「『EDEN』……って俺の初任務の枝本、こんなに古い本なんすか?」
「だいたい五十年前くらい書かれた枝本だな。137頁まで暗記しろ。制限時間は十五分な」
「え?」
「まずはシナリオを理解できてなきゃ、ラスボスを倒すどころの話じゃねぇからな。ほら、早く読めよ。時間がねぇぞ」
目次の頁を開いて寄越され、慌てて腕時計の文字盤をチェックする。防水仕様の少し古いタイプのGショック。これをつけている時はいつも打率が良かった。そんなお守りの腕時計が示す時刻は午後4時14分。
「暗記系は苦手なんすけど……」
「つべこべ言うな。この仕事のスピードじゃあ、次にお前ひとりでやる時にゃ日が暮れるぞ」
欠伸をした義人が「まあ」と頭の裏に手をやる。
「色々説明したが、梟徒は志願して成るもんじゃねえし、勝手に選ばれて役を担う。金梟会を指揮する『榊様』が天啓を受けて、俺たちをこの世界に引き摺り込んだ。天屯。お前マジで気張れよ。新人なのに『EDEN』なんて中ボスを押しつけられたのは、上が完全にお前を殺す気だからだぞ」
「俺を? 殺すって、なんで」
「抹波さんの血を飲んで無事だったのはお前だけだ。喉から手が出るほど欲しい僥倖を手にしてるんだよ、お前は。このクソみたいな世界で抹波さんは唯一の救いなんだ。あの人が枝本を回収しているから人類はまだ滅んでないようなもんだ。他の梟徒の何万倍も仕事が早いし、力があるお人なんだよ。その人の血を飲んで無事だったんだぞ、お前。俺が飲んだとしても、きっと正気じゃいられねぇよ……」
その時だった。
準備室の中の空気が一瞬で変わり、線香の匂いが充満する。
「こんにちは」
その声とともに義人が素早く身構える。一呼吸遅れてパイプ椅子が床に転がった。俺が気付いた時には、施錠したはずの準備室の扉が開き、長身の男が立っていた。
「ああ、びっくりさせちゃったね。悪い悪い。気配を殺しておかないと抹波さんに勘付かれてしまうから」
そう言って、片手を上げて謝罪をしてくる。金梟会に所属する元公安の坊主――我妻大権が喪服姿でそこにいた。
「どうしたんですか、我妻さん」
顔馴染みに対して警戒を解いた表情を浮かべた義人が、拳を下ろす。
「珍しいじゃないですか。うちの高校に来るなんて」
「いやね、これから枝本に介入するんだろ。頼りの抹波先生は職員会議でお忙しい様子じゃないか。『張り番』がいないと不安だと思って、お手伝いにとね」
「……抹波さんからの指示では、介入は俺と天屯の二人で行なうようにと言われていますが」
「EDENはわりとレベルの高い枝本だよ。義人ひとりじゃサポートも大変だろう。じゃあ、時間がないから早速始めようか」
俺に向かって躊躇いなく歩み寄る我妻を、義人が止める。
「ちょっと待ってください、我妻さん」
「どうしたんだ?」
我妻の腕を掴んだ義人が「ははは」と笑う。
「枝本の内容をまだ把握もしてないんですよ。それに天屯はこれが初任務です。我妻さんのペースで進められたら困りますよ。ここは俺に任せてください」
「なるほど。それじゃあ、僕からEDENについて説明してあげよう」
「我妻さん」
「睨むなよ、義人。僕だってこの子に協力してあげたいと思っているんだ。貴重な新人君だからね。金梟会は常に人員不足だ。初任務で死んでもらっては困るだろ。それじゃあ、天屯君、まずは僕の目を見て」
我妻の褐色の手が日焼けした革表紙を開いた。いつの間にEDENを……俺が驚いている隙に、脳内に無数のイメージが流れ込んでくる。
「うっ……」
俺が頭を抱えて蹲ると、義人が「大丈夫か」と駆け寄ってくる。
「あは、過保護だねぇ」
我妻が軽く笑って、「心配ない。うまくいった証拠だ」と愉しげに続ける。
「枝本の中に介入するためには、物語に精神を没入させなければならない。それは文字通り、魂を枝本の中に介入させることだ。本来は地道に一文字ずつ読んで同じ作業を行なうけれど、今日は特別。僕が少しお手伝いして、EDENの内容を君の脳内に流し込ませてもらったよ」
我妻に言われ、俺は目を閉じたままリアルな映像を目の当たりにする。
「これが、EDEN……」
EDEN――とは、枝本の題目でもあり、最新医療用プログラムのことでもあった。最新医療用プログラムEDENが人類の生命維持を管理する世界の物語。
開発したのは、ドイツ人医療博士であるマリア博士であった。彼女はEDENからとあるデータをUSBメモリに保存して無断で持ち出し、国外のホテルに潜伏した。およそ百万人のデータが保存されたUSBメモリは、警察や医師会がこぞって捜索に当たった。何故彼女はデータを持ち出したのか。
マリアがEDENから盗んだデータは、極悪犯罪者たちのデータベースであった。マリアはサオラ(1992年にベトナムで発見されたレイヨウに似た動物)に狂信的な関心を抱く女性であった。サオラの発見は二十世紀における動物学の最大の発見であり、絶滅危惧種の保存が人類増殖よりも喫緊の使命であると考えていたマリアは、密猟者の存在に長年頭を悩ませてきた。持ち出したデータの中には密猟者のカルテも含まれていた。だが、百万のデータから密猟者だけを抜き出してゆく作業は途方もない時間を要する。その間にも、サオラは理不尽に狩り殺されてしまう。
「――物語終盤だ。マリアは警察に拘束され、盗んだデータもEDEN施設に戻される。しかし、マリアはEDENプログラムを改竄しており、百万人の犯罪者達は否応なく脳の外科治療を受ける結末を迎える」
我妻の声に引っ張られ、俺の意識は一瞬だけ現実に引き戻された。だが、すぐにEDENの物語に没入する。俺の脳内では、複雑な機械に囲まれた密猟者達が白いベッドで呻く映像が流れていた。
――彼等は側坐核を破壊する電極を頭に取り付けられ、断末魔の悲鳴を上げる。二度と神聖な果実(サオラ)を刈り取らないように。その悲鳴は、サオラの鳴声とよく似ていた……
EDENの物語が、終わった――俺はそれをはっきりと認知した。
我妻の声が暗い意識のトンネルの向こう側から、ぼんやりした光とともに近付いてくる。
「――まあ、核だと思われるのは、マリア博士もしくはEDEN装置本体。どちらから先に壊してもいいけど、天屯君って銃火器の取り扱い経験はある?」
「そんなものあるわけないでしょう」
答えたのは義人だった。俺はようやく目を開く。蛍光灯の白い光が、強烈に網膜を刺激してくる。俺はしばらく瞬きをゆっくりと繰り返した。
「天屯、EDENの筋書きがなんとなく理解できたか?」
「な、なんとか……」
「我妻さん、やっぱりもう少し時間をくれませんか。枝本の中で足手纏いが増えると俺も困るんですよ。張り番役の我妻さんも大変でしょうに」
「そうは言ってもね」我妻が退屈そうに下瞼を指で擦る。「EDENはすでに顕現してしまっているだろ? 金梟会のほうで東京にある関連施設は取り押さえてあるけど、米国のベンチャーがEDENと同じ試作プログラムに目を付けてしまっている。外交問題になると面倒だから早めに枝本の核を処理しろと。上からのお達しが、ね」
「……なるほど。上層部の命令で……。どうりで葬式帰りは仕事をしない主義なのに俺たちのところへ来たわけだ」
義人が面倒そうな表情でそう言ってから、情報過多でパンクしかけている俺の顔を覗き込んでくる。
「おい、天屯。すでに精一杯だろうが、いよいよ初任務だ。最初に説明した通り、EDENはすでに顕現が始まっている枝本だ。最新医療用プログラムEDENが東京の施設で現実化して、小さな混乱が起こり始めている。それをなんとかするのは、お前だ。天屯。できるか? できるよな。できるって言え」
そう告げる義人の迫力に気圧されながら、俺はなんとか「できる」と頷いた。
「わかった。男なら有言実行だ。かなり急ぎ足のチュートリアルだったが、EDEN回収を速やかに実行し、無事完遂するぞ。気張れよ、天屯!」
「は、はいっ」
「我妻さん。それじゃあ、よろしくお願いします」
義人が倒れたパイプ椅子を元に戻し、ゆっくりと腰を据えて座る。両手を組んで、膝の上に置き、精神統一のように「ふう」と深く息を吐いた。それに倣って、俺も急いでパイプ椅子に座り直す。
見よう見まねで俺も呼吸を整えようとして、心臓がドクリと大きく高鳴った。目の前の現実がビデオの早送りのように進んでいき、ふわふわとした浮遊感に襲われて、目頭を押さえる。
「ああ、かわいそうに。手が震えているね」
テーブルに置いた腕の震えを、我妻にからかわれる。
「無理もない。大した準備もないまま枝本に介入するんだから。漏らしてしまいそうなら、先にトイレに行ってきてもいいよ?」
大人の嫌なからかいの言葉に、俺は長机の茶色い木目をじっと見つめながら我妻に尋ねる。
「……腕を枕にして、机に突っ伏しても?」
「いいよ。怖いならそうしたほうがいい。なに、初めては緊張してこそだ。僕がここにいるから大丈夫だよ」
むしろ、我妻がいるからこその不安がある――なんては言えない。ここで弱音を吐いたら、きっと恐怖に負けてうまくEDENに介入できなくなる。
そんな俺の必死な様子に「肩の力を抜いて」と笑い、見張り番である我妻の長い指がEDENの表紙の上で印を結ぶ。
「目を瞑って」
俺は震える瞼を叱咤し、EDENに魂を委ねた。
「枝本『EDEN』……介入」
大粒の雨が窓を叩き付ける。最後に聞いたのは、そんな音だった。