾香ちゃんから借りた過去の問題用紙に目を通した藤沢先生は、感心したように言った。
「覚えるべき所をきちんと覚えれば点数が取れる、素直な良い試験問題だね。出題の方式も一学期の中間から、二学期の期末まで、ずっと一緒だから、福本さんも頑張れば満点も夢じゃないよ」
「いくらなんでも無理ですよ」
 言いながら私は嬉しくて仕方がなかった。希望が見えてきたような気がした。
 しかし、気になったこともあった。昼間に千鶴に言われたことが頭にあったせいだろうか、はっきりした理由などなかったが、藤沢先生はどことなく存在感が薄いような気がしたのだ。
 千鶴の話には嘘と決めつけられない部分があった。私が昨夜、この教室にいたのは事実だった。そして、嘘をつくのならば、『先輩が見えない幽霊と話しているようだった』というよりも、『先輩が幽霊と話しているところを確かに見た』と言った方がインパクトがあるはずだった。
 更に言うならば、ろくに口も聞いたことがない千鶴が私に声を掛けてきたのは、私が栄子のようにならないことを願ってのことと思えないこともなかった。
 ならば、藤沢先生は本当に幽霊なのかもしれない。しかし、私は、藤沢先生が幽霊であろうがなかろうが、どうでも良かった。
 
 その後、藤沢先生は、私が用意してきた教科書のコピーを机の上に置くと、教科書の本文の中の、熟語の問題になりそうな部分を修正液で塗りつぶしていった。そして、塗りつぶした語の代わりにカッコを書いていった。
「今までの試験問題の傾向を見て、対策教材みたいなものを作ってみたよ。カッコの中に入る単語をきちんと覚えて、文を再現できるようにするんだ。あと、本文の後の熟語の練習問題もそのままの形で出題されているから、こちらも再現できるようにしておこうね」
「分かりました」
 そう答えた時、廊下で何か物音がしたような気がした。
「誰?」
 私がそう叫ぶと、「ヤバイ」と呟く声が聞こえた。その後、慌てて廊下を駆け出す足音が聞こえた。足音の様子からして、覗き見をしていたのは一人ではなさそうだった。
 千鶴が誰かに話したのか、あるいは私と千鶴のやり取りを聞いていた生徒がいたのか、それは分からなかったが、とにかく幽霊の話に興味を持った何人かが、怖いもの見たさもあって確かめに来たのだろう。覗き魔が誰であろうと、別にどうでも良かった。こんな私が言うと笑われそうだったが、今の私には勉強の方がはるかに大事だった。

 5

 藤沢先生に出会ってから三日目の夕方、私は1時間目が始まる前に、綾香ちゃんの席の方に向かった。
「綾香ちゃん、ありがとう。とても助かったわ。これ、返すね」
 私は、前の日に借りた問題用紙を綾香ちゃんに差し出した。すると綾香ちゃんから意外な言葉が返ってきた。
「それ、もう要りません。捨てちゃってください」
 綾香ちゃんは、私と視線を合わそうともしなかった。綾香ちゃんの機嫌を損ねるようなことをした覚えはなかったので妙だなと思った。それでも私は、綾香ちゃんには更に感謝の気持ちを伝えた。
「とても、助かったわ。試験が終わったら、ファミレスでスイーツでも奢るね」
「いえ、結構です。もう、私に構わないでください。ああ、失礼します。トイレに行きたいんで」
 そう言って立ち上がると、綾香ちゃんは逃げるように教室から出て行ってしまった。仕方なく自分の席に戻ろうとしたら、教室中の視線が自分に向いていた。私がそれに気づくと、皆一斉に目を背けた。
 昨夜の覗き魔たちが、「福本は幽霊に憑りつかれている」という話をクラスに広めたに違いなかった。教室内の空気に嫌気がさし、私は廊下に出て談話コーナーの方に向かった。
 すると、行き交う誰もが、汚いものでも見ているような視線を私に送ってきた。中には、私にぶつからないよう,あからさまに廊下の端の方に進路を変える者すらいた。
すでに自分には「幽霊に憑りつかれた女」というレッテルが張られていたようだ。
 いじめに繋がっても不思議ではないケースだ。しかし、そうはならなかった。いじめという形ですら、私とは関わりたくないと、みんな思ったのだろう。正に、「触らぬ神に祟りなし」というわけだ。

 放課後、藤沢先生は試験範囲の文法項目について少し説明した後、熟語の時と同じ要領で本文の中の、出題されそうな箇所にカッコを作っていった。
「こっちも、熟語の部分と同じように元の英文を再現できるようにしておこう。本文の後の文法の練習問題も同じだよ」
「はい、分かりました」
 藤沢先生の、的を得た指導にはとにかく頭が下がった。
 
 課外授業も三日目に入り、私も次第に、存在感の薄い藤沢先生は幽霊なのかもしれないと始めていた。しかし、藤沢先生からは邪悪な気配は一切感じられなかった。もし藤沢先生が本当に幽霊であったとしても、化け物だとは思えなかった。
 私からすれば、会ったこともない藤沢先生や、先生と関わっている私を忌まわしく思っている他の生徒たちの方が、よほど化け物のように思えた。

 6

 四日目、今度は読解の問題について勉強のポイントを教わった。
「いいかい、先ずは和訳をよく読んで、試験範囲の英文がどんなお話なのか、頭に入れておくことだ。そうすれば、個々の英文を読みやすくなるからね。それから、各セクションの後に設けられている内容についての英語の質問も、そのまま出題されているから、答えられるようにしておくんだよ」
「分かりました」
 藤沢先生の指導は、何をどうしてよいのかまるで分からなかった私には、とにかく有難かった。そして、私はこの調子ならなんとか試験で60点以上取れるのではないかという気分になり始めていた。しかし、現実はそれほど甘いものではなかった。

 7

 五日目、勉強したことがどれくらい身に着いたか確かめてみることになった。その結果を見て私は心が折れた。
 何度も書いて練習したので、書けるようになっていたつもりの答えが、思うほど書けるようになっていなかったのだ。以前に比べれば進歩はしていた。とはいえ、今の段階ではとても60点には届きそうになかった。
「先生、ダメだよ。私、やっぱり卒業できそうにないよ」
 言ったそばから、涙がポロポロとこぼれてきた。
「何を言っているんだ。上出来だよ。僕に言わせれば、君の今の状態は十分に想定の範囲内だよ。良いかい、勝負はこれからだ。明日、明後日は土日で学校もない。試験当日の月曜日、君は仕事が休みだろう。直前までしっかり勉強できるじゃないか」
「無理だよ。先生がいなかったら一人で勉強なんてできないよ」
「大丈夫だよ。今の君なら、ちゃんとやれるよ。それにね、勉強というものは、最後は一人で仕上げるものなんだ。教師は、その手前の手助けをすることしかできないんだ。だから、この段階まで来たら、もう、僕にできることなんて無いんだよ。後は君が一人でどれだけ頑張れるかにかかっているんだ」
「無理だよ。自信ないよ。やっぱり、私は、勉強なんてしても無駄だったんだ」
「そうすると、僕がしたことも無駄だったことになるね」
 どこか悲し気な藤沢先生の声が胸に刺さった。私は何も言えなくなった。すると藤沢先生は妙に明るい口調で語り掛けてきた。
「いいかい、福本さん、最後まで諦めちゃダメだ。諦めたらそこで試験終了だよ」
 その言葉を聞いた私は、ベソをかいていたくせに思わず吹き出してしまった。藤沢先生の言葉が人気漫画の有名な台詞のパクリだったからだ。
「そうそう。スマイル、スマイル。じゃあ、これで僕の仕事は終わりだね。卒業できることを祈っているよ。じゃあね」
 そう言うと、藤沢先生は私の前から消えてしまった。最後の言葉は、「これでお別れ」という意味にも聞こえて私を不安にさせた。
 ともあれ私は、藤沢先生の指導を無駄にしないためにも頑張るしかないと思った。

 8

 土日の仕事の後、私は異常な集中力で勉強を続けた。
 そして、日曜の夜、そろそろ寝ようかと思った時、私はふと思った。
 どうして最初から、全力で取り組めなかったのだろうかと。
 初めから今のように取り組んでいれば、私は留年などせずに、四年で卒業できたのではないかと。
 振り返れば、全日制への進学を諦めて以来、私は目の前のことにきちんと向き合おうとしていなかった。苦手な英語には目を背け、克服しようとはしなかった。
 友人関係もそうだ。クラスメートたちとも、距離を置いてしまった。きちんと接すれば、あるいは良い友達になれたかもしれなかった。
 お金がなくて欲しいものが買えなくても、心豊かに過ごす方法は、探せばあったかもしれないのだ。
 家族にだってそうだ。父にも母にもいつも不機嫌な顔しか見せていなかった。妹のことで苦労している両親に、更に苦労をかけているだけだった。その気になれば、両親の苦痛を和らげるためにできることもあったはずだ。
 私は、全てを貧乏神のせいにして、拗ねていただけだった。それはすなわち、自分の愚かさを幽霊のせいと偽って姿をくらました栄子の行いと大差がなかった。
 今更それに気づいたところで、高校生活をやり直すことはできない。しかし、全くの無駄にしないことは、まだできた。
 私に力を貸してくれた藤沢先生に報いるためにも、私は、どうしても卒業しなければならないと思った。

 9

 週明けの月曜日、卒業試験本番を迎えた。英語の問題は信じられない程スラスラと解くことができた。
 試験が終わってから最初の授業で、返ってきた答案には「84点」と書かれていた。嬉しくて涙が出そうだった。
 放課後、結果を知らせたくて教室に残った。自分の席に座り、藤沢先生を待ったが、先生は姿を見せなかった。 
 
 それからしばらくして、卒業判定会議の結果、私の卒業が認められたという知らせを山木先生から聞いた。
 そして同時に私は、卒業式でクラス代表として、壇上で校長先生から卒業証書を受け取る役を引き受けて欲しいと頼まれた。理由は、私がクラス唯一の留年生だが、頑張って卒業できることになったからということだった。
 最初、私は気乗りしなかった。私には、そのような舞台に見合う服の持ち合わせがなかったからだ。それでも、その役を引き受けたのは、晴れて卒業証書を受け取る姿を藤沢先生に見て欲しいと思ったからだった。
 それを伝えたくて、私は、また放課後の教室で藤沢先生を待った。
 試験前の金曜日以来、藤沢先生は一度も私の前に姿を現さなかった。やはり、あの夜、別れを告げたつもりだったのだろうと思った。それでも今夜は、出てきてくれるまで、とことん待ち続けようと思った。
『先生、出てきてください。伝えたいことがあるんです』
 私は、心の中でずっとそう訴え続けた。
 自分の席から、なんとなく窓の外に目を向けた時、ドアの方から藤沢先生の声がした。
「すでにお別れを言ったつもりだったのにな。ダメじゃないかこんなに遅くまで残っていては」
「先生、お久しぶりです。私、無事に卒業が決まりました。ああ、それで、今日は報告と一緒にお願いがあったんです。先生も、私の卒業式に出て欲しいんです。私、クラス代表で、壇上で校長先生から卒業証書を受け取る役をすることになったんです。その姿を、是非、先生にも見て欲しいんです」
 少々早口でまくし立てた私の言葉を聞いて、先生は少し悲しそうな顔をした。
「福本さん、残念だけど僕は君の卒業式には出らないんだ」
「どうしてですか?」
 私は考えもなしに尋ねてしまった。
 先生の顔に悲しみの色が増した。
「君も知っての通り、僕は幽霊なんだ。より正確に言うと地縛霊という奴だ。僕はこの教室に縛れていて、外に出ることができないんだ。だから、すぐ近くの体育館にすらいけないのさ」
 地縛霊になった理由を訊けないでいる私の気持ちを察したように、藤沢先生はいきさつを話し始めた。
「僕はね、教師になって二年目に、定時制の1年生の担任になったんだ。その生徒たちが、あと少しで卒業という頃に、僕は誰もいなくなった放課後の教室で心臓発作を起こして死んでしまったんだ。元から心臓が弱くてね。『やっとの思いで教師になって、もう少しで卒業生を出せるのに、このまま死にたくない』、そんなこの世に対する未練が強かったせいで、僕はこの教室の地縛霊になってしまったんだ。もう五十年以上前のことになるね。僕がそんな死に方をしたものだから、この教室には幽霊が出るという噂が立ってしまい今に至っているという訳さ。実際は、君以外には僕に気づいた人など、一人もいないというのにね」
 私は何も言えなかった。
「そんなわけだから、残念ながら僕は君の卒業式には出られないんだ。でも、君のお陰で久しぶりに教師の仕事ができて嬉しかったよ。じゃあね」
 そう言うと、藤沢先生はあっさりと姿を消してしまった。
『待って、待ってよ。私、まだ、先生に一言もお礼を言っていない。もっともっと先生に感謝を伝えたい。もっと先生と一緒に居たい。勉強以外のことももっと話したい。卒業まで、まだ時間があるじゃない。こんな風にいなくなるなんて酷すぎるじゃない』
 言いたかった言葉は誰もいない教室に置き去りになった。ふと私は、恋とは言えないまでも、それに近い感情が自分の中で芽生えていたのに気付いた。

 10

 三月初めの土曜日の夜、すでに卒業式が始まっていた。
 思いもよらぬことだったが、私は美しい袴に身を包んでいた。いつも厳しかった美容院の店長が「卒業祝い」としてタダで手配してくれたものだ。おまけに、店長自ら髪をセットしてくれたのだ。自分で言うのは恥ずかしいが、全身鏡の中の自分は、二十年の人生の中で一番奇麗だった。藤沢先生に見てもらいたかったと思った。

 担任の山木先生によるクラスの生徒の呼名も半分以上が済み、もうすぐ私の名前が呼ばれる番だった。藤沢先生に、この場所にいてほしかったな。改めてそんなことを思っていたら私の番が回ってきた。
「福本明美」
 私の名前を呼んだその声は、山木先生の声ではないような気がした。それは藤沢先生の声のように聞こえた。
「はい」
 一瞬、返事が遅れ、私は慌てて立ち上がった。前の方を見ると、呼名を続ける山木先生の隣に藤沢先生が立っているのが見えた。
『来てくれたんだ』
 そう思った途端、涙が頬をつたった。藤沢先生がここにいるということは、先生はあの教室から解放されたということだ。
『先生もようやく、地縛霊を卒業できたんだね』
 できることなら、藤沢先生の許に駆け寄ってそう声を掛けたかった。
「以上二十名、代表・福本明美」
「はい」
 山木先生の指名に、大きな声で答えると、私は中央の通路へ出て、そこから真っすぐに舞台の方に向かった。舞台に上る階段の手前で、私は、先ず向かって右手の来賓席に一礼した。
 それから、左手の教員席の方に向き直って一礼をした。
『福本さん、とても奇麗だよ』
 声ではない藤沢先生の思いが伝わってきた。
『そう、惚れちゃった?』
 私がそう返すと、藤沢先生は照れくさそうな顔をした。
 私はすぐに舞台正面に向きを変え、階段を登った。
 壇上で私は、校長先生が私卒業証書を読み上げるのを聞いた。多くの人が三年でもらう高校の卒業証書を手にするのに、私は五年も掛かってしまったが、ようやくそれを手にする時が来たのかと思ったら胸が熱くなった。
 私の卒業証書と共にクラス全員の証書を受け取り、私は階段を降りた。階段の脇に用意された机の上に卒業証書の束を置いて、通路の中央に戻ると、私はもう一度来賓席に一礼した。
 教員席の方に向き直ると、藤沢先生はまっすぐに私の方を見ていた。
『福本さん、卒業おめでとう』
 藤沢先生の声ではない言葉は私の胸に深く染み渡った。
『先生もね』
 私がそう伝えると、藤沢先生の姿は金色の光に包まれてぼやけ始めた。
『どうもありがとうございました。さようなら』
 心からの感謝を込めて、消えてゆく藤沢先生に向けて、私は深々と頭を下げた。