「大丈夫?」


 放課後、ひとり廊下を歩いていればかけられた言葉。今の私はその言葉を言われたら途端に泣けてしまう人間だ。けれど蝉の鳴き声とその聞こえた言葉に背筋が震えた。涙は出ない。ただ震えた。現代文の教師の声だったから。低いねっとりとした声。まるで「今はつまらなくないだろ?」と言われているような声だ。私は恐る恐る振り返る。そこには恍惚とした表情を浮かべる男性がひとり立っていた。


「顔色が悪いけれど大丈夫? 話聞くよ」


 優しい言葉。一見そう聞こえるがそこに欲望が孕んでいることを私は知っている。あぁ、私が水面下で転落した理由がわかった。先生がハンターとターゲット、両方を変更したのだろう。私の代わりに私の近くの誰が先生からお金をもらいハンターになった。そのハンターが私をターゲットにしただけ。銃口を向ける人間であった私がいつの間にか銃口を向けられる側になった。それを仕組んだのはまぎれもない彼なのだろう。

 私は怯えて足が動かせなかった。鯖落ち。私はこの教師に狂わされた。いや、違う。本当の私を暴いただけだ。私が狂っていたのだ。


「行くよ」


 そのときだ。動けない私の腕を誰かが強く引く。艶やかな黒髪を持った女王Aが私の前を軽やかに歩いている。私は彼女の力で先生から離れた。菊の花ではない、なにかのフローラルな香りが私の鼻腔を通り抜ける。それは確かに彼女からした。いい匂いだった。そのまま女子トイレに連れ込まれた。女王Aはすべての個室を確認していく。この女子トイレにいるのは私たちだけだった。


「樹里」
「……、」
「私たち仲よかったよね。中学時代からの仲だった」


 花菜の口から出てきた言葉は冷たいものだった。それでも冷静さを孕んだものだ。そう。彼女の言うとおり。私たちは中学生時代の仲で取り巻きはおらず、いつもふたりで行動していた。樹里と花菜。いつも一緒だった。高校に入ってからそこに少女A、少女B、少女Cが入ってきて大きな国になった。いつからか花菜が国をまとめる長になったのだ。気に入らなかった。


「私をいじめていたの樹里でしょ」
「……」


 今更違うなんて白々しいことは言えない。自分が選んだ選択だ。私は首肯する。


「……先生から誰でもいいからいじめてくれ、ってお金をもらった」
「あの人そんなキモいの? やば、うける」
「…だから花菜、あのひとと付き合うのはやめたほうがいい。私に忠告する権利ないけど、あのひと危険」
「なんで?」
「弱っている人を助けたいんだって。だからいじめを仕組んでいる」
「わかった。ありがとう」


 花菜はこの数ヶ月どんな人生を歩んだのだろうか。凛々しく立っている彼女にそんなことを思う。成長したように思う。目の前にいる花菜は確かに女王の風格があるのだ。漲る自信。いじめに遭っていた瞬間からまるで脱皮したかのように雄々しく存在している。
 気付いてしまう。自らの矮小さ卑劣さ。太刀打ちできない格の違いをまざまざと見せつけられる。私は彼女に嫉妬して、暴走して、頼まれたんだ仕方なかった、という言い訳をしながら欲望に飲まれた。花菜に苛立ち花菜を殺したくて、ふたりで高校を同じ場所に選んだことを忘れ去った。花菜は私のライバルで敵でよき親友だった。


「樹里。私はあなたのことを一生許さない」
「、っ……う、ん」
「死にそうだった。死のうと考えた。死んだ方がマシだと思った。そんな目に合わせた樹里を一生許さない」
「ごめんなさい、…」


 素直に出た言葉。愚かだったと理解できた。馬鹿だった。自分が同じ目に遭いそうだからという理由じゃない。そんな保身に走っていない。ただ心の底から申し訳ないと思った。いじめはコンテンツじゃない。いじめは若さの特権じゃない。犯罪だ。


「樹里が私を助けなかったから、私も助けないよ。わかるよね」
「う、ん」
「……助けないけど死なないで」


 空が夕焼けに変化していく。翳りを見せる世界。私たちを包み込む日差しはまるでいいねを塗りつぶした赤色のような色でトイレに差し込んできた。


「これからどんどん死にたくなるよ。私はあんたを許さない。助けもしない。けど、死なないで。あんたがいない世界は少しだけつまらないから」


 みんな刺激が欲しい。つまらない世界をなにかで塗りつぶしたい。いいねを押すだけじゃ足りないのだ。
 花菜は穏やかに笑っていた。その表情は中学生時代に見た優しい笑顔そのままで、私は完全に悟った。大切な友達を自らの醜い嫉妬、醜い愚かさで失ったのだ。一生大事にするべき友情を自らの手で切り裂いた。
 私を改心させるには花菜の穏やかな「つまらないから」その言葉だけで十分だった。
 

「…… 樹里。もし本当に駄目だ、死にたいと思ったときに思い出して。この世はなににでもなれる。何者にでもなれるけれど、何者にもならなくていいんだよ。母からの受け売りだけど覚えておいて」


 その言葉だけを置き去りにして花菜は去っていった。彼女が消えた瞬間に抑えていた感情が濁流のように決壊した。涙が溢れる。欲しかった言葉だった。この世は肩書きを手に入れることは簡単だ。インフルエンサー、クリエーター、なんでも簡単になれる。フォロワー数は大事でSNSをサバイブできる能力が必要だ。でも別に何者かにならなきゃいけないことなんてない。

 私は樹里だ。花菜にはなれない。それと同じで花菜も私にはなれない。そんな簡単なことを忘れていた。





 学校から帰ってきて一番はじめに行ったことは、先生からもらった金で買ったものをすべて処分することだった。デパコス、高級ブランドバッグ、アクセサリー。私の愚かさの証拠をゴミ袋に入れていく。煌びやかなものが無くなった部屋は普段見るより色褪せていた。無加工の味気ない部屋だ。でもこれでいい。生き直しだ。

 SNSを開く。裏アカウントを消していく。水面下に潜る必要のないようにすべての裏アカウントを消した。正真正銘、本名でやっている表アカウントだけを残す。

 そのとき不意に花菜の呟きが見えた。「学校楽しい」その140字より短い数文字。沢山のいいねがついている。私もみんなと同じようにハートを赤く塗りつぶた。これは流作業のいいねじゃない。私のマイナスの感情もプラスの感情もぐちゃぐちゃに混ざり合った重たいいいねだ。大切ないいねだ。

 誰も私を助けない。自分で這い上がる。広くて狭いこの世界を自力で生きるのだ。自分だけを信じてこの世界で生きてやる。私は絶対に空を飛ばない。私の人生は140字には収まらないだろう。青春は140字では収まらない。だから価値がある。だから大事にするべきだ。

 私は現実を生きる。