Einsatz─あの日のミュージカル・スコア─

※Hair Salon HIROにて。

 店に入るといつものようにアシスタントに案内されて、すぐにシャンプーをしてもらった。裕人が俺のところに来たのは、鏡の前に座って少ししてからだった。
「あのな……左、紀伊やで」
 入れ違いにはなるが美咲と会うかもしれないとは、予約のときに裕人から聞いていた。裕人にタオルを巻かれながら横を見ると、ドライヤーをしてもらっている女性がいた。アシスタントが間にいたのであまり見えず、彼女もドライヤーの音で周りのことは気にしていないらしい。
「ちょっと待っといてな、あいつ先してくるわ」
 裕人が俺にクロスをかけて美咲のところへ行くのを見てから、手元にあった雑誌を捲っていた。会話が聞こえたので、聞き耳を立てた。
 裕人と美咲は一緒に過ごした時間が長いので、いつの話なのかはわからない。佳樹の名前が出てきたということは、三年のときだろうか。
「塾でもうるさかったよなぁ。私、テストのやり直しか何かで居残りしてたら、こっちは早く帰りたいのに、隣からブツブツうるさいし、名前連呼してきたし……イライラしたわ」
「それ、覚えてるわ。紀伊が残ってるのビックリしてたよな。俺ら三年五組やって、五組、五組、五組、とか、他の学校の子にもクラス聞いてたよな」
「そうそう。それで、五組じゃなかったから、あかんわ、とか、意味わからんかった」
 佳樹は高校は裕人と一緒だったが、塾に入って最初のクラスは美咲と裕人よりも下だった。同じクラスで雑談ができる仲ということは、佳樹の成績が上がった三年後半の出来事だろうか。
 話しながら裕人は美咲の髪を整え、鏡のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
 聞いた記憶はあるが、思い出せなかった。
 考えていると、美咲が答えを言った。
「円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
 思わず声に出してしまった。美咲はやはり俺の存在には気付いていなかったらしい。
 美咲は数学が大の苦手だったはずだが、どうして覚えていたのかは不明だ。塾に入ってから一度だけ、全国規模の試験で数学で一位を取り、同じ学校の奴ら全員で驚いた記憶はある。塾長から〝数学の成績優秀者向けの特別講座〟の案内をもらっていたが、場所も遠かったし行ってはいないはずだ。
 美咲はカットが終わったので立ち上がり、店を出ていった。別れ際に鏡越しに手を振ってくれた。俺には嫁がいるが、思わずドキッとしてしまった。
「あいつの記憶力すごいやろ。俺も忘れてることいっぱい聞いたで」
 美咲を見送って裕人が戻ってきた。俺のこともいろいろ覚えているのではないか、と笑う。
「記憶もやけど、成績も極端やったよな。それくらいわかるやろ、ってやつ答えられんかったこともあったし、塾の試験の数学で、全国一位とかとってたやろ? あれビビったで」
「……あったなぁ! そうやそうや」
 美咲は一番上のクラスではなかったのに、一番上のクラスでも全国ランキングでは最後のほうに載ればラッキーくらいだったのに、そんな奴らを押さえて一位だったということは、ほぼ満点だったということだ。
「一番ビックリしたのは紀伊やろうけどな。聞いてみる? さっき、今度メシ行こうって誘ってん」
 返す言葉が一瞬わからなかった。俺が困っていると、裕人は続けた。
「同窓会ときもあんまり話さんかったし……そうや、トモ君、ピアノ弾ける人探してたやん。誘ったら?」
「あ、そうそう、それ同窓会ときから思っててん。あいつ上手かったし……聞いてみよ」
 美咲は結婚しているので、三人では来てくれないかもしれないと思ったので、同級生女子を誘ってもらうことになった。誰になるかはわからないが、俺と裕人が知っている人を選んでくれるはずだ。
「俺あとで連絡しとくわ。あ、店も決めとくで。個室が良いよな」
 全て裕人が決めてくれるようで、面倒なのでお願いすることにした。詳細は美咲ともう一人の都合を聞いてから決めることになった。
 美咲にピアノの話をするのはいつが良いだろうか。待ち合わせでは到着時間がわからないし、話す時間があるかもわからない。飲み会中では──他の二人に申し訳ない。ということは、住んでいるところが近いので帰りの電車だろうか。
 そんなことを考えて、いつのまにか俺は沈黙していたらしい。
「トモ君、何考えてるん?」
「え? あ──いつ言おうかと」
 鏡越しに裕人は不気味に笑っていた。
「俺の感やけどな──紀伊たぶん、トモ君のこと好きやったで」
「えっ、そうなん?」
 裕人はいつも、美咲の行動を観察していたらしい。美咲は俺と友人たちが騒ぐのをいつも冷やかに見ていたが、視線は俺を追っていたらしい。
「たぶんやけどな。聞かなわからんで。あとな──これも、俺の感やねんけどな」
「うん?」
「トモ君もあいつ好きやったやろ?」
 思わず俺は鏡の中の裕人をじっと見た。しばらく黙って見つめていたが、裕人はなかなか負けてくれなかった。
「そうやな……」
 仕方ないので観念して話すことにした。
「いつの間にかな」
「やっぱり? でも俺には教えてくれんかったよな」
「言うわけないやん。気になりだしてから、クラスも違ったし」
 俺が美咲を好きになったのは、学年が終わる頃だ。裕人は休み時間は寝ていたし、そもそもそんな話をする奴は周りにはいなかった。三年はクラスが離れたし、俺も一緒にいる奴が変わった。
「三年とき、クラスに紀伊のこと好きな奴がおってな」
 それは初耳だ。
「いろんなことしてアピールしたり、音楽の先生の耳にも入ったから合唱コンクールでそいつに指揮やらしたり、俺らも協力したりしてたんやけど、あいつ全然気付かんかってな」
「……鈍感やったん?」
「どうやろな。ほんまに気付いてなかったか、遊ばれてると思ってたか、……そもそも眼中になかったんちゃうかな。だからな、誰かを好きやったはずやねん。何もなかったら気付くで?」
 それが誰なのかはわからないが、裕人の感では俺が有力らしい。もっと早くに知っていれば美咲と付き合っていたかも知れないが、それはもう無理な話だ。
 だからせめて週末だけでも一緒に過ごせれば良いな、とそのときは思った。
「なぁなぁ美咲ちゃん、もしかしてあの人かなぁ? めっちゃイケメンなんやけど!」
 人通りの多い場所なので声は控えめだけれど、華子がはしゃいでいるのは一目瞭然だ。彼女が言う〝あの人〟は、裕人の隣を歩く男性だ。
 裕人の先輩・大塚遥亮(おおつかようすけ)を華子に紹介する日、裕人と美咲も最初だけ同席することになった。華子が住んでいる近くの駅で待ち合わせ、美咲と華子が先に到着していると裕人と遥亮の姿が見えた。九月末の土曜日で裕人は普段は仕事をしているけれど、この日は臨時休業にしたらしい。
 近くのカフェに場所を移し、昼食をとりながらしばらく四人で雑談をしていた。注文した飲み物がなくなる頃には華子と遥亮が打ち解けていたので、遥亮が飲み物をお代わりするのを見てから裕人は美咲を誘って店を出た。
「一応、中学の卒業アルバムの写真を先輩に見せててん。可愛いなぁって言ってたから……、いけそうやな」
「うん。あとは性格が合うか……」
 裕人も美咲も特に行きたいところがなかったので、そのまま帰ろうと駅のほうへ向かう。二人とも交通系のICカードを持っていたので切符は買わず、まっすぐ改札へ──向かいかけたとき裕人のスマホが鳴った。
「ん? LINE……トモ君や……え?」
 裕人が壁際へ寄ったので、美咲も後を追った。裕人が『電話できるか?』と聞くと大丈夫だと返事があったので、裕人は電話をかけた。
 長引くようなら先に帰ろうかと美咲は考えていたけれど、裕人は〝ちょっと待て〟と合図した。
 朋之は裕人に連絡していなかったけれど、なんとなく足がHair Salon HIROに向いたらしい。店の前でシャッターが閉まっているのに気付き、仕方ないのでまたなんとなく電車に乗った。
「それでおまえ、どこにいるん?」
 朋之が裕人に何の用事だったのかは、まだわかっていない。
「ふぅん……何かあったんか? 全然元気ないやん」
 出会った頃も、今も相変わらず笑顔のほうが多い裕人が珍しく真剣な顔をしていた。
「それなら俺いま近くにいるから行くわ。あ、紀伊も一緒やけど、ええか?」
 突然出てきた自分の名前に驚いて、美咲は思わず裕人のほうを見る。裕人は電話しながら歩き始め、美咲にも付いてくるように合図した。
 裕人は美咲と一緒にいる理由を簡単に説明し、朋之にも何をしに来たのか聞いた。裕人に連絡をしてきたのとは別件で、楽器屋に行こうと思っていたらしい。
 先ほど華子と別れたのとは別のカフェに到着すると、朋之が待っていた。出会った頃とも再会した頃とも違う、暗い顔をしていた。
 店に入って席についてから、裕人は改めて美容室を臨時休業にしたことを謝っていた。軽く雑談をしている間に、注文したアイスコーヒーが三つ運ばれてきた。
「それで、どうしたん?」
 裕人が聞くと、朋之はゆっくり話しだした。
「最近、嫁の家事が雑でな」
 社長の娘で金銭的余裕もあり、朋之の稼ぎで生活できたので初めは専業主婦をしていたけれど、家でできる趣味もないので短時間のパートを始めた。初めは帰宅してから頑張って家事をしていたけれど、徐々に掃除の頻度が下がり、夕食の品数も減った。
「それくらい良いんちゃうん? 働いて帰ってきてから家事ってしんどいで」
 裕人の言葉に美咲も同意した。美咲は専業主婦なので余裕があるけれど、それでもときどき手抜きはしたくなる。
「うん、それは別に良いねん。俺も完璧は求めてないし、やってくれてるだけありがたいで。俺、平日は仕事やし、週末も出掛けてるし」
 朋之は結婚前から合唱団に入っていて、週末に家を空けることは話していたらしい。時期によっては練習が長引いて帰宅が遅くなるので、そんなときは手抜きで良いといつも伝えていた。
 だったら何が悪いのか、と裕人は続きを聞いた。
「こないだ、いつもより早く帰ったら──あいつのクローゼットが開いててな」
 少し散らかっていたので片付けの途中なのか、と思いながらふと見ると、普段使っているものの奥に朋之の知らない高級ブランドの服や鞄がいくつも入っていた。
「俺の給料で買える金額じゃなくてな。社長に助けてもらってるわけでもなかったし……。通帳見たら残高ほとんどなかった」
 朋之の妻がパートを始めた理由は、生活費が底をつきそうだったからだと白状したらしい。高級ブランドの服を着てどこへ行くのかと聞いたけれど、単に着飾りたかっただけだと何度も主張した。
「俺──離婚しようと思う」
「えっ、奥さんは反省してないん? 許せへんの?」
「反省してるけど、前にも──カード使い込まれたことあってな。その時に、次はないぞ、って言ったから」
 朋之は妻を一旦実家に帰らせているらしい。住んでいる家は朋之名義だけれど社長がお金を出してくれたので、休み明けに今後のことを相談すると言った。
「ごめんな、こんな話」
「いや、ええよ。友達やし。いつでも相談のるで」
「うん。私も……力になれるかは、わかれへんけど。明日は……練習行くん?」
「あ──コンサート近いから、一応行くわ」
「トモ君、楽器屋行くとか行ってたよな? 一緒に行こか?」
 朋之はまだ楽器屋には行っていなかったので、裕人が付き添った。もちろん朋之を元気付けるためだ。ギターのアクセサリーをいくつか見たいらしい。
 美咲は家で航が待っているので帰宅し、久しぶりに二人で義実家に顔を出した。航が『美咲は華子と会っていた』と話しだしたので、同級生の先輩を紹介すると喜んでいた、と簡単に後を続けた。一緒に夕食をとってから帰宅すると華子からLINEがあって、無事に先輩と付き合うことになったと報告してくれた。
 朋之のことは美咲は誰にも話さなかった。裕人から『俺より会うこと多いやろうから気にしてやってな』というLINEが夜中に届いていた。
 翌日、美咲はいつも通りに練習に参加した。コンサートが近づいているので帰りが遅くなるかも知れない、と航には話しておいた。実際、秋のコンサートは出演する中で一番大きいステージのようで、この時期はいつも練習が増えるらしい。
 部屋に入ると既に朋之の姿はあった。けれどいつもの元気はもちろんなく、離れたところで椅子に座って項垂れていた。
「井庭先生……山口君のこと、聞きましたか?」
 美咲が聞くと、井庭は首を横に振った。
「何かあったんか? って聞いたんやけど……小山さんに聞いてくれ、って」
「え……」
 話は本人から聞いているけれど、どこまで話して良いかはわからない。そもそも朋之は何も悪くないので落ち込むことはない。と思うけれど、黙って大金を使われたことと離婚を決意したことで精神的に参っているのだろう。
 美咲は荷物を置いてから朋之のそばに行った。
「山口君、大丈夫? 昨日、寝れた?」
「あ──昨日な……ヒロ君とこに泊めてもらってん」
 美咲と別れて楽器屋に行ったあと、二人で飲みに行ったらしい。初めは今後のことを相談していたけれど、やがて朋之は酔いが回って裕人に愚痴をこぼし始めた。一人で家に帰らせるのは無理だと判断した裕人は家に連れて帰った。
「午前中に家帰ったら、前に嫁がおってさ。入れてくれ、ってうるさくて……せめて荷物を運びたいって言うから入れたんやけど、詰め終わっても出ていかんから口論になって……社長に来てもらった」
「大変やったんやなぁ……」
「金銭感覚がどうも合わんな……。社長も謝ってくれたけど、明日ちゃんと話すわ。家のことも決めなあかんし」
 さて練習するか、と朋之は立ち上がったけれど、すぐにふらついてしまった。バタッと音がして朋之は倒れた。
「えっ、山口君?」
「ははは……情けないな……」
 起き上がってはこないけれど、意識はあるらしい。
「おい、どうした? ちょっと休んどけ、今日は私がやっとくわ。小山さん、頼んだで」
 慌ててやってきた井庭は口早にそう言うと、メンバーを集めて練習を開始した。井庭はメンバーを朋之が見えないほうを向かせた。
 何か枕になりそうなもの、と部屋を見渡して、美咲はジョイントマットを見つけた。何枚か重ねてから持っていたタオルを巻いて、朋之の頭の下に入れた。
「ごめんな。ちょっと休んだら起きるけど……あとで……井庭先生に話しといてもらっていい? 簡単にで良いから。あ、みんなには黙っといてな」
「うん……わかった」
 美咲は井庭に断ってから一旦公民館を出て、近くの自販機で栄養ドリンクを買って戻ってきた。それを朋之の見えるところに置いてから、井庭に事情を簡単に話した。
「そうか……。山口君、結婚決まったときは嬉しそうにしてたんやけどなぁ。何年か前も落ち込んでて……。苦労してたんやろなぁ」
 朋之は体を起こし、壁にもたれて座っていた。美咲と井庭が話しているのを見ながら、栄養ドリンクを手に取った。
「子供はおらんかったよな。おったら親権で揉めるからな……」
 良いタイミングだっただろう、と井庭は続ける。
「小山さんも、まだやな?」
「はい……」
「あ、出来たら絶対言うてや。無理させられへんし」
 ありがとうございます、と美咲が返したとき、朋之は二人のところへ戻ってきた。表情はあまり変わっていないけれど、さっきよりはましだ。
「小山さんに聞いたよ。今日は元気出されへんやろし、耳だけ仕事しといて」
 今の朋之に歌う力はない。無理をしても音を乱すし、そんなときに練習してもあまり意味はない。
 朋之はメンバーが練習するのをじっと聴いていた。楽譜を見ながら強弱を確かめ、ときどき歌を止めては言葉が聞き取りにくいところを何度も練習させる。仕上がってきた頃に美咲の伴奏をつけ、最初から最後まで通す。
「あの……最初の〝おーい〟が、どうも〝ふぉーい〟に聞こえる。“しんちゃん”みたいやから、もっとはっきり。ごめん小山さん、最初から……」
 一部メンバーからの笑い声が消えるのを待って、井庭は指揮を構える。美咲は井庭が右手を上げるのを見てからピアノの音を鳴らす。前奏が終わって最初の〝おーい〟は──、さっきよりは綺麗に聞こえていたと思う。井庭も朋之も止めなかったので、そのまま最後まで弾いた。
 普段の練習は朋之が指導しているけれど、ステージに立つときに指揮をするのは井庭だ。朋之が上手く指示を出すので代表交代の話を冗談混じりにしたけれど朋之にはその気は今はないらしい。
「なぁ、紀伊さん……次の土曜日、付き合ってもらって良いかな? 来週にはたぶん歌えるから」
 練習が終わって美咲がピアノを片付けていると朋之が聞いてきた。
「あ──うん、良いよ」
 朋之は美咲に、スタジオでの歌の練習に一緒に来て欲しい、と言ったのだけれど。
「山口君と美咲ちゃんって付き合ってるの?」
 話の一部だけを聞いて勘違いしてしまった女性が数名。二人で話していることが多かったからか、そういう風に見えていたらしい。
「違いますよ。二人とも結婚してるし」
「俺が今日はこんなんやから、自主練に来てもらえるか聞いただけで……。同窓会なかったら中学の時の記憶で止まってたしな」
「うん。当時はそんなに仲良くはなかったし……」
 美咲と朋之が話すのを聞いて、女性たちは『勘違いしてごめんねぇ』と笑いながら部屋を出ていった。当時はそんなに仲良くはなかった──けれど、美咲は朋之が好きだったし、裕人が言っていたことが本当なら両片思いだったことになる。
 なんとなく朋之を見づらくなって、黙ってピアノを片付ける。蓋を閉じて最後にカバーを掛けて、自分の荷物を持った。振り返ると、朋之が荷物を持って美咲を見つめていた。
「……どうかしたん?」
「いや──、〝さん〟って付けたら他人行儀やなぁと思って……〝ちゃん〟もおかしいしな……」
「別に何でも良いよ」
「じゃあ──きぃ」
 字面だけ可愛くしたようだけれど、発音は旧姓と全く変わらない。なんじゃそりゃ、と笑いながら公民館を出る。
 朋之は今日は敢えて電車で来たようで、最寄りの駅まで一緒に帰った。別れてからHair Salon HIROの前を通ると裕人が客を見送っているところだった。あいつ大丈夫そう? と聞いてきたので、たぶんね、と答えた。
 嫁を紹介されたのは、就職して五年ほど経った頃だった。本社勤務になって社長と接することも増え、俺の仕事は評価されていたらしい。
「山口君はいま、彼女はいるんかな?」
「いえ……」
「それなら、私の娘とお見合いしてもらわれへんかな? 会ってみて、もし嫌やったら断ってくれても良い」
 高校、大学で付き合った女性は何人かいたが、当時は全く長続きしなかった。だいたい向こうから声をかけておきながら、離れていくのも勝手だった。俺に悪いところが無かったとは言いきれないが、不安にはさせないように接してきたつもりだ。
 それでも俺が毎週日曜に予定を入れていたからか、デートが出来ない、と何回も怒られた。中学の頃から歌うのが好きで、高校のときに偶然、合唱団メンバー募集の広告を見た。地元にもいくつかあるのは知っていたが、俺は敢えて違うのを選んだ。
 それが今のHarmonieだ。
 当時はただのメンバーだったが、先にいた人たちが何人か辞め、いつの間にか古株になっていた。意見を頻繁に、問題点を的確に発していたせいか、井庭に指導を任されるようになった。
 俺は合唱を辞めるつもりはなかったし、練習を休んでまでデートするつもりもなかった。それが噂で広がったのか──、やがてピタリと彼女が出来なくなった。
 だから社長が娘を紹介してくれると聞いて最初は嬉しかった。
 アルバイトの経験がなく大学を出てそのまま就職したらしいが、それは特に問題ではなかった。一般企業で事務をしていると言うし、仕事を嫌っている感じでもなかった。マナーもきちんとしているし、身なりも綺麗に整っているし、料理は苦手だと言っているがそれは徐々に慣れるだろうと思った。日曜は会えないことも理解してくれて、練習場所の近くに住んで良いと言ってくれて、やっといい人に出会えたかと思った。
 間違いだとわかったのは、嫁が専業主婦になってからだ。
 今までは自分の給料と社長からの小遣いを貰っていたらしいが、それは無くなった。その代わり、俺の給料で好きなものを買えと言ってクレジットカードを渡すと、何度も限度額を越えた。
「好きなもの買って良いって言ってたから」
「常識で考えろよ。使いすぎやぞ。家のローンも……社長が助けてくれたけど、まだ残ってるんやぞ。電気、ガス、テレビ、携帯……払えるんか?」
 嫁からはクレジットカードを取り上げた。これだけのことで離婚するのは早いと思ったので、次に同じようなことをしたら終わりだと約束した。
 嫁は反省したのか、しばらくは大人しく生活していたが──。
 通帳の管理を任せていたのが間違いだった。普通にしていれば余裕で生活できていたはずの貯金が、ほとんど無くなっていた。
 約束通り、俺は離婚の決意をして嫁を家から出した。
「山口君、うちの娘が申し訳ない!」
 社長室に顔を出すと、社長が土下座する勢いで椅子から立ち上がった。
「いや、社長は何も悪くないんで、頭上げてください」
 床に手をつこうとするのを何とか止め、ソファに座らせて俺も向かいに座った。
「娘がああなったのは、俺の責任や……贅沢させてきたから、抜けへんのやろうな。俺は離婚してくれて良いと思ってる」
「普段は何も問題なかったけど、お金の使い方が俺には無理でした。今日、離婚届を取って帰ります」
「ああ、わかった。書いたら持ってきてくれ。娘には俺が渡して、役所に出させる」
 住んでいる家は一人には広いので、マンションに引っ越して家は社長に返すことにした。人事にはもちろん報告するが、嫁に場所を教えるつもりはない。
 仕事はこのまま続ける予定だったので、社長と揉めたくはなかった。慰謝料を相場以上に払うと言われたが、それは断った。何も要らないと言っても聞いてくれなかったので、嫁が無駄遣いした分だけ請求することになった。
「あと、私のあとを継いでもらう話は──」
「それも、無かったことにしてください。俺はそんな器じゃないです」
 社長は、わかった、と短く言って最後にもう一度、俺に頭を下げた。

 社長に預けた離婚届に嫁は渋々サインしたらしい。役所に届け出るところまで、社長は見届けたらしい。
「しばらく気楽に暮らせよ。俺らもたまに遊びに来るし。な、紀伊?」
「えっ、私も? まぁ……たまになら……」
 俺は近くにワンルームマンションを借りて、荷物は少なかったので美咲と裕人が引っ越しを手伝ってくれた。俺は数日の休暇を申請して、裕人が休みの月曜日と重なった。
「それにしても、不思議やなぁ。俺、中学のとき……トモ君ともそんな仲良くはなかったよなぁ」
「そう、やな……。高井とよく一緒やったよな?」
「そやねん。三年とき一緒やって、紀伊もおったよな? あいつ、うるっさかったよなぁ」
 なぜか高井佳樹の話題になって、いま何をしているのか気になって裕人が同窓会で教えてもらったSNSを見た。けれど更新頻度は低いようで、『同窓会行ってきた』の報告で終わっていた。
「同窓会って四月やったから、五ヶ月前よなぁ? 連絡はしてないん?」
 美咲が聞いてきたけれど、裕人も俺も同窓会以来会っていないし、連絡をとる用事もない。裕人は佳樹と同じ高校だったけれどクラスは別で、俺はそもそも違う高校だった。大学も全員違うところで、接点はなかったらしい。
「あ──そうや、思い出した、あいつ出張で海外行くって言ってたわ。確か」
「そうや、言ってたわ。同窓会のあと……飲みに行ったとき聞いたな」
 俺と裕人は、ははは、と笑いながら佳樹の話を続けた。美咲も一緒に笑ったけれど、なぜか彼に会おうという話にはならない。
 俺が裕人と話す視界の隅で、美咲は俺の荷物の中から楽譜の束を見つけた。今までに貰ったものを全てまとめていて、順番に重ねてある。
 パラパラとめくって最後のほうで手を止めた──ということは、古ぼけて色褪せた楽譜を見つけたのだろうか。二十年ほど前に篠山がくれた藁半紙のコピーは、美咲にも見覚えがあるはずだ。
「そういえば俺もやけど、紀伊ってほとんどトモ君と話してなかったよな?」
 美咲は見ていた楽譜を置いて裕人のほうを見た。
「うん……大倉君とはよく話したけど……山口君と話すのはごく稀やった……」
「そうやった? 記憶のほとんどにきぃがおるんやけど」
 それは美咲も同意見で、中学といえば朋之が浮かんでくる。もちろん当時の親友だった彩加や篠山との記憶もあるけれど、一番多くの思い出があるのは裕人で、その次が朋之だ。彩加とは仲良くしていたけれど、性格が合わないなと思うこともあった。
「学校で席近いとき多かったし、塾も学校みたいなメンバーやったから……話の輪には入ってたね」
「ああ、そうか。塾で席自由やったとき、よく俺の前にいたよなぁ」
「いや──それは違う、逆。私はっきり覚えてるんやけど」
 学校の定期テスト前には塾で対策授業があって、クラスは学校別で席も自由だった。美咲はいつも彩加と一緒に早くに到着していて、まだ誰もいない教室で好きな席に座った。三人掛けの長机で、美咲は壁側に入った。
 自習したりしているうちに他の生徒達がやってきて、教室の外から知っている声がした。先頭で入ってきたのは朋之だった。どこに座るつもりだろう、と見ていると彼は美咲の後ろに滑り込んできた。
「しかもあの日……休み時間に立とうと思ったら、椅子のとこまで机が来てて立たれへんかったし」
 そんなことが何度かあったから、美咲はよく背中に朋之の視線を感じていた。学校で同じクラスだったときは美咲のほうが後ろに座っていた──けれど、授業中も雑談が絶えなかった当時は彼は後ろを向いて遊んでいた。
「そういうことやで、トモ君。知らんけど」
 裕人に言われて(うな)りながら、朋之はキッチンへ向かう。
「逆に私、二年のときの大倉君の記憶があんまりない」
「ええ……」
 クラスメイトの男子たちは休み時間は走り回って暴れていたけれど、裕人はいつも塾の宿題をしていた。テストのやり直し、天声人語の書き写し、数学の計算。そしてそれが終わったら、チャイムが鳴るまで机で眠っていた。
「あのとき俺らこんなんやったら、別の人生やったやろな」
 意味深に笑いながら裕人は床に置かれたローテーブルの前に座る。作業が一段落ついてあとは細かい片付けなので、朋之がコーヒーを入れてきてくれた。三人でテーブルを囲って話を続けた。
「なんか、トモ君と紀伊、楽しそうやよな」
「……そうか? いろいろ大変やけどな」
「たまにスタジオ借りて練習してんやろ? 俺もそんなんやってみたかったな」

 二日前の土曜日の午後、美咲は予定どおり朋之と一緒にスタジオへ練習に行った。初めは朋之は元気がなかったけれど、発声をしているうちに笑顔が戻ってきた。いつも朋之はギターを持ってきていたけれど、この日はそれはなかった。
『コンサート近いから集中するわ』
 一週間前の練習での自分の発言を思い出しながら、一通り歌ってみる。上手くいかないところを繰り返し、美咲のピアノの音と合わせてみる。
『きぃ、ごめん、今度こっちお願いして良い?』
 朋之は別の楽譜を出して、弾いて欲しいところを美咲に伝えた。
 ゆっくり出来る時間が減って大変ではあったけれど、美咲は久々の伴奏を楽しんでいた。同級生や恩師との付き合いがまた始まったことがとても嬉しかった。
『そうや、次のコンサート……篠山先生とこも出るらしいで』
『へぇ……まぁ、そうやろなぁ』
 歌のレベルを比べれば、向こうのほうが遥かに上だと思う。もしも次のステージがコンサートではなくコンクールだったら、間違いなく賞を取っていくはずだ。プログラムには指揮と伴奏の名前も載せられるので、美咲に気付く人が何人かいるかもしれない。
『気になる?』
『うーん……なれへんことはないけど……』
 もし美咲がフェードアウトしていなかったら、違う立場でステージに立っていた。井庭ではなく篠山の指揮を見て前を向いていた。
『俺は──きぃは仲間やって信じてるで』
 美咲は主にピアノ担当なのでなかなかメンバーと馴染めなかったけれど、パートごとにピアノと合わせたりしているうちに話をしてくれる人も増えた。朋之と同級生だと知って、そっちに興味を持った人もいた。
 メンバーは指揮を見るのはもちろん、ピアノの音も耳で追っている。美咲がぶれてしまっては歌もまとまらない。
 朋之のその言葉のおかげか、前日の練習では何かが違うと感じた。いつもより音が綺麗になって、井庭もメンバーの(まと)まりを褒めていた。ふと気になって朋之のほうを見ると、美咲にだけ見えるように親指を立てていた。

「次の日曜が本番やけど……ヒロ君は仕事よな?」
「うん。知らんかったから予約入ってるし……。あっ、そうやおまえら、あ──トモ君は別にええか、紀伊の髪のセットしたるわ!」
「えっ、良いの? 簡単にハーフアップくらいで考えてるんやけど」
「ええよ。自分でやりにくいやろ?」
 裕人や朋之と再会できて本当に良かったと思う。小山航と結婚して、佐藤華子と親戚になって、同窓会に出席して大正解だった。
 彼らと親しくしていることを美咲は航にはあまり話していない。朋之に誘われて合唱団に入ったことや裕人の美容室に通っていることは話しているけれど、美咲が家事をきちんとしているせいか航も聞いてこない。もちろん──二人のことが好きだったなんて、誰にも話していない。
 それでも時々、裕人の発言が意味深に聞こえるのは気のせいなのだろうか。美容室で聞いた過去の事実も気になって余計に考えてしまう。
「土曜日もピアノ頼むな」
「え? 土曜?」
「本番前の最後の練習、仕事の人もおるやろうから夜にやるって、言ってたよな?」
「あ──うん、聞いてる聞いてる」
 夕方の中途半端な時間からだったので、航の夕食は美咲が用意してから行くと行ってある。美咲は練習が終わってから、井庭や朋之と打ち合わせを兼ねて食べに行く予定だ。
 もしも中学のときに仲が良かったら、どんな人生を送っていたのだろうか。
 もしも十年早く再会していたら、何かが変わっていたのだろうか。
 もしも……それ(・・)を伝えてしまったら……。
※朋之が離婚を決意したとき。

 嫁にお金を勝手に使われて、もうダメだ、と思ったとき気付けば裕人に連絡していた。ギターのアクセサリーを買う予定があったので、無意識に電車にも乗って都会を目指していた。
 裕人に送ったLINEが既読になって、すぐに電話がきた。俺は意味不明なことを送っていたようで──、とりあえず大丈夫だと話し、裕人は偶然近くにいたので会うことになった。事情があって、美咲も一緒だった。
 カフェに入り、状況を説明した。離婚する、と言うと驚かれたが、俺の決意は変わらなかった。二人とも力になると言ってくれて、少し心が軽くなった。
 楽器屋にはまだ行っていなかったので、裕人が同行してくれることになった。俺は一人で大丈夫だったが、裕人なりの優しさだったのだろう。
「じゃあな紀伊、気つけて帰れよ」
「また明日な」
 駅の改札で美咲を見送って、楽器屋へ行った。ギターのピックがどうしても欲しかったので好みのものを探し、あとは弦も買った。ストラップも新しいのが欲しかったが、良いものがなかったのでやめた。
「トモ君がギター弾くん知らんかったな」
「高校入ってからやからな。中学ときは授業もなかったし……触ったことはあってんで」
 それでも当時はバスケ部だったので、放課後はだいたい運動していた。音楽といえば授業だけで、俺にそんなイメージはなかっただろう。
 裕人と飲みに行くことになって、俺は改めて離婚の話をした。これからどうしようか、と話しているうちに酔いが回ってしまい、弱音ばかり吐いていたらしい。
「俺もう、無理や……女なんか……」
「たまたまやって。社長の娘やし、お金あったんか知らんけど感覚おかしかったんやろ? そんな人ばっかりちゃうで」
「そうかなぁ……あいつは……普通なんかな……」
「あいつ? ──紀伊か? やめとけ、手出したらあかんで」
「ははは……わかってるって……あーあ……」
 その辺りから記憶が飛んでいる。翌朝、目覚めると裕人の家にいて、裕人の妻が朝食を用意してくれていた。謝罪と礼を何度もして、俺は自宅へ帰った。
 自宅に着いてからのことは、美咲に話した通りだ。
 二日酔いで辛いところに口論になって、頭が回らなかった。午前中には落ち着いたので、軽く腹ごしらえをしてから早めに練習に行った。
 しかしいつもの元気を出す力はなく、何も出来なかった。椅子から立ち上がろうとして、倒れてしまった。
 井庭が美咲に俺の介抱を頼んだのは、美咲が同級生で事情を知っていたからだろうか。
 美咲は枕を用意してくれて、それから栄養ドリンクを買ってきてくれた。特にお願いはしていなかったが、とてもありがたかった。俺が目を閉じている間に戻ってきたようで、メッセージをつけて荷物の近くに置いてくれていた。
 そんな美咲が可愛く見えて、いつまでも〝さん〟をつけて呼ぶのは嫌だなと思った。だからといって〝ちゃん〟をつけるのも違う気がした。
「じゃあ──きぃ」
「ん? そのまま?」
「いや……小さい〝ぃ〟」
 裕人は旧姓で呼んでいるが、それとは若干違う。発音の違いを説明するが、美咲は『一緒に聞こえる』と笑う。
「〝い〟ちゃうねん、〝ぃ〟やで」
「ははは、なんじゃそりゃ。好きに呼んで」
 美咲は何も言わなかったが、あだ名を付けたことは嬉しかったらしい。あだ名ではあるが旧姓に近いので俺も呼びやすく、裕人も違いに気付いていなかった。
 それから一週間後の土曜日には、俺はほぼ元通りに回復していた。美咲にスタジオでの練習に同行をお願いし、ピアノを弾いてもらった。相変わらず美咲はピアノにかじりついているらしく、会う度に上達していた。Harmonieに誘って本当に良かったと思う。
 秋のコンサートにえいこんが出ると言うと、不安そうな顔をしていた。コンクールではないので審査されるわけではないが、元いた団体で篠山に恩があるのもあっていろいろ複雑らしい。
「俺は──きぃは仲間やって信じてるで」
 本当は、もっと別の言葉で言いたかった。確かに仲間ではあるが、もっと親密な言葉を言いたかった。しかし美咲には旦那がいるので、迷った末にやめた。
 ただそれは、Harmonieにとっては正解だったらしい。
 俺の言葉が美咲の何かを変えたようで、翌日の練習ではまた更に上手くなっていた。帰ってから練習はしていないと言っていたが、確実に音がクリアになっていた。
「今日みんなすごいな? 家で猛練習した?」
「してない……うるさいって怒られる」
 井庭はメンバーに聞いていたが、家で大声を出せるはずはない。仕事や学校の時間があるので、夜に外で歌うのも迷惑だ。
「小山さんもいつもより安定感あったで」
 井庭が言うと、椅子に後ろ向きに座っていた美咲はメンバーに注目されて照れていた。はっきりとは聞こえなかったが、美咲は顔の前で手を振って『そんなことない』と言っていた。
 それでも美咲のピアノが上手くなり、メンバーが安心して歌っていたのは事実だ。肝心なのは歌うほうだが、ピアノの仕上がりにも大きく左右される。美咲に何か伝えたかったが井庭が話し続けているので、俺は美咲にだけ見えるように親指を立てた。美咲は気付いてくれたようで、口角が上がっていた。
 引っ越しの日に美咲が話した塾でのことは、直後に思い出した。なんとなく気まずくなって作業を止めて、コーヒーを入れにいった。
「なんか、トモ君と紀伊、楽しそうやよな」
「……そうか? いろいろ大変やけどな」
 裕人が言うことは、いつも正解だ。俺は確かに週末を楽しみにしていたし、離婚してからは自由になったので美咲との接触を増やした──もちろん、常識の範囲内でだ。美咲も好きなことが出来て楽しそうだったし、俺とも友人のように接してくれていた。
 しかしまだ俺も裕人も、美咲は俺のことが好きだった、という言葉を本人から聞いていない。美咲は旦那との関係は良好らしいので、壊すようなことはしたくなかった。
 十月半ばのコンサートの朝、美咲は朝食を済ませてからすぐに家を出た。裕人がヘアセットをしてくれる、という話を航にすると、航は店の前まで車で送ってくれた。同僚が通っているので話をしようかな、と言っていたけれど、車から降りずにそのまま帰ってしまった。
「ごめんね朝早くから」
「ええよええよ。この辺が良いかなぁと思うんやけど」
 美咲が鏡の前に座ると、裕人はヘアセットのカタログを見せてきた。その中から派手すぎないものを選び、あとは裕人に任せる。
「コンサートって昼からやろ?」
「うん。そうやけど、午前中にリハーサルで、他のとこと順番あるから」
 コンサート会場にはホールの他に会議室もたくさんあるので、そこが出場団体の控え室になっているらしい。ピアノが置かれている練習室は限りがあるので、時間が来るまではアカペラで練習だ。
「俺も行きたかったなぁ。久々に紀伊のピアノ聴きたかったわ」
「ははは。またいつでも聴きに来て」
 そんな話をしていると、店の扉が開いた。
「おっす。もう終わるけど……そのへん座っといて」
 やってきたのは朋之で、美咲は彼と車で向かうことになっていた。メンバーはほとんどが大人なので、何台かに分かれて乗ることになったらしい。美咲と一緒に行きたいと言った人がいたけれど、他のメンバーより時間が早いと言うと渋々諦めていた。
 ヘアセットが終わり、美咲は立ち上がる。ステージ衣装は特に決めていないので、自前の秋っぽい服だ。靴も履き慣れたペタンコのものを選んだので、ペダルを踏むのも苦労しないはずだ。
「ありがとう! 今度なんかお礼する!」
 店の前に停めてあった朋之の車に乗り、見送ってくれる裕人に美咲は手を振った。駅前のロータリーで方向を変えて、朋之はアクセルを踏む。
「山口君は今日は誰か聴きに来るん?」
「いや……誰にも言ってない。近くに友達もおらんし……。きぃは?」
「旦那と、義理の両親が来るんやって」
 コンサートでピアノを弾くという話をすると、場所も近くなので行こうか、という話をしていた。三人は合唱には特に興味がないようだけれど、美咲の演奏を聴きたいと言っていた。有名な曲を義実家で弾いていたときも〝わからん〟と言っていた義両親は、果たして合唱についてこれるのか疑問だ。
「知ってる人おったら、緊張するよな」
「うん。全然知らん人だらけのほうが気が楽」
 でもピアノは客席のほうを向いていないからまだマシかな、と美咲は笑うけれど、会場が近づくにつれて緊張は増していく。代わりが誰もいないから、間違えてはいけない。普段とは違う髪型をしているのもあって、妙に落ち着かない。
 車を駐車場に停めて、中に入ると玄関ホールで井庭が待っていた。
「小山さん、顔、かたいで」
 井庭に笑われて、思わず両手で覆う。くちゃくちゃにしかけたところで、化粧が落ちると思い出して慌てて手を離す。
 それからあとの事は、はっきり覚えていない。
 井庭と朋之と簡単に打ち合わせてから他のメンバーと合流し、会議室で軽く練習をした。もちろん美咲はピアノがないので、脳内で再生させる。いつの間にか歌も覚えていたので、ときどき歌ってみる。
 持ってきた昼食を食べてから、練習室でリハーサルをした。時間が限られているので全てはできず、途中で終わってしまう。『時間です』と係の人に誘導され、開演前のステージ裏へ向かう。前の団体の演奏を聴きながら待ち、そのあとステージでメンバーたちは立ち位置を確認する。
「美咲ちゃん。また久しぶり」
「あっ、篠山先生……」
 舞台袖で待機していると声をかけられた。美咲に続いてステージに上がる井庭の後ろに『えいこん』が待機していた。
「ステージ久々やから緊張します」
「ははは。私も何回も立ってるけど、毎回緊張するわ」
「あのぉ、もしかして……紀伊先輩ですか?」
 おそるおそる近づいてきたのは、えいこんで一緒にソプラノを歌っていたメンバーだった。学校やクラブで一緒になったわけではないけれど、単に美咲が年上なので先輩と呼ばれていた。残念ながら、彼女の名前は思い出せない。篠山が『実はこんなことが』と話し出すと同時に、美咲たちはステージに呼ばれた。
 諸々の確認をしてから一旦控え室に戻り、最後のアカペラの練習をしてから出演の順番を待つ。リハーサルと同じ順番なので、舞台袖で聴いているのも先程と同じ曲だ。ひとつ違っているのは、開演しているので観客がたくさん入っていることだ。
「よし、Go!」
 井庭がそう言ったのを合図に、男声のバスから順番に照明を浴びる。テナー、そしてアルト、ソプラノ、美咲が入って最後は井庭だ。
『俺は、きぃは仲間やって信じてるで』
 ふとその言葉を思い出して美咲が顔を上げると、グランドピアノの譜面立ての向こうに朋之が見えた。落ち着いてやれば大丈夫だ──、と言い聞かせ、井庭のほうを見た。手が上がるのを見て、美咲はピアノに神経を注いだ。

 終演まで残る必要はなかったので、美咲は用事が済んでから篠山が出てくるのを待った。メンバーはほとんどが帰ってしまったけれど、朋之と井庭は一緒だ。
「もうそろそろやと思うけど……。あ、篠山先生、お疲れ様です」
「あら、どうも、ありがとうございます。お疲れ様でした」
 井庭と篠山が話を始めたので、美咲と朋之は待った。前を通るえいこんのメンバーが美咲に気付き、『先輩、お久しぶりです!』と挨拶をしていく。たまに隣の朋之を『彼氏ですか?』と聞かれるので、違うことを説明しておいた。
「美咲ちゃん、ピアノ上手くなったね。うちでやれへん? ──あ、出禁にしたんやったわ、ははは。またね」
 篠山は笑いながら美咲に手を振り、朋之や井庭にも挨拶して駐車場へ向かう。ちなみにえいこんのメンバーは若いので、半分ほどは電車で帰るらしい。
 美咲も井庭に挨拶して、朋之の車に乗る。一気に緊張が解けてきて変な声が出た。
「なにその声、あくび?」
「はは、なんやろ? 疲れたんかな?」
 外は少し暗くなっているので、車の中も暗い。眠くなってくるけれど、寝るわけにはいかない。今後のスケジュールの話をしながら朋之は車を走らせ、やがて美咲のマンションに到着した。美咲は航と外食の予定なので、部屋で航が待っているはずだ。
「ありがとうね。今日はゆっくり休んで。明日は仕事やろ?」
 車を降りてから美咲は振り返る。
「なぁ、きぃ、あのさ……」
「ん? どうしたん?」
 美咲は助手席の窓から朋之を見たけれど。
「いや──なんでもない。お疲れ。またな」
 朋之はハザードランプを消して走っていってしまった。何を言おうとしたのか思い当たることはいくつかあったけれど、美咲は敢えて聞かないことにした。
「うわぁ、私、顔ひきつってる……」
 コンサートは撮影を許可していたので、航が美咲を撮ってくれていた。全体を見ると気にならないけれど、美咲をズームにして見ると緊張しているのが丸分かりだった。
「もう、やめて、アップやめて」
 美咲は自分のアップを嫌がるけれど、動画のズームは終わるまで変えられない。カメラが引いて全体が映るのを待って、ようやく美咲は画面のほうを見た。航と義両親は開演を少し過ぎてから到着し、『Harmonie』と『えいこん』まで聴いてから出たらしい。
「お義母さんたち何か言ってた?」
「いや? 上手いなぁとは言ってたけど。美咲の後のとこも上手かったで。前おったとこやろ? なんかな……気持ちわかるわ。熱がすごい」
 美咲は自分のスケジュールが合わせられなくなってフェードアウトしたけれど、メンバーの熱量についていけなかったのも理由の一つだった。Harmonieも熱はあるけれど、コンクールには出ていないのでえいこんよりは弱い。
「好きなんやなぁ、音楽」
 幼稚園に入る前から様々な楽器に触れてきて最終的にピアノを続けることになって、結婚してマンションを決めるときから『ピアノを置きたい』と航に話していた。電子ピアノの初期設定は鍵盤が軽いので、美咲は設定を重くしてピアノに近づけた。

 Harmonieの練習は一回休みになったので、美咲は十一月になってから練習に顔を出した。地元の小さなホールでクリスマスにイベントが予定されていて、次はそこで歌う予定らしい。
 美咲ももちろん出演するけれど、次回はピアノは無しで歌うことになった。そのことは以前から井庭と話をしていたし、コンサートの帰りに朋之とも確認した。えいこんにいた頃はソプラノだったけれど、やはり高い音が出なくなっていたので今回はアルトになった。今までは井庭の隣で待機していたけれど、椅子を持ってきてメンバーに混じって座った。
「今年は、イベントが終わってから忘年会をしようと思ってます」
 練習前の連絡の最後に朋之が言うと、歓声が上がった。世間の事情でしばらく出来ていなかったので、特に大人はお酒が飲めることが嬉しいらしい。
「メンバー増えたし──小山さんの歓迎会も兼ねて」
「えっ? 良いよ、それは」
 美咲は慌てて断るけれど、周りは賛成らしい。コンサートを無事に終えたことも感謝されているようで、『歓迎会しましょ!』という女性たちの声が上がる。
「小山さん、お姉さんたちには従っとき」
 井庭が笑いながら言うので断れなくなって、忘年会は美咲の歓迎会を兼ねることになった。そして同じアルトだったお姉さんたちに引っ張られながら練習を開始して、休憩中も美咲は逃げることが出来なかった。
 ようやく解放されたのは、練習が終わって帰るときだった。美咲は彼女たちが帰るのを見てから朋之に駆け寄った。
「ちょっと、歓迎会って……」
「はは、良いやん。みんなきぃのこと気に入ってるみたいやし」
「小山さん人気者やな。篠山先生が──中学のときモテてたって言ってたで」
「ええっ? それはないです!」
 美咲のことが気になってそうな男子はいたけれど。実際に誰かに告白されたことは一度もなかったし、特に親しく過ごした人もいない。
「そんな、全力で……」
 否定されたら俺のあの頃──、という朋之の言葉は誰にも届かず、残っていたメンバーのざわめきに消えていく。美咲も裕人が言っていた過去のことを思い出したけれど、今更どうにもならないので言葉にはしないでおく。
 美咲には既に航がいるし、朋之ももちろん事情を知っている。
 本当は美咲は言ってしまいたい。けれどそれは無理なので、せめて何か伝われと願いながらピアノを弾いていた。それは歌になっても同じで、ハモるメロディに彼を探し、ずっと追っていた。中学のときは声の大きさしか気にしなかったけれど、彼は歌が上手だと今ならはっきりわかる。
「本当にただの同級生だったの?」
 クリスマスイベントのあとの忘年会で、美咲に聞いてきたのはお姉さんたちだ。朋之はやはり女性たちに人気のようで、仲良くしている美咲が羨ましいらしい。
「本当ですって。あっちにも聞いてくださいよ」
「ふぅん。まぁ、美咲ちゃんも旦那さんいてるからねぇ。ははは!」
 それから彼女たちの話が違う方向に向いたので、美咲は飲みかけのグラスを持って席を移動した。男性陣から声をかけられたので間に入れてもらった。朋之は席を外しているらしい。
「それ、ジュース?」
「え? 違うよ、カクテル。チャイナブルー」
 初めは綺麗な色をしていたけれど、時間が経って氷で薄まって少々色が悪い。飲み会の後に電車で長時間かけて帰宅することが多かった美咲は、少しのお酒をちびちび飲む癖がついた。残り1/3になる頃にはあまり味はしない。
「ビールは飲めへんの?」
「うん……ビールと日本酒は苦手で」
 こんな話を前にもしたな、と美咲は思った。航と広島に行ったあと、同級生たちとだ。裕人とはときどき会っているけれど、彼の先輩を紹介された華子はどうしているだろうか。
「確か小山さんて、山口君と同級生なんですよねぇ? あの人、ちょっと厳しくないですか?」
「おいおまえ、ちょっと寄れ」
「えっ、あ──はい……」
 どこかから戻ってきた朋之が話を遮って美咲の隣に来た。朋之は厳しい、と言っていた彼は気まずそうにしていた。
「俺そんな厳しくないよな? 篠山先生に比べたら」
「うん……あそこのほうが、しんどい」
 何年も合唱を続けていると、他の団体の情報が入ってくる。それ以前に美咲と朋之は篠山に学校でお世話になって、美咲はえいこんにも所属していた。篠山がとても厳しいことは、Harmonieの誰よりも知っているつもりだ。
「きぃ、それ薄いやろ? 何か頼んだら?」
 美咲が持ってきたチャイナブルーは、もはや青とは言えなくなっていた。
 忘年会の時間はまだ残っていたので、美咲は少し迷ってから梅酒のソーダ割りを注文した。飲みやすくてすぐになくなるだろうと思ったのは正解で、ラストオーダーのときにお代わりをすることになった。
 美咲は少しふらついていたので、降りる駅が同じ朋之が駅の改札を出るまで付き添った。美咲が航の車を見つけて乗り込むのを少し離れて見届けてから、クリスマス色に輝く街を朋之は一人暮らしのマンションへ帰った。
※秋コンサートのあと、クリスマスの頃。

 クリスマスイベントのあとに美咲の歓迎会を兼ねた忘年会をしようと思ったのは、単に美咲と過ごしたかったからだ。表向きは忘年会にしたのもあって、誰も怪しまなかった。
 しかし美咲は忘年会よりも、歓迎会をされることのほうが心苦しかったらしい。
「ちょっと、歓迎会って……」
「はは、良いやん。みんなきぃのこと気に入ってるみたいやし」
 本当に美咲は人気になって、俺と二人で話せる時間は少し減っていた。男声メンバーにも人気なので、何も起こらないとは思うが焦る。
「小山さん人気者やな。篠山先生が──中学のときモテてたって言ってたで」
「ええっ? それはないです!」
 美咲は驚き、すぐに全力で否定した。
 そんなことをされると俺の過去もなかったことになってしまう。美咲には言っていないが当時、男同士の話題に上がることも多かったし、学年の中でも有名なほうだった。クラスが離れた三年のときも、教室でときどき美咲の名前を聞いた。篠山は美咲との接点が多かったから、噂も多く聞いていたはずだ。
 忘年会にはイベント会場からみんなで行ったので、美咲は初め女声メンバーに囲まれて座っていた。話の内容までは聞こえなかったが、ときどき俺のほうを見ている人がいた──ということは、俺との関係を話していたのだろうか。
「小山さんて、どっちかというと、可愛い系ですよねぇ」
 男連中の話題も、いつの間にか美咲のことになっていた。
「そうやなぁ。綺麗系ではないよな。小山さんがもうちょっと若かったらなぁ……」
 若くて独身だったら狙ったのに、と盛り上がっている。
「山口君、小山さんて子供のときも可愛かったんですか?」
 突然そんなことを聞かれ、飲んでいたビールをこぼしそうになった。
「いや……普通やったんちゃう? ピアノで目立ってはいたけど……」
「女の人って、化粧でいくらでも誤魔化せますよね。化粧落としたら別人とか」
「おい、それは女性全員に失礼やで?」
 広い座敷のほぼ中央にいた井庭が暴言を止めてくれた。女性たちが何事かと聞いてきたので、化粧で、という話をするとやはり、年齢が上の女性たちが少し怒っていた。美咲も加勢しようか迷っていたが──、彼女は特に盛ってはいないはずだ。
 用があって席を外し、戻ってくると元いた場所に美咲が座っているのが見えた。
「確か小山さんて、山口君と同級生なんですよねぇ?」
 男連中は美咲から何を聞くつもりだ?
「あの人、ちょっと厳しくないですか?」
「おいおまえ、ちょっと寄れ」
「えっ、あ──はい……」
 美咲の隣の奴が聞いていたので、俺は迷わず間に入った。
「俺そんな厳しくないよな? 篠山先生に比べたら」
「うん……あそこのほうが、しんどい」
 美咲は篠山と仲が良かった分、厳しいことも一番知っていた。特にえいこんにいた間は、そのことに関係してメンバー同士が揉めたこともあったらしい。
「えいこんは技術はすごいし練習参加するのも良いと思うけど……ステージ全部出ようと思ったら体力もてへん」
 特にステージが増える秋は、篠山は怖いらしい。確かに俺も秋のコンサート前は厳しくなるが、コンクールには出ないので多少は目を瞑り、耳も塞ぐ。完璧を求めたくもなるが、どうせなら楽しみたい。
 俺が厳しい、と言っていた奴はわかってくれたようで、違う話を始めた。俺は参加しなくても良さそうだったので、料理に手を伸ばした。そして、美咲が持っていたグラスが目についた。
「きぃ、それ薄いやろ? 何か頼んだら?」
 チャイナブルーだったらしい色は残っているが、氷が全て溶けたようでもはやブルーではない。
「うん……どうしようかな……」
「キイって、小山さんの旧姓ですよね?」
 近くにいた奴が美咲に聞いてきた。
「仲良かったんですか? 小山さん誘ったのも山口君やったし」
 やはりメンバーも、俺があだ名で呼んでいるとは気付いていないようだ。
「いやぁ……全然やったよなぁ? 関わることは多かったけど、むしろ……遠くにおった感じ」
「遠く……ああ──そうやな……」
「だからさぁ、今になってあだ名つけられてるから変な感じで」
 それは出来れば黙っておいて欲しかったが、言われてしまったものは仕方ない。
「えっ? あだ名?」
「うん。旧姓に聞こえるけど、あだ名みたい」
 美咲が注文していた梅酒は既に届けられていて、半分ほど無くなっていた。美咲はペースが遅いはずなのに、いつの間に飲んだ?
 周りの奴らはあだ名の話で盛り上がっているが、俺は美咲の心配をしていた。同級生と飲み会をしたときも二杯目を少し残していたのに、今は二杯目が無くなりそうだ。
「きぃ、それ、ソーダ割りやろ? 飲みやすいからペース早くなって、酔いやすいで?」
「そうなん? ……でももう、無くなった」
 美咲はラストオーダーで梅酒をおかわりして全部飲んでいたが、普段より陽気だということは酔っている証拠だ。
 最寄駅が一緒なので付き添うことになり、駅まで迎えに来てくれるよう旦那に連絡させた。
 一緒に帰ってはいたが、もちろん距離は取った。周りには他のメンバーもいたし、何かあっては困る。美咲は若干ふらついていたが意識ははっきりしていたので、電車を降りてからは遠くから見守った。
 無事に美咲が車に乗ったあと、運転していた人──おそらく旦那が会釈をしてくれた。美咲に何か言ってから美咲が手を振っていたので、俺に挨拶しておけ、と言ったのだろうか。
 車が見えなくなってから、駅前のイルミネーションをしばらく眺めていた。
 来年は、どんなクリスマスを過ごすのだろうか。