あーあ。今日、折角のチャンスだったのに。
真澄は文字通りがっくりと肩を落とし、教室へと続く階段を上がった。一段上がるたびに溜息が漏れていく。幸せが逃げるとは言うが、もう全部溢れ出てしまった気がした。
二学期の最終日の大掃除は体育館だったのに、やたらと時間がかかってしまった。部活動の活動場所でもあるここは、基本活動している部活が活動後にきちんとモップ掛けをしているし、時々持ち回りで掃除をしているおかげもあって、割と綺麗だった。だからこそ担当が体育館と決まった時は、内心ラッキーだったとガッツポーズをしたのだが、真澄と同じ班の連中が倉庫からバスケットボールを取り出して遊び始め、時間が掛かりすぎだと様子を見に来た担任に説教を食う羽目めになったのだ。
本当なら二十分程度で終われた筈だった。ただでさえ授業日数が足りないだとかで、午前中は普通授業があったというのに……。
最終的には罰として教室の蛍光灯を取り替える手伝いまで言いつけられ、同じ班員は蛍光灯を替えるだけ替えたらとっと逃げ帰ってしまった。あたりはもう暗くなりかけていて、久々にこんな時刻まで一人で残ったとしみじみ思う。後片付けも殆ど一人で終わらせ、ようやく解放されたのは最終下校時刻間近。生徒達が殆ど居なくなってからだった。作業終了を報告しに職員室へ行くと、担任に苦笑いされた。年の瀬に散々な目に遭ったな、来年はきっと良いことがあるさ、なんて気休めを言われ、真澄は早々に掃除班の班替えを願った。
そんな訳で兎に角、真澄は不機嫌だった。
折角、透也と帰れるチャンスだったのにさ……。
別に約束をしていた訳じゃないが、こういう時でない限り、彼と一緒に下校する事は出来ない。透也は野球部に所属していて、帰宅部の真澄と帰る事は殆どなかった。だからこそ、全部活動の無い終業式の日がチャンスだったのだ。真澄は下唇を噛み、廊下をとぼとぼと歩く。
透也相手にはどうしたって女々しくなってしまう自分が嫌だった。今日だってそうだった。こんなにがっかりするのなら、最初から約束しておけば良かったのだ。真澄は再び大きな溜息を漏らした。
幼い頃は毎日一緒に遊べていたのに、中学、高校と進学するに連れて、部活動中心になる彼とは距離が出来てしまった。寂しくて、恋しくて、しんどくて。勝手に感情を抱いたのは自分なのだ、我慢しなければならない。なにより、頑張る透也の邪魔はしたくなかった。
ひんやりとした空気が人気のない廊下で真澄の頬を掠めた。自然とブレザーの下に着たカーディガンの裾に手を引っ込める。
ただでさえ隣のクラスなのだ。どうせクリスマスも年越しも一緒に過ごせないんだから、今日ぐらい一緒にいる時間をくれたっていいのに。神様って本当に意地悪だよな……。
「あ、どこ行ってたんだよ」
真澄が教室の戸を開けると、透也が下唇を突き出し、真澄の席の上にどっかりと座って待ちくたびれたと大きな声で言った。
「ど、どこって、職員室……。てか何してんの、透也こそ」
もともと大きな真澄の目が、更に大きく開かれる。驚きで心臓はバコバコと太鼓の様な音を鳴らした。
「お前のこと、探してたんだよ」
透也の言葉に、真澄の喉がヒュっと鳴った。
「掃除終わってからずーっと探してたのに見つかんねぇし。帰ったのかと思って下駄箱見たら靴もあって、教室来たら鞄あったからさ。ここに居たら戻るかと思って」
そう言われて赤くなっていきそうな顔を、真澄はさりげなく下へ向ける。夕陽に翳って透也の顔ははっきりと見えないが、相手から自分の顔が丸見えだと思うと急に全身が痺れた気がした。
「遅すぎじゃね?」
「掃除、長引いたんだよ」
「ふぅん、一人で?」
「みんな先帰ったんだよ。押し付けられたのっ」
「あはは、これだからお人好しは」
「……うるさいなぁ」
顔を下げたまま、真澄は自分の席に引っ掛けていたスクール鞄を引ったくるように取った。透也の最後の一言にカチンと来た。だが、半分は待っていてくれたことが嬉しくて、素直に伝えられないだけだった。
「え。荷物、それだけ?」
「うん」
真澄は頷いた。教科書類は基本的に置きっぱなしだったし、冬休み中に使いたい物は既に持ち帰っていた。今日は図書室で借りた参考書と小説を持って帰るぐらいで、大掃除の前に帰り支度は済ませていた。終業式の日に大荷物なのは小学生までだろう。そう思っていたのだが、真澄の目の前で大荷物を抱えている男がいた。
「透也は何をそんなに持って帰る訳?」
冬休みの課題ってそんなにあったっけ?と、不思議そうな顔で真澄は透也の顔を見上げた。透也はというと、スクール鞄とは別に大きなエナメルバッグを抱えている。今日は野球部の朝練は休みだったはず。こんなに大荷物になる筈がないのだ。
すると、透也は苦笑いを浮かべて答えた。
「没収された物が返ってきたんだよ」
「え、没収?」
「そ。漫画とか、ゲームとか。とにかく全部」
ニヤりと笑って、座っていた机の上から飛び降りる。
「まだ授業中にそんなのやってるの……」
「まぁまぁ。返って来たから問題なし」
「そういう事じゃないだろ」
「いいから、いいから。ほら、帰るぞ」
真澄の小言を片手で払うと、透也は鼻歌を歌いながら教室から出て行く。その背中を見ると、さっきまで寒くて引っ込めていた手のひらに、じんわり汗が滲んでいるのが分かり、再び真澄は頬を赤らめた。
あああ、神様。
さっきはごめんなさい、でもこんなの聞いてないよ。それなのに僕はさっきから透也に素っ気ない態度ばっかりで……。
「早くしろよ、置いてくぞー」
なかなか教室から出てこない真澄を見兼ね、出て行ったはずの透也が教室を覗き込んだ。
「あ、うん。今、行く!」
「なぁ、腹減らない?」
カラカラと自転車の車輪の音が二人の間で鳴る中に、透也の腹の虫の鳴き声が混ざった。
「え、今日お弁当食べたんじゃないの?」
終業式前に昼休みはあったし、その後に頭を使う事も身体を使う事も殆ど無かったと、真澄が言うと透也は首を横に振った。
「そんなの朝学校に着いた時に食べ終えたし」
「じゃあ、お昼どうしたのさ」
「購買パン五個で凌いだ」
「うわぁ……」
聞いただで胸焼けしそうな返答に真澄は呆れの声を漏らす。
「仕方ないだろ、チャリ通って結構体力使うんだから」
「知ってるよ。だから僕は電車通学してるんじゃん」
今日ぐらい電車でくれば良いのに。そう言うと透也はギリギリまで寝ていたかったと答えて、更に真澄は呆れた声を漏らす。入学当初、自転車で一緒に行こうと誘われた事があったが、三駅分の距離を考えるだけで真澄は身体が重くなったのを覚えている。朝からその距離を走って来る事を考えると、教室に着いて早々に弁当に手が伸びてしまうのは納得できた。
しかし、今の問題はそこではない。真澄と透也の通う学校は住宅街の中に建っているため、飲食店は駅近くへ向かわないと現れないのだ。
「この辺食べるとこなんてないよ。駅まで来るの?」
「それじゃ遠回りだからなぁ」
「じゃあ、家まで我慢するしかないよ」
「真澄、今いくらある?」
「は?」
透也が足を止め、顎で先に見えるコンビニを指した。
「肉まん食いたくね?」
良いもの見つけた、と言わんばかりに目をキラキラと輝かせ、真澄に反論する隙を与えない。
「……お金、ないんじゃないの?」
自分に幾らあるか確認をしたのだ、きっとそうに違いない。真澄が怪訝そうな顔をすると、やはり図星だった様で透也は苦笑いを浮かべた。
「半分こ、な?」
器用に肘でハンドルを押さえ、透也は両手を合わせた。その瞬間、真澄の胸が一瞬できゅうっとなった。
「……ったく、仕方ないなぁ」
呆れた口調でそう答えたが、真澄の足取りが断然速くなる。
ああ、もう。そうやって、毎回僕がすぐ折れるの分かっててやるの狡いんだから……。
真澄がむすっとした顔をすると、それを見て透也が笑った。
コンビニのレジに並んだ際、横目で見えた透也の財布に入っていたのはほんの数十円。今日の購買で今月分の小遣いは遣い切ってしまったようだった。
「良いよ、僕出すから」
もともとそのつもりだったし。
真澄が鞄から取り出した財布から小銭を取り出していると、透也がムッとした顔を見せた。
「いや、半分出す」
頑なに全額奢られる事を拒んだ透也は、無理矢理真澄の手のひらに六十円を握らせる。
「……半分って。全然足りないんだけど?」
「細かい事は良いだろ」
「はいはい」
この、格好付けめ。
真澄は上がりかける口角を、どうにか抑えながら店員に「肉まん一つください」と伝えた。
「あったかーっ!」
嬉しそうに肉まんを持ち、さっきよりも明らかに上機嫌で透也は騒いだ。その様子をじっと見つめながら、真澄は綺麗に折り畳んだレシートを財布に仕舞い込む。
「冷めないうちに食べなよ。僕は別にお腹空いてないから」
「はぁ?お前も食うんだよ」
眉をピクリと動かし、透也が一気に怪訝そうな顔をする。
「だってもう駅見えるし」
コンビニの横を曲がって進めばもう最寄駅だ。電車に乗る真澄と自転車で帰る透也は、ここで別れることになる。どうせなら少しでも長く一緒にいたいし、その分時間かけて一つ食べてくれれば良いのだが、目の前の男はそんな真澄の気持ちなど一ミリも分かっていない。
「ここで食べれば良いだろ。お前がほぼ出したんだから、食う権利は俺よりある」
「まぁ、そりゃそうだけど」
「ほれ」
そう言って透也は半分に割った肉まんを真澄に差し出した。
「……下手くそ」
明らかに差し出された方が大きくて、透也が口元に運ぼうとしている方が小さい。
誰が言い出しっぺで買ったんだっつーの。
「そっちで良いよ」
「お前がほとんど買ったようなもんだから」
「お腹空いてるのどっちだよ」
真澄にそう言われると、透也は二つに割った肉まんをじっと見つめる。
「……好きな方で良いよ」
「う〜ん」
冷める前にその大きい方、食べればいいのに。
悩む必要など微塵もないというのに、遠慮が勝って素直に大きな方を取ることが出来ない。そんな透也が一層可愛く見え、真澄はくすくすと笑った。
「……なんだよ」
「いや、別に。僕、こっちね」
「あ、ちょっ」
全く透也の口に入らないままの小さな方を真澄が奪って口に入れた。
「んだよ、俺の我慢返せ」
「出来ないことはしなくて良いよ。透也って素直じゃないんだから」
「はぁ?ったく、可愛くねぇな」
肉まんはまだ全然熱く、勢いよく齧り付いたことに若干後悔したが、透也が嬉しそうに大きな方を一口頬張ったの見るとそんなことはすぐにどうでも良くなった。
「可愛いなんて思われたくないけど」
真澄の言い返しに透也はジト目を向ける。
「何?」
「別に」
お互い黙ったまま、手に持っている半分の肉まんに齧り付く。
食べ終えたら帰るだけ。きっと来年の新学期まで会えないんだろうな……。
静かな数秒間でそんなことを思い浮かべる。肉まんの味なんて殆ど分からず、ただふわっと温かい湯気が鼻に当たっている気がした。
出来ることなら、この半分この相手も僕だけの物にしたいけど。
そんな事を突然言い出して、困らせたくはない。今年会うのはもしかしたら最後かもしれないのに、逃げるような事を言って別れるのは卑怯だろう。
真澄は最後の一口を口の中に放り込むと、ゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ。透也の方を見ると、とっくに全部平らげて自転車に跨っており、手持ち無沙汰を紛らすように、ハンドルに付いているベルを数回鳴らしていた。
「……満足した?」
「おう。さんきゅーな。これで走れる」
「いや、最初から頑張りなさいって」
くすくすと笑い、真澄が「じゃあね」と先に歩き始める。まだ大して遅い時間でも無いが、もう殆ど空は暗かった。家に帰るのが遅くなると連絡するのを忘れてた真澄がスマホを取り出す。
「真澄」
「ん?」
振り返るとペダルに足を掛けた透也がニヤりと笑った。
「初詣は奢る!」
「何それ。お賽銭は奢っちゃダメでしょ」
「じゃあ、肉まん奢るから!」
透也はケラケラと笑いながらそう答えると、大きく手を振ってから自転車を漕いで真澄とは別の道に消えていった。
それ、初詣まで待てないって言ったらどうするんだよ……。
真澄は来年の目標に、少しでも素直になることを決意して駅へと向かって歩いて行った。
『あけおめ!明日初詣行くぞ、約束通り肉まん奢る』
『あけおめ。じゃあ肉まんは半分こしようよ。お汁粉もついでに奢られてあげるから』
『そうなるとまた割り勘だなぁ……』
『いや、またっておかしくない?』
真澄は文字通りがっくりと肩を落とし、教室へと続く階段を上がった。一段上がるたびに溜息が漏れていく。幸せが逃げるとは言うが、もう全部溢れ出てしまった気がした。
二学期の最終日の大掃除は体育館だったのに、やたらと時間がかかってしまった。部活動の活動場所でもあるここは、基本活動している部活が活動後にきちんとモップ掛けをしているし、時々持ち回りで掃除をしているおかげもあって、割と綺麗だった。だからこそ担当が体育館と決まった時は、内心ラッキーだったとガッツポーズをしたのだが、真澄と同じ班の連中が倉庫からバスケットボールを取り出して遊び始め、時間が掛かりすぎだと様子を見に来た担任に説教を食う羽目めになったのだ。
本当なら二十分程度で終われた筈だった。ただでさえ授業日数が足りないだとかで、午前中は普通授業があったというのに……。
最終的には罰として教室の蛍光灯を取り替える手伝いまで言いつけられ、同じ班員は蛍光灯を替えるだけ替えたらとっと逃げ帰ってしまった。あたりはもう暗くなりかけていて、久々にこんな時刻まで一人で残ったとしみじみ思う。後片付けも殆ど一人で終わらせ、ようやく解放されたのは最終下校時刻間近。生徒達が殆ど居なくなってからだった。作業終了を報告しに職員室へ行くと、担任に苦笑いされた。年の瀬に散々な目に遭ったな、来年はきっと良いことがあるさ、なんて気休めを言われ、真澄は早々に掃除班の班替えを願った。
そんな訳で兎に角、真澄は不機嫌だった。
折角、透也と帰れるチャンスだったのにさ……。
別に約束をしていた訳じゃないが、こういう時でない限り、彼と一緒に下校する事は出来ない。透也は野球部に所属していて、帰宅部の真澄と帰る事は殆どなかった。だからこそ、全部活動の無い終業式の日がチャンスだったのだ。真澄は下唇を噛み、廊下をとぼとぼと歩く。
透也相手にはどうしたって女々しくなってしまう自分が嫌だった。今日だってそうだった。こんなにがっかりするのなら、最初から約束しておけば良かったのだ。真澄は再び大きな溜息を漏らした。
幼い頃は毎日一緒に遊べていたのに、中学、高校と進学するに連れて、部活動中心になる彼とは距離が出来てしまった。寂しくて、恋しくて、しんどくて。勝手に感情を抱いたのは自分なのだ、我慢しなければならない。なにより、頑張る透也の邪魔はしたくなかった。
ひんやりとした空気が人気のない廊下で真澄の頬を掠めた。自然とブレザーの下に着たカーディガンの裾に手を引っ込める。
ただでさえ隣のクラスなのだ。どうせクリスマスも年越しも一緒に過ごせないんだから、今日ぐらい一緒にいる時間をくれたっていいのに。神様って本当に意地悪だよな……。
「あ、どこ行ってたんだよ」
真澄が教室の戸を開けると、透也が下唇を突き出し、真澄の席の上にどっかりと座って待ちくたびれたと大きな声で言った。
「ど、どこって、職員室……。てか何してんの、透也こそ」
もともと大きな真澄の目が、更に大きく開かれる。驚きで心臓はバコバコと太鼓の様な音を鳴らした。
「お前のこと、探してたんだよ」
透也の言葉に、真澄の喉がヒュっと鳴った。
「掃除終わってからずーっと探してたのに見つかんねぇし。帰ったのかと思って下駄箱見たら靴もあって、教室来たら鞄あったからさ。ここに居たら戻るかと思って」
そう言われて赤くなっていきそうな顔を、真澄はさりげなく下へ向ける。夕陽に翳って透也の顔ははっきりと見えないが、相手から自分の顔が丸見えだと思うと急に全身が痺れた気がした。
「遅すぎじゃね?」
「掃除、長引いたんだよ」
「ふぅん、一人で?」
「みんな先帰ったんだよ。押し付けられたのっ」
「あはは、これだからお人好しは」
「……うるさいなぁ」
顔を下げたまま、真澄は自分の席に引っ掛けていたスクール鞄を引ったくるように取った。透也の最後の一言にカチンと来た。だが、半分は待っていてくれたことが嬉しくて、素直に伝えられないだけだった。
「え。荷物、それだけ?」
「うん」
真澄は頷いた。教科書類は基本的に置きっぱなしだったし、冬休み中に使いたい物は既に持ち帰っていた。今日は図書室で借りた参考書と小説を持って帰るぐらいで、大掃除の前に帰り支度は済ませていた。終業式の日に大荷物なのは小学生までだろう。そう思っていたのだが、真澄の目の前で大荷物を抱えている男がいた。
「透也は何をそんなに持って帰る訳?」
冬休みの課題ってそんなにあったっけ?と、不思議そうな顔で真澄は透也の顔を見上げた。透也はというと、スクール鞄とは別に大きなエナメルバッグを抱えている。今日は野球部の朝練は休みだったはず。こんなに大荷物になる筈がないのだ。
すると、透也は苦笑いを浮かべて答えた。
「没収された物が返ってきたんだよ」
「え、没収?」
「そ。漫画とか、ゲームとか。とにかく全部」
ニヤりと笑って、座っていた机の上から飛び降りる。
「まだ授業中にそんなのやってるの……」
「まぁまぁ。返って来たから問題なし」
「そういう事じゃないだろ」
「いいから、いいから。ほら、帰るぞ」
真澄の小言を片手で払うと、透也は鼻歌を歌いながら教室から出て行く。その背中を見ると、さっきまで寒くて引っ込めていた手のひらに、じんわり汗が滲んでいるのが分かり、再び真澄は頬を赤らめた。
あああ、神様。
さっきはごめんなさい、でもこんなの聞いてないよ。それなのに僕はさっきから透也に素っ気ない態度ばっかりで……。
「早くしろよ、置いてくぞー」
なかなか教室から出てこない真澄を見兼ね、出て行ったはずの透也が教室を覗き込んだ。
「あ、うん。今、行く!」
「なぁ、腹減らない?」
カラカラと自転車の車輪の音が二人の間で鳴る中に、透也の腹の虫の鳴き声が混ざった。
「え、今日お弁当食べたんじゃないの?」
終業式前に昼休みはあったし、その後に頭を使う事も身体を使う事も殆ど無かったと、真澄が言うと透也は首を横に振った。
「そんなの朝学校に着いた時に食べ終えたし」
「じゃあ、お昼どうしたのさ」
「購買パン五個で凌いだ」
「うわぁ……」
聞いただで胸焼けしそうな返答に真澄は呆れの声を漏らす。
「仕方ないだろ、チャリ通って結構体力使うんだから」
「知ってるよ。だから僕は電車通学してるんじゃん」
今日ぐらい電車でくれば良いのに。そう言うと透也はギリギリまで寝ていたかったと答えて、更に真澄は呆れた声を漏らす。入学当初、自転車で一緒に行こうと誘われた事があったが、三駅分の距離を考えるだけで真澄は身体が重くなったのを覚えている。朝からその距離を走って来る事を考えると、教室に着いて早々に弁当に手が伸びてしまうのは納得できた。
しかし、今の問題はそこではない。真澄と透也の通う学校は住宅街の中に建っているため、飲食店は駅近くへ向かわないと現れないのだ。
「この辺食べるとこなんてないよ。駅まで来るの?」
「それじゃ遠回りだからなぁ」
「じゃあ、家まで我慢するしかないよ」
「真澄、今いくらある?」
「は?」
透也が足を止め、顎で先に見えるコンビニを指した。
「肉まん食いたくね?」
良いもの見つけた、と言わんばかりに目をキラキラと輝かせ、真澄に反論する隙を与えない。
「……お金、ないんじゃないの?」
自分に幾らあるか確認をしたのだ、きっとそうに違いない。真澄が怪訝そうな顔をすると、やはり図星だった様で透也は苦笑いを浮かべた。
「半分こ、な?」
器用に肘でハンドルを押さえ、透也は両手を合わせた。その瞬間、真澄の胸が一瞬できゅうっとなった。
「……ったく、仕方ないなぁ」
呆れた口調でそう答えたが、真澄の足取りが断然速くなる。
ああ、もう。そうやって、毎回僕がすぐ折れるの分かっててやるの狡いんだから……。
真澄がむすっとした顔をすると、それを見て透也が笑った。
コンビニのレジに並んだ際、横目で見えた透也の財布に入っていたのはほんの数十円。今日の購買で今月分の小遣いは遣い切ってしまったようだった。
「良いよ、僕出すから」
もともとそのつもりだったし。
真澄が鞄から取り出した財布から小銭を取り出していると、透也がムッとした顔を見せた。
「いや、半分出す」
頑なに全額奢られる事を拒んだ透也は、無理矢理真澄の手のひらに六十円を握らせる。
「……半分って。全然足りないんだけど?」
「細かい事は良いだろ」
「はいはい」
この、格好付けめ。
真澄は上がりかける口角を、どうにか抑えながら店員に「肉まん一つください」と伝えた。
「あったかーっ!」
嬉しそうに肉まんを持ち、さっきよりも明らかに上機嫌で透也は騒いだ。その様子をじっと見つめながら、真澄は綺麗に折り畳んだレシートを財布に仕舞い込む。
「冷めないうちに食べなよ。僕は別にお腹空いてないから」
「はぁ?お前も食うんだよ」
眉をピクリと動かし、透也が一気に怪訝そうな顔をする。
「だってもう駅見えるし」
コンビニの横を曲がって進めばもう最寄駅だ。電車に乗る真澄と自転車で帰る透也は、ここで別れることになる。どうせなら少しでも長く一緒にいたいし、その分時間かけて一つ食べてくれれば良いのだが、目の前の男はそんな真澄の気持ちなど一ミリも分かっていない。
「ここで食べれば良いだろ。お前がほぼ出したんだから、食う権利は俺よりある」
「まぁ、そりゃそうだけど」
「ほれ」
そう言って透也は半分に割った肉まんを真澄に差し出した。
「……下手くそ」
明らかに差し出された方が大きくて、透也が口元に運ぼうとしている方が小さい。
誰が言い出しっぺで買ったんだっつーの。
「そっちで良いよ」
「お前がほとんど買ったようなもんだから」
「お腹空いてるのどっちだよ」
真澄にそう言われると、透也は二つに割った肉まんをじっと見つめる。
「……好きな方で良いよ」
「う〜ん」
冷める前にその大きい方、食べればいいのに。
悩む必要など微塵もないというのに、遠慮が勝って素直に大きな方を取ることが出来ない。そんな透也が一層可愛く見え、真澄はくすくすと笑った。
「……なんだよ」
「いや、別に。僕、こっちね」
「あ、ちょっ」
全く透也の口に入らないままの小さな方を真澄が奪って口に入れた。
「んだよ、俺の我慢返せ」
「出来ないことはしなくて良いよ。透也って素直じゃないんだから」
「はぁ?ったく、可愛くねぇな」
肉まんはまだ全然熱く、勢いよく齧り付いたことに若干後悔したが、透也が嬉しそうに大きな方を一口頬張ったの見るとそんなことはすぐにどうでも良くなった。
「可愛いなんて思われたくないけど」
真澄の言い返しに透也はジト目を向ける。
「何?」
「別に」
お互い黙ったまま、手に持っている半分の肉まんに齧り付く。
食べ終えたら帰るだけ。きっと来年の新学期まで会えないんだろうな……。
静かな数秒間でそんなことを思い浮かべる。肉まんの味なんて殆ど分からず、ただふわっと温かい湯気が鼻に当たっている気がした。
出来ることなら、この半分この相手も僕だけの物にしたいけど。
そんな事を突然言い出して、困らせたくはない。今年会うのはもしかしたら最後かもしれないのに、逃げるような事を言って別れるのは卑怯だろう。
真澄は最後の一口を口の中に放り込むと、ゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ。透也の方を見ると、とっくに全部平らげて自転車に跨っており、手持ち無沙汰を紛らすように、ハンドルに付いているベルを数回鳴らしていた。
「……満足した?」
「おう。さんきゅーな。これで走れる」
「いや、最初から頑張りなさいって」
くすくすと笑い、真澄が「じゃあね」と先に歩き始める。まだ大して遅い時間でも無いが、もう殆ど空は暗かった。家に帰るのが遅くなると連絡するのを忘れてた真澄がスマホを取り出す。
「真澄」
「ん?」
振り返るとペダルに足を掛けた透也がニヤりと笑った。
「初詣は奢る!」
「何それ。お賽銭は奢っちゃダメでしょ」
「じゃあ、肉まん奢るから!」
透也はケラケラと笑いながらそう答えると、大きく手を振ってから自転車を漕いで真澄とは別の道に消えていった。
それ、初詣まで待てないって言ったらどうするんだよ……。
真澄は来年の目標に、少しでも素直になることを決意して駅へと向かって歩いて行った。
『あけおめ!明日初詣行くぞ、約束通り肉まん奢る』
『あけおめ。じゃあ肉まんは半分こしようよ。お汁粉もついでに奢られてあげるから』
『そうなるとまた割り勘だなぁ……』
『いや、またっておかしくない?』