天屯。天屯。
 水の中から、薄い膜を隔てた向こう側の呼び声に目を開く。

天屯(たかみち)!」

 頬を叩かれて、飛び起きる。カラスの鳴声と鉛色の空。どこか生臭い匂いは、大きな雨雲が流れてきているせいか。

「やっと起きたか」
「よ、義人(よしと)……!」
「よし、第一段階はクリアだな。ここはマリア博士の潜伏先のホテルだ。裏口の鍵は花壇から取ってきた。支配人にバレる前にさっさと入るぞ」

 そう言ってシリンダーキーを食指の先で回してから、裏口の扉の鍵穴に挿し込む。鍵は開いて、小さくカチャリと音を立てる。俺を先に中へと押し込んだ義人がすばやく扉を閉めた。

「なんか本当にホラーゲームみたいやな……」

 あまりやったことはないが、建物の構造や空気感といったものが、どこからどう見てもそういう類いの「恐怖」に満ちている。
 俺の呟きに、すぐ背後にいる義人が「ゲームと違って、ここには攻略本もセーブポイントもないけどな」と小声で囁く。

「天屯、とりあえずホテルにいるマリア博士を探すぞ。マリア博士がハズレならEDEN装置がある施設に移動する。ホテル内にいる他の宿泊客や従業員には見つからないよう気をつけろ。物語の登場人物たちには出来る限り干渉しないほうがいい」
「わかった。あの、殺す……んすよね」
「マリア博士をか? 当然だろう。なんだ、今更怖じ気づいてんのか?」
「だって……ゲームもほとんどしたことがないのに、いきなり殺人をやれって」
「博士は護身用に拳銃を持っている。確実にこちらから先に仕掛けるぞ。絞殺でも殴るでも窓から突き落とすでもいい。相手は本の登場人物だ。ジャガイモを潰すくらいの気持ちで思い切りやれ。それが梟徒(きょうと)の仕事だ」
「もし、」
「なんだよ」
「もし、うまくいかんかったら……」
「うまくやんだよ。枝本内で致命傷を負えば、脳が痛みを記憶して、起きた時にショック死する場合もある。気張れよ」
「……わ、わかった」

 二人で中腰になってロビーを移動し、防火扉を数センチだけ開けてその先を確認する。アンティーク調の鳩時計が壁に掛かっているのが見えた。枝本内の時刻は、午前三時……たしか、ホテルの従業員の夜間見回りは三時半に行われるはずだ。

「よし、四階まで駆け上がるぞ」

 義人がそう言い、二段飛ばしで内階段を駆け上がる。俺も急いで後に続いた。四階の防火扉を少しだけ押して、客室廊下に人がいないかを顔だけを出して確認する。

「博士の客室は四〇一号室だったな……」 

 その時だった。
 ――バタン。
 ヒュッと息を吞む。四〇一号室から人が出てきた。俺は反射的に防火扉を引っ張った。閉まりきる直前で義人が肩で扉を押さえる。ギリギリで音が鳴ることはなかった。目を見開いて凄んでくる義人に「悪い」と口パクで謝罪する。ヒールが大理石の床を蹴る音が遠ざかってゆき、エレベーターホールがある方向に向かって音は消えた。
 義人が防火扉をゆっくりと押し、四階の客室廊下へと出る。

「博士が外に出たぞ……」

 幽霊でも見たかのような表情で義人が言い、四〇一号室のスチールドアを見上げる。俺も同じ気持ちだった。

「どうすんだ、義人。筋書きが違う」

 たしか、マリア博士は朝六時まで客室内でプログラムの改竄作業を行っているはずだ。

「落着け。これまで枝本の内容と介入した先の筋書きが違ってたことなんてなかった。何が起きてんだ……?」

 ――ウク、ウク……ウク。

「なんの音だ……?」

 義人が四〇一号室の扉から距離を取り、俺を背後に隠すようにして庇う。

「天屯、とりあえずお前は内階段でロビーまで駆け下りろ」
「でも、四〇一号室に何か……」
「いいから。ロビーにもしマリア博士がいたら、宿泊客を装って声を掛けてみろ。人気のないところまで連れ出せればパーフェクトだ。とにかくまずはマリア博士が核かどうかを試さねぇことにはな」

 義人が「行け」と顎をしゃくって促してくる。四〇一号室の扉から決して目を離さないようにしているその横顔を見つめていると、義人がふっと軽く笑って言う。

「あんまり緊張し過ぎんな。大丈夫だ。お前のことは俺が守る。何かやばいと思ったら、すぐ退散しろ。次のチャンスは必ずくる」
「……わかった」
「無茶だけはすんなよ。……ったく、我妻さんには後で大クレームだな。俺も客室の中を確認したらすぐにロビーに向かう。なに、俺がサポートについてんだ。絶対に任務はうまくいく。ほら、早く」
 
 義人に促され、内階段に続く防火扉を押しながら俺は口早に告げた。

「ありがとう。初任務に、義人がいてくれて本当によかった」
「うっせ。そういうのは後にしろ。嫌なフラグ立てんじゃねーよ。あと、義人じゃなくて義人先輩な。タメ口も初任務が終わったら容赦しねーから覚えとけよ」

 そう言って、義人が中指を立てて睨んでくる。俺は内階段を三段飛ばしで駆け下りた。