「どういうこと?」
「どういうことって?」


 質問を質問で返されたその瞬間、窓の外にある空に浮いている雲から鳥が1羽出てきた。それを眺められるくらいには冷静だった。入道雲はまるで綿あめみたいな形をしている。先生の背後にあるそれを見つめながら会話を続けた。


「昨日の放課後のこと」
「……あ、あー。言ってなかったっけ?」


 一瞬どのことか判断できないというような素振りをしたが、瞬時に理解したようで軽く頷く現代文の教師。クズ教師は小テストの丸つけをしているようで私に目線も移さない。解答用紙を眺めながら軽やかに赤色を躍らせる先生は同じように軽く口を開いた。


「弱った女の子が好みなんだ」
「……」
「青ざめ不穏な顔付きをした女の子に大丈夫か、と優しく声をかけ、ガチガチに固まった防衛を解きほぐす。そんな女子校生とする(⚫︎⚫︎)のが好きなの。その子を社会復帰させるのも好きだね」
「かなりの変態でキモすぎる」
「その変態に金をもらっているのは誰?」


 きゅ、ッと赤ペンが解答用紙にチェックマークをつける。バツ印であるそれがまるで今の私を表しているようで居心地が悪かった。先生の語気の強い言葉がどちらが優位であるかを物語っている。証拠(ソース)がないこの状況で先生の行動を非難する私は危ない橋を渡っているのだ。だからってこのゲームの主人公があの女であるなら私はこの会話から簡単に退場できない。あいつが主人公だなんて許せない。


「君は私を非難するが、君の立場が危ういことはわかっている? 私の証拠はなにひとつないけれど、君はIPアドレスを調べられたら一発だ。そのまま開示請求。彼女が望めば裁判」
「…っ、先生に脅されたって言う」
「冗談だよね? 世間が十代の子どもと三十路のおじさんのどちらを信じるのかなんて君にもわかるだろ?」


 先生はようやくこちらを見上げた。軽蔑したような視線を寄越す。普段穏やかな表情を持つ人間が浮かべるそれは腹の底を握りつぶれるような恐怖感を私に植えつけた。
 頼っていた若さの特権はデメリットに早変わり。若さの前では太刀打ちできないなにかがあって、若さはただの愚かしさだと知る。フォロワーは買えるが年齢はどう足掻いたって購入できやしない。


「君がこてんぱにいじめてくれたおかげでとてもいい経験ができたよ」
「…、先生。お願い。あの子はやめて。教室に戻らせないで」


 強気であった私の言葉はわずかに震えていた。わずかどころではない。震えに震えており、絶望が背中を滑り落ちていた。私の玉座が奪われる。私の存在が消え去られる。女王Aが戻ってきたら、私の反乱など忘れられる。


「私は誰でもいいと言った。彼女を選んだのは君だ」


 私が彼女を選んだ。その事実は私を泥濘の底に突き落とす。私が死ぬか、彼女が生きるか。国に女王はふたりもいらない。どちらかが死ぬまでの殺し合いだ。メアリー・シュチュアートとエリザベス1世の争いも最後は片方が片方を処刑した。斬首だ。

 結局私はなにも成果を上げられずに先生から離れた。空き教室から出て廊下に備えつけられた窓に背中を押しつける。かきん、金属バットに球が当たる夏らしい音が聞こえてきた。健康的なその音を体内に入れながら、けれど私の皮膚は不健康に冷や汗をかきはじめる。毛穴からぶわり、と汗が滲み出るのだ。その汗が下着を汚していく。
 冷静さを維持するように暗示をかけていたが、昨晩はやはり眠れなかった。暗に少女Bにいじめを続けようと話したがそれがうまくいくかどうかの確率を考えはじめたとき恐怖を抱えた。自宅に帰り、ベッドに潜り込んだ瞬間、熱帯夜のくせに足先が冷えるのを感じた。
 女王Aは女王になったときから自分に自信があった。女王になったから自信がついたのか、元々素質があったのかは判断できない。卵が先か鶏が先かは知らないが、彼女には絶対的な自信が備わっていたのだ。それを失わせたことが私の勝利に繋がったが、彼女がその自信を自らの力で立て直したのであればそれは脅威に繋がる。一度折れた骨はより頑丈になると言うだろう。それだ。
 いじめを行なった事実が公になることよりも玉座を奪われることの方が恐ろしかった。努力して手に入れた場所だ。

 スマートフォンを取り出す。女王Aの24時間で消える投稿を眺めた。やはりそこには足元の写真が投稿されていた。そのとき不意に気付く。その次に新たな投稿がされていることに。心臓がビートを刻む。BPMが早い。最近の流行りの曲に負けないBPMだった。


「っ、」


 制服姿で少女Aと写真に映る女王Aがそこにいた。女王Aは少女Aをタグ付けしている。これがどんな意味を持つのか判断がつかない。女王Aが無理やりに少女Aと写真を撮ったのかもしれない。それにたった24時間で消える投稿だ。けれどもこれが私に不利に動くものだということは理解できた。そして気付く。少女Bの親しい友人だけが見られる投稿が見れなくなっていた。
 
 かきん、金属バットが野球ボールを打ち上げる音が鼓膜に届く。それがまるで銃声のように聞こえた。





 SNSのフォロワーはひとりも減らなかった。けれど、いつまで経っても少女Dの個展で撮った写真が投稿されることはなく、FFの子たちのアイコンが緑色に輝くことはなくなった。外されたのだ。指一本で親しい友人枠から外された。それと同じくして女王Aのアカウントは活動的になった。元々5人でつるんでいた私たちは、今や私だけを外したグループになっている。少女A、少女B、少女Cは従える女王を軽やかに変えた。水面下で物事が動いた。日本の政治家も見習ったほうがいい迅速さだ。

 6時50分。最近はアラーム音が鳴るより先に目を覚ましてしまう。寝不足だけど寝られなかった。夜が怖いのだ。寝てしまえば明日が来る。
 7時、スマホの画面の上部からタイマーという文字が降りてくる。それを指で消せば現実が降りてくる。朝だ。学校に行く日だ。そんなことを考えながら流作業でSNSを開いた。これが自傷行為だということは十分理解していたけれど、確認しなければ気が済まなかった。すべて冗談であってほしいと願ってすべてのSNSを眺める。けれど、やはりそこには水面下での反乱が起こっていて、玉座から引き摺り降ろされた世界だけが広がっている。
 最近はエゴサをすることが増えた。フルネームで悪口が書かれていないかを必死に探す。出てくるわけないと知っているはずなのにだ。だってそんなものダイレクトメッセージか鍵がついた裏アカで行われる。今の世の中現実とSNSどちらが真実を映す世界なのだろうか。誰もがSNS上だけで本音を喋る。なら現実の世界ってなんの意味があるの?

 私は充電器からスマートフォンを切り離す。充電は満タンになっていない。まるで今の私のようだ。
 怠い足先をベッドから出す。どうやら昨晩は制服のまま寝てしまったようだ。前日のままの姿が鏡に映る。価値あるセーラー服には皺がくっきりとついていた。この皺、シャワーを浴びている間までにどうにか取れないだろうか。これじゃぁ十代の価値ある制服の価値がなくなる。
 鏡の前に髪の毛が落ちていることに気付く。毛は身体から切り離された途端に気持ち悪さを発揮する。生えている毛と床に落ちている毛では触りたいと思う気持ちも変わってくる。私は落ちているそれを拾い上げ、ゴミ箱に捨てる。まるで今の私のようだ。女王Bの威厳たる姿の私は鏡の中に存在しなかった。あ、……ニキビがひとつできている。
 私は絶望を感じながら目線を逸らし、恐る恐る体重計に乗る。0.1kg増えていた。

 値段の高い洗顔料を使って、顔面をしっかり整える。身体を念入りに洗い、きちんと眉毛を整えて、たっぷり唇を潤ませる。時間をかけて髪の毛を巻く。いつもと同様に肌を見せてしっかり姿勢を整える。そしてSNSを見つめる。

 みんな知っている。多分、みんな知っているのだ。私がいじめの首謀者であることを。もしかしたら現代文の教師との関係も知っているかもしれない。私の両親は不仲で私を気にもしないとか、そんなことまで知っているのかもしれない。知っているけれど表立って言わない。言うより前に指先を動かしている。みんな知っている。だって狭い世界だから。

 身支度を整えてリビングに入ればそこにはいつもと変わらない朝の景色が存在していた。母はキッチンに立っており、こちらも見ようともしない。父も新聞に目を落としたまま。私だけが知る景色。子どもだけが見える世界。私は両親から視線を外し玄関に立った。皺があるローファーを履く。スクールバッグが鉛のように重い。ローファーは履き慣れているはずなのに足先が痛かった。みんなこの恐怖を知っているのだろうか? 長方形の鏡の中、あのときの女王Aと同じ暗い顔をした女がいた。誰かに「行ってきます」を呟く。

 いつもとなにも変わらない電車の中。SNSのタイムラインもなにも変わらない。私のアカウントはそこに存在しているし、私は変わらず痴漢されている。でも今、痴漢がうざいと呟いたところでなにか返事がが返ってくるとは思えなかった。水面下で確実に変わった私の価値。たった数日ですべてが変わる。なにもかもががらりと変化していくのだ。それがダイバーシティというものなのだろうか。私はまたSNSを眺める。昔に撮った少々A、少々B、少々Cの4人での写真がしっかりとそこにはあった。アーカイブされることなく存在していた。


 それは確かに永遠でした


 みんな刺激が欲しいだけ。だからいつか私が映る写真はアーカイブに移動される。私という人間がつまらなくなるそのときに。
 ゆっくりと深呼吸をして窓の外を見つめる。勢いをつけ学校へ向かう電車。永遠に着かなければいいと願う。他人の体臭、口臭なんて気にならない。いくらでも乗っていられるから永遠に着かないでくれ。私がまだ女王Bだったころに見た空とまったく同じ色の空が窓から見える。この空を飛びたかった。ローファーが擦れ、靴擦れを起こしたように足が痛い。それを脱ぎ捨てて飛びたかった。
 どれだけ乗っていたのか定かではないけれど学校がある駅に着いた電車。いつもより乗っている時間が長く感じたそれを私はしっかりとした足取りで降りた。いつもとなにも変わらない。「おはよう」と声をかけられ私は顔を上げる。少女A、少女B、少女Cはいつもと同じ表情でそこにいた。私は「おはよう」と唇の端を上げて微笑む。まるでスタンプみたいだ。SNSに搭載された表情を描いたスタンプ。無表情で文字を打ちながらにこにこと微笑むスタンプを投げる。
 私はまだ無視(ミュート)の対象ではないらしい。それだけが救いだった。


 うまく笑えた 私は今日も正常です


 いつだってみんな匿名性を孕んで活動している。裏アカウントで戦っているんだ。みんな水面下で笑っている。そしてみんな他人を殺す凶暴性を持っている。


「おっはよー」


 女王Aが姿を現した。艶やかな髪の毛が揺れる。蒸し暑いのに彼女は汗ひとつかいていなくて、フローラルな香りが私の鼻腔を通り抜けた。少女A、少女B、少女Cが女王の周りを囲む。女王Aの存在にいいねが押されていく。そのまま流れる動作で4人が固まった。私は彼女たちの半歩後ろを歩く。
 私は少女Bがいつものようにドラマの話を始めるのを心待ちにした。電車の中で一通りネタバレを調べたのだ。今の私なら会話についていける。


 あぁ、アカウントを消すように死にたい


 死臭がする。私の身体から発生する死臭だ。教室内にふわり浮遊する私の死んだ匂い。教室に入るとすべての人と目線が合った。教室に訪れた一瞬の静寂。たったその1秒が私の体に虫を這わせる。死体に這うウジ虫だ。私がこの教室で殺されたのは明白であった。だって私の机の上に菊の入った花瓶が置かれているから。生唾を飲む。それでもどうにか「おはよう」と挨拶をした。やまびこは存在しない。私は私の墓石に座る。
 お金がない。才能がない。勉強ができない。コミュニケーション力がない。家庭環境が悪い。教室ではそんなものは通用しない。言い訳なんてできない。ただ、生きていくしかない。そんなグローバルな教室。その教室で私は殺された。ただそれだけのことだ。

 私は菊の花が入った花瓶を机から下ろし床に置く。花の柔らかな香りが鼻腔を抜ける。鼻がつん、と痛んだ。涙が出るまえのあの独特な痛み。それでも奥歯を噛み締めて必死に耐えた。耐えるのだ。女王Aが君臨していたころに戻るだけ。

 教室に先生が現れた。相変わらず欠席者をリポストするが、内容は少し違っていた。女王Aが学校に登校したから彼女のことはリポストされない。リポストされなければ、女王Aが学校を休んでいた時期があったなどということはみんな忘れていく。いじめがあったなんてこともみんな忘れていくだろう。女王Aだって「そんなことあったね」くらいになるかもしれない。
 現代文の先生が辞職することも絶対にないだろう。私が金をもらっていたことも公になることはないだろう。すべては水面下で行われたことだ。表面になんか出てこない。いじめの実態なんて解明されない。そもそもいじめの証拠がないのだから。私のIPアドレスを調べられる権利があるのは女王Aだけだ。だから彼女が葬れば真実は浮き彫りにならない。

 幻聴が聞こえる。まるでフリック音のような耳障りな音だ。クラスメイト全員、先生の言葉を静かに聞いているのに全員の敵意を感じる。無音が煩い。嫌だ。煩い、黙れ、黙れ、黙れ! だまれ!
 SNSには私の悪口があふれていることだろう。本人が見ていないならそれはいじめじゃなくて、そして悪口じゃなくてただの会話になるのだろうか。いじめはただのコンテンツだ。会話を続けるためのもの。

 これからみんな「シャドウバンになっているよ」という体で私をミュート(無視)していくのだ。クラスメイト全員にミュートされたら、私はどうなるのだろうか。自業自得。わかっている。


 すべて若さのせいなんです