とにかく小学校(あの場所)から逃げたかった。行く先なんて決めてなかった。

 白い息を乱して、冷たい風を切って、多希(たき)は走る。指先の感覚が薄くなっているが、今はどうでもいい。
 遊具が多いボール遊びのできる公園を通り過ぎて、市で一番大きな図書館を通り過ぎて、自分の家すら通り過ぎて……。

 赤いランドセルが重くなってきて、足を止めたのは、ぶらんこと滑り台しかない小さな公園だった。閑静な住宅街の隅にあるここは多希の秘密基地。

(——兄さん)

 頼れる彼を探してぐるりと見回すが誰の姿もない。
 重い足取りでぶらんこに近づき、そっとランドセルを降ろす。至る所に擦り傷ができて土汚れがついた多希と違い、それはぴかぴかと輝いている。

「……よかった」

(本当に、守れてよかった)

 亡くなった父と一緒に選んだ物だけは絶対に守りたかった。
 自分がどんなに殴られ蹴られても、辛い言葉をぶつけられても。あの先生とあのクラスメイトたちから絶対に守りたかった。

 ほっとしたのも束の間、体のあちこちの痛みと疲労感に襲われる。多希はぎこちない動きで冷たいぶらんこに座った。

 沈みゆく日を見ながら冷たい空気を吸うと、鼻の奥がつんとする。

 ぽとり。
 熱い瞳から雫がこぼれた。綺麗だったパステルグリーンのズボンに染みを作る。

(この服お気に入りだったのに……)

 べっとりとついた土汚れは洗濯をしても落ちないだろう。

 ぽとり。
 また雫が落ちた。

 振り上げた右手で腿を叩いたら想像以上の痛みに襲われる。ズボンを捲ると青紫色のあざがあった。あれほど殴られ、蹴られたのだ。跡が残らないわけがない。
 小さな拳に込めたやるせなさは痛みを思い出させるだけだった。

 ぽとり。

「……ぅ、ひっ……ぐ」

 溢れて止まらない涙をごしごしと拭い、誰にも聞こえないようにと声を押さえる。

 突然、目を覆う両手を掴まれ、多希は目を見張った。視線の先には近くの高校の制服を着た苦しそうな表情の男性。いつも完璧にセットされている黒髪は少し乱れており、吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳はほんのり怒りを含んでいる。

「擦るな。目が傷つく」

 素っ気ない言葉とは裏腹に、多希の両手を掴んでいるすらりとした手は温かくて優しい。

「……っ、——にぃさ、ん」
「ああ。何があった、多希?」
「ぅう……ひっ、ぐ、……ぅ、わぁぁあぁん!」

 多希は歯止めが効いてくれない感情を爆発させる。男性に真綿で包むように撫でられながら、しばらくの間泣いていた。


 多希が落ち着いてきたら、男性はカバンから包帯と未開封の水が入ったペットボトル、消毒液を取り出す。いつものようにてきぱきと手当てをしてくれる「兄さん」がそこにいる、それだけで彼女の呼吸は楽になった。

 腕の打ち身に水を染み込ませた冷たい布を当てられると、鈍い痛みが走る。

「……痛っ」

 慌てて腕を引っ込めようとするが、男性に固定されていている腕はびくとも動かない。

「今少し我慢するか、後でより痛くなるか、どちらが良い?」
「……今我慢します」

(これ以上痛くなるのは無理、絶対に無理)

 苦々しい表情で答えると、良い選択だ、と頭を撫でられる。
 撫でられた頭に意識を向けていたら、いつの間にか手当ては終わっていた。


「……——俺だけだ」

(何……? ——兄さん、なんて言った?)

 はっきりと聞こえたはずなのに、もやがかかって聞こえない言葉。

「——兄さん?」

 自分の口で言ったはずなのに、思い出せない彼の名前。

(これ、夢だ)

 男性の姿と身体中の痛みが離れていく。無機質な目覚ましの音が朝だと告げてきた。違和感のある目元に触れると涙の跡。あの時の傷はとっくの昔に治っている。
 多希は手のひらを開いたり閉じたりを繰り返し、9年前とは違うのだと言い聞かせた。

「……兄さん、元気かな」

 カーテンの隙間から覗く朝日に照らされる。引っ越したばかりの部屋には、しばらく慣れそうにない。

「多希ー! 遅刻するよー!」
「……はーい!」

 転校初日、遅刻はダメだろう。母の声にはっとさせられた多希はベッドから降りてカーテンを開けた。