朝日が差し込む生徒会室で、高橋奈央は文化祭企画書の最終確認に没頭していた。六時半、まだ校内には誰もいない静寂の中で、赤ペンを走らせる音だけが響いていた。三年生の教室から見える中庭では、朝露に濡れた銀杏の葉が、秋の風に静かに揺れている。
『このステージの配置、もう少し工夫できるはずよ』
企画書の余白に細かなメモを書き込みながら、奈央は小さくため息をつく。完璧を求める性分は、時として自分自身を追い詰めることも知っていた。でも、それが生徒会長としての責任だと、彼女は信じていた。いや、信じなければならなかった。
机の上には、既に三度推敲を重ねた企画書の旧版が積み重なっている。どれも隅々まで赤字で埋め尽くされていた。普通なら一度の確認で済ませるところを、奈央は何度でも見直す。それが高橋奈央のやり方だった。周囲もそれを知っている。だからこそ、全校生徒の模範として信頼されているのだと、彼女は自分に言い聞かせる。
「おはよう、高橋さん。今朝も早いのね」
振り返ると、藤村先生が職員室の鍵を持って立っていた。いつも一番に出勤する国語教師だ。その表情には、いつもの温かな微笑みと共に、わずかな心配の色が混じっているように見えた。藤村先生は去年まで奈央の担任で、彼女の完璧主義的な性格をよく知っている。
「はい、文化祭の企画書の最終確認をしていまして」
「あなたのことだから、もう完璧でしょう。無理し過ぎないでね」
藤村先生は優しく声をかけると、職員室へと消えていった。その言葉に、奈央は薄く笑みを浮かべる。完璧―その言葉が、時として重い鎖のように彼女を縛り付けることを、誰も知らない。
廊下から生徒たちの声が少しずつ聞こえ始める。始業まであと一時間。奈央は背筋を伸ばし、表情を整えた。鏡のない部屋でも、彼女は自分の表情が完璧なものになっていることを知っていた。三年間の練習が、その確信を与えてくれる。高橋奈央、生徒会長としての一日が、また始まろうとしていた。完璧な優等生として、誰もが認める模範生徒として、演じ続けなければならない役割が。
いつもより少し早く登校してきた生徒たちが、生徒会室の前を通り過ぎる度に覗き込んでは、「さすが高橋さん、今朝も頑張ってるね」「生徒会長、今日もステキ!」と声をかけていく。その度に、奈央は完璧な笑顔で応える。相手の目を見て、わずかに首を傾げ、適度な謙遜を含んだ微笑みを浮かべる。何度も練習した、完璧な反応。
でも、その笑顔の裏で、彼女の心は静かに震えていた。机の引き出しの奥には、昨夜徹夜で描き上げた百合漫画の下書きが隠されている。次の即売会まで、あとわずか二週間。その事実を、誰にも気付かれてはいけない。完璧な生徒会長が、同性愛者でそれをテーマにした漫画を描いているなんて―そんな秘密が明るみに出た日には、これまで積み上げてきた全てが崩れ落ちてしまう。
学校から帰宅し玄関の扉を開けると、誰もいない家の静けさが奈央を包み込んだ。珍しく母が遅くなるという連絡があり、父は出張中。妹の麻衣は部活の遠征で、今週は不在。一人きりの家。心の中でほっと息をつく。今日は誰にも邪魔されることなく、創作に没頭できる。
「ただいま」
返事のない家に声をかけ、奈央は二階の自室へと向かった。かばんから文化祭の資料を取り出し、机の隅に積み上げる。その下から、注意深く漫画の下書き用紙を広げた。暮れゆく空を背に、デスクライトをつける。
「このシーン、もっと感情を込めないと。でも露骨すぎても...」
ノートパソコンの画面には、締切カレンダーが貼り付けてある。次の同人誌即売会の出すための締切が二週間。他の参加者は、みんな学生じゃなくて、時間も経験もある人たち。その中で自分の作品が通用するのか。不安と期待が入り混じる。
カーテンを閉め切り、イラストを描く手に力を込める。今描いているのは、主人公が親友に好意を告白するシーン。何度も描き直しているうちに、原稿用紙はインクの染みで斑々になっていた。物語の中の主人公は、奈央の分身のような存在だった。同性の親友に抱く想いを、どうしても伝えられない気持ち。そんな自分自身の感情を、創作という形で昇華させるしかなかった。
奈央は一枚の下書きを手に取り、描きかけのページをじっと見つめた。体育の授業で、バレーボールを打つ瞬間の佐藤の姿を、密かにスケッチしたものだ。躍動感のある動きの中に、 彼女特有の優美さを表現しようと試みている。友情と恋心の境界線が曖昧になることを恐 れながらも、奈央はペンを止めることができなかった。それが彼女にとって、唯一の感情表現の出口だった。
「本当は、伝えたいことがたくさんあるのに」
囁くような独り言が、静かな部屋に溶けていく。机の上の原稿用紙には、自分では決して経験できないと思い込んでいる恋愛模様が広がっている。でも、それだからこそ、より一層リアルに描きたかった。この創作の中でなら、自分の本当の気持ちを、誰にも気付かれることなく表現できるのだから。
次の同人誌即売会に向けて描いている百合漫画は、まだ五ページも進んでいない。昼間の生徒会の仕事を終え、夜な夜な続けている創作活動。二つの顔を使い分ける生活は、確実に彼女を疲弊させていた。目の下のクマを隠すために使うコンシーラーの層が、日に日に厚くなっている。
スマートフォンが震える。メッセージアプリの通知音に、思わずペンが止まる。振動で机が小刻みに揺れ、水彩絵の具が少しこぼれた。
「もしかして、環奈?」
予感は的中した。親友からのメッセージには、既読がつけられないまま数件のメッセージが連なっていた。画面には佐藤環奈の笑顔のアイコンが表示されている。幼稚園からの幼なじみで、いまでは一番の親友。その彼女からのメッセージを、奈央は開くのを躊躇っていた。
『ねぇねぇ、今日さ、中村君とすれ違ったの!』
『朝、図書室の前で!』
『私が本を落としたとき、拾ってくれたの!超ドキドキした!』
『奈央も気になってるでしょ? だって、いつも中村君の話すると黙っちゃうし』
奈央は深いため息をつく。佐藤環奈。幼稚園からの付き合いで、唯一心を許せる親友。いつしか親友以上の感情を抱くようになってしまった相手。でも、彼女にさえ、本当の自分は見せられない。画面に映る親友の無邪気な笑顔が、余計に胸を締め付ける。彼女が男子の話をする度に感じる痛みを、誰にも打ち明けることができない。
『ごめん、今忙しくて。明日話そう?』
『生徒会の仕事が溜まってて...』
送信ボタンを押しながら、奈央は罪悪感を覚えた。中村に興味があるフリをするのも、適度に話を合わせるのも、全て演技だった。でも、これしか方法がない。親友との関係を壊したくなかった。佐藤との思い出が詰まったスマートフォンの画面が、暗くなっていく。
即座に返信が来た。
『えー、残念。でも仕方ないよね。さすが生徒会長!』
『またね! 明日は絶対聞かせてね』
画面の向こうの佐藤の声が聞こえるようだった。明るく、優しく、そして何より純粋な声。その声に嘘で応えなければならないことに、奈央は心の中で何度目かの謝罪を繰り返す。
「奈央」
今度は母の声。夕食の時間だ。奈央は慌てて原稿用紙を引き出しの奥に隠す。描きかけのカラーイラストは、インクの乾かない状態でしまわれることになった。扉が開く直前、ペンを教科書に持ち替えた。
「勉強?」
「うん、数学の宿題」
また一つ、小さな嘘が増えた。母の優しい微笑みに、奈央は申し訳なさで胸が潰れそうになる。でも、それを表情に出すことは許されない。完璧な娘を演じ続けることも、彼女の役目なのだから。
翌朝。一時限目は桑田誠也による現代文。新任の担任教師は、黒縁眼鏡にチェックのシャツという出で立ちで、一見すると典型的なオタク教師に見える。だが、奈央は違和感を覚えていた。
平坦な声で語る桑田の目は、どこか冷徹な光を湛えている。その眼差しは、生徒の表層を剥ぎ取ろうとするかのように鋭い。特に生徒を指名するとき、その眼差しは鋭利な刃物のように相手を射抜く。まるで、相手の内面を解剖するかのように。
教室の空気が、わずかに凍り付く。誰もが、自分が指名されることを恐れているようだった。桑田の質問は、いつも的確で、そして容赦がない。答えられないことを責めるわけではないのに、その冷たい視線は、生徒の心の奥底まで見透かしているようで不気味だった。
「それでじゃ高橋さん」
突然の指名に、奈央は一瞬身震いした。だが、即座に完璧な答えを返す。それが生徒会長としての務めだから。
淀みない回答に、クラスメイトたちから小さな拍手が起こる。「さすが高橋さん」という囁きも聞こえる。だが、桑田の表情は不気味なまでに無表情なままだった。むしろ、奈央の完璧な答えに、何か意味ありげな視線を投げかけているようにも見える。
奈央は思わず背筋が凍る。この教師は、何かを見抜いているのではないか―そんな不安が、彼女の心を締め付けた。まるで、自分の仮面の下を覗き込もうとしているかのような、その視線。
「正解です。では、その選択は正しかったのでしょうか。"正しさ"とは何なのか。次回はそこまで考えていきましょう」
チャイムが鳴り、授業は終わった。だが、桑田の最後の言葉は、どこか奈央個人に向けられているような気がしてならなかった。教室を出ていく桑田の後ろ姿を見送りながら、奈央は妙な不安を感じていた。
そして同人誌即売会の日。会場に足を踏み入れた瞬間、独特の熱気が奈央を包み込んだ。朝九時、開場前にも関わらず、すでにサークル参加者たちが忙しなく準備に動き回っている。メガネに黒いパーカー、首元まで上げた襟。鏡で確認した姿は、生徒会長の高橋奈央からは想像もつかない風貌だった。
「よし...」
深く息を吐き出し、奈央は自分のスペースへと向かう。会場の端、壁際の一つのスペース。そこには配置番号が記されていた。初めての参加から三回目。いつもこうして端の方を選ぶのは、できるだけ目立たないようにしたいという思いからだった。
テーブルの上に、段ボールから丁寧に取り出した同人誌を並べていく。表紙には、制服姿の二人の女子高生が、夕暮れの教室で向かい合うイラスト。「ささやかな想い」というタイトルの下には、ペンネーム「ジュジュ」のサインが添えられている。一冊一冊を丁寧に並べながら、奈央は徹夜で仕上げた日々を思い出していた。
「机の上に三十部、予備が段ボールの中に二十部...」
小声で在庫を確認する。周囲では他のサークル参加者たちも同じように準備を進めている。みんな学生ではない。社会人らしき人たち。その中で自分だけが現役の女子高生だという事実に、また新たな緊張が走る。
開場を告げるアナウンスが流れ、待機列から次々と入場してくる一般参加者たち。奈央は無意識に姿勢を低くする。顔を伏せがちにしながら、時折訪れる購入者に対応する。声も普段より少し低めに抑えて。それでも、作品を手に取った人が笑顔を見せてくれるたびに、小さな喜びが広がっていく。
「これ、絵柄可愛いですね」
「構図が綺麗...」
来場者たちの言葉に、内心で喜びながらも、表情は抑え気味に。二時間があっという間に過ぎ、用意した在庫も半分ほどが売れていった。そろそろ無事に終えられそう―そう安堵し始めた瞬間だった。
「構図が美しいですね。特にこの教室のシーン」
聞き慣れた声に、奈央の体が硬直する。ゆっくりと顔を上げると、目の前には黒縁眼鏡とチェックのシャツ。紛れもない桑田誠也の姿があった。普段の教室でも感じる冷徹な視線が、至近距離で奈央を捉えている。
「せ、先生...」
声が震える。周囲の喧騒が遠のいていく。耳元で血液が流れる音だけが、異様に大きく響いていた。桑田は奈央の同人誌を手に取り、一ページ一ページ、ゆっくりとめくっていく。
「緻密なコマ割り...繊細なタッチ。高橋さんの性格がよく出ていますね」
その言葉に含まれる意味の重さに、奈央は息を飲んだ。完璧な生徒会長のもう一つの顔。誰にも見せたくなかった素顔が、最も知られたくない相手の目の前に晒されている。
「お願いします...この件は...」
懇願するように絞り出す言葉。しかし桑田の表情は、むしろ楽しむような色を帯びていた。同人誌を閉じ、その表紙をもう一度見つめる。
「主人公は、親友に秘めた想いを打ち明けられない...か」
その言葉に、奈央の顔から血の気が引いていく。作品の内容に触れられることは、自分の心の内を暴かれることと同じだった。桑田の目が、奈央の動揺を見逃さない。
「面白い設定ですね。現実と...リンクする部分もあるのでしょうか」
皮肉めいた質問に、奈央は答えることができない。ただ俯くことしかできなかった。その沈黙が、すべての答えになっていることを、桑田は確実に理解しているように見えた。
「一冊、購入させていただきます」
財布から硬貨を取り出し、テーブルに置く。レジ袋に同人誌を入れながら、桑田は最後の言葉を残した。
「考えておきましょう。この件について、どうするか」
その言葉が持つ重みは、奈央の全身を凍りつかせるのに十分だった。桑田の後ろ姿が人混みに消えていく中、奈央はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。会場の喧騒が、まるで別世界の出来事のように感じられる。汗で湿った手のひらが、これから始まる日々への不安を物語っていた。
放課後の美術室は、沈みかけた太陽の光で不気味なほど赤く染まっていた。石膏像たちが、その白い顔で無言の証人のように立ち並ぶ。部活動の声が遠くから聞こえてくるが、この場所だけが異様な静けさに包まれている。
奈央は窓際に立ち、自分の影が床に長く伸びているのを見つめていた。昼休み、桑田からこう言われた。
「放課後、美術室に来るように」。たったこの一言が、これほどの重圧になるとは思わなかった。
時計の針が、カチカチと容赦なく時を刻む。四時十五分。約束の時間まであと五分。
そのとき、廊下に足音が響いた。ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる音。奈央の心拍が早くなる。扉が開く音に、思わず背筋が伸びる。
「お待たせしました、高橋さん」
逆光に浮かぶ桑田の姿。チェックのシャツに黒縁メガネ。普段と変わらない出で立ちなのに、今日は特別な威圧感を放っていた。手には、スマートフォンが握られている。
「実は、週末から興味深い調査をしていました」
桑田は、ゆっくりと美術室を歩き回り始めた。その足音が、奈央の緊張を高めていく。
「驚きましたよ。SNSの追跡って、意外と簡単なものです。特に、高橋さんのペンネームを検索すると…」
スマートフォンの画面が、奈央の目の前に突きつけられた。そこには、彼女が「ジュジュ」名義で活動しているSNSアカウントが表示されている。同人活動の告知、創作についての呟き、そして...性的指向を示唆する投稿の数々。
「や...」
言葉が喉に詰まる。全身から血の気が引いていくのを感じた。
「特に興味深かったのは、投稿の内容です」
桑田は画面をスクロールしていく。一つ一つの投稿が、奈央の秘密を暴いていく。
「『好きな人に、この想いを伝えられない。伝えたら、きっと全てが壊れてしまう』...『同性を好きになることは、間違いなのでしょうか』...『親友への想いを、創作の中でしか表現できない私』」
一つ一つの言葉が、刃物のように奈央の心を抉っていく。
「そして、決定的なのがこれ」
桑田は、奈央のイラストアカウントを表示した。そこには、佐藤環奈を模したようなキャラクターのイラストが並んでいた。体育の授業での動き、教室での笑顔、図書室での横顔...密かな想いが込められた数々のスケッチ。
「環奈さんのことですよね? 幼なじみで親友の...佐藤環奈さん」
名前を口にされた瞬間、奈央の膝から力が抜けた。机の端を掴んで、何とか倒れるのを堪える。
「全て、把握しました。生徒会長が同性愛者で、親友に秘めた想いを抱いている。さらには、エロティックな百合漫画まで描いている...これが広まったら」
「お願いします...」
やっと絞り出せた言葉は、掠れた悲鳴のようだった。
「ご家族は知っているんですか? 佐藤さんは? いいえ、もちろん誰も知らない。完璧な優等生、模範的な生徒会長...その仮面の下を、誰も見たことがない」
桑田の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「でも、私にはあなたの秘密を守る気もある。条件付きでね」
「条件...」
「今後、私の言うことを聞くこと。それだけです」
夕日に照らされた校庭を見下ろしながら、桑田は最初の要求を告げた。
「では、明日からあなたの完璧な装いを少しずつ崩していきましょう」
桑田は、ゆっくりと奈央に近づいた。
「まず、そのスカート。規定より3センチ長くしなさい。誰が見ても明らかに長いと分かる丈に」
奈央の表情が強張る。校則を厳守してきた生徒会長が、わざと規定から外れる―その考えだけで胸が締め付けられる。
「そして、その几帳面な髪型も変えなさい。後ろで束ねた髪から、数本を垂らして。完璧な黒髪を、少し乱すように」
「靴下は左右で高さを変えること。片方は膝下まで、もう片方は踝が見えるくらいまで下げて」
「最後に、セーラー服のリボン。いつもの几帳面な結び方は禁止です。わざと歪んで見えるように結びなさい」
一つ一つの指示が、刃物のように奈央の心を抉っていく。
「そんなこと...できません」
かすれた声で絞り出す言葉。窓から差し込む夕陽が、彼女の震える姿を赤く染めていた。
「できないことはないでしょう。たかが服装の乱れ。でも、あなたにとってはそれが致命的。周りの目が、噂が、評価が...全てを失うきっかけになる」
桑田は意味ありげな微笑みを浮かべた。
「あなたの秘密、それとも服装の乱れ。選びなさい」
背後から聞こえる桑田の声に、奈央は机の端を強く握りしめた。明日からの登校を想像し、寒気が走る。長すぎるスカート、乱れた髪、不揃いな靴下、歪んだリボン。それは彼女の築き上げてきた全てに、自らヒビを入れるような行為。でも、それ以外の選択肢はない。
翌朝。鏡の前で制服を整える手が、いつになく躊躇っている。裾上げを解いたスカートは足首近くまで伸び、左右の靴下の高さは明らかに違う。髪を結び直す度に、わざと数本の髪を垂らす。リボンは何度も結び直し、少し歪むように調整する。
その姿を鏡に映して、奈央は小さく息を呑んだ。まるで別人のよう。でも、これが桑田の望む姿なのだ。
生徒会室に向かう廊下で、すれ違う生徒たちの視線が痛い。朝の登校時間とは思えないほどの静けさの中、奈央の不揃いな靴下を履いた足音だけが響く。
「高橋さん、制服が...」
「生徒会長なのに、スカート長くない?」
「髪も靴下も、いつもと全然違う...」
小さな囁きが次々と耳に届く。奈央は無意識に髪に手を伸ばすが、そこにあるのは意図的に乱された黒髪。リボンに触れれば、不格好な結び目。全てが、彼女の心を締め付けていく。
生徒会室に入ると、既に数人の委員が朝の作業を始めていた。彼らの目が、奈央の全身を舐めるように見つめ、すぐに逸らされる。気まずい空気が、部屋に満ちていく。
「おはよう、奈央!」
そこに環奈の声。振り返ると、親友が心配そうな表情で立っていた。
「どうしたの?制服も髪型も...いつもと全然違うけど...具合悪いの?」
その純粋な心配の声に、奈央は返答に窮する。嘘をつくことも、真実を告げることも、どちらもできない。ただ俯くことしかできなかった。
「具合でも悪いの?」
「ううん、そうじゃなくて...」
言葉の続きが出てこない。環奈の優しい心配が、かえって胸を締め付ける。そのとき、教室の前を通りかかった桑田と目が合う。教師は意味ありげな微笑みを浮かべ、そのまま通り過ぎていった。
「環奈、ごめん。ちょっと急ぎの仕事が...」
奈央は慌ただしく席に着き、手元の書類に目を落とした。文字が踊って見える。頬を伝う涙を、誰にも気付かれないように拭う。
一日中、その乱れた姿が、奈央の心を苛み続けた。授業中も、廊下を歩くときも、食堂で昼食を取るときも。周囲の視線が、確実に彼女を追い詰めていく。長すぎるスカートが歩きづらく、垂らした髪が視界を邪魔する。不揃いな靴下は足取りを重くし、歪んだリボンは首筋に違和感を残す。
そして最も辛いのは、心配してくれる環奈の優しさだった。
放課後、再び美術室に呼び出された奈央を待っていたのは、満足げな表情の桑田だった。夕暮れの光が差し込む室内で、教師は窓際に立ち、外を眺めていた。
「素晴らしい一日でしたね、高橋さん。完璧な生徒会長の仮面が、少しずつ剥がれていく...とても興味深い」
その言葉には、明らかな陶酔と残虐さが込められていた。奈央は黙って俯く。乱された制服のあちこちが、まるで傷口のように疼いていた。
「では、次の要求に移りましょうか」
桑田は机の前に立ち、奈央を見下ろすように言った。
「明日からの私の授業では、わざと間違った答えをしなさい」
奈央の顔から血の気が引く。
「今まで一度も間違えたことのない優等生が、突然躓き始める。その様子を見るのは、さぞ興味深いでしょうね」
「そんな...」
「どうです?教室中が『何かおかしい』『生徒会長、最近変』と囁き始める。あなたの完璧な評価が、少しずつ崩れていく...」
桑田の目が不気味な輝きを帯びる。
次の日の朝、生徒会室へ向かう奈央の足取りは重かった。一時間目は桑田の現代文。今まで一度も間違えたことのない授業で、わざと間違った答えを言わなければならない。その考えだけで、胸が締め付けられる。
教室に入ると、クラスメイトたちから普段通りの挨拶を受ける。「おはよう、高橋さん」「今日もよろしく」―その一つ一つが、これから崩さなければならない信頼の重みを感じさせた。
チャイムが鳴り、桑田が教室に入ってくる。教科書を開く音が教室に響く中、奈央は机の端を強く握りしめていた。
「では、教科書の35ページを開いてください」
桑田の声が、教室に響く。いつもなら真っ先に手を挙げて発言するところだが、今日は違う。しかも、わざと間違えなければならない。
「それでは、この場面での「私」の心情について...高橋さん」
予期していた指名。でも、実際に名前を呼ばれると、奈央の体が小刻みに震える。
そして明らかに誤った解釈を口にすると教室に違和感が走る。周囲の視線が、一斉に奈央に集まる。
「それは違います」桑田の声には、わずかな愉悦が混じっているように聞こえた。
「すみません...」
奈央は俯く。隣の席から、心配そうな目線を感じる。
その後も、桑田は執拗に奈央を指名し続けた。そして奈央は、その度に間違った答えを返す。作品分析を完全に誤り、比喩表現の解釈を間違える。
「高橋さん、最近調子が悪いの?」
「生徒会長が珍しくミスを...」
「何かあったのかな」
囁きが教室中に広がっていく。膝の上で握り締めた手が、汗で濡れていく。
放課後、桑田に呼び出された美術室は真っ赤な夕陽が差し込む。
「それではまた次の要求に…」
「佐藤環奈さん。あなたの親友であり、密かな想い人」
その言葉に、奈央の体が震える。
「彼女と中村君、かなり親密になってきているようですね。二人きりで会っている場所とか、会話の内容とか...」
「やめて...環奈は関係ない...」
「関係あるでしょう?あなたにとって、最も大切な人なんですから」
桑田の声が、刃物のように奈央の心を抉る。
「明日からは、彼女を監視してください。放課後、誰と会って、どんな会話をして、どこで時間を過ごすのか」
「そんなこと...できません...」
机に突っ伏す奈央。制服の袖が、こぼれ落ちる涙で濡れていく。
「愛する人を監視する。これこそ、あなたにぴったりの役目じゃありませんか?」
桑田の言葉が、心を深く突き刺す。机の上には、環奈との写真が飾られた手帳が開かれていた。文化祭の打ち合わせで撮った一枚。環奈の無邪気な笑顔が、今の自分を責めているように感じられた。
「佐藤さんの秘密を暴くか、あなたの秘密が暴かれるか。選びなさい」
桑田が部屋を出ていった後も、奈央は長い間、机に突っ伏したまま動けなかった。窓の外では、下校する生徒たちの楽しげな声が聞こえる。その中に環奈の声も混ざっているような気がした。かつては、その声に心躍らせた日々。今は、その声さえも苦しみの源となっていた。
奈央は手帳を開き、環奈との思い出の写真をそっと撫でた。友情と恋心が交錯する複雑な想い。そして今、その想いに新たな苦悩が重なる。監視者として、親友の秘密を暴かなければならないという残酷な現実。
「ごめんね、環奈...」
囁くような謝罪が、誰もいない生徒会室に虚しく響いた。夕暮れの光が、彼女の涙を赤く染めていく。
『このステージの配置、もう少し工夫できるはずよ』
企画書の余白に細かなメモを書き込みながら、奈央は小さくため息をつく。完璧を求める性分は、時として自分自身を追い詰めることも知っていた。でも、それが生徒会長としての責任だと、彼女は信じていた。いや、信じなければならなかった。
机の上には、既に三度推敲を重ねた企画書の旧版が積み重なっている。どれも隅々まで赤字で埋め尽くされていた。普通なら一度の確認で済ませるところを、奈央は何度でも見直す。それが高橋奈央のやり方だった。周囲もそれを知っている。だからこそ、全校生徒の模範として信頼されているのだと、彼女は自分に言い聞かせる。
「おはよう、高橋さん。今朝も早いのね」
振り返ると、藤村先生が職員室の鍵を持って立っていた。いつも一番に出勤する国語教師だ。その表情には、いつもの温かな微笑みと共に、わずかな心配の色が混じっているように見えた。藤村先生は去年まで奈央の担任で、彼女の完璧主義的な性格をよく知っている。
「はい、文化祭の企画書の最終確認をしていまして」
「あなたのことだから、もう完璧でしょう。無理し過ぎないでね」
藤村先生は優しく声をかけると、職員室へと消えていった。その言葉に、奈央は薄く笑みを浮かべる。完璧―その言葉が、時として重い鎖のように彼女を縛り付けることを、誰も知らない。
廊下から生徒たちの声が少しずつ聞こえ始める。始業まであと一時間。奈央は背筋を伸ばし、表情を整えた。鏡のない部屋でも、彼女は自分の表情が完璧なものになっていることを知っていた。三年間の練習が、その確信を与えてくれる。高橋奈央、生徒会長としての一日が、また始まろうとしていた。完璧な優等生として、誰もが認める模範生徒として、演じ続けなければならない役割が。
いつもより少し早く登校してきた生徒たちが、生徒会室の前を通り過ぎる度に覗き込んでは、「さすが高橋さん、今朝も頑張ってるね」「生徒会長、今日もステキ!」と声をかけていく。その度に、奈央は完璧な笑顔で応える。相手の目を見て、わずかに首を傾げ、適度な謙遜を含んだ微笑みを浮かべる。何度も練習した、完璧な反応。
でも、その笑顔の裏で、彼女の心は静かに震えていた。机の引き出しの奥には、昨夜徹夜で描き上げた百合漫画の下書きが隠されている。次の即売会まで、あとわずか二週間。その事実を、誰にも気付かれてはいけない。完璧な生徒会長が、同性愛者でそれをテーマにした漫画を描いているなんて―そんな秘密が明るみに出た日には、これまで積み上げてきた全てが崩れ落ちてしまう。
学校から帰宅し玄関の扉を開けると、誰もいない家の静けさが奈央を包み込んだ。珍しく母が遅くなるという連絡があり、父は出張中。妹の麻衣は部活の遠征で、今週は不在。一人きりの家。心の中でほっと息をつく。今日は誰にも邪魔されることなく、創作に没頭できる。
「ただいま」
返事のない家に声をかけ、奈央は二階の自室へと向かった。かばんから文化祭の資料を取り出し、机の隅に積み上げる。その下から、注意深く漫画の下書き用紙を広げた。暮れゆく空を背に、デスクライトをつける。
「このシーン、もっと感情を込めないと。でも露骨すぎても...」
ノートパソコンの画面には、締切カレンダーが貼り付けてある。次の同人誌即売会の出すための締切が二週間。他の参加者は、みんな学生じゃなくて、時間も経験もある人たち。その中で自分の作品が通用するのか。不安と期待が入り混じる。
カーテンを閉め切り、イラストを描く手に力を込める。今描いているのは、主人公が親友に好意を告白するシーン。何度も描き直しているうちに、原稿用紙はインクの染みで斑々になっていた。物語の中の主人公は、奈央の分身のような存在だった。同性の親友に抱く想いを、どうしても伝えられない気持ち。そんな自分自身の感情を、創作という形で昇華させるしかなかった。
奈央は一枚の下書きを手に取り、描きかけのページをじっと見つめた。体育の授業で、バレーボールを打つ瞬間の佐藤の姿を、密かにスケッチしたものだ。躍動感のある動きの中に、 彼女特有の優美さを表現しようと試みている。友情と恋心の境界線が曖昧になることを恐 れながらも、奈央はペンを止めることができなかった。それが彼女にとって、唯一の感情表現の出口だった。
「本当は、伝えたいことがたくさんあるのに」
囁くような独り言が、静かな部屋に溶けていく。机の上の原稿用紙には、自分では決して経験できないと思い込んでいる恋愛模様が広がっている。でも、それだからこそ、より一層リアルに描きたかった。この創作の中でなら、自分の本当の気持ちを、誰にも気付かれることなく表現できるのだから。
次の同人誌即売会に向けて描いている百合漫画は、まだ五ページも進んでいない。昼間の生徒会の仕事を終え、夜な夜な続けている創作活動。二つの顔を使い分ける生活は、確実に彼女を疲弊させていた。目の下のクマを隠すために使うコンシーラーの層が、日に日に厚くなっている。
スマートフォンが震える。メッセージアプリの通知音に、思わずペンが止まる。振動で机が小刻みに揺れ、水彩絵の具が少しこぼれた。
「もしかして、環奈?」
予感は的中した。親友からのメッセージには、既読がつけられないまま数件のメッセージが連なっていた。画面には佐藤環奈の笑顔のアイコンが表示されている。幼稚園からの幼なじみで、いまでは一番の親友。その彼女からのメッセージを、奈央は開くのを躊躇っていた。
『ねぇねぇ、今日さ、中村君とすれ違ったの!』
『朝、図書室の前で!』
『私が本を落としたとき、拾ってくれたの!超ドキドキした!』
『奈央も気になってるでしょ? だって、いつも中村君の話すると黙っちゃうし』
奈央は深いため息をつく。佐藤環奈。幼稚園からの付き合いで、唯一心を許せる親友。いつしか親友以上の感情を抱くようになってしまった相手。でも、彼女にさえ、本当の自分は見せられない。画面に映る親友の無邪気な笑顔が、余計に胸を締め付ける。彼女が男子の話をする度に感じる痛みを、誰にも打ち明けることができない。
『ごめん、今忙しくて。明日話そう?』
『生徒会の仕事が溜まってて...』
送信ボタンを押しながら、奈央は罪悪感を覚えた。中村に興味があるフリをするのも、適度に話を合わせるのも、全て演技だった。でも、これしか方法がない。親友との関係を壊したくなかった。佐藤との思い出が詰まったスマートフォンの画面が、暗くなっていく。
即座に返信が来た。
『えー、残念。でも仕方ないよね。さすが生徒会長!』
『またね! 明日は絶対聞かせてね』
画面の向こうの佐藤の声が聞こえるようだった。明るく、優しく、そして何より純粋な声。その声に嘘で応えなければならないことに、奈央は心の中で何度目かの謝罪を繰り返す。
「奈央」
今度は母の声。夕食の時間だ。奈央は慌てて原稿用紙を引き出しの奥に隠す。描きかけのカラーイラストは、インクの乾かない状態でしまわれることになった。扉が開く直前、ペンを教科書に持ち替えた。
「勉強?」
「うん、数学の宿題」
また一つ、小さな嘘が増えた。母の優しい微笑みに、奈央は申し訳なさで胸が潰れそうになる。でも、それを表情に出すことは許されない。完璧な娘を演じ続けることも、彼女の役目なのだから。
翌朝。一時限目は桑田誠也による現代文。新任の担任教師は、黒縁眼鏡にチェックのシャツという出で立ちで、一見すると典型的なオタク教師に見える。だが、奈央は違和感を覚えていた。
平坦な声で語る桑田の目は、どこか冷徹な光を湛えている。その眼差しは、生徒の表層を剥ぎ取ろうとするかのように鋭い。特に生徒を指名するとき、その眼差しは鋭利な刃物のように相手を射抜く。まるで、相手の内面を解剖するかのように。
教室の空気が、わずかに凍り付く。誰もが、自分が指名されることを恐れているようだった。桑田の質問は、いつも的確で、そして容赦がない。答えられないことを責めるわけではないのに、その冷たい視線は、生徒の心の奥底まで見透かしているようで不気味だった。
「それでじゃ高橋さん」
突然の指名に、奈央は一瞬身震いした。だが、即座に完璧な答えを返す。それが生徒会長としての務めだから。
淀みない回答に、クラスメイトたちから小さな拍手が起こる。「さすが高橋さん」という囁きも聞こえる。だが、桑田の表情は不気味なまでに無表情なままだった。むしろ、奈央の完璧な答えに、何か意味ありげな視線を投げかけているようにも見える。
奈央は思わず背筋が凍る。この教師は、何かを見抜いているのではないか―そんな不安が、彼女の心を締め付けた。まるで、自分の仮面の下を覗き込もうとしているかのような、その視線。
「正解です。では、その選択は正しかったのでしょうか。"正しさ"とは何なのか。次回はそこまで考えていきましょう」
チャイムが鳴り、授業は終わった。だが、桑田の最後の言葉は、どこか奈央個人に向けられているような気がしてならなかった。教室を出ていく桑田の後ろ姿を見送りながら、奈央は妙な不安を感じていた。
そして同人誌即売会の日。会場に足を踏み入れた瞬間、独特の熱気が奈央を包み込んだ。朝九時、開場前にも関わらず、すでにサークル参加者たちが忙しなく準備に動き回っている。メガネに黒いパーカー、首元まで上げた襟。鏡で確認した姿は、生徒会長の高橋奈央からは想像もつかない風貌だった。
「よし...」
深く息を吐き出し、奈央は自分のスペースへと向かう。会場の端、壁際の一つのスペース。そこには配置番号が記されていた。初めての参加から三回目。いつもこうして端の方を選ぶのは、できるだけ目立たないようにしたいという思いからだった。
テーブルの上に、段ボールから丁寧に取り出した同人誌を並べていく。表紙には、制服姿の二人の女子高生が、夕暮れの教室で向かい合うイラスト。「ささやかな想い」というタイトルの下には、ペンネーム「ジュジュ」のサインが添えられている。一冊一冊を丁寧に並べながら、奈央は徹夜で仕上げた日々を思い出していた。
「机の上に三十部、予備が段ボールの中に二十部...」
小声で在庫を確認する。周囲では他のサークル参加者たちも同じように準備を進めている。みんな学生ではない。社会人らしき人たち。その中で自分だけが現役の女子高生だという事実に、また新たな緊張が走る。
開場を告げるアナウンスが流れ、待機列から次々と入場してくる一般参加者たち。奈央は無意識に姿勢を低くする。顔を伏せがちにしながら、時折訪れる購入者に対応する。声も普段より少し低めに抑えて。それでも、作品を手に取った人が笑顔を見せてくれるたびに、小さな喜びが広がっていく。
「これ、絵柄可愛いですね」
「構図が綺麗...」
来場者たちの言葉に、内心で喜びながらも、表情は抑え気味に。二時間があっという間に過ぎ、用意した在庫も半分ほどが売れていった。そろそろ無事に終えられそう―そう安堵し始めた瞬間だった。
「構図が美しいですね。特にこの教室のシーン」
聞き慣れた声に、奈央の体が硬直する。ゆっくりと顔を上げると、目の前には黒縁眼鏡とチェックのシャツ。紛れもない桑田誠也の姿があった。普段の教室でも感じる冷徹な視線が、至近距離で奈央を捉えている。
「せ、先生...」
声が震える。周囲の喧騒が遠のいていく。耳元で血液が流れる音だけが、異様に大きく響いていた。桑田は奈央の同人誌を手に取り、一ページ一ページ、ゆっくりとめくっていく。
「緻密なコマ割り...繊細なタッチ。高橋さんの性格がよく出ていますね」
その言葉に含まれる意味の重さに、奈央は息を飲んだ。完璧な生徒会長のもう一つの顔。誰にも見せたくなかった素顔が、最も知られたくない相手の目の前に晒されている。
「お願いします...この件は...」
懇願するように絞り出す言葉。しかし桑田の表情は、むしろ楽しむような色を帯びていた。同人誌を閉じ、その表紙をもう一度見つめる。
「主人公は、親友に秘めた想いを打ち明けられない...か」
その言葉に、奈央の顔から血の気が引いていく。作品の内容に触れられることは、自分の心の内を暴かれることと同じだった。桑田の目が、奈央の動揺を見逃さない。
「面白い設定ですね。現実と...リンクする部分もあるのでしょうか」
皮肉めいた質問に、奈央は答えることができない。ただ俯くことしかできなかった。その沈黙が、すべての答えになっていることを、桑田は確実に理解しているように見えた。
「一冊、購入させていただきます」
財布から硬貨を取り出し、テーブルに置く。レジ袋に同人誌を入れながら、桑田は最後の言葉を残した。
「考えておきましょう。この件について、どうするか」
その言葉が持つ重みは、奈央の全身を凍りつかせるのに十分だった。桑田の後ろ姿が人混みに消えていく中、奈央はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。会場の喧騒が、まるで別世界の出来事のように感じられる。汗で湿った手のひらが、これから始まる日々への不安を物語っていた。
放課後の美術室は、沈みかけた太陽の光で不気味なほど赤く染まっていた。石膏像たちが、その白い顔で無言の証人のように立ち並ぶ。部活動の声が遠くから聞こえてくるが、この場所だけが異様な静けさに包まれている。
奈央は窓際に立ち、自分の影が床に長く伸びているのを見つめていた。昼休み、桑田からこう言われた。
「放課後、美術室に来るように」。たったこの一言が、これほどの重圧になるとは思わなかった。
時計の針が、カチカチと容赦なく時を刻む。四時十五分。約束の時間まであと五分。
そのとき、廊下に足音が響いた。ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる音。奈央の心拍が早くなる。扉が開く音に、思わず背筋が伸びる。
「お待たせしました、高橋さん」
逆光に浮かぶ桑田の姿。チェックのシャツに黒縁メガネ。普段と変わらない出で立ちなのに、今日は特別な威圧感を放っていた。手には、スマートフォンが握られている。
「実は、週末から興味深い調査をしていました」
桑田は、ゆっくりと美術室を歩き回り始めた。その足音が、奈央の緊張を高めていく。
「驚きましたよ。SNSの追跡って、意外と簡単なものです。特に、高橋さんのペンネームを検索すると…」
スマートフォンの画面が、奈央の目の前に突きつけられた。そこには、彼女が「ジュジュ」名義で活動しているSNSアカウントが表示されている。同人活動の告知、創作についての呟き、そして...性的指向を示唆する投稿の数々。
「や...」
言葉が喉に詰まる。全身から血の気が引いていくのを感じた。
「特に興味深かったのは、投稿の内容です」
桑田は画面をスクロールしていく。一つ一つの投稿が、奈央の秘密を暴いていく。
「『好きな人に、この想いを伝えられない。伝えたら、きっと全てが壊れてしまう』...『同性を好きになることは、間違いなのでしょうか』...『親友への想いを、創作の中でしか表現できない私』」
一つ一つの言葉が、刃物のように奈央の心を抉っていく。
「そして、決定的なのがこれ」
桑田は、奈央のイラストアカウントを表示した。そこには、佐藤環奈を模したようなキャラクターのイラストが並んでいた。体育の授業での動き、教室での笑顔、図書室での横顔...密かな想いが込められた数々のスケッチ。
「環奈さんのことですよね? 幼なじみで親友の...佐藤環奈さん」
名前を口にされた瞬間、奈央の膝から力が抜けた。机の端を掴んで、何とか倒れるのを堪える。
「全て、把握しました。生徒会長が同性愛者で、親友に秘めた想いを抱いている。さらには、エロティックな百合漫画まで描いている...これが広まったら」
「お願いします...」
やっと絞り出せた言葉は、掠れた悲鳴のようだった。
「ご家族は知っているんですか? 佐藤さんは? いいえ、もちろん誰も知らない。完璧な優等生、模範的な生徒会長...その仮面の下を、誰も見たことがない」
桑田の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「でも、私にはあなたの秘密を守る気もある。条件付きでね」
「条件...」
「今後、私の言うことを聞くこと。それだけです」
夕日に照らされた校庭を見下ろしながら、桑田は最初の要求を告げた。
「では、明日からあなたの完璧な装いを少しずつ崩していきましょう」
桑田は、ゆっくりと奈央に近づいた。
「まず、そのスカート。規定より3センチ長くしなさい。誰が見ても明らかに長いと分かる丈に」
奈央の表情が強張る。校則を厳守してきた生徒会長が、わざと規定から外れる―その考えだけで胸が締め付けられる。
「そして、その几帳面な髪型も変えなさい。後ろで束ねた髪から、数本を垂らして。完璧な黒髪を、少し乱すように」
「靴下は左右で高さを変えること。片方は膝下まで、もう片方は踝が見えるくらいまで下げて」
「最後に、セーラー服のリボン。いつもの几帳面な結び方は禁止です。わざと歪んで見えるように結びなさい」
一つ一つの指示が、刃物のように奈央の心を抉っていく。
「そんなこと...できません」
かすれた声で絞り出す言葉。窓から差し込む夕陽が、彼女の震える姿を赤く染めていた。
「できないことはないでしょう。たかが服装の乱れ。でも、あなたにとってはそれが致命的。周りの目が、噂が、評価が...全てを失うきっかけになる」
桑田は意味ありげな微笑みを浮かべた。
「あなたの秘密、それとも服装の乱れ。選びなさい」
背後から聞こえる桑田の声に、奈央は机の端を強く握りしめた。明日からの登校を想像し、寒気が走る。長すぎるスカート、乱れた髪、不揃いな靴下、歪んだリボン。それは彼女の築き上げてきた全てに、自らヒビを入れるような行為。でも、それ以外の選択肢はない。
翌朝。鏡の前で制服を整える手が、いつになく躊躇っている。裾上げを解いたスカートは足首近くまで伸び、左右の靴下の高さは明らかに違う。髪を結び直す度に、わざと数本の髪を垂らす。リボンは何度も結び直し、少し歪むように調整する。
その姿を鏡に映して、奈央は小さく息を呑んだ。まるで別人のよう。でも、これが桑田の望む姿なのだ。
生徒会室に向かう廊下で、すれ違う生徒たちの視線が痛い。朝の登校時間とは思えないほどの静けさの中、奈央の不揃いな靴下を履いた足音だけが響く。
「高橋さん、制服が...」
「生徒会長なのに、スカート長くない?」
「髪も靴下も、いつもと全然違う...」
小さな囁きが次々と耳に届く。奈央は無意識に髪に手を伸ばすが、そこにあるのは意図的に乱された黒髪。リボンに触れれば、不格好な結び目。全てが、彼女の心を締め付けていく。
生徒会室に入ると、既に数人の委員が朝の作業を始めていた。彼らの目が、奈央の全身を舐めるように見つめ、すぐに逸らされる。気まずい空気が、部屋に満ちていく。
「おはよう、奈央!」
そこに環奈の声。振り返ると、親友が心配そうな表情で立っていた。
「どうしたの?制服も髪型も...いつもと全然違うけど...具合悪いの?」
その純粋な心配の声に、奈央は返答に窮する。嘘をつくことも、真実を告げることも、どちらもできない。ただ俯くことしかできなかった。
「具合でも悪いの?」
「ううん、そうじゃなくて...」
言葉の続きが出てこない。環奈の優しい心配が、かえって胸を締め付ける。そのとき、教室の前を通りかかった桑田と目が合う。教師は意味ありげな微笑みを浮かべ、そのまま通り過ぎていった。
「環奈、ごめん。ちょっと急ぎの仕事が...」
奈央は慌ただしく席に着き、手元の書類に目を落とした。文字が踊って見える。頬を伝う涙を、誰にも気付かれないように拭う。
一日中、その乱れた姿が、奈央の心を苛み続けた。授業中も、廊下を歩くときも、食堂で昼食を取るときも。周囲の視線が、確実に彼女を追い詰めていく。長すぎるスカートが歩きづらく、垂らした髪が視界を邪魔する。不揃いな靴下は足取りを重くし、歪んだリボンは首筋に違和感を残す。
そして最も辛いのは、心配してくれる環奈の優しさだった。
放課後、再び美術室に呼び出された奈央を待っていたのは、満足げな表情の桑田だった。夕暮れの光が差し込む室内で、教師は窓際に立ち、外を眺めていた。
「素晴らしい一日でしたね、高橋さん。完璧な生徒会長の仮面が、少しずつ剥がれていく...とても興味深い」
その言葉には、明らかな陶酔と残虐さが込められていた。奈央は黙って俯く。乱された制服のあちこちが、まるで傷口のように疼いていた。
「では、次の要求に移りましょうか」
桑田は机の前に立ち、奈央を見下ろすように言った。
「明日からの私の授業では、わざと間違った答えをしなさい」
奈央の顔から血の気が引く。
「今まで一度も間違えたことのない優等生が、突然躓き始める。その様子を見るのは、さぞ興味深いでしょうね」
「そんな...」
「どうです?教室中が『何かおかしい』『生徒会長、最近変』と囁き始める。あなたの完璧な評価が、少しずつ崩れていく...」
桑田の目が不気味な輝きを帯びる。
次の日の朝、生徒会室へ向かう奈央の足取りは重かった。一時間目は桑田の現代文。今まで一度も間違えたことのない授業で、わざと間違った答えを言わなければならない。その考えだけで、胸が締め付けられる。
教室に入ると、クラスメイトたちから普段通りの挨拶を受ける。「おはよう、高橋さん」「今日もよろしく」―その一つ一つが、これから崩さなければならない信頼の重みを感じさせた。
チャイムが鳴り、桑田が教室に入ってくる。教科書を開く音が教室に響く中、奈央は机の端を強く握りしめていた。
「では、教科書の35ページを開いてください」
桑田の声が、教室に響く。いつもなら真っ先に手を挙げて発言するところだが、今日は違う。しかも、わざと間違えなければならない。
「それでは、この場面での「私」の心情について...高橋さん」
予期していた指名。でも、実際に名前を呼ばれると、奈央の体が小刻みに震える。
そして明らかに誤った解釈を口にすると教室に違和感が走る。周囲の視線が、一斉に奈央に集まる。
「それは違います」桑田の声には、わずかな愉悦が混じっているように聞こえた。
「すみません...」
奈央は俯く。隣の席から、心配そうな目線を感じる。
その後も、桑田は執拗に奈央を指名し続けた。そして奈央は、その度に間違った答えを返す。作品分析を完全に誤り、比喩表現の解釈を間違える。
「高橋さん、最近調子が悪いの?」
「生徒会長が珍しくミスを...」
「何かあったのかな」
囁きが教室中に広がっていく。膝の上で握り締めた手が、汗で濡れていく。
放課後、桑田に呼び出された美術室は真っ赤な夕陽が差し込む。
「それではまた次の要求に…」
「佐藤環奈さん。あなたの親友であり、密かな想い人」
その言葉に、奈央の体が震える。
「彼女と中村君、かなり親密になってきているようですね。二人きりで会っている場所とか、会話の内容とか...」
「やめて...環奈は関係ない...」
「関係あるでしょう?あなたにとって、最も大切な人なんですから」
桑田の声が、刃物のように奈央の心を抉る。
「明日からは、彼女を監視してください。放課後、誰と会って、どんな会話をして、どこで時間を過ごすのか」
「そんなこと...できません...」
机に突っ伏す奈央。制服の袖が、こぼれ落ちる涙で濡れていく。
「愛する人を監視する。これこそ、あなたにぴったりの役目じゃありませんか?」
桑田の言葉が、心を深く突き刺す。机の上には、環奈との写真が飾られた手帳が開かれていた。文化祭の打ち合わせで撮った一枚。環奈の無邪気な笑顔が、今の自分を責めているように感じられた。
「佐藤さんの秘密を暴くか、あなたの秘密が暴かれるか。選びなさい」
桑田が部屋を出ていった後も、奈央は長い間、机に突っ伏したまま動けなかった。窓の外では、下校する生徒たちの楽しげな声が聞こえる。その中に環奈の声も混ざっているような気がした。かつては、その声に心躍らせた日々。今は、その声さえも苦しみの源となっていた。
奈央は手帳を開き、環奈との思い出の写真をそっと撫でた。友情と恋心が交錯する複雑な想い。そして今、その想いに新たな苦悩が重なる。監視者として、親友の秘密を暴かなければならないという残酷な現実。
「ごめんね、環奈...」
囁くような謝罪が、誰もいない生徒会室に虚しく響いた。夕暮れの光が、彼女の涙を赤く染めていく。