週末から続いた佐藤の監視任務で、奈央の心は限界に近づいていた。親友の一挙手一投足を記録し、桑田に報告する。その行為自体が、彼女の心を深く傷つけていく。
金曜日の放課後、いつものように美術室に呼び出された奈央は、机に並べられた写真を凝視していた。佐藤と中村が図書室で話し込む姿、昼休みに二人で購買に向かう後ろ姿、下校時に校門で別れる様子―。全て、奈央自身が撮影した写真だった。
「よくやりましたね。さすがは生徒会長、こんな細かいところまで記録するなんて」
桑田は写真を一枚ずつゆっくりとめくりながら、意味ありげな笑みを浮かべる。夕暮れの光が美術室に差し込み、その表情をより不気味に際立たせていた。
「先生...なぜこんなことを...」
奈央の声は疲れ切っていた。もう限界だった。親友を裏切り続ける苦しみ、秘密を握られる恐怖、そして自分の想いに正直になれない歯がゆさ。全てが彼女を追い詰めていた。
「高橋さん、あなたは演技について考えたことがありますか?」
「...演技、ですか?」
桑田の声には、普段の冷徹さとは違う、何か熱を帯びたものが混じっていた。
「前任校で、私は興味深い出来事を目にしました。優等生として知られる生徒が、実は裏で非行に走っていた。スポーツマンとして人気の生徒が、実は勉強に躍起になっていた。見かけと実態が、まるで正反対...」
桑田の声には、どこか陶酔的なものが混じっていた。
「しかし、彼らの仮面を剥がした時、素晴らしい変化が起きたんです。優等生は非行から解放され、本当にやりたかった音楽の道に進んだ。スポーツマンは無理な部活を辞め、本来の夢だった医学部に合格した。仮面を外すことで、彼らは本当の自分を取り戻せたんです」
桑田は机の上の写真を手に取り、意味ありげに微笑んだ。
「演技を続ければ続けるほど、本当の自分が見えなくなっていく。その苦しみから解放されること、それこそが仮面を剥がす意味なのです。あなたにも、その自由を味わってほしい」
その言葉には確信めいたものがあったが、その底に潜む歪んだ支配欲を、奈央は見逃さなかった。
奈央は息を飲んだ。桑田の言葉が、彼女自身の状況と重なって聞こえる。
「あなたもそうでしょう?完璧な生徒会長を演じ、親友想いの親友を演じる...でも、どれが本当のあなたなのか、もう分からなくなっているのでは?」
桑田の言葉には、どこか陶酔的なものが混じっていた。
「あなたには完璧な演技の中に潜む、本当の自分を見せてほしいのです」
校庭からは部活動を終えた生徒たちの声が聞こえ始めていた。下校時間が近づいている。
「さて、文化祭の準備も佳境ですね。実行委員長として、まだまだ忙しい日々が続きそうですね...」
次の日から、文化祭の準備は本格化していった。実行委員長として、奈央は休む間もなく働き続けた。各クラスの企画確認、予算管理、スケジュール調整...。その合間に、桑田からの要求もこなさなければならない。徹夜で描く創作活動も、細々と続けていた。
体育館でステージの設営を指揮する奈央の耳に、佐藤の声が届く。
「奈央、この装飾、どう思う?」
振り返ると、親友が手作りの花飾りを持って立っていた。その横顔が夕日に照らされ、一瞬奈央の心が揺れる。
「環奈...」
「あ、それとね...」
佐藤の表情が、少し赤みを帯びる。
「中村君のこと...私、好きになっちゃったみたい」
その言葉が、鈍い痛みとなって奈央の胸を貫く。予期していた展開。分かっていたはずなのに、実際に聞くと、これほどまでに苦しいものなのか。
「へえ...良かったじゃん」
精一杯の笑顔を作る。完璧な親友を演じる。桑田の言う「演技」を。でも、この気持ちは演技なのだろうか。環奈の幸せを願う気持ちは、本当に嘘なのだろうか。
「どう思う?私...告白しようかな」
「環奈が幸せになれるなら...」
言葉の続きが出てこない。奈央は黙々と手元の作業に没頭した。環奈の告白を想像するたび、胸が千々に乱れる。それでも、文化祭の準備は着々と進んでいく。時計の針は、容赦なく動き続ける。

文化祭まであと三日。深夜零時を過ぎた自室で、奈央は原稿用紙を前に途方に暮れていた。デスクライトの明かりだけが、静まり返った部屋を照らしている。ペンを握る手が小刻みに震え、描きかけの線がぶれる。消しゴムで何度も修正を重ねた箇所は、紙が擦り切れそうなほど薄くなっていた。
机の隅には、作業を中断した原稿が積み重ねられている。表紙用のカラーイラストは塗り残しのまま。本編は五ページで止まったまま。次の即売会まで、もう時間がない。
「どうして...全然描けない...」
奈央は疲れた目を擦った。かつては自然に湧き出てきたアイデアが、今は頭の中で混沌と渦を巻くばかり。女の子同士の初々しい恋、秘められた想い、淡い憧れ―そんな物語を紡ぎ出すことが、こんなにも難しくなっていた。
スマートフォンが震える。画面には環奈からの既読がつかないままのメッセージが連なっていた。
『奈央、最近本当に様子がおかしいよ?』
『顔色も悪いし、授業中もボーッとしてるし』
『何かあったの?話してくれてもいいんだよ?』
環奈のアイコン写真が、心配そうな表情で奈央を見つめている。親友の優しさが、今の自分には重荷になっていた。返信の言葉が見つからず、奈央はスマートフォンを伏せた。
鏡に映る自分の顔には、濃いクマが刻まれている。化粧で隠しても、もう限界が見えていた。机の上の原稿用紙には、インクの染みが広がっている。描けない。描きたい物語が、自分の中で凍りついたように動かない。

翌日。放課後の美術室に呼び出された奈央を、桑田は冷ややかな視線で迎えた。
桑田は机の上に、奈央の描きかけの原稿を広げた。いつの間に持ち去ったのか、生徒会室の机の引き出しに隠してあったはずの下書きだ。
「創作の方も調子が良くないようですが」
「なぜ...私の原稿を...」
「気になったものですから。生徒会長の『隠された才能』がね」
桑田の口調には、明らかな皮肉が含まれていた。窓からは部活動を終えた生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。その日常的な音が、この空間の異常さを際立たせていた。
「最近の作品、質が落ちていますよ。描けない?それはそうでしょう。演技に疲れ切っているんですから」
桑田の言葉に、奈央は答えることができなかった。その夜も、そしてその次の夜も、桑田の監視は続いた。行動の記録、創作活動の妨害、そして親友の監視―プレッシャーは日に日に強くなっていく。
美術室に差し込む夕陽が、いつもより赤く見えた。桑田は窓際に立ち、校庭で部活動を終えた生徒たちが下校する様子を眺めていた。その姿は逆光に浮かび、まるで影絵のように見える。
奈央は机の前の椅子に座ったまま、わずかに震える手を制しようと必死だった。これまでの数週間、彼女は桑田の要求に従い続けてきた。乱された制服、わざと間違える授業の答え、そして最も辛かった環奈の監視。それらの「指示」の一つ一つが、彼女の心を少しずつ蝕んでいった。
「さて、高橋さん」
桑田は窓から離れ、ゆっくりと奈央の方へ歩み寄ってきた。靴音が、静まり返った美術室に不吉な響きを立てる。
「次は、面白い提案があるんです」
その声に、奈央は思わず身震いした。これまでの「提案」の数々が、走馬灯のように頭をよぎる。長すぎるスカート、不揃いの靴下、歪んだリボン。授業での故意の間違い。そして、親友を監視するという耐え難い任務。
「もう...やめてください」
震える声だったが、どこか芯の強さが感じられた。自分でも意外なほど、はっきりとした口調で言葉が出た。桑田は意外そうな表情で立ち止まる。
「やめる?」
桑田は小さく笑った。その表情には、明らかな愉悦が混じっていた。
「そうはいきませんよ。あなたの秘密は、まだ私の手の中にあるんですから」
そう言うと机の上に、奈央が描いた同人誌が広げられた。
「でも、これ以上は...」
言葉の続きが出ない。喉が乾いている。
「環奈さんのことを考えれば、従うしかないでしょう?あの子との関係を壊したくないなら」
その言葉に、奈央の中で何かが弾けた。これまで積み重なってきた恐怖、不安、そして怒り―それらが一気に溢れ出す。
「環奈のことを...これ以上利用しないでください」
声が美術室に響き渡る。石膏像たちが、無言の証人として見守っている。桑田の目が見開かれた。今までの従順な生徒会長からは想像もつかない反抗的な態度に、一瞬、言葉を失う。
しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべた。その表情には、むしろ期待のようなものさえ浮かんでいた。
「ほう...反抗するんですか?面白い」
桑田はゆっくりと机の端に腰かけ、奈央を見下ろすような姿勢を取る。
「確かに、環奈さんのことは使い過ぎましたかね。あの子への想いが、あなたを追い詰め過ぎてしまった」
意地の悪い笑みを浮かべながら、桑田は続ける。
「そうですね。環奈さんのことは一旦置いておきましょう」
その言葉に、奈央の心がほんの僅かに緩む。しかし、それは束の間の安堵に過ぎなかった。
「代わりに...文化祭の準備に手を入れてみませんか?」
桑田の目が不気味な光を帯びる。
「せっかく実行委員長を務めているのですから。あなたの指示一つで、様々なことができるはずです」
奈央の表情が強張る。文化祭―全校生徒が心血を注いで準備している行事。各クラスの企画、部活動の出し物、そして生徒会が中心となって準備してきたステージイベント。すべての生徒の想いが詰まった大切な行事。
「それは...」
声が掠れる。喉の奥が痛い。
「簡単なことです」
桑田は机の上の文化祭企画書を手に取り、ゆっくりとページをめくる。
「予算の配分を少し操作する。重要な備品の発注を遅らせる。些細なミスを重ねていく」
ページをめくる音が、異様に大きく響く。
「そうすれば、文化祭は必ず混乱する。実行委員長としてのあなたの評価も地に落ちる」
桑田の口調は、まるで毒を滴らせるように冷たい。
「そんなこと...できません」
奈央は机の端を強く握りしめた。手のひらに爪が食い込む。痛みで、現実感を取り戻そうとするように。
「できない?」
桑田は文化祭企画書を閉じ、奈央の同人誌の上に重ねた。
「環奈さんのこと、皆に知られても構わないんですか?あなたの秘密が明るみに出ても?」
それは脅しとも取れる言葉だった。
「あなたには仮面が剥がれていくのが必要なんです」
その瞬間、奈央は桑田の目に、異様な輝きを見た。それは単なる支配欲や悪意ではない。
「分かりました...」
諦めたような声。桑田は満足げに微笑む。
「ただし...」
奈央は顔を上げた。その目には、まだ小さな反抗の火が燃えていた。汗で濡れた前髪の陰から、真っ直ぐな眼差しを向ける。
「文化祭に関することは、最小限に...お願いします」
その言葉には、これまでにない強さが込められていた。生徒会長として、全校生徒の思いを背負う者としての、揺るぎない意志。
桑田はしばらく奈央を見つめ、やがて小さく頷いた。
「まあ、いいでしょう。焦る必要はありません」
美術室を後にする桑田の足音が、廊下に響いていく。その音が遠ざかってようやく、奈央は崩れるように椅子に座り込んだ。
夕暮れの光が、彼女の震える肩を赤く染めていく。自分の中の何かが、確実に壊れていく音が聞こえる。机の上には文化祭企画書と同人誌が重ねられたまま。二つの「本当の自分」を象徴するような、その光景を前に、奈央は深いため息をつく。
全校生徒の思いが詰まった文化祭だけは、何としても守りたかった。それは生徒会長としての責任であり、同時に、奈央自身の誇りでもあった。たとえ自分が傷つこうとも、他の生徒たちの笑顔は守り抜かなければならない。
そう心に誓いながら、奈央はゆっくりと立ち上がった。窓の外では、夕焼け空が刻一刻と色を変えている。明日という日は、また新たな試練を持ってやって来るのだろう。しかし今の彼女には、かすかながらも、自分を貫く強さが芽生え始めていた。

文化祭当日の朝。体育館には、既に全校生徒が集まっていた。開会式を前に、ざわめきが渦巻いている。壇上には、朝日を浴びて輝く緞帳が垂れ下がっている。
奈央は生徒会長として、例年通り開会の挨拶をするはずだった。原稿用紙には、文化祭への感謝と抱負が記されている。いつもの、完璧な言葉たち。
控え室の隅で、奈央は原稿を見つめていた。いままででの出来事が、走馬灯のように駆け巡る。桑田の言葉、環奈の心配そうな眼差し、そして自分の中の様々な想い。
アナウンスが響く。開会式開始の合図。
壇上に立つ。まぶしい照明。階段状の座席には、数百の視線が注がれている。その中に、環奈の姿も見える。桑田は控え室の入り口に立ち、冷ややかな目で見守っている。
マイクを握る手が震える。原稿を広げようとして、奈央は不意に立ち止まった。
(このままでいいの?)
心の中で、小さな声が問いかける。
しかし、その震えは以前とは違っていた。恐れからではなく、これから話そうとすることへの、高まる確信のような震えだった。
「みなさん、おはようございます」
一瞬の静寂。奈央は深く息を吐き、ゆっくりと体育館を見渡した。数百の視線。その中には、いつも自分を支えてくれる仲間たち、信頼してくれる後輩たち、そして...環奈の姿もあった。
「今日から始まる文化祭は、私たち全員で作り上げる大切な行事です。この二か月間、各クラスや部活が一生懸命準備を重ねてきました」
いつもの、生徒会長らしい出だし。でも、今日は違う。奈央は原稿から目を離し、自分の言葉で語り始めた。
「でも、準備を進める中で、私は大切なことに気づきました」
声が少し震える。それでも、一歩一歩、確かな想いを紡いでいく。
「生徒会長として、私はいつも完璧を求めてきました。皆の期待に応えようと、理想的な生徒会長像を演じることに必死でした」
静かな告白に、体育館がざわめく。環奈が身を乗り出す。
「完璧な生徒会長として、模範的な優等生として、誰もが期待する役割を演じ続けてきました。毎朝七時に登校して、真っ先に生徒会の仕事に取り掛かる。授業中は必ず的確な発言をする。部活動の予算配分も、行事の準備も、すべて完璧にこなす—」
言葉を区切って、奈央は体育館を見渡した。
「でも最近、考えるようになったんです。それは本当に演技だったのでしょうか?」
控え室の入り口で、桑田の表情が微妙に変化する。
「確かに私には、皆に隠してきた部分があります。創作活動が好きで、同性愛をテーマにした同人誌を描いています。そして私は...同性を好きになることもある。そんな自分を、必死に隠してきました」
体育館が大きくどよめき、教師陣からも、小さなざわめきが起こる。
「でも、考えてみました。生徒会長としての私は演技なのでしょうか?」
奈央の声が、少しずつ力強さを増していく。
「違います。これも本当の私なんです」
マイクを握る手に、確かな力が宿る。
「生徒会長として、皆のために働きたいという気持ちも本物」
照明を浴びる壇上で、奈央の瞳が強く輝いていた。
「私たちは誰もが、様々な面を持っています。学校の生徒として面、家での長男や長女などとしての面」
体育館の空気が、確実に変化していく。最初の動揺は、静かな共感へと変わりつつあった。
「演技をしているのではありません。ただ、様々な面を、状況に応じていろんな自分を出しているだけなんです。」
「私の場合、生徒会室では几帳面で責任感のある生徒会長として振る舞い、自室では周りことを気にせず集中して同人誌を創作し、親友の前では親友として、時に特別な感情を抱きながら接する。これらは決して演技ではない。全てが私という一人の人間だと思います」
「だから私は演技か本心かという、その二分法から自由になります」
かつての私は、これらの異なる面を「偽りの演技」と「本当の自分」に分けて苦しんでいた。桑田先生もその二分法で私を追い詰めようとした。でも、それは違う。生徒会長としての真面目な私も、創作を愛する表現者としての私も、環奈への想いを胸に秘めた等身大の少女である私も、どれもが等しく本当の私なのだ。
マイクを握る手に、さらなる力が込められる。
「生徒会長としての私も、創作者としての私も、誰かを想う気持ちを持つ私も。その全てを誇りを持って生きていきたいと思います」
「これは、私という人間の全ての面を受け入れて生きていく—その決意表明です」
最後の言葉が、体育館に響き渡る。
「そして文化祭は、私たち一人一人が、全ての自分を出せる場所なんじゃないか思います。皆さんも、自分の持つ多様な面を、存分に出してください」
深々と一礼する奈央。
一瞬の静寂。そして、体育館に大きな拍手が鳴り響いた。
最初は小さな音だった。でも、次第にその輪は広がっていく。環奈を中心に、級友たちが次々と立ち上がり、拍手を送る。その波は後方の席まで広がり、ついには教師陣までもが立ち上がって拍手を送っていた。
体育館全体が、温かな拍手に包まれる。その中には、これまで自分の中の何かと戦っていた生徒たちの、共感の想いが込められているようだった。
控え室の入り口。桑田の表情が、複雑に歪んでいた。これは彼の意図した「演技の崩壊」ではない。むしろ、演技と本質の境界線さえも飲み込んでしまうような、予想外の展開。その光景を前に、彼の心に小さな亀裂が入り始めていた。

文化祭終了から一週間後の午後。西日が差し込む生徒会室で、奈央は文化祭の会計報告をまとめていた。以前と変わらない几帳面な仕事ぶり。しかし、その表情には何か新しい輝きが宿っていた。
「奈央、まだいた」
声に振り返ると、環奈が部屋に顔を出していた。開会式以来、二人はまだちゃんと話せていなかった。
「環奈...」
「ねぇ、話していい?」
環奈は生徒会室に入り、奈央の向かいの椅子に腰掛けた。夕暮れの光が、その横顔を優しく照らしている。
「私ね、中村君に告白したの」
唐突な告白に、奈央の心臓が跳ねる。
「そしたらね、フられちゃった」
「え?」
予想外の展開に、奈央は言葉を失う。環奈は照れくさそうに笑った。
「うん。でもね、不思議と悲しくなかったの。むしろ、スッキリした。だって、好きな気持ちを、ちゃんと伝えられたから」
夕陽に照らされた環奈の瞳が、不思議な輝きを放っていた。
「それにね」
環奈がカバンから一冊の同人誌を取り出した。見覚えのある表紙。奈央が描いた作品だった。
「上手いね。特に、主人公の気持ちの描き方が繊細で...私にそっくりだなって」
奈央の顔が、みるみる赤くなっていく。
「環奈、私...」
「うん、分かってる」
環奈が優しく微笑む。その表情には、これまでとは違う深い理解が宿っていた。
「今は答えなくていいよ。私も、自分の気持ちをちゃんと整理したいから。だって私たちには、まだまだ時間があるでしょ?」
夕暮れの光が、二人を優しく包み込んでいた。
その頃、職員室にいる桑田の表情には、以前のような執着は見られない。むしろ、何か新しい理解を得たような穏やかさがあった。
「演技か本心かという、その二分法から自由になる、か…」
職員室を出た後、桑田は窓の外を見つめながら独り言を呟いた。下校時間を迎えた校庭には、生徒たちの姿が見える。部活動に向かう者、友達と談笑する者、一人で本を読む者。それぞれが、自分なりの表現で、自分なりの生き方を紡いでいく。
それを見た、桑田の顔はこれまでの行いを深く考え直そうという者の表情だった。

春。桜の季節。
朝の生徒会室に、優しい日差しが差し込んでいる。奈央は相変わらず、七時半には登校して仕事を始めていた。几帳面な性格は変わらない。でも、もはやそれは「演技」でも「義務」でもない。自分の一部として、自然に受け入れている。
創作活動も順調で、次の即売会に向けての新作は、もう完成間近。今度のストーリーは、二人の少女が、お互いの多面性を受け入れていく物語。以前のような後ろめたさはない。むしろ、自分の想いを正直に表現できることを、心から楽しんでいた。
「おはよう、奈央!」
環奈が生徒会室に駆け込んでくる。相変わらずの明るい声、でも二人の間には、新しい何かが確実に芽生え始めていた。まだ形にならない、でも確かな温かさ。
「あ、新刊の原稿、手伝おうか?」
環奈が奈央の机をのぞき込む。その仕草に、以前のような無邪気さだけでなく、優しい理解が混ざっているように見えた。
「うん、ありがとう」
二人で肩を寄せ合いながら、原稿をめくっていく。窓の外では、満開の桜が春の風に舞っていた。
窓の外では、満開の桜が春の風に舞っている。その光景を見つめながら、奈央は静かに微笑んだ。