暗闇の中、滔々と流れる滝の音だけが響いている。周りは黒い御影石で囲まれていて、赤いギヤマンの光が真っ黒な道後温泉本館を幽霊のように浮かび上がらせる。俺が呆然としていると、ひとりの男が現れた。黒の袈裟を着て、顔には梟の面をつけている。

「あれは『梟徒(きょうと)』だよ」耳元でマツセンが小声で告げてくる。「とりあえずぼうっと突っ立っといて」

 梟徒……というのは一体何だ。それを問う前に、マツセンが梟面の男に向かって歩き出した。

夾卦(きょうか)、止まれ」

 男に言われて、マツセンが足を止める。赤いギヤマンの光が眩しくて、俺は目を手で庇いながらその様子をうかがう。マツセンや男はあの強烈な光が気にならないのだろうか。

「裏切り者はどうなった?」

 男が尋ねる。

「死にましたよ」

 マツセンのアルトの声は冴え返って暗闇に反響する。

「胃癌で闘病中だった元警察官の梟徒(きょうと)です。この前の新宮村の『枝本(しほん)』の調査で金梟会(きんきょうかい)上層部の閉鎖性と腐り具合が露呈してしまったことは心から同情しますが、まさか保身のために私の血を売るとは思いませんでした。だから警察は内部に入れるなと申し上げたのに。我妻(あがつま)のことを忘れたんですか。組織が内から壊されますよ」
「彼はまだ金梟会所有の梟徒だ。彼の協力的な姿勢は評価に値する」
「どうなんですかね……善人至上主義の金梟会とは真逆を生きる男ですから」
「お前の血はどうしたんだ」

 俺はその言葉にどきりとした。数メートル先に立っているマツセンが、御影石の床に膝をつく。道後温泉本館によく似た建物の入り口で、背中の蓮の花が見えなくなった。俺は大人が土下座をする姿を初めて目の当たりにした。

「誠に申し訳ございませんでした」

 マツセンが謝罪する。

「どういうことだ?」

 男が問い掛けると、マツセンは膝の埃を手で払いながらあっさり立ち上がった。

「賄賂として売却された私の血は回収出来ませんでした。と、いう意味です。……が、私の血を飲んで無事だった青年を保護しています。新宮村で回収しそびれたもう一つの枝本『EDEN』は、彼がいたほうが解決が早そうですよ」
「お前が飲ませたのか?」
「まさか。駆けつけた時には彼は血を飲まされた後だった。いたって平凡な男子高校生で、特に害はありません。素直でいい子ですよ。というか、全部知っていますよね。うちの優秀な運転手が報告していますから。じゃあ、謝罪もしましたし。すべては不問ということで」
「貴様は金科玉条に違反した。懲罰房に入れ」

 男が言うと、マツセンが両手を挙げて、反っくり返って俺を見る。

「まあ入るのはいいんですけどね。……彼をどうするんですか。まさか今から拷問したりしませんよね。せっかく私の一番弟子候補にしたばかりなのに」

 俺は思わず後ずさった。懲罰房や拷問といった言葉に知らず足が震える。

「――それなら、僕が面倒を見ておきますよ」

 急に背後から声が聞こえたかと思うと、俺は見知らぬ男の腕の中にいた。線香の匂いが鼻の奥まで充満する。堅い筋肉によって喉仏が圧迫され、息が出来なくなる。

「の、喉が……ッ」
「我妻さん、帰ってきてたんですか」

 マツセンが冷たい声音で呟く。俺は男の腕を必死に首から外させた。ようやく息ができたかと思いきや、安堵する暇もなく今度は170センチある俺の身体は軽々と肩に担ぎ上げられた。突然の浮遊感に、咄嗟にスーツの肩をわし掴む。自動販売機の上から見下ろしてもこうはならないだろうという高さに、俺は眼下にあるマツセンに手を伸ばした。

「マ、マツセン……なんすか、このひと!」
「マツセ……? ふ、ふふっ」

 我妻という男が俯いて笑ったせいで、俺の身体も男の肩の上で不安定に揺れる。

「う、うわっ、落ちっ……!」
「我妻さん。彼を離してください。面倒を見るっていうのがそういうことなら、関わらないでいてくれたほうが助かります」
「いや、悪いね……マツセンね。そうか。抹波さんは今教職に就いているから。まったく似合わないことをするね。はは、その目が怖いなぁ。望み通り離すからゆるしてよ」

 俺は「あう」と情けない声を漏らし、御影石の上に着地した。正確に言えば、負傷した右足を庇い、左足で無理に体重を支えたせいで左足首を捻挫し、その場に蹲った。

「おや。この子、本当に君の血を飲んだの?」

 革靴の爪先で捻挫した左足をちょいちょいと突かれ、俺は歯を食い縛って立ち上がった。

「こ、転んだだけだし……」

 俺が睨み付けると「我妻大権だよ」と名乗った男はスーツの内ポケットから一冊の本と小銭入れを取り出し、「コーラは好き?」と尋ねてきた。
 俺が首を傾げていると、いつの間にか御影石だらけの薄暗い景色から狭い喫煙所に場所が移動していた。

「は……瞬間移動?」

 喫煙所には四つの椅子があり、二脚は壊れていた。自動販売機が一台あって、そこに小銭を投入している我妻が俺を振り返って言う。

「瞬間移動というか、空間がこっちに寄ってきたっていうかんじかな」
「空間が寄ってきた……?」
「あ、コーラも紅茶花伝も売り切れだ。カルピスでもいい?」

 俺の話をまったく聞いていない。陽気な鼻唄を口ずさむ我妻がカルピスの缶ジュースを手渡してくる。俺は手品でも見せられたような気分で周囲を見渡した。

「……たしかに、さっきまで真っ暗な地下みたいなところにおったのに……」

 俺が動揺して呟くと、「まあ、とりあえず座ったら」と声を掛けられる。
 どこに座っても我妻の足にぶつかるので、俺は壁に背を預けて立った。

「ごめんね。僕の足が邪魔で」

 我妻の組んだ足がプラプラと上下に揺れる。狭い個室でカルピスの缶を手に、俺は黒のフォーマルスーツを着た男を見下ろした。組んだ足を揺らして「やっぱり紅茶花伝のほうがよかったかな?」と尋ねてくるその左目は義眼であるらしい。白濁した黒目がそっぽを向いている。
 俺は缶を握り締めて、我妻に尋ねた。

「マツセンは今、どこにおるんすか。俺たちだけ瞬間移動しちまって……」
「ああ、二時間くらいで終わるよ。長いと半日かかるけどね……懲罰房に入るくらいならこんなガキ見捨てておけばよかったのに」

 我妻が煙草の先を缶コーヒーの飲み口に寄せ、ノックをするように上下に軽く振る。たしか、中身はまだ残っていたはずだ。

「……お里が知れますけど」
「ふふ、ふ」

 煙草を咥えたまま我妻が俯く。茶髪の髪は額が見えるようにワックスで後ろに撫で付けられている。だが、片側だけだ。垂れた前髪が緩く揺れると、シトラスの匂いがした。我妻が顔を上げる。

「こんなことで生まれや育ちが分かったら、堪ったもんじゃないなぁ」
「先生はどこに」

 我妻が気怠げに紫煙を吐く。俺は煙を避けるために顔を壁側に背けた。

「あーあ……しつこいね。だから懲罰房にいるって。僕の元部下が新宮村で任務を失敗した上に受胎池で抹波さんの血を味見しちゃったもんでね。警察としては別に賄賂なんて頂かなくてもこれからも金梟会には協力させてもらうつもりなのに。だけど建前ってもんがあるだろ。だから、一連のことは僕の部下の不手際じゃなくて、抹波さんの不手際にしときたいんだ。どう考えても、僕の部下の失態だけどね。嫌な大人の世界だよ」

 我妻が薄い下唇を指先で擦りながら笑って言う。
 俺は、信じられない思いで我妻を指差す。

「あんた、まさか警察官……?」
「元、ね。今は坊主をやっているよ。信仰心がない生臭坊主。抹波さんの血は、不老不死を叶える僥倖(ぎょうこう)なんだよ。それで多くの血が流れるくらいにね。真偽はどうあれ」
「ぎょうこう……」
「単語の意味が分からなかったら、後で携帯を使って調べてみれば。若いから、そういうのは得意なんでしょ?」

 我妻がスーツの内ポケットに手を差し込み、一冊の文庫本を取り出す。表紙が破れているそれを、顔の横に掲げてみせた。

「これが『枝本(しほん)』だ」