◆◇◆

「おや、目が覚めた?」

 俺は聞こえてきた声に、ベッドから慌てて起き上がった。

「うっ……」

 ぐわりと歪んだ視界にこめかみを手で押さえる。眼鏡……と思って、そういえば受胎池の中に落としてきたのだと思い出す。まだ頭の奥がジンジンと痺れている。おそるおそる顔を上げると、真っ白な病室の壁際に、黒髪短髪でくせ毛の男が立っていた。臙脂色のアディダスのジャージに、黒のスラックス。そこに合わせたオニツカタイガーの黄色のシューズが教師らしからぬ派手な色味で、俺はその人物に「どうして」と目を見開いた。

「なんでマツセンが……」
「よし。吐き気が落ち着いたなら、そろそろ行こうか」

 そう言って、長い前髪で目元を隠した青白い顔が笑む。黒いハンカチを持った手が近付いてきて、俺の口元を乱暴に拭う。吐いたスクランブルエッグが少しついていたらしい。ハンカチからは煙草の匂いがした。
 ベッドに敷かれた白いシーツが波打って、マツセンが俺の肩に手を回す。

「立てるかな。靴のサイズはそれで合うよね?」

 そう言って、ベッドの下を指差す。見ると、新しいスニーカーが用意されていて、それを履くようにと言われる。

「サイズは合う……と思いますけど……これ、買ってきてくれたんすか?」
「あとシャツと学ランも着て。君が着ていたのは泥汚れが酷いから捨てちゃった。ごめんね」

 そう言って手渡された綺麗な白シャツと学ランの上着に、俺は言われるがまま袖を通す。スラックスを穿こうとして、タグに書かれた名前を見つけた。まさか、と思いマツセンに尋ねる。

「あの、これって別の生徒の……?」

 よく見ると、スニーカーの底にも同じ名前がマジックペンで書かれてある。
 マツセンが「あちゃー」と後頭部を掻く仕草を見せながら言う。

「バレちゃったかー。でもスニーカーは君が愛用しているブランドと同じだし、制服はサイズも合ってるし、別にいいよね?」

 そう言った目の前の人物を、俺は困惑しながら見上げる。石鎚高校の国語教師、抹波(まつなみ)夾卦(きょうか)で違いなかった。

「あの、なんでマツセンが迎えに来てくれたんすか……?」
「ああ、君のクラスの担任、ちょっと急がしそうだったから。代わりにね」
「そう、なんすか……」
「あれ、ごめん。やっぱりサイズが合わなかった? うちの高校の男子の学生服、今在庫がないみたいでさ。それ、遺品なんだよね。今朝、君の同級生が交通事故で亡くなったでしょ。あ、天屯君は受胎池で死にかけていたから知らないのか」
「え? 遺品?」
「そう。でも別に嫌じゃないでしょ?」
「い、嫌っていうか……情報が、その、多すぎて……」
「あ、そーだそーだ。眼鏡もちゃんと修復しておいたからね」

 赤いフレームの眼鏡をどこからか取りだしたマツセンの左手が、俺の鼻先まで半円を描いて近付いてくる。

「どうぞ」

 俺の顔に眼鏡を合わせてから、マツセンが口の端を上げて笑う。

「お母さんと同じ赤いフレームを使っているんだね。女性用のデザインだけど、君にもよく似合っているよ」
「え、なんで俺の母ちゃんの眼鏡のフレームなんか知って……」
「分かるよ。君の体重も血液型も思考も過去の疾患も分かる」
「な、なんで」
「君『なんで』が多いねぇ。疑問が多いのはいいことだけど。他に聞きたいことはある?」
「聞きたいこと……あの、」
「なーに?」
「あの、池の中で助けてくれたのもマツセンなんすか……?」

 俺が問うと、マツセンが白い歯を見せて笑う。模型のように綺麗な歯並びだ。

「そうだよ。危なかったよね。もう少しで君はあの男に殺されていたと思う。間に合ってよかったよ」
「殺され……じゃ、じゃあ、池に沈んでたひとって、もう……!」
「あーあー大丈夫大丈夫、ゆっくり息吸って。吐いて~。ちょっと歩きながら話そっか」

 そう言ってマツセンがさっさと病室を出て行ってしまう。廊下から俺を手招きしてきて「急いで」と告げてくる。俺は真新しい他人のスニーカーを履いた足で駆け寄り、マツセンとともに病室の外へ出た。
 噴水のある中庭を歩きながら、マツセンが明るい口調で説明をする。

「ここは金梟会(きんきょうかい)所有の総合病院。外科、内科、婦人科、入院病棟、まあ、大抵の治療はここで受けられるかな」
「こんな大きな病院が高校のそばにあったんすね……」
「天屯君、温泉って入ったことある?」
「え、温泉?」
「温泉。天然でも、ラジウム入りでも」
「あ、ありますけど……いや、そんなことより、池の中に死体……人間の足っぽいのが、あったんすけど。あのひとって……」

 無事なんですか、と俺が問うより前に「よかった」と言ってマツセンが片手を挙げる。正面玄関前のロータリーで待機していたタクシーが小さくクラクションを鳴らして、後部座席のドアがサッと開いた。

「じゃ。さっそく行こうか」
「い、行く? ってどこに……」

 マツセンに強引に肩を抱かれ、タクシーに押し込まれる。俺は慌ててマツセンを肘で押し返す。だが、相手の身体はびくともしない。

「いや、俺、学校が!」
「え? 学校なんて君が気絶している間に終わっちゃったよ。部活は辞めたんでしょ。抹波先生と一緒にちょっと所用を済ませてくれるだけでいいんだよ。監督殴って、放課後はどーせ暇してんでしょ?」
「殴ったのはアイツが一年生を……っていうか、今何時で……」

 俺はタクシーの窓から外の様子を窺った。すでに日が沈みかけている。その瞬間、ドアがロックされる音がした。
 動揺する俺に、マツセンがのんびりした口調で言う。

「ちょうど五時を過ぎたくらいだね。じゃあ、運転手さん。道後温泉までお願いしまーす」

 マツセンが言うと、タクシーが滑らかに動き出す。カチカチ、というウィンカーの音を聞きながら、俺は肩に乗った大人の手を振り払った。勢い余って、包帯が巻かれた右手が後部座席の窓を強打する。

「……っ、俺、あんまよく覚えてないんすけど……変な男に血、みたいなものを飲まされて。まだ、全然気持ち悪ぃし……道後温泉になんて行ってる場合じゃ……」
「天屯君はね、世間一般的な常識が通用しないとても厄介な組織に巻き込まれちゃったんだよね。ついでに君が飲んじゃったのは、私の血」
「マツセンの、血?」
「マズかったでしょ。君、気絶している間もずっとうえうえ吐いてたしね」
「う、」

 途端に激しい嘔吐感に襲われ、喉を押さえる。背を丸めて胃液が逆流してこないように喉の奥を締める。マツセンの手が気遣うように俺の背を撫でた。

「ごめんごめん。思い出させちゃったかな。まあ、飲んだことはしょうがないから。前向きにいこう」

 元気出して、と俺の背を叩いてくる。俺は目を見開いて隣の教師を見上げた。

「あ、そんな軽蔑するような目で見ないで。あのね、先生すごく視力が良いんだよ。あと、珍しい本も持っているし、歯も強い。骨も丈夫。あんまり病気もしないって評判だし……つまり、こういう人の血を飲んだから、泣くほど辛いことでもないって言いたかったんだけど」

 遠慮がちにそう言って、俺の背をまた優しく撫でてくる。マツセンなりに、俺を励まそうとしているらしい。「目が良いのは、野球少年にとって良いニュースだよね」と控えめに尋ねてくる。

「いや、俺、もう野球はしないんで……」
「え、そうなの? まあ、野球以外にも愉しいことはこの世に沢山あるしね。ちょうどこれから君にお勧めしたいお役目もあるんだよ」

 マツセンがそう言った時――車が止まった。

「お。着いたよ」
「え?」

 後部座席の窓から、有名な木造建築が見えた。純和風の三階建てに深緑色の大屋根。三層楼の頂点にある振鷺閣。白鷺がシンボルとなったこの建物は――。

「道後温泉本館!」

 建物の名称をマツセンが軽快に告げる。それから流れるように不穏な一言を付け足した。

「秘密結社、金梟会(きんきょうかい)へようこそ。今日から君はいい死に方はできないね」

 桜の咲く季節だというのに、俺の背中を氷のように冷たい冷や汗が流れていった。
 金梟会って……なに!?