俺、天屯(たかみち)蓮八(れんや)は本が苦手だ。

「どう考えても、母さんが書いた小説の影響やけどなぁ……」

 欠伸を噛み殺してベッドから起き上がる。机に置いていた眼鏡を掛けて、グッと伸びをする。今朝は久しぶりに嫌な夢を見た。昨晩、暇潰しに読んだSF小説のせいだろう。
 部屋中に飾られた俺によく似たフィギュアやイラストと目が合って「うえ」と思う。他にも、カラフルなUFOや古城などの模型、真っ黒な刀もあったりする。どれも非売品だ。それも当然である、俺の母さんが勝手に「物語を書くための大切な資料だから」と作成したものなのだ。親が小説家だと、息子は勝手に色んな世界の主人公にされたりする。しかも、魔王を倒す勇者とかじゃなくて、運命の相手を殺さないといけない悲劇の主人公とか、世間的には悪者のダークヒーローとか。ジャンプよりマガジン系。光より闇系。完全に親の趣味。

「俺、野球選手になりたかったんやけどなぁ……」

 母さんは、そういうハッピーエンドの作品を絶対に書いてはくれなかった。たとえ息子が本嫌いになったとしても。だんだん書籍が売れなくなっても。家族が俺を残して全員交通事故で亡くなる前日でさえも。

 一人では広すぎる二階建て4LDKの自室を出て、階段を駆け降りる。
 洗面所へ入って、三段ボックスの上段に丁寧に折り畳まれた青いタオルを一枚抜き取る。リビングに移動してから、カーテンの閉まった窓際に立ってスポーツタオルの先端を軽く結ぶ。

「握る姿勢はバットを持つように、スイングはゴルフのように」

 タオルを左右に揺すってからテイクバックし、とにかくできる限り力を抜いてスイングする。スイングの後半にタオルが真っ直ぐ筋を描くように意識をするのがコツだった。柔らかい素材であるタオルを用いることで、身体の力の抜け具合を可視化することができる素振りの練習法である。俺はそれを三十分間続けた。もう、野球をすることは当分ないというのに。
 野球部をクビになったのは二週間前のことだった。まさか、監督の顔をグーで殴って即日退部とは。

「……あー、やめやめ。後悔はなし」

 殴った理由はある。だが、退部になった今ではどうでもいいことだ。
 キッチンでフライパンを握り、軽く素振りをしてから調理を始める。適当に混ぜた卵をこれまた適当に熱して、不格好なオムレツをひっくり返す。失敗して、スクランブルエッグになった。だが、胃に入れてしまえば同じだろうし。

「ぐっちゃぐちゃやなぁ……」

 ふと、心のどこかで考えてしまうことがある。オムレツのように、この世界がひっくり返ってくれる瞬間が訪れてくれないかな――と。
 俺は暗い考えに吞み込まれそうになって、ハッとして顔を上げる。

「やばい……遅刻!」

 スクランブルエッグを急いでスプーンで掻き込み、家を出る。
 いつもの通学路を走って、石鎚公園があるT字路まで突き進む。石鎚公園は、俺が通う愛媛県立石鎚高等学校の裏手にある自然公園である。公園内の溜め池の前には大きなフェンスがあって、立ち入り禁止の看板が立てられている。それを乗り越えて「受胎池」の端を走り抜けると、歩道を走るより数分早く高校にたどり着くことができる。
 不気味なところで普段は避けているが、今日は仕方がない。朝のHRで日直なのだ。今日だけごめんなさい――とフェンスを越えて池のそばまで来た……その時だった。

「――これでようやく抹波(まつなみ)と同じ不老不死か!」

 突然、男の声が池のほうから聞こえてきた。俺は急いで立ち止まった。そろりと木の陰から池の様子を覗き見ると、池の水面から剥き出しの人間の足が飛び出していた。

「なんで、人の足……?」

 俺が呟くと、受胎池のそばに立っていた男が「誰かいるのか!」と大きな声で叫ぶ。その顔は黒いフードに隠れてよく見えない。なにか、お面のようなものをつけている……?
 俺は嫌な予感がして、急いで公園から出るために駆け出した。

「なんだ、追いかけっこか?」

 揶揄するような男の声が、やまびこを逆再生したみたいにどんどんと大きくなって近付いてくる。俺は無我夢中で松の木の枝に捕まり、フェンスをよじ登った。逃げ切れた――と安堵した瞬間、学ランの裾を勢いよく引っ張られる。目の前を白い雲が風に流れ、視界が反転する。

「うっ!」

 どん、と鈍い音がした。背中と後頭部を強打した……と遅れて自覚する。部活の練習中にも似たような痛みを経験したことがある。痛い!――が、なんとか身を捩って、両肘をついて顔を上げる。

「おや。抹波の手下じゃないな?」

 そう言って、男が俺の前髪を掴む。俺は野球部の中でも一番に足が速かった。追いつかれることはないと思っていた。それなのに……

「な、なんで、」
「ああ、こんなに早く追いついたかって? 抹波の血を飲んだからだよ」

 男は顔を見られないようにするためか、梟の面をつけていた。俺の腹を殴って、サンドバッグのように蹴り上げる。受胎池を取り囲むフェンスは、人工的に土を盛られた急勾配な土手の上にある。昨晩は雨だった。俺の身体は泥水ごと池の中まで転がされた。

「ひ、ひひひ、ははッ!」

 池に落ちた俺が必死に陸地に這い上がろうとすると、男が笑いながら土手を駆け降りてくる。

「は、早く、逃げないとっ……」

 池の水を飲んでしまったのか、生臭い味が口いっぱいに広がった。思わず泥の上に腹ばいになって嘔吐する。その俺の顎を、男の手が掴んだ。

「捕まえたぞ」

 男に顎を掴まれ何かを飲まされた瞬間、俺は激しい激痛に全身を襲われた。まるで雷に打たれたような……脳の複雑な回路が、もっと言えば原始的な領域に属する組織が、むりやりこじ開けられたような感覚だった。
 俺は口腔内に広がった錆びた味にもんどり打った。

「う、うええッ」

 鮮血混じりの唾を吐き出す。喉の奥がひりひりと焼けている。顎が掴まれているせいで、うまく吐瀉できず苦しい。

「あ、俺に、なに飲ませ、う……うええッ!」

 苦い。生臭い。喉の奥が焼けるように熱い!

「なにって、血だよ。不安がらなくてもいい。あの抹波の血だ」

 男がそう言って、赤黒い血液が付着した空の注射器を放り投げてきた。

「血……!?」

 俺はパニックになりながら必死に中指で喉の奥を押し込んだ。ぐわ、とこみ上げてくるものがあり、胃の中のスクランブルエッグが吐き戻される。鼻の奥まで血生臭く、激しい嘔吐感がおさまらない。

「あーあ、吐くなんて勿体ない。みんなこれが喉から手が出るほど欲しいというのに」

 男が俺の顎から手を離す。俺は寒気に全身を震わせた。誰のものかも分からない血を飲んでしまった。感染症の恐怖に怯えながら、必死に嘔吐を繰り返す。

「げ、げえッ」
「よろこべよ、位の高い梟徒(きょうと)の血だよ。数居る梟徒の中でも、抹波の血は最も希少価値が高い。わたしはずっとこれを追い求めていた。枝本(しほん)という存在を知ってからずっと……やっと……!」
「う、うえっ、うう……」

 何度目かの嘔吐の後、ぎ、という軋んだ音が俺の鼓膜を弾いた。錆びたドアを無理矢理開いたような擬音だった。耳の中に残る泥のせいか、痛みのせいか、それから一切の音がなくなる。
 ああ、俺、このままここで死ぬんや……
 身体がふわりと宙を舞い、せっかく抜け出したはずの受胎池の中にまた投げ飛ばされる。池の水の冷たさに震えながら、自然と死を覚悟した。薄れゆく意識の中、走馬灯は流れなかった。だが、唯一思い出したのは、美術館のミノタウロスの壁画を見ながら「蓮八は野球選手じゃなく、こういう化け物と戦うほうが似合いそうだね」と笑った父親の横顔だった。俺はゆっくりと全身から力を抜いていった。

「おっと、大丈夫?」

 ざば、という水の音とともに、薄い膜を一枚隔てた先で父親の声が聞こえた――気がした。俺は「父ちゃん」と呼びかけようとして、すぐにそれを否定した。父親が、いるはずがない。事故で死んだはずだ。母さんも道連れにして。では、一体これは。

僥倖(ぎょうこう)だねぇ」

 ギョウコウ?
 違う。俺の名前は、天屯蓮八だ。母さんがつけてくれた大切な名前……
 そんな俺の台詞が聞こえたのかは分からないが、ふふっと軽く笑った後に、「天屯君、僥倖だね」と優しい言葉が頭の中に響いてきた。そのふわついた響きのせいでまた激しい吐き気が襲ってきて、あとはすべて暗闇の中におちた。