「シホン……?」
「そう。2020年の殺人事件の死亡者数はおよそ307名。枝本による被害者数は2万7000名。記録は警察じゃなく金梟会が管理しているから、公に出ることはないけど。理由無き死は、ほとんどこの枝本が原因だ」
「理由無き死って……」
「観測的な死者も含めてさっきの被害者数だからね。枝本は今じゃなく、未来で惨劇を生むんだよ。オカルトだと思って聞いてくれればいい。君は多分、早々に離脱する運命だろうしね」
俺は我妻のその言葉に引っかかりを覚えたが、口を挟む隙もなかった。我妻は話を続けた。
「僕が現職警察官だった頃、公安という組織にいた。そこには、金梟会と繋がりを持つ人間が何人かいて、この世の悪と善をうまく循環させて世の秩序を保っている」
「公安……って、刑事ドラマとかで見る、あの」
「社会が機能し、公共の福祉が健全に継続するためには、時々欲望が人々の暮らしを破壊する必要がある。必要悪だよ。……枝本とは、人間の想像力の結晶のことさ。乱暴に言えば。思考の実現化装置だよ。作家が意図せずとも、物語が人を殺し欺し傷付ける狂気になる。枝本の暴走を止めるのが金梟会、もとい梟徒の仕事だ。受胎池で飛び出ていた足がそのひとつ。あの遺体は物理的に殺害されたわけじゃなく、誰かが書いた枝本のシナリオ通りに亡くなった。分かりやすくいえば、ミステリー小説に書かれたストーリー通りに現実でも人が亡くなっていく現象が起きている、ということ」
俺は目眩を覚えた。歪んだ視界の中にドイツ語を崩したような不思議な文字が見えて、それがまるで花の蜜で、自分は蜜蜂になったかのような錯覚に陥った。気付けば指を伸ばしていた。
「おっと」
我妻が文庫本をスーツの内側へと仕舞う。
「君、危ういな。修学旅行とかで、呪いの掛け軸なんかを率先して見に行くタイプだろ? 触らぬ神に祟りなしだぞ」
我妻が椅子から立ち上がる。
「しかし、思ったより早かったなぁ」
その声が嬉しさを隠せずにいるのが伝わってくる。褐色肌でいて顔の彫りは深く、右の健常な目は青みがかっている。我妻という男は、義眼を含め恐ろしく見栄えの良い男だった。片手を挙げて、マツセンの名前を呼ぶ。
「抹波さーん」
我妻の視線の先を振り返ると、喫煙所の外でマツセンがぼうっと立って俺たちを見ていた。いつからそこに居たのだろうか。マツセンは我妻を一瞥してから、喫煙所のドアを開けて俺のもとへと駆け寄ってくる。
「天屯君。無事だったんだね。よかったよ」
そう言って、口元に笑みを浮かべる。金木犀の匂いを感じて、俺はようやく肩から力を抜いた。
「マツセン、俺、なんか瞬間移動しちまって……」
「うん。大丈夫だよ。我妻さんの乱暴な術のせいだから。結界の外まで出て探したよ。まさか喫煙所にいるとはね」
マツセンが腕を広げて俺にハグをする。スポーツマンが好むスキンシップと似ていて、俺はそれに抵抗を感じなかった。
「こんなところにいたら肺を悪くする。さあ、用は済んだから外に出ようか。ごめん、待たせちゃったね」
「妬けるなぁ」
我妻だ。喫煙所のガラス戸を押しながらマツセンの肩に触れる。
「じゃあ、これで貸しは一つ」
俺はその動作に胸の内にくすぶるものを感じた。さっさと出て行けばいいのに――俺がそう思っていると、出て行こうとする我妻の腕をマツセンが止めた。
「珍しく私に絡んできたのはどういう意図です?」
マツセンの問いに、我妻は淡々と答える。
「金梟会は僕の籍をまだ残しているんだから出入りは自由だろ。そう睨まずに。せっかく天屯君のお守りをしてあげたのに。君こそ、僥倖を頼る生き方は御免だと言っておきながら、偶然出会った少年で何をしようと企んでいるのかな。教師ごっこもいいけれど、欲張りは身を滅ぼすかもよ。大人しく犬を演じていたほうが楽だと思うけど」
我妻の言葉に、マツセンは「相変わらず話が長い」と言った。我妻は肩を竦めて「また大祓のときに」と背を向けた。
我妻が立ち去り、俺は「あの人、何者なんすか」とマツセンのジャージを引っ張る。
「まあ……とりあえず地上で話そうか。ここは空気が悪くて気が滅入る」
マツセンが、前髪を掻きあげる。疲れた表情だった。
「マツセン」
「うん?」
俺は「大丈夫っすか」と声を掛けるつもりだった。
「めっちゃくちゃ、イケメンっすね」
俺の漏れた本音に、マツセンが右手を額の上に乗せたままパチパチと目を瞬く。
「……我妻さんが? あれはイケメンじゃないよ」
「え? いや、あの人もぶっ飛んだ美形でしたけど……そうやなく、マツセンが」
何故長い前髪で隠すのかと不思議なほど、あっさりとした美丈夫の顔が呆けていた。
「天屯君……君、天然だって言われないかい?」
「言われないっすけど……。マツセン、もし疲れてるなら、これ。カルピスなんすけど」
俺がカルピスの缶ジュースを差し出した時、天井から澄んだ鈴の音が鳴った。
『榊様より主命を下す。天屯蓮八』
マツセンの口が「しまった」と動いた。額に乗せた右手を動かそうとしているが、その皮膚に血管の筋が浮き上がっている。俺は咄嗟にマツセンが動けないのだと察した。
『神聖なる使命を与える。枝本【EDEN】を回収せよ。主命を反故すれば、側坐核を捧げてもらう』
「そくざかく?」
俺は隣で硬直したままのマツセンを見た。顕わになった額には脂汗が浮かび、充血した目には生理的な涙が浮かんでいる。自由の利かない身体で俺に何かを伝えようとしているのか、唇が小さく震える。
「何、なんすか、マツセン」
「…………っ」
「マツセン、話せないんすよね。動けないんすよね。それ、俺が何かしないと解けないんすよね?」
俺が畳み掛けると、マツセンが「待て」と唇を動かす。
いや、待たない――俺は捕手だ。試合はいつだって捕手がサインを出さないと始まらない……って、こういう独り善がりな考え方が受け入れてもらえなくて部でも友達ができなかったのに、俺はまたやってしまうのか。だけど、口は止まらない。
「何核か知らんけどな……いいよ。何でもしてやるよ。本探しをすればいいんだろ? だからマツセンを解放しろよ!」
答えながら、マツセンの顔を見つめる。望んだ結果を得た表情ではなさそうだった。
『ようこそ、我らが金梟会へ』
御影石の壁から新しい梟面の男が出てきて、青白い掌を見せてくる。そこに手を合わせろと言いたいらしい。俺はあらゆる後悔を思いついてしまう前に、その手の上に拳を叩き付けた。
ジ、と焦げた匂いが鼻につく。掌に焼き付いた三角形を見て、眼球が勝手に上を向く。世界は呆気なく裏返った。
「そう。2020年の殺人事件の死亡者数はおよそ307名。枝本による被害者数は2万7000名。記録は警察じゃなく金梟会が管理しているから、公に出ることはないけど。理由無き死は、ほとんどこの枝本が原因だ」
「理由無き死って……」
「観測的な死者も含めてさっきの被害者数だからね。枝本は今じゃなく、未来で惨劇を生むんだよ。オカルトだと思って聞いてくれればいい。君は多分、早々に離脱する運命だろうしね」
俺は我妻のその言葉に引っかかりを覚えたが、口を挟む隙もなかった。我妻は話を続けた。
「僕が現職警察官だった頃、公安という組織にいた。そこには、金梟会と繋がりを持つ人間が何人かいて、この世の悪と善をうまく循環させて世の秩序を保っている」
「公安……って、刑事ドラマとかで見る、あの」
「社会が機能し、公共の福祉が健全に継続するためには、時々欲望が人々の暮らしを破壊する必要がある。必要悪だよ。……枝本とは、人間の想像力の結晶のことさ。乱暴に言えば。思考の実現化装置だよ。作家が意図せずとも、物語が人を殺し欺し傷付ける狂気になる。枝本の暴走を止めるのが金梟会、もとい梟徒の仕事だ。受胎池で飛び出ていた足がそのひとつ。あの遺体は物理的に殺害されたわけじゃなく、誰かが書いた枝本のシナリオ通りに亡くなった。分かりやすくいえば、ミステリー小説に書かれたストーリー通りに現実でも人が亡くなっていく現象が起きている、ということ」
俺は目眩を覚えた。歪んだ視界の中にドイツ語を崩したような不思議な文字が見えて、それがまるで花の蜜で、自分は蜜蜂になったかのような錯覚に陥った。気付けば指を伸ばしていた。
「おっと」
我妻が文庫本をスーツの内側へと仕舞う。
「君、危ういな。修学旅行とかで、呪いの掛け軸なんかを率先して見に行くタイプだろ? 触らぬ神に祟りなしだぞ」
我妻が椅子から立ち上がる。
「しかし、思ったより早かったなぁ」
その声が嬉しさを隠せずにいるのが伝わってくる。褐色肌でいて顔の彫りは深く、右の健常な目は青みがかっている。我妻という男は、義眼を含め恐ろしく見栄えの良い男だった。片手を挙げて、マツセンの名前を呼ぶ。
「抹波さーん」
我妻の視線の先を振り返ると、喫煙所の外でマツセンがぼうっと立って俺たちを見ていた。いつからそこに居たのだろうか。マツセンは我妻を一瞥してから、喫煙所のドアを開けて俺のもとへと駆け寄ってくる。
「天屯君。無事だったんだね。よかったよ」
そう言って、口元に笑みを浮かべる。金木犀の匂いを感じて、俺はようやく肩から力を抜いた。
「マツセン、俺、なんか瞬間移動しちまって……」
「うん。大丈夫だよ。我妻さんの乱暴な術のせいだから。結界の外まで出て探したよ。まさか喫煙所にいるとはね」
マツセンが腕を広げて俺にハグをする。スポーツマンが好むスキンシップと似ていて、俺はそれに抵抗を感じなかった。
「こんなところにいたら肺を悪くする。さあ、用は済んだから外に出ようか。ごめん、待たせちゃったね」
「妬けるなぁ」
我妻だ。喫煙所のガラス戸を押しながらマツセンの肩に触れる。
「じゃあ、これで貸しは一つ」
俺はその動作に胸の内にくすぶるものを感じた。さっさと出て行けばいいのに――俺がそう思っていると、出て行こうとする我妻の腕をマツセンが止めた。
「珍しく私に絡んできたのはどういう意図です?」
マツセンの問いに、我妻は淡々と答える。
「金梟会は僕の籍をまだ残しているんだから出入りは自由だろ。そう睨まずに。せっかく天屯君のお守りをしてあげたのに。君こそ、僥倖を頼る生き方は御免だと言っておきながら、偶然出会った少年で何をしようと企んでいるのかな。教師ごっこもいいけれど、欲張りは身を滅ぼすかもよ。大人しく犬を演じていたほうが楽だと思うけど」
我妻の言葉に、マツセンは「相変わらず話が長い」と言った。我妻は肩を竦めて「また大祓のときに」と背を向けた。
我妻が立ち去り、俺は「あの人、何者なんすか」とマツセンのジャージを引っ張る。
「まあ……とりあえず地上で話そうか。ここは空気が悪くて気が滅入る」
マツセンが、前髪を掻きあげる。疲れた表情だった。
「マツセン」
「うん?」
俺は「大丈夫っすか」と声を掛けるつもりだった。
「めっちゃくちゃ、イケメンっすね」
俺の漏れた本音に、マツセンが右手を額の上に乗せたままパチパチと目を瞬く。
「……我妻さんが? あれはイケメンじゃないよ」
「え? いや、あの人もぶっ飛んだ美形でしたけど……そうやなく、マツセンが」
何故長い前髪で隠すのかと不思議なほど、あっさりとした美丈夫の顔が呆けていた。
「天屯君……君、天然だって言われないかい?」
「言われないっすけど……。マツセン、もし疲れてるなら、これ。カルピスなんすけど」
俺がカルピスの缶ジュースを差し出した時、天井から澄んだ鈴の音が鳴った。
『榊様より主命を下す。天屯蓮八』
マツセンの口が「しまった」と動いた。額に乗せた右手を動かそうとしているが、その皮膚に血管の筋が浮き上がっている。俺は咄嗟にマツセンが動けないのだと察した。
『神聖なる使命を与える。枝本【EDEN】を回収せよ。主命を反故すれば、側坐核を捧げてもらう』
「そくざかく?」
俺は隣で硬直したままのマツセンを見た。顕わになった額には脂汗が浮かび、充血した目には生理的な涙が浮かんでいる。自由の利かない身体で俺に何かを伝えようとしているのか、唇が小さく震える。
「何、なんすか、マツセン」
「…………っ」
「マツセン、話せないんすよね。動けないんすよね。それ、俺が何かしないと解けないんすよね?」
俺が畳み掛けると、マツセンが「待て」と唇を動かす。
いや、待たない――俺は捕手だ。試合はいつだって捕手がサインを出さないと始まらない……って、こういう独り善がりな考え方が受け入れてもらえなくて部でも友達ができなかったのに、俺はまたやってしまうのか。だけど、口は止まらない。
「何核か知らんけどな……いいよ。何でもしてやるよ。本探しをすればいいんだろ? だからマツセンを解放しろよ!」
答えながら、マツセンの顔を見つめる。望んだ結果を得た表情ではなさそうだった。
『ようこそ、我らが金梟会へ』
御影石の壁から新しい梟面の男が出てきて、青白い掌を見せてくる。そこに手を合わせろと言いたいらしい。俺はあらゆる後悔を思いついてしまう前に、その手の上に拳を叩き付けた。
ジ、と焦げた匂いが鼻につく。掌に焼き付いた三角形を見て、眼球が勝手に上を向く。世界は呆気なく裏返った。