運転手から速やかに降りるように指示され、俺はタクシーから慌てて降車した。俺とマツセンを降ろすとタクシーはすぐに発車し、奥道後の坂を上っていった。
「ほんとに道後温泉に来たんすか……」
道後温泉本館――日本三古湯のひとつとされ、万葉集や夏目漱石の「坊ちゃん」にも登場した三千年の歴史をもつとされる歴史ある共同温泉である。言わずと知れた松山市の観光スポットで、俺は隣に立つマツセンを呆然と見上げた。
「湯治をしろって意味っすか……?」
「ほら、こっちにおいで」
マツセンの手招きに導かれ、俺は慌てて蓮の花を追いかけた。マツセンの着ている臙脂色のジャージには、一輪の蓮の花がバックプリントされている。それが捻れて、長い前髪に隠れた青白い顔が振り返る。
「ここ。九センチ九ミリの入り口をイメージして。すぐ中に入ってもらえるかな。もう五分は遅刻しちゃっててさ」
「きゅうせんち、きゅう……入り口?」
マツセンの食指が示したところは、ただの「空中」だった。
道後温泉本館に隣接する建物の壁に背を預けて、口元に笑みを浮かべて俺を見てくる。歩行者の休憩用に設置された木造ベンチと建物の間には、通行人がすれ違える程度の空間があった。そこを、指さしている。
「な、なんの入り口すか?」
「九センチ九ミリの入り口をイメージしてみて」
いや、だから――俺は言いかけて口ごもる。マツセンはジャージのジッパーを下ろし、胸元を漁ってから「あったあった!」とアルミ製の三角定規を取り出した。
「目盛りが見えるかな~。大きさは正確にイメージしてね~」
「いや入り口って……あの、道後温泉の入り口は向こうにありますけど……?」
「天屯君。今、君はいくつかある阿弥陀籤の線の上に立たされているんだけれど」
「え?」
「自分の人生を変えたいと思ったことはないかい。一度死んで生まれ変われたとしたら、こんなふうに生きてみたかったかとか考えたことはない? 今流行ってるんでしょ、転生したらとか、異世界に行ったらとか」
「……ラノベは読まないんで、ちょっと」
「ご母堂は小説家なんでしょ。大作家の息子なら、ちょっと挑戦してみてよ。イメージするくらいタダでしょ。そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
マツセンの言葉に、俺は拳を握ってから目の前の空中を睨みつけた。だから、俺は本は好きじゃないんだって……内心苛々しながら、視界の端にいるマツセンを見る。マツセンの期待には応えたい……だが、俺は頭を振った。
「だめだ……ムリっす。まず入り口の意味が分からないです。これって何すか。そういう宗教とか、俺はあんまり……って、うおっ」
俺の足下を野良猫が横切った。白と黒のぶちだった。その時、ふと脳裏に、先々週に訪れたキャットカフェのことが思い出された。カフェには猫用の入り口というものがあった。壁に空いた正方形の穴は不自然な光景だったが、猫が通った瞬間、それは「自然な穴」に変わった。
「あっ……」
わかる、気がする。なんとなくだが、俺は前方に手を伸ばした。指先に何かが触れた――その瞬間、野球に没頭している時に体感するゾーンに似た感覚に陥った。
九センチ九ミリの穴を「見ようとする」のではなく「見る」。俺は架空のスポーツタオルを両手で握った自分を想像した。毎朝の日課であるスイングの練習のとおりに、指を一本ずつ折り畳んでゆく。生地の手触り、摩擦の感触、フィット感、洗濯洗剤の匂い、どこにどう力を入れれば、どう反応があるのか。
――右腕が入る。
俺は直感のままに右手を伸ばした。「何か」に引っ掛かった。
「うまい」
マツセンの昂揚した声が聞こえた。目の前の「穴」と「右手」に集中しているのに、マツセンの気配は心地よく身体に馴染んでいる。まるでもう一人の自分が俯瞰してこちらを見守ってくれているかのように。
「この入り口は、『横』に開く?」
俺は早口でそう問い掛けていた。打者としてバッターボックスに立つ時、打てるかどうかはバットを握った時から分かっていた。直感だ。勘所とも言える。勘所とはセンスと別の線上にあり、それは経験と失敗の数が多いほど研ぎ澄まされるものだ。これを分かっていないと、良いバッターにはなれない。
「うん。でも、入り口の形は自由でいいよ。丸でも、三角でも。天屯君、もうひとつヒントを。想像力の話だよ。ドーパミンの分泌で人は『欲する』動物になる。君はよく知っているよね。もっと欲してみて。そうすれば、何度も反復できる。人の強さとは求める意志の硬度と大きさ。強さとは、心の姿勢だ」
「なんの、話、っすか」
「君はこれから金梟会という少々厄介な世界に招かれる予定だ。意志が弱い人間は簡単に死にやすい。強引に連れてきてなんだけど、今なら引き返せるよ?」
「俺にまだ、選択権があったんすか……」
左手も何かを掴んだ。壊れた自動ドアを両手で無理矢理こじ開ける時に似ている。かなりの握力が必要だが、開かないということはない。目には見えない入り口が、たしかに開こうとしている。
マツセンの匂いが近付いた。金木犀の匂いだ。背中に蓮の花を背負っているくせに、金木犀の慈愛に満ちた香りを纏って俺を背後から抱き締める。
「集中して」
この状況でか――俺は喉元まで出掛かった言葉をグッと吞み込み、他人の髪の毛先が耳の中に入ってくる擽ったさに首を横に傾けた。
「これも今更だけど、今後君が説明のつかない死に方をすることがあるかもしれないけど、無名の死に終わるから世間体は気にしなくていいよ」
「それはよく分かんないっすけど……右足も入りそう、っす」
「頭蓋が半分に割れて、そこから赤い光が流れ込んでくるイメージはできる?」
「あ」
「君ほんとうまいね」
マツセンの声が遠ざかる。金木犀の匂いが前方に移った。俺はそこで目を開けた。
「おめでとう。天屯君。君は今日から私の一番弟子候補だ」
道後温泉の極秘地下施設か、それとも別の異世界か。天井に蓮の花が咲く暗闇の中で、深紅に光る振鷺閣の赤いギヤマンが目の前にいるマツセンの顔を赤く照らしだしていた。
「ほんとに道後温泉に来たんすか……」
道後温泉本館――日本三古湯のひとつとされ、万葉集や夏目漱石の「坊ちゃん」にも登場した三千年の歴史をもつとされる歴史ある共同温泉である。言わずと知れた松山市の観光スポットで、俺は隣に立つマツセンを呆然と見上げた。
「湯治をしろって意味っすか……?」
「ほら、こっちにおいで」
マツセンの手招きに導かれ、俺は慌てて蓮の花を追いかけた。マツセンの着ている臙脂色のジャージには、一輪の蓮の花がバックプリントされている。それが捻れて、長い前髪に隠れた青白い顔が振り返る。
「ここ。九センチ九ミリの入り口をイメージして。すぐ中に入ってもらえるかな。もう五分は遅刻しちゃっててさ」
「きゅうせんち、きゅう……入り口?」
マツセンの食指が示したところは、ただの「空中」だった。
道後温泉本館に隣接する建物の壁に背を預けて、口元に笑みを浮かべて俺を見てくる。歩行者の休憩用に設置された木造ベンチと建物の間には、通行人がすれ違える程度の空間があった。そこを、指さしている。
「な、なんの入り口すか?」
「九センチ九ミリの入り口をイメージしてみて」
いや、だから――俺は言いかけて口ごもる。マツセンはジャージのジッパーを下ろし、胸元を漁ってから「あったあった!」とアルミ製の三角定規を取り出した。
「目盛りが見えるかな~。大きさは正確にイメージしてね~」
「いや入り口って……あの、道後温泉の入り口は向こうにありますけど……?」
「天屯君。今、君はいくつかある阿弥陀籤の線の上に立たされているんだけれど」
「え?」
「自分の人生を変えたいと思ったことはないかい。一度死んで生まれ変われたとしたら、こんなふうに生きてみたかったかとか考えたことはない? 今流行ってるんでしょ、転生したらとか、異世界に行ったらとか」
「……ラノベは読まないんで、ちょっと」
「ご母堂は小説家なんでしょ。大作家の息子なら、ちょっと挑戦してみてよ。イメージするくらいタダでしょ。そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
マツセンの言葉に、俺は拳を握ってから目の前の空中を睨みつけた。だから、俺は本は好きじゃないんだって……内心苛々しながら、視界の端にいるマツセンを見る。マツセンの期待には応えたい……だが、俺は頭を振った。
「だめだ……ムリっす。まず入り口の意味が分からないです。これって何すか。そういう宗教とか、俺はあんまり……って、うおっ」
俺の足下を野良猫が横切った。白と黒のぶちだった。その時、ふと脳裏に、先々週に訪れたキャットカフェのことが思い出された。カフェには猫用の入り口というものがあった。壁に空いた正方形の穴は不自然な光景だったが、猫が通った瞬間、それは「自然な穴」に変わった。
「あっ……」
わかる、気がする。なんとなくだが、俺は前方に手を伸ばした。指先に何かが触れた――その瞬間、野球に没頭している時に体感するゾーンに似た感覚に陥った。
九センチ九ミリの穴を「見ようとする」のではなく「見る」。俺は架空のスポーツタオルを両手で握った自分を想像した。毎朝の日課であるスイングの練習のとおりに、指を一本ずつ折り畳んでゆく。生地の手触り、摩擦の感触、フィット感、洗濯洗剤の匂い、どこにどう力を入れれば、どう反応があるのか。
――右腕が入る。
俺は直感のままに右手を伸ばした。「何か」に引っ掛かった。
「うまい」
マツセンの昂揚した声が聞こえた。目の前の「穴」と「右手」に集中しているのに、マツセンの気配は心地よく身体に馴染んでいる。まるでもう一人の自分が俯瞰してこちらを見守ってくれているかのように。
「この入り口は、『横』に開く?」
俺は早口でそう問い掛けていた。打者としてバッターボックスに立つ時、打てるかどうかはバットを握った時から分かっていた。直感だ。勘所とも言える。勘所とはセンスと別の線上にあり、それは経験と失敗の数が多いほど研ぎ澄まされるものだ。これを分かっていないと、良いバッターにはなれない。
「うん。でも、入り口の形は自由でいいよ。丸でも、三角でも。天屯君、もうひとつヒントを。想像力の話だよ。ドーパミンの分泌で人は『欲する』動物になる。君はよく知っているよね。もっと欲してみて。そうすれば、何度も反復できる。人の強さとは求める意志の硬度と大きさ。強さとは、心の姿勢だ」
「なんの、話、っすか」
「君はこれから金梟会という少々厄介な世界に招かれる予定だ。意志が弱い人間は簡単に死にやすい。強引に連れてきてなんだけど、今なら引き返せるよ?」
「俺にまだ、選択権があったんすか……」
左手も何かを掴んだ。壊れた自動ドアを両手で無理矢理こじ開ける時に似ている。かなりの握力が必要だが、開かないということはない。目には見えない入り口が、たしかに開こうとしている。
マツセンの匂いが近付いた。金木犀の匂いだ。背中に蓮の花を背負っているくせに、金木犀の慈愛に満ちた香りを纏って俺を背後から抱き締める。
「集中して」
この状況でか――俺は喉元まで出掛かった言葉をグッと吞み込み、他人の髪の毛先が耳の中に入ってくる擽ったさに首を横に傾けた。
「これも今更だけど、今後君が説明のつかない死に方をすることがあるかもしれないけど、無名の死に終わるから世間体は気にしなくていいよ」
「それはよく分かんないっすけど……右足も入りそう、っす」
「頭蓋が半分に割れて、そこから赤い光が流れ込んでくるイメージはできる?」
「あ」
「君ほんとうまいね」
マツセンの声が遠ざかる。金木犀の匂いが前方に移った。俺はそこで目を開けた。
「おめでとう。天屯君。君は今日から私の一番弟子候補だ」
道後温泉の極秘地下施設か、それとも別の異世界か。天井に蓮の花が咲く暗闇の中で、深紅に光る振鷺閣の赤いギヤマンが目の前にいるマツセンの顔を赤く照らしだしていた。