「天屯……だめだ、にげ……ろ……」
「逃げない。義人を助ける」
ドサッ――と、重たい麻袋が落ちるような音がした。化け物の胴体から生えた人間の手から、四〇二号室の宿泊客が解放される。死んでいるのか、その人はもう動かない。
剥製のような不気味な動物の顔が、俺をじっと見つめてくる。
「俺は天屯蓮八だ……俺は絶対に逃げたりせん。絶対に……」
従業員を殴ったときについた血ごと拳を握る。
生き物を殴るのはこれで三度目……殺意を込めて殴るのは二度目だ。はじめては、仲間を侮辱した監督の横っ面。二度目は、ついさっき。
「俺は、やれる。きっとやれる」
「ちがう……かく、じゃない……」
舌っ足らずな声が、俺を呼び止める――その時だった。
継ぎ接ぎだらけの化物の肢体が、急にブルブルと揺れ始めた。壁に向かって突進し、その衝撃で二本の角が折れる。巨体がベッドの上でバウンドし、青い液体に滑って床に倒れる。弛緩した手足は人間のものだが、床に丸まった姿はまるで壊れた玩具のようだった。
「死んだ……のか?」
俺はゆっくりと近づき、ピクリとも動かない化け物を上から見下ろす。それから、急いで二つの死体を跨いで義人に駆け寄る。何が起こったか分からないが、化け物は勝手に動かなくなった。負傷した義人を担いで逃げるなら、きっと今しかない。
「大丈夫かよ! 変な液体まみれになっちまって……!」
身体中を汚している青黒い液体が口にも入ったのか、義人が苦しげに咳き込む。宿泊客の私物であろうTシャツをベッドの上に見つけ、俺はそれで義人の顔を拭った。
「あのな、マリア博士は自殺した……けど何も起きんかった。枝本の核はEDEN施設の可能性もあるって言っとったけど、俺は四〇二号室にある気がして……ただの直感やけど。けど、もういい。今しか逃げるチャンスはない。義人、大丈夫か。おい、一回現実に戻ろう。目の怪我も酷い……っていうか、これどうやって戻るんや」
ぐったりとしたまま動かない義人の腕を俺の首に回す。このまま任務など続けられるはずもない。早く枝本から元の世界へ戻らないと。
「立ってくれ。一緒にホテルの外へ逃げよう。今、他の登場人物たちが迫ってきてて……」
「たかみち、核、オレの……」
「なに!」
焦りで思わず怒鳴りつけてしまう。恐怖で膝が震える。何かを言おうとする義人の口元に、耳を寄せる。
「なんだ、義人。目が痛むのか?」
「か、く……」
「かく?」
「核、食わされた、クソきたねぇ……あの、化け物に。俺が、核、になっ……た」
「核を食わされたって、なに言って……?」
「はは……こんなことって、あ、んのかよ……」
義人に身体を突き飛ばされ、俺は向かいの本棚に衝突する。不意打ちのそれに、頭の中が真っ白になる。俺は急いで起き上がった。
「よ、義人……」
チェストにもたれ掛かった義人が両足を絨毯の上に投げ出した。肩が激しく上下している。剥き出しになった腹部から臓器が見えているのを、ようやく気付いた。
「腹が……」
小腸が外に出ている。疲弊した義人は、残されたほうの右目で俺をじっと見つめてくる。
「核を……転移できるなんざ、は、はじめて聞いた、は、はは、悪い、天屯」
「なにが、なんだよ、何言ってんだ、義人」
「こんなもん……中ボスなんて、もんじゃねぇ……これは、EDENじゃない。別の、枝本だ……介入する直前に、枝本が入れ、替わった。悪い……俺が、先に目を閉じちまった、から……」
「介入の時、あ」
義人が先に目を閉じ、その後に俺も机に伏せて目を閉じた。枝本『EDEN』は無防備な状態で、我妻の手元にあった。
「あの、くそ坊主……なんでそんな!」
猛烈な怒りがこみ上がってくる。俺の任務を手助けしたいだなんて言っておきながら――俺が怒りで手を震わせている、その時だった。
ごぽ、と何かを噴き出す音が聞こえ、俺は我に返った。
「よ、義人……?」
義人が、口から青い液体を吐いている。さっきTシャツで拭ったはずだが、まだ胃の中に残っていたのだろうか。朦朧とした表情で「俺を殺せるか」と、義人の口がそう動く。
「無理や……ふざけんな。こんな時に、何言ってんだ!」
「わけ、わかんねぇんだけど……よ、なんか、人間への……怨みで、頭が、どうにかなりそうなんだよ。言っても、意味……分からねーだろうけど、よぉ……お前が、来てくれて、ちょっと、マシになったの、に……くそ……」
義人の身体が痙攣し、今度は真っ赤な血を吐血する。
