白衣の背中を見つけたのは、一階ロビーに到着してすぐだった。
青いシャンデリアが吹き抜けの天井から吊され、大階段が二階まで続いている。階段を上がった先には巨大なパイプオルガンが置かれていた。俺は声を振り絞ってマリア博士に声をかけた。
「あのっ」
物語の内容とおり、ブロンドの髪に赤いヒールが特徴的な人物だった。マリア博士が俺の掛け声に振り返る。
「何の用かしら。見慣れないお坊ちゃん」
「マリア博士、っすよね」
俺はゆっくりと大階段の前にいる博士に近付いた。他の登場人物達は各客室内で過ごしている時間だ。従業員が休憩室からフロントカウンターに出てくる前に、博士が枝本の核かどうかを調べなくてはならない。
博士は両手を白衣のポケットに入れていた。あと数歩で相手の肩に手を伸ばせる、という距離まで近付いて、俺は確信してしまった。
「無理、だ」
殺せない――俺は急に焦った。膝が笑って言うことをきかなくなる。
「なにが無理なの?」
「いや……」
ブロンドの髪が揺れる。ゲーム画面の中の雑なグラフィックなんかじゃない。呼吸に合わせてわずかに細い肩が上下し、香水だろうか、清潔な石鹸の香りがする。血の通った人間だ。これは、生きている人間の女性だ。手が震える。自分より弱い立場の相手に乱暴を働くことを、理性が拒絶をしている。
「あなた、わたしの大切なものを奪おうとする人?」
「え、いや」
「サオラは絶滅したらもう二度と元には戻らない。人間はたくさんいるじゃない。数が少ないサオラを守るのが当然でしょ。何故邪魔をするの?」
「ぜ、絶滅危惧種を守るのは、たしかに大事なことやけど……」
「人間だけの地球じゃないわ。サオラにだって生きる権利がある。生命を冒涜する密猟者たちの脳を破壊したとして、それは何の罪になるの?」
「それは……」
「わたしだって気付いているのよ」
博士が疲れたような表情を浮かべて言う。
「人間ごときが生命の生き死にをどうにかしようなんておこがましいんだってこと。所詮、わたしもひとりの冒涜者に過ぎない……」
鉛色の銃口が博士のこめかみへと寄せられる。ブロンドの髪の一房が、博士の乾燥した唇の皮に絡まった。
「ごめんなさい。子どもに見せるものじゃないわよね……」
俺は手を伸ばした。
「ッやめろ!」
――バン!
空気が破裂する。鮮血が散らばった大理石の上にマリア博士が倒れる。俺は「はあッ――」と肩で大きく息を吸った。肺が膨らむが、酸素がまともに吸えない。
フロントカウンターに白熱灯が灯り、銃声に驚いた従業員が飛び出してくる。発砲音のせいで他にも人が集まってきてしまう――俺は目の前の博士の遺体を避け、大階段を駆け上がった。急にパイプオルガンが鳴り始め、空気がビリビリと揺れる。
「くそっ……」
二階の防火扉を目指して全力で走る。だが、真っ直ぐに走ることができない。ぐにゃりと視界が歪む。何かがおかしい。
「義人……!」
早く再会しなければ。博士は死んだが、登場人物たちは動きを止めず、床や壁といった空間が歪みはじめている。核は博士ではなくEDEN装置だったのか……だが、施設まで移動するにしても、俺はその方法を知らない。
ようやく防火扉の前まで来た。が、扉がびくともしない。力尽くで引いても、防火扉全体が大きく撓むだけで扉が開かない。まるで柔らかいゴムと格闘しているようで、俺は苛立って叫ぶ。
「なんで、なんでだよッ……!」
「――待て! 人殺しめ!」
「お、俺じゃな……俺じゃない! 殺したのは俺じゃない!」
従業員のひとりが俺に追いつき、ついに腕を掴まれた。そのまま大きく円を描くように振り回され、壁に肩を強打する。
「うっ!」
「クソガキめ……四〇二号室から、『隣から悲鳴が聞こえた』と内線があったが、お前だったか。どこから忍び込んできた!」
もう一度強く壁に叩き付けられる。剛速球の硬球でデッドボールを食らった時よりきつい。頭部付近の毛細血管が切れたのか、猛烈な嘔吐感に襲われる。
「ぐ、」
腹を殴られ、床に倒れ込む。やばい、と思った途端に顔を足で蹴られる。確実に、鼻の骨が折れたのが分かった。目の前が暗い。意識が朦朧として、恐怖と痛みに屈しそうになる。
「わざわざこんな辺鄙な山の奥まで……何の目的で潜り込んだ!」
何の目的で――。俺の頭の中にその五文字が浮かんだ瞬間、パイプオルガンの音が鳴り止んだ。
俺は、何の目的で……そうだ、何のために枝本の中に入ってきたんだ。
青い電流が脳の中を駆け巡る……一瞬の出来事だった。俺は従業員の顔面を右手で掴んで、そのまま壁に叩き付けた。
「ふ、がッ」
泡を吹いて倒れ込んだ従業員の顔を複数回殴り、肘で頭蓋を割る。黒い革靴を履いた足が大袈裟に痙攣し、ついに従業員はまったく動かなくなった。
「はあ、は……ッ、義人、今行くぞ」
俺は倒れた従業員を足で跨いで、大階段を挟んで反対側にあるエレベーターホールへ向かって走った。足が絨毯に縺れて、オルガンの鍵盤に手をつく。うるさいそれに拳を振り落とすと、さらに世界がしんと静まりかえった。研ぎ澄まされた感覚の中で、枝本の核の居所を嗅ぎ分ける。
「客室の中、四〇一……ちがう、四〇二号室か」
四〇二号室に核がある。それが分かる。今、はっきりと。
「すぐに壊さねぇと……」
エレベーターが到着したのか、赤いランプが光る。俺を追いかけてくる足音が増えたが、他の登場人物たちが追いつく前に俺が乗ったエレベーターは動き始めた。
四階に到着してすぐ、濃い血の匂いに鼻を手で押さえる。角部屋に位置する四〇一号室の扉が、中途半端に開いていた。
「義人」
返事がない。ひとつ手前の四〇二号室をノックする。
「――ウク……ウク、ウク……」
またあの鳴声だった。動物の鳴声にしては、あまりに人の声に似ている。俺の心臓が早鐘を打つ。四〇二号室のドアは、三分の一が抉れていて中の様子が廊下からも少し見えていた。
目が……合った。
不思議な生き物だった。二本の長い角を持ち、鹿と馬を足した動物の顔に人間の両手足が生えている。胴体は牛かもしれない。それが、四〇二号室の宿泊客らしき人間を引きずって客室の奥から現れる。壊れたドア一枚を挟んで、廊下にいる俺をぼうっと見つめてくる。
「義人」
返事はない。もう一度呼ぶ。
「おい、義人。四〇一号室のほうにいるのか?」
やはり返事がない。
怒鳴るように呼ぶ。
「義人ッ!」
「……たか、みち……」
部屋の中から声がした。四〇二号室の中からだった。
「義人、そこにいるのか!」
化け物の後ろ側、シングルベッドとアンティークテーブルの隙間から、袈裟を纏った人間の手がにゅっと伸びた。義人だ――俺は唾を吞み込んだ。赤子が母体から生まれるように、ズルズルと音を立てて這いずり出てくる。身体全体が青黒い液体で汚れて、左目が抉れていた。
「今、助けるから。義人。それ以上動くな」
半壊された四〇二号室のドアを足で蹴飛ばし、俺は客室内に入った。化け物と数メートルという距離まで近付く。部屋の中は、生臭い鯉のような匂いがした。