「いやーこれさ、私の独り言なんだけど」
いや、どう考えても独り言じゃないだろ。
すごい声デカいし、なんならわざと聞こえるように言ってきている気がしてならない。僕はちらりと、声の主を盗み見た。
薄茶色の髪に、綺麗に巻かれた髪。爪に派手なネイルをつけて、スカートはいつでも膝上二センチが命の、この田舎には不釣り合いに見えるほどの洗練されたギャル。二年の鶴ケ谷杏奈先輩だ。
先輩はこちらを全く見ないで空を見つめている。僕の返答がないにも関わらず、彼女は話を続けた。
「私が毎日話しかけても、返事も返してくれない男子がいるのね。私初めて会った時、ちゃんと自己紹介もしてるし。って言うことは不審者的なポジだから、返事をしないってわけではないと思うの。だって知り合いだし。特別変なこともしてないし、毎日欠かさず挨拶だってしてるのに。ねえ、何が原因だと思う?」
どうして疑問形なんだ。僕は問いたい。 大体、最初に自分でこれは独り言って言ってたよな?えっもしかしてこの会話僕の妄想だったりしないだろうか。
頬を引っ張ってみても、ただ痛くてヒリヒリするだけだった。
「だいたいさ、人のこと無視するのって酷くない?これでもかってくらいアピールしてるのに、目も合わせてくれないんだよ?」
確かにそれは、酷い。でも、そこまで相手にしないのは何か理由があるんじゃないだろうか。考えるふりをして僕は首を傾げた。
「まあ、いいんだけど。私が一方的に話してるだけでも」
いいのかよ。それなら最初から質問しないでほしい。
「あ、鐘がなったそろそろ行かなきゃ、じゃまたね」
学校の鐘が鳴った途端、話を切り上げて自分のクラスに戻ってしまう。僕のことなんてお構いなしだ。本当に自由な人だと少し呆れる。でも、この時間を自分自身が好きになっていることを僕はもう知っていた。
***
鶴ヶ谷杏奈先輩と初めて会った日は土砂降りの大雨だった。
「げ、傘忘れてきた」
靴箱から出て、リュックの中を漁りながらつぶやく。その声もすぐに雨音にかき消されてしまった。折り畳み傘をリュックに入れてきたと思っていたが、思い違いだったようだ。今朝は寝坊をして大慌てで家を飛び出してきたからこの結果には納得だけど。きっと玄関にでも置いてきたに違いない。
このまま駅まで走るしかないか。リュックを傘代わりにすれば、なんとか顔くらいは守れるだろう。制服はびしょ濡れになるだろうけど。あの肌にまとわりつくような感覚嫌いなんだよな。
どんよりとした空気に、冷たい大粒の雨。加えて傘を忘れてきたという自己嫌悪が重なり、気分は落ちていた。
「どうしたの君?」
暗い雰囲気を全く感じさせない、明るくて俺よりも高い声。僕に話しかけてきたのは、髪の毛が明るい女子生徒だった。
「え?」
「だから、どうしたのって。落ち込んでる顔していたから」
そうか、この女子生徒は僕が落ち込んでいると思い、心配して声をかけてくれたのか。見ず知らずに人に落ち込んでいる顔を見られたのかと思うと少し恥ずかしい。
「傘を忘れちゃって。このまま走って駅まで行かないといけないと思うと気が重くて、落ち込んでた」
「あ、そうなの?じゃあ私傘持ってるし、一緒に駅まで行こうよ」
「それは悪いよ。それに僕を傘に入れたら、君も濡れちゃうかもしれない」
「大丈夫!こう見えて私体強いし、ちょっとくらい濡れても平気!」
「でも、見ず知らずの人にそこまでしてもらうわけには」
「? じゃあ、知り合いになれば問題ないね! 私は2年の鶴ケ谷杏奈。これ以上雨が強くならないうちにとっとと帰ろう!」
「え、先輩!?」
しまった、先輩にタメ口を使ってしまった。うちの高校は在籍している生徒が多い、いわゆるマンモス高。ゆえに顔も知らない同級生が結構いる。一年生の時期ならなおさらだ。
だから僕に話しかけてきてくれた女子生徒がまさか先輩だとは思わなかった。知らない同級生が話しかけてきたくらいに思っていた。知らなかったとはいえ、先輩は先輩だ。
困惑している僕の右手を鶴ヶ谷先輩がつかむ。
「ほらほら、帰ろう!」
「引っ張らないでください!」
「君がおとなしく一緒に駅まで行ってくれるなら、この手は離すよ」
にやりと鶴ヶ谷先輩は微笑んでいる。その選択はずるい。それにここで手を振り払っているところを誰かに見られたら、あらぬ噂を立てられてしまうかもしれない。だからこれは仕方がないのだ。
「わかりました、傘に一緒に入れてください」
「素直でよろしい」
鶴ヶ谷先輩の勢いに押されるようにして一緒の傘に入り、駅までの道を歩く。
「いやーしかし、すっごい雨だね」
「そうですね、天気予報では小雨だったはずなんですが」
「ね。てか君、敬語になってる。別にタメでもいいよ」
「それは、先輩には敬語を使わないといけないですから」
「わー真面目!」
「からかわないでください」
「ごめんごめん」
「あと、僕の名前は君じゃなくて秋田祐介です」
「わかった、秋田くんね。じゃあ、私のことは杏奈先輩って呼んでよ」
「どうして僕だけ下の名前で呼ばなきゃいけないんですか」
「だって、鶴ヶ谷だと長いし、少しいかついじゃん。杏奈なら短いし、かわいいからちょうどいいかなって」
「自分の名前をかわいいって言う人に初めて会いました」
「私が秋田くんのハジメテを奪っちゃったってこと!? なんかごめん」
「誤解を招くような言い方はやめてください」
見た目に違わず明るい人だ。よく見てみればスカートも短い。心臓が少し跳ねる。
今日は大雨で、家に傘を忘れて気分は最悪だった。けれど、いつの間にか雨の音が聞こえなくなって、先輩との会話が楽しくて、駅に着くまでの時間がとても短く感じた。先輩と仲良くなるまで時間は長くかからなかった。
***
「なんかつまんなーい」
突然やってきたかと思えば、鶴ヶ谷先輩はそんな風にぼやきだした。今日は何なんだ。
「毎日こんなに話しかけてるのに、全然相手にしてくれないんだよ。どうしてだと思う、秋田くん」
また例の話しかけても無視されている話か。
ごめんなさい、原因はわからないので本人に聞いてみてはいかがでしょうか。
「暇さえあれば、ずっと話しかけているんだよもう一ヶ月も経つのに!」
それは気の毒だ。だが一ヶ月も無視されているのに、話しかける先輩もすごい。僕なら一週間くらいで諦めてしまいそうだ。
「もう、話しかける時の話題も尽きてきちゃってさ、最近はお日柄もよくーとか、花が綺麗に咲いてるねとか、おばあちゃんみたいな話しかけ方してる」
吹き出しそうになって慌てて口を押さえる。駄目だ、堪えろ。おばあちゃんになった先輩が言っているのを少し想像してしまった。
急におもしろ要素をぶっ込んでくるのはやめてほしい。
「せめて目くらいは合わせてほしいのにね」
そうですね、もしかしたらおもしろ路線で攻めたら少しは興味を持って耳を傾けてくれるかもしれませんよ。
「あ、もう時間だ。またね」
また僕の返事も待たず先輩は行ってしまった。
***
屋上で昼ごはんを食べる。袋から取り出したのは母が朝から作ってくれた弁当だ。たまに購買で買って食べる日もあるけど、なんだかんだで親の手料理が一番うまい。
中でもこのミートボールが好きと言ったら、それは冷凍食品ですと言われて頭をこづかれた。
今日は空に雲ひとつない晴天だ。季節は秋なのに珍しい。外で食べるにはぴったりの天気である。
「あー美味しそうなお弁当食べてる」
そうでしょう、そうでしょう。
「一口ほしいな」
あげません、僕のなんで。
そのまま弁当を食べ進める。鶴ヶ谷先輩の様子を伺うと、唇を尖らせながら不貞腐れていた。
「秋田くんのケチ」
そのまま地べたに寝転がる。制服が汚れるのもお構いなしだ。さすが自由人。
「風が気持ちー」
先輩はそういうと、グッと背伸びをした。
「今日もね、話しかけたんだよ。でもいつも通りのフル無視。酷いよね!」
この話は一体何回目なんだろう。きっと両手だけでは足りないはずだ。
「面白い話もね、してみたんだよ。うちの学校の教頭先生がズラを被ってるって話は、大体の生徒が知ってるでしょ?でも、実は校長先生もなの。この前偶然見ちゃって。この話をしたら眉毛がピクって動いていたんだけどそれだけでさ。前はもっといい反応してくれたんだけど。やっぱり不意打ちじゃないと駄目なのかあ」
悔しそうに言う。このネタには相当自信があったようだ。確かにおもしろい。普通の生徒が聞いたら思わず吹き出してしまうだろうな。
「少しでもいいから、話したかったな。せめて目を合わせるくらいはして欲しかったかも。今日が最後だから」
「え」
鶴ヶ谷先輩が急につぶやいた。今までのはつらつとした声とは裏腹な、静かな声。まるで嵐の前の静けさだ。
「あ、やっと見てくれた」
「……!」
「もう目を逸らしても遅いよ」
聞こえない、見えない。
僕は顔を背け続けた。するとため息をつく音が聞こえた。
「全く、秋田くんは世話がやけるな」
次の瞬間押し倒された。予想もしてなかった動きだ。いや、今まで先輩が僕の予想の範疇にとどまっていただろうか。そんなことはなかった。いつでも、先輩には驚かされるばかりだ。
「ちゃんとこっちを見なさいよ」
両手で顔を包まれて、無理やり鶴ヶ谷先輩の方に顔を挙げられた。ネイルが頬に刺さって少し痛い。
久しぶりに目があった。最近は横顔を見つめるばかりだったから。
「久しぶりに目があったね」
先輩も同じことを考えていたようだ。
「そうですね」
「ずっと、無視していた理由を聞いてもいい?」
理由?理由か。そんなの先輩が一番よくわかっているでしょう。意地悪だ。
僕が先輩を無視していた理由。それは現実を見たくなかったから。事実を見て受け入れてしまったら、この時間がなくなってしまうと感じたから。
だって、こんな状況ありえない。でも今先輩はこの場に間違いなくいる。
たとえ僕以外には姿が見えなかったとしても。
鶴ヶ谷先輩の背中には、真っ白な羽が生えている。
「先輩が、いなくなるんじゃないかって思ったんですよ」
「面白いこと言うね」
「急に背中に羽を生やした先輩が来たのが悪いです。どうしてかわからないですけど、僕にしか見えないみたいですし」
「確かにそうかも」
先輩は悪びれもせずに言った。
「先輩は今、病院のベッドの上にいるはずでしょう」
鶴ヶ谷先輩が交通事故にあったと知ったのは、学校から駅までの道を歩いていた時だった。
田舎には見合わないようなたくさんの人が交差点に群がっていた。大きな声で叫んでいる人、どこかへ走っていく人、立って見守っている人。
僕はそんな場面に今まで遭遇したことがなかった。人だかりの中で何が起こっているのか理解することができず、駅にいくために道を通り抜けようとする。
『女の子が轢かれたんだ!早く救急車を呼んでこい、見てる奴らそこで突っ立てるくらいならこっちに来て助けるのを手伝え!』
そう、誰かが叫んだ。
女の子が轢かれた?もしかしたらうちの学校の誰かかもしれない。変な胸騒ぎがした。
人だかりの隙間をかい潜って何とか様子を確認しようとした。
別に確認するだけ。この変な焦りを抑えるためには必要なこと。
それに知り合いだろうがなかろうが、さっき叫んでいた人と救急車が到着するまで救命活動をすればいい。
やっと事故の様子が確認できた時、僕の予感が的中していたことがわかった。
地面に力無く倒れ、救命措置を受けていたのは鶴ヶ谷先輩だった。
目撃者によると先輩は子どもを助けようとして車に轢かれたらしい。
その後やってきた救急車で病院に運ばれた。車と接触した時にかなりの衝撃を体が受けたようで、緊急治療室に運ばれていった。容体が回復し一般病棟に移ってからも、油断は許されない状態が続いた。
あの事故から一ヶ月半以上が過ぎている。けれど先輩が意識を取り戻すことは未だない。
「うん、間違いないね。本体は病院のベッドの上だ」
「反応、軽すぎです」
「重苦しく話しても、楽しくないじゃん」
「なんで僕のところに来たんです。羽まで生やして」
「あーこれね、なんか気づいたら生えてた。かわいいよね、天使の羽って感じで」
「質問に答えてください」
「ちぇ、見逃してはくれないか」
体から生やした羽を器用にパタパタさせる。それ動かせるんだ。
「気がついたら、かな」
「気がついたら?」
「うん、車に轢かれて目が覚めたらこの格好になってた。目の前にはベッドの上で寝ている私がいるし、親はやつれた顔で付き添っててくれてて。申し訳なくなっちゃってさ。もうどーしようって思ってたら学校に来てた。で、なんとなく暇だったし秋田くんのところでペラペラ話してたわけ」
「……」
「ま、聞こえるわけもなくてさ。何てったって私天使になってるみたいだし。でもちょっとくらい聞こえてたらいいのになーって思ってた」
だから、と先輩は続ける。
「びっくりしたんだよ?秋田くんが私の話に反応したの。初めは偶然かと疑っちゃったくらい」
「それは僕のセリフです」
「あはは!確かにそうだね。ほっぺたとかつねったりしてたし。あの時先生変な目で秋田くんのこと見てたよ」
「授業中にやってくる先輩が悪いです」
「えーしょうがないじゃん。その時間しか話に来れないんだし」
「配慮をお願いしたかったです」
「でも、授業寝ずにすんだでしょ」
「確かにそうかもしれないですけど」
「あと、校長先生のかつらの話も面白かったでしょ」
「はい。あの時突然吹き出しそうになった僕をクラスメイトが心配してくれましたよ」
「そりゃ傑作だ」
「本当に」
この時間がずっと続いてほしい。先輩とのいつも通りの会話。久しぶりだ。
「でも、それも今日でおしまい」
先輩が本を閉じる仕草をする。
「……どういうことですか」
「言葉の通りだよ」
「僕には、わかりません」
「秋田くんも、なんとなくわかっているでしょ。だから私のことを見えないふりをしたって言ってたじゃん」
「そんなこと、言ってないです」
「言ってたよ」
「聞き間違いです」
「もう、往生際が悪いな」
そうだ、僕は諦めが悪い。
気づいていた。毎日同じ時間に現れて話をしていく先輩。授業中なんて関係ない。何度困らされたことか。
けれど、その時間が少しずつ減っていった。三分、五分、十分。
そして今日は現れなかった。
授業中に現れるなんてことしないでほしい。そう思っていたはずなのに、いざその時が来ると焦って何も手につかなかった。
だから、屋上に来たんだ。先輩に会えるかもしれないと、かすかな希望を込めて。
だって先輩には真っ白な羽が生えている。天使は空からやってくるんだろう?そんな根拠のない言い伝えに、馬鹿みたいに縋った。
今日は先輩が事故に遭ってからちょうど、49日目だ。
「信じるわけないですよ」
あなたが、この世界からいなくなるなんて。
この日々がなくなってしまうなんて。
ずっと、ずっと馬鹿みたいな話をして笑って。そんな毎日を積み重ねていきたいのに。
「事実は受け入れないといけないよ」
「僕は嫌です」
「子どもか」
「16歳なんて、世間から見たらまだまだ子どもです」
「屁理屈言わないの」
そう言って先輩は僕の頭を撫でてきた。
「もう本当に時間がない」
先輩の手が小さく震えている。よく見れば指先が消えかかっていた。
「だから最後に一つだけ」
先輩が僕の膝の上に乗り、肩に腕を絡ませた。ゆっくりと影が一つになり、体が重なり、唇が重なった。
けれど、暖かさは感じなかった。ただそこにあるだけの無機質な感覚。
「……そんなに見ないでよ」
「急に、そんな」
「初キスだった?」
「……はい」
「きゃー!また秋田くんのハジメテを奪っちゃた」
口調はいつもと変わらない。でも、その目からは涙が流れていた。
「今日こうして秋田くんにさわれたのは神様がくれた奇跡なのかもしれないね」
そう言って照れたように笑った。
「じゃあね、バイバイ」
体の端から消えていく。きらきらとひかる星の粉が空に向かう。
待ってよ、まだ時間が欲しい。
どうしてキスなんかしたんだよ。
どうして。
先輩が言ったように神様がいるのなら、どうかもう少しだけ時間をください。
僕はどうなってもいい。鶴ヶ谷先輩を助けてください。
キスの理由を聞くことも、今までのありがとうも、先輩のことが好きだって気持ちも。
まだ、何も伝えられていないのに。
先輩の体が消えないようい足掻いた。けれど、最後のかけらが目の前で溶けるように消えてしまう。
「どうしてだよ」
コンクリートの上に、ぼたぼたと水滴が落ちた。視界が歪む。世界の輪郭が歪んで、こぼれ落ちていく。
今日は秋にしては珍しい快晴で。
でも、僕の気持ちはぐちゃぐちゃで。
まるで鶴ヶ谷先輩と出会った土砂降りの日の天気みたいだ。
あなたはもうここにはいないのに、世界はありえないくらいに平和だ。