「義人ッ!」

 腹を押さえて苦しむ義人の顔の半分が、馬の頭部のように変形する。青い液体が色々な穴から噴き出し、みるみる義人の姿が変わってゆく。
 駆け寄ろうとした俺の足が止まる。こちらを見た義人の頭部に、見慣れないものが突き出ていた。二本の角が――。

「おい……角が、角が生えてるぞ、義人……」

 兄貴面をした義人なら、俺がこんなことを言えばきっと「もっとまともな冗談言えや」と俺を窘めた。タメ口をきくな、と言って俺を睨んでくれた。渦を巻いた二本の角を頭蓋から生やし、青い体液を吐かない義人なら――。

「なに、やって……」

 目の奥が熱い。喉の奥にピンボールでも詰まったかのように、言葉がうまく出てこない。
 義人が四足歩行の動物のように背を曲げて立ち上がる。

「なにやってんだよ、義人……ふざけんなよッ」

 うるせえ、とも、馬鹿たれが、とも言わず、獣の唸り声を上げる。人間の喉からどうやったらそんな声が出るのか分からない。もうどうすればいいのか、分からない。

「……ッ我妻さん! 戻してくれよぉ! あんたのせいなんやろうが!?」

 客室の天井に向かって叫ぶ。狂ったように何度も我妻の名前を呼ぶ。だが、何の返事もない。

「わかんねぇ……わかんねぇって! なぁ、最初に戻してくれよ……ちゃんとやり直すから。ホテルの裏口に辿り着いた、あの時に。義人から離れんから。俺たちを戻してくれよッ、義人を、助けろよ、我妻ぁああッ!」

 俺の叫びにあわせて、義人の顔をした獣が襲い掛かってくる。

「うッ!」

 二本の角に弾かれて、壁に頭部を打ち付ける。そのまま床に倒れた俺の上に義人が馬乗りになった。角が生えた義人の顔と、シャンデリアと、天井……それを見上げながら、俺の脳内に義人の言葉がリフレインした。

『大丈夫だ。お前のことは俺が守る』

 光が、降ってきた。砕けたガラスの灰皿の破片がパラパラと落ちて、雨のようだった。自分の手で角の生えた側頭部を殴りつけた義人が、青い涙を流しながら俺を見下ろしていた。

「義人」

 俺の声に反応して、抉れていない右目がすっと細まる。化け物になってしまい言葉を失っても、俺を、守ろうと……
 俺は腹筋をフルで使って起き上がり、義人の首を掴んで床に叩き付けた。親指からバットを握り込むように強く圧迫し、全体重をかけた。

「はあ……はっ」

 タオルを使った毎朝の素振りのように。野球選手を夢見ていた、あの頃のように。
 青い血が、幼い頃の記憶を思い出させる。
 
 両親と暮らしていた時のことだ。俺はオニヤンマを飼っていた。外で素振りをしていると父親がやってきて、『虫かごの中にいたヤゴはどうなったんだ』と尋ねてきた。ヤゴは前の晩にふ化する頃合いだった。俺は素振りを続けて返事をしなかった。父親はそれ以上追求してこず、夕方、虫かごは庭の焼却炉の中だった。
 どうにかしようとしたんだ。だけど、だめだった。せまい虫かごの中で羽化して、羽が折れて。だって、羽が折れることを知らなかったから。
 それが言えなかった。言った途端、殺したのは自分だと認めることになりそうで。

「う……あ、あああああッ!」

 折れる。ヤゴでもオニヤンマでもない、たしかに今、この手の中で。

「うあ、あ」

 命が折れる音がした。
 ゴト――という鈍い音がして、俺は腕から力を抜いた。金木犀の匂いがして、それから誰かに抱き締められる。

贋作(がんさく)だ」

 焦った声が言う。
 俺の耳元でマツセンの荒い息遣いが聞こえる。堪えるように、震えた声で続ける。

「この枝本は『EDEN』じゃなく、『贋作』だった。受胎池で死んだ梟徒が秘匿所持していた枝本だったんだ。ごめん。『贋作』には私の血が少量付着していたらしい。核があらゆる物質に転移して、EDEN本来の核であるマリア博士が死んでも介入が終わらなかったのはそのせいだ。物語をコピーする『贋作』の力が私の血で暴走してしまった」
「へえ……」
「核は、義人に転移した」
「義人は、どうなったんすか」
「天屯君」
「俺、足を引っ張ってばっかで……義人は、人間の姿で、まだ生きてるんすよね……? 先に現実のほうに戻ってて、準備室で、俺を待って……」
「間に合わなくてごめん。――だけど、僥倖だ。君は生きていてよかった」

 俺を抱き締めているマツセンの手には、真っ黒な刀が握られていて、近くには義人の生首が転がっていて、俺は、俺は――。

「こんなもん、僥倖なはずが……俺が、俺のせいで、義人が」
「君には無理をさせた。悪かった。もし耐えられないのなら、君が望む未来を用意しておく。それがせめてもの私からのお詫びだ。平凡な君を巻き込んで悪かった。義人の首は、私が斬った」

 そうじゃない、俺が首を絞めて、義人は――そこからは言葉にならなかった。崩れ落ちてくる天井の向こう側で、我妻の声で「介入、終了」という言葉が聞こえた。