梅雨が明けてから、美咲は再びHair Salon HIROを訪れた。今回も平日の午後に予約を入れていたので、家で簡単に昼食を済ませてきた。
「今日はカラーもか……」
「うん。生え際だけで良いかなぁと思うんやけど」
「どうやろなぁ……。全体的にやったほうがいいと思うけど……前はやってないから二ヶ月は放置してるやろ? だいぶ色落ちてるで」
裕人は美咲の髪を見ながら言った。毎日見ているとわからないけれど、カラーはだいたい一ヶ月程で落ちる。気になりだした白髪に至っては、一週間ほどで目立ってきてしまう。
「じゃあ、全体してもらおうかな」
「はーい。じゃあ、ちょっと待ってて。カットは染めてからにするわ」
裕人が準備している間に雑誌を見ていると、女性アシスタントが話しかけてきた。いまの時間は美咲以外に客はいないらしい。
「小山さんと店長って、仲良かったんですか?」
「どうやろう……。クラスメイト以上友達未満……みたいな?」
「ははは、未満? 店長ー、友達未満やったって言われてますよ」
アシスタントは笑いながら裕人のほうを見た。美咲がいないときに、過去のことを少し話したらしい。
「まぁ──そうやな。友達ではなかったよな。話はよくしたけど」
二人の関係について、美咲と裕人の認識は一致していたらしい。
裕人がカラー剤を持ってきたので、アシスタントは少しだけ離れた。美咲はまだそれほど白髪がないのでおしゃれ染めで大丈夫なようだ。
「店長、私やりましょうか?」
「いや、俺やるわ。このあと予約が──」
アシスタントに指示を出している裕人を見て、美咲はまた過去のことを思い出していた。あのときの、あんなだった人が、今では従業員を抱える店長だ。
中学時代はバカやってたけど立派な大人になってますよ、と当時の彼らに教えてやりたい。
「よし、そしたら塗るで」
「え? あ、うん」
ピチャ、という冷たい感覚があって、同時にアンモニアの臭いが鼻をついた。店内はエアコンが効いているけれど、ナイロンのクロスとタオルを巻かれているのでどうしても暑い。それでも頭だけなんとなくひんやりして気持ちいいような、でも臭いがあるから良くはないような。
「あのな……今日はトモ君が来んねん」
裕人のその言葉が一瞬、理解できなかった。
「あ──えっと、山口君?」
「うん。ちょうど、紀伊と入れ替わりくらいちゃうかな?」
山口朋之とは二年の時に同じクラスになって、もちろん塾でも一緒だった。ただ、彼は美咲や裕人よりも成績が良かったので、塾ではだいたい違うクラスだった。
高校もやはり裕人より上のところに行って、大学卒業後、いまは有名企業でサラリーマンをしているらしい。
「今日は休みなん?」
「週末に出勤したみたいでな。代休やって」
「ふぅん……。私もそんなんやったなぁ」
美咲が結婚前に働いていた会社は、カレンダー通りではなく、週休二日制でもなく、月日数によって休日数が決められていた。部署によっては土日出勤は普通だったので、友達と休みが合わないことも、出勤日の交代を依頼されることもいつの間にか慣れた。
結婚してから仕事は辞めたので、一週間のリズムは今では毎週同じだ。
「あの頃──どうやったん?」
「どうって、何が?」
「いや……何て言うか、俺らいつの間にか仲良くなってたやん。どう思ってたんかなぁと思って。もともと佐方と仲良かったんやろ?」
「あ──うん……。一年ときに一緒やって、二年なってから、塾一緒、っていう人を紹介された、ような? あの人も、この人も、って。近くの席になったりして話すこと増えたんかな?」
中学二年になってしばらくしてから、美咲は彩加の紹介で塾に行くようになった。美咲の入塾試験の結果が良かったようで上から二番目の裕人と同じクラスになり、同じ頃に行われた塾内のクラス分けテストで一番上のクラスにいた彩加と朋之はクラスを一つ落とし、結果、美咲の塾生活最初のクラスは学校かと思うほどの顔ぶれだった。
「大倉君とか山口君とかは良いとして……なんで高井君と話すようになったんかがわからんのよなぁ。大倉君と話してたからかな?」
「あー、三年ときか。そういえば、俺ら一緒の班のときあいつ違う班やったのに、横におったな」
「やろ? 急に、方べきの定理って何? って聞かれたりしたわ」
方べきの定理って何やったかな、と笑いながら、裕人はカラー剤を置いて美咲の頭にラップをした。カラーが馴染むまでの時間、アシスタントがアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「難しそうな話してますね。数学ですか?」
「方べきの定理? うん。中学のとき塾で習ったんやけど……学校でも習ったかな?」
そんな話をしていると店に客がやって来たので、アシスタントは対応をしに行った。裕人も別の用事をしているので美咲は一人になり、コーヒーを飲みながら置かれた雑誌を見た。時短やズボラの料理本があったので、しばらく読んでいた。
カラーの待ち時間のあとシャンプーとドライヤーはアシスタントが担当してくれて、最後のカットで再び裕人が来た。単なる同級生なはずなのに、なぜか他の美容師よりも安心してしまう。
裕人は全体を調整して最後に毛先を整えてから、鏡に映る美咲のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
「……円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
あの日、佳樹に聞かれたときは答えられなかったけれど、そのあと調べてからずっと覚えていた。
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
裕人とは違う声がした。
声のほうを振り向くと、美咲とは一つ席を開けて男性が座っていた。首があまり動かせないのではっきりとは見えないけれど、美咲は彼を見たことがあった。
「えっ、山口君? いつの間に」
朋之は、美咲がドライヤーをしてもらっている間に席に着いたらしい。美咲も人の気配は感じていたけれど、誰かまでは気にしていなかった。
「紀伊さん──いま小山やったっけ? 久しぶりやな。こないだは話さんかったからな」
「うん……ビックリした……」
驚いている美咲を置いて、裕人は美咲からクロスとタオルを取った。自由になってから朋之のほうを見ると、彼は少し笑った。
「またな。いま会ったばっかやけど」
「うん……またね」
美咲は鏡に映る朋之に小さく手を振って受付のほうに向かう。裕人が既に待っていて、面白そうに笑っていた。
「同じ時間やったら話せたやろうけどな。──そうや、今度メシでも行こうや」
帰る直前に突然出た話だったので、朋之とも相談してまた連絡する、と言う裕人に見送られて美咲は店を出た。
裕人と話したいことは、もちろんたくさんある。なので店の外で会えるのは嬉しいけれど、朋之が一緒となると事情は別だった。美咲が当時いちばん好きだったのは、朋之だったからだ。先ほど裕人が美咲に『どうだったのか』と聞いたのは、おそらく彼のことだろう。どう答えて良いのか考えているうちに、違う話になった。
もちろん美咲は──友人には話したけれど──彼らにそんなことは何も言わなかった。よく近くの席になっていた裕人は、美咲の視線の先まで見ていたのだろうか。
考えていても仕方ない、美咲には航という旦那が既にいる。
家に戻って簡単に片付けをして、夕食の支度をする。暑いけれど頑張ってカレーを作り、出来上がってから航の帰りを待つ。よっぽどのことがない限り残業をしないので、十八時前後にはいつも帰ってくる。それからすぐに食べ始めて、だいたい十九時には片付けも終了だ。
「来週、雨大丈夫かな?」
テレビで天気予報を見ながら航が呟いた。台風の予定はないけれど、広島に行く予定の頃に小さい傘マークが並んでいた。
「まだ何とも言えんなぁ……。雨のほうが涼しくて良いかも」
広島へは、お盆の帰省と平和記念式典を避けて行くことになった。祖母は遺族ではないけれど、今年は式典に参加予定らしい。
裕人からLINEで『たぶん週末の夜になるけどいつが空いてる?』と連絡が来ていたので旅行期間とその前後以外なら大丈夫と返信し、準備できるものから鞄に詰め始めた。同級生たちと週末に会うことは航にも簡単に話し、三人か……、と戸惑っていると裕人から『誰か一人、女の子誘って! 三人は気まずいやろ?(笑)』とLINEが来た。
それなら一択で華子なので、美咲は作業を中断して華子に連絡した。すぐに既読になって、OKの返事が来た。
数日のうちに広島の天気予報から傘マークは消え、旅行の間はずっと晴れだった。広島駅まで新幹線で向かい、荷物をロッカーに預けてから日傘を差して目的地へ向かう。祖母とはマンションで会う予定にしていたけれど、予定を変更して駅前の喫茶店になった。
久しぶりに会う祖母は、少し痩せていた。それは年齢のことを考えると当然だった。体力もいくらか落ちてきているけれど、週の半分くらいは仕事をしているらしい。
「美咲ちゃんは仕事は辞めたんね?」
「うん。結婚してから辞めて……いまは専業主婦」
「ふぅん。航さんは何の仕事しよるん?」
「地元の企業で、サラリーマンしてます」
若者がメインターゲットではない古くからある喫茶店で、BGMも穏やかなので落ち着いて話すことができた。駅前ではあるけれど昼間なので客は少ないほうだ。
美咲と航が結婚に至った経緯や美咲の母親の近況を話し、それから祖母には広島の情報をいくつか教えてもらった。『いつも商店街のパン屋さん行ってたでしょう? 綺麗に改装しとるけぇ、行ってみんさい』と言うのでその予定だと言うと、商店街の方角を教えてくれた。
「それじゃあ、また遊びにおいでね」
「うん。ありがとう」
祖母は買い物をして帰ると言うので喫茶店の前で別れ、美咲と航は荷物を取って宿泊先を目指した。ナイターのあとで電車移動は辛いので、スタジアムの近くを選んだ。
ホテルにチェックインして部屋に入り、荷物はとりあえず放置してベッドにダイブした。新大阪から広島はそれほど遠くはないけれど、ずっと座っていたので体が少々痛い。
今日はどこへ行こうか、と言う航に起こされ、必要なものだけ持ってとりあえずホテルを出た。
時間がまだ早いので厳島神社に行くことになり、電車とフェリーを乗り継いで、降りてからは海沿いの道を右へと進んだ。大鳥居は残念ながら改修工事で見れなかったけれど。神社を含めて島をゆっくりまわり、最後に水族館へ行ってからあなごめしを食べた。もちろん、歩いていると鹿が寄ってきた──けれど、奈良の鹿と比べると大人しい気がする。
お土産のもみじ饅頭は帰りに広島駅で買うことにして、再びフェリーと電車に揺られて広島市内へ戻る。既に日は落ちているけれどホテルに戻っても何もないので、近くの居酒屋で小腹を満たすことにした。美咲というより航のほうが、旅先で個人経営の店に入って地元の情報を聞くのが好きらしい。
航が直感で選んだ店はそれほど大きくはなかったけれど、既に店にいた常連客たちとすぐに打ち解けた。テレビで野球をやっていたので明日は観に行く予定だと言うと、お互いの応援チームは違ったので航が「明日はこっちが負けます」と笑った。
そして実際、航が応援しているチームは逆転敗けをしてしまい──、ホテルに戻る前に居酒屋の前を通ると前日に話した人達と一緒になったので、「おめでとうございます」と再び笑った。
旅行最終日、広島駅で新幹線に乗る前にお土産を買った。美咲はとりあえず各実家の分と自分が食べたいもの、それから近々会う予定の同級生三人に。航は会社でばら蒔く用と、いつの間にかカープソースをカゴに入れていた。何年か前に他のメーカーがカープのイラスト付きの辛いソースを地元のスーパーで売っていたけれど、いつの間にか見かけなくなった。
ちなみに大阪のお好み焼きは混ぜてから焼いて、広島のお好み焼きはクレープ状の生地から積み上げる。母親が広島から嫁いでいる美咲の実家では、生地は山芋たっぷりでぼってりしていて、好きな具を乗せてから生地で薄く蓋をする焼き方だ。焼き上がったものを放射線状にカットされると発狂しそうになるけれど、いまのところ美咲はそういう場面に出くわしたことはない。
美咲が同級生たちと飲み会をするのは、お盆が明けて最初の金曜日になった。美咲は家の用事を済ませてから電車に乗り、三十分ほど行ったところの繁華街を目指した。裕人は早めに店を閉めて、朋之もほとんど定時で仕事を終わらせた。三人はわりと近くにいたけれど、華子がどうしても仕事の都合がつけられないので飲み会会場は華子の職場の近くになった。
四人は駅前で待ち合わせ、美咲は少し余裕を持って到着したので一番乗りだった。スマホを見ながら待っていると裕人から『もうすぐ着く』と連絡があり、同じ頃に華子が走ってやってきた。
「あれ、最後かと思ったけど違った」
「大倉君がもう着くって」
「そうなん? 山口君は?」
「さぁ……。あ、そうや、ハナちゃんに先渡しとこ。これ、広島のお土産」
二人を待っている間に美咲は華子にお土産を渡した。中身は全員同じで、もみじ饅頭だ。
「わぁ、ありがとう! あっ、パッケージかわいい」
箱で買ってくるのはさすがに多いと思ったので、広島らしいデザインの五つ入りの袋を用意した。一人で食べてくれても良いし、家で家族と分けてくれても良い。
美咲と華子が広島の話をしていると、
「おっす。お待たせ」
聞き慣れた声を発した裕人と、隣には朋之もいた。二人は同じ電車になるように連絡をとっていたらしい。
「あー、山口君、久しぶり。同窓会とき見かけたけど声かけんかったわ」
笑いながら華子はゴメンゴメンと謝り、幹事失格やなぁ、ともう一度笑った。華子は中学一年のときに朋之と同じクラスで、裕人とは同じクラスにならなかったけれど知っていたらしい。
店は裕人が予約してくれていた。ゆっくり話をしたいのもあって、個室を選んでくれたらしい。
男二人と女二人で合コン、ではないけれど。なんとなく男同士、女同士で隣に座り、飲み物を注文してから美咲は男二人にお土産を渡した。
すぐに飲み物が運ばれてきて、乾杯をした。美咲は酎ハイ、華子は梅酒、男二人はとりあえずビールらしい。
「私、旦那の付き合いでたまに焼酎とか日本酒は飲むけど、ビールは無理やわ」
「あー、私も! 何て言うんやろ、苦み?」
「日本のビールって、飲みにくくない?」
「……紀伊、それどういう意味?」
ジョッキの三分の一ほど飲み干してから裕人は不思議そうな顔をした。隣で朋之は黙っているけれど、美咲のほうを見ていた。
「いや──あの──、ツアーでヨーロッパ行ったときお昼ごはんにビール出てきたんやけど、飲めたから」
「へぇ。昼からビール?」
「うん。水のほうが高かったよ」
ビールは飲めないのでソフトドリンクをお願いするつもりだったけれど、周りに座るツアーの仲間全員がビールを選ぶので一人ほかの飲み物は頼みにくかった。苦手なのに飲めた、と話していると、周りの人達も、確かに飲みやすい、と口を揃えていた。
「旦那さんは飲めへんの?」
「うん。生ビールならいけるみたいやけど」
「おし、そんなら俺らがどうにかしようか、なぁトモ君?」
「そうやな。どうしたら良いかな……」
朋之が真面目に考え出すのをなんとか阻止して、やがて話はそれぞれの近況になった。
美咲と華子が親戚になった経緯は、同窓会のときに遠くから裕人は聞いていたらしい。男たちで集まって話しているときに『あいつら親戚やって』と話題になり、もちろん朋之の耳にも入っていた。
「でも、名字は違うんやな。あ、母方やからか?」
「よくわからんけど……。あ、そういえばハナちゃん、職場の人はどうなったん? 気になる人いるって」
「美咲ちゃん──あかんかってん……」
美咲の腕に手をついて、華子は項垂れた。あれからすぐに声をかけたけれど、彼には婚約している人がいたらしい。
「そうなん……」
残念ながら裕人も朋之も既婚者なので、華子の恋愛対象にするわけにはいかず。
二人は回りの独身男性に当たってみると言ってくれて、華子が元気になってから話題は朋之に向けられた。
「山口君は? いまどこに住んでるん?」
「あの……ヒロ君の店の近所」
「ええ? そうなん?」
驚いたのは美咲だった。裕人の店に通っているとは聞いていたけれど、近くに住んでいるとは考えもしなかった。
「線路の反対側やからな」
「へぇ……。仕事は?」
「普通のサラリーマンやで。あ、車通勤してるから余計会うことないんやな」
反対側ならどの辺りだろうか、と考えていると、朋之はだいたいの場所を教えてくれた。駅から少し離れた、大きい家が並んでいる場所だ。
「じゃあ、良い仕事してるんじゃないん?」
「まぁ……」
「トモ君、次期社長やでな?」
「えっ、そうなん?」
朋之が話したがらない代わり、裕人が教えてくれた。朋之は大学を出て地元有名企業に就職し、仕事が出来たようで出世も早かった。やがて社長から娘を紹介され、当時は彼女がいなかったので付き合うようになった。最初は戸惑っていたけれど、断る理由はどこにもなかったらしい。
「美咲ちゃんも、紹介されたって言ってたよな?」
「うん。そっか……へぇ。大倉君は?」
「俺? 俺は学生ときに知り合って、そのままやな」
ちなみに嫁は別の店で働いてる、と裕人は笑った。
それから話題は中学時代の思い出になり、通学路の坂道は大変だったな、あの髭の先生は元気かな、と盛り上がった。美咲と裕人が一番長く一緒に過ごしたので、その頃の話が中心になってしまった。
中学時代の先生で一人だけ、美咲が大学生になってから再会した人がいるけれど。自分達が卒業してから何をしているのか知っているけれど。
いまはその話には触れたくなかったので、何も知らないふりをして別の話題を振った。
飲み会は数時間でお開きとなり、美咲は朋之と同じ電車で帰ることになった。裕人も最初は一緒だったけれど、先に電車を降りていった。会社近くに住んでいる華子は一人で電車に乗った。
「あんまり──話せんまま卒業したよな?」
裕人がいなくなってから、最初に口を開いたのは朋之だった。週末ではあるけれどまだ終電には遠いので乗客はまばらなほうだ。
「そう、やなぁ……。常に視界にいた気はするけどね。一年ときも、名前しか知らんかったけど、隣のクラスやったから集会とかのとき橫にいたし……」
「えっ、そうなん?」
「並んでるの背の順やって……、クラスに山口君てもう一人いて、じゃれてたやろ? それで同じ名前の靴が、座ってたらいつも私のスペースに入ってきてた」
それがとても鬱陶しくて、美咲が朋之に持った最初の印章は全く良くなかった。そのクラスにいた友人に愚痴ったことは今でも覚えている。二年で同じクラスになったと知って最初は嫌だったけれど、逆の方向に変わったのは彼がイケメンだったからだ。
「ごめんごめん、あのとき狭かったから……。卒業してからは、会ってなかったよな?」
「いや──、電車で見た気がする。何回か向かいに座ってたんちがう? はっきり顔見んかったから声はかけんかったけど」
美咲のまさかの発言に朋之は驚いていたけれど、そうか……、と呟いてから話題を変えてきた。
「週末……日曜の昼から空いてる?」
「え? なんで?」
「紀伊さん、ピアノやってたやろ? 今でもやってるん?」
「まぁ……中学のときから習ってはないけど……たまに趣味で弾くくらい」
「俺──合唱団に入っててさ」
中学の頃から、朋之は歌が好きだった。クラブはバスケをしていたけれど、合唱コンクールの集計中に歌う有志合唱団に彼は入っていた。美咲もそれに入っていて、伴奏も何度かした。ちなみにそれには華子もいた気がする。
「大きい会場でやることは滅多にないんやけどな。伴奏してた人が辞めるらしくて、やってもらえる人探してるんやけど」
依頼されたことは嫌ではなかった。
「でも私……、山口君のテストで失敗したやろ? あの頃から怖くなって」
学校の歌のテストのとき、コンクールの課題曲の一部を美咲がクラスの人数分弾いていた。簡単なのでだいたい順調に出来ていたけれど、朋之の伴奏をしたときに間違えて止めてしまった。
「あぁ……。そんなことあったなぁ。別に気にしてないで。あのあとも弾いてたやん」
「私が気にしてるんやけど……」
「あのときの、篠山先生って覚えてる? 先生がたまに聞きにきてる」
その名前を聞いて、美咲は言葉に詰まってしまった。
篠山のことはもちろん覚えているし、スマホではなくガラケーを使っていた頃はメールもしていた。一週間に一度、週末に会っていた。大学生になってから再会して近況を少し知っているのは、篠山のことだ。
「先生──私のこと何か言ってた?」
「いや? 何も言ってないけど。何かあったん?」
「たぶん……私のこと良く思ってないと思う……」
大学生のとき、ポストに一枚のチラシが入っていた。よくあることなのでチラッと見て捨てようとしたけれど、美咲はすぐに思い止まった。近くのお寺でコンサートがあるようで、出演団体『江井混声合唱団』通称『えいこん』の代表が篠山の名前だった。
中学のときは良くしてもらったので、卒業して会えなくなったのが少し寂しかった。コンサートに行って、終演後に篠山に声をかけた。それから何ヵ月か経ってから、美咲はえいこんに加わった。
「あ──やってるん?」
「ううん。入ってしばらく、歌ももちろんやけどピアノもやってて、コンサートとかも行ってたんやけど……就活の頃から休みだして、新年会も声かけてくれたけど行かんかって……フェードアウトした」
悪いのは、勝手に辞めた美咲だ。辞めるときは退団届けを出すようにと規約に書いていた気がするし、次のコンサートで使うからと配られた楽譜も、ちょうど美咲が休みがちの頃だったのでお金を払えていない。
「謝らなあかんのやけどね……」
「それは、気まずいな」
そんな事情がないにしても、美咲は合唱団の伴奏を務める自信はなかった。学校で歌っていたのとはレベルが違うので楽譜ももちろん難しかったし、大勢の人の前で弾くことも緊張しっぱなしだった。メンバーの平均年齢は美咲より下だったけれど、コンクール一般の部で金賞を取る団体だったので余計にプレッシャーだった。
「俺のとこは、イベントのステージとかで歌うくらいやから、難しくはないと思うで。なんやったら、今度先生来たら、久々に会った、ってそれとなく名前出してみよか?」
「うん……お願い……」
伴奏を引き受けるかは考えてから返事をすることにして、美咲は朋之と連絡先を交換した。
「もしかしたら、ヒロ君とこで会うかもやけどな」
「山口君いつも週末に行ってんの?」
「そうやな。たまに、仕事帰りに寄ったりするかな」
やがて駅に到着したので、美咲と朋之は改札の前で別れた。朋之が去っていくのを見送ってから、美咲も外に出る。電車に乗ったときに航にLINEしていたので、迎えの車を探す。
ロータリーに既に停めてあった車を見つけ、助手席に乗った。車を使うと、すぐにマンションに到着する。
「美咲……何かあったんか? 深刻な顔して」
「え? あ、ううん。……歌の伴奏やれへんか、って。返事は保留してるんやけど」
朋之からの依頼を航に話すと、反対はされなかった。いつも週末に二人で義実家に行っていたのが、美咲はピアノの練習をする日々に変わるかもしれない。義実家に行っても特に用事はないし、ピアノを弾いているほうが美咲はよっぽど楽しい時間になる。
それでも朋之と篠山の存在がどう影響するのかわからなくて、美咲はなかなか答えを出せなかった。
本音を言うと、朋之がいる混声合唱団『Harmonie』にはとても興味がある。
美咲はずっと伴奏担当として学校生活を送っていたけれど、ピアノと同じくらい歌うのも好きだった。知っている曲が聞こえると歌いたくなるし、簡単な伴奏のときは一緒に歌っていた。篠山が初めて有志合唱メンバーを募集したときは彩加と一緒に顔を出して、その場に朋之がいたので驚いた記憶がある。当時は美咲よりピアノが上手い生徒がメンバーにいたので伴奏は彼女に任せて美咲は歌う側になった。
三年になってから選択授業があり、美咲は前期で歌のクラスを選んだ。それは残念ながら、授業一覧が出たときに書かれていた内容のせいか、女声だけになってしまったけれど。特に深く考えずに過ごしていると、篠山から全曲の伴奏を依頼された。卒業学年なので卒業にちなんだ曲もあり──、それはその年の有志合唱でも歌うことになったようで、何の予告もなく練習の場で美咲に篠山が声をかけた。
美咲と同じように、朋之が気になる女子生徒は複数いたらしい。
一緒に行動していた彩加は何も言わなかったけれど態度がそれを物語っていたし、別の生徒が『○○ちゃんが山口君を……』と話しているのを聞いたこともある。イケメンな上に頭も良くて、運動神経が良いに加えて声まで良いとなると誰でも気になるはずだ。
卒業にちなんだその曲を聞くと、美咲は今でも朋之を浮かべてしまう。ゆっくり話すことはなかったけれど同じ趣味があると知って、伴奏をするのも他の曲とは気持ちが違っていた。
今までに手にした楽譜は捨てられず、全て取ってある。当時の楽譜を引っ張り出して、さらっと弾いてみる。以前に加入していた『えいこん』のものも、何となく弾いてみる。
伴奏をすることは、おそらく問題ない。
それよりも美咲が気になるのは、朋之や篠山との関係だ。もしも朋之と頻繁に会っていたら、航はどう思うだろうか。もしも篠山に怒られたら、耐えられるだろうか。
(──よし、決めた)
美咲は決断を航に話し、朋之にLINEした。
『こないだの話やけど、私で良ければやってみます。でも、練習に毎回行くのは厳しいかなぁ』
どちらかといえば、楽しいほうに行きたいけれど。義実家に全く行かなくなるのは、さすがに申し訳ない。
『ありがとう! 俺もときどき休んでるから大丈夫。いつから来れそう? 以下、練習日程です』
朋之から練習日程の表が写真で送られてきた。場所は隣町の公民館で、日曜の午後に集まっているらしい。表の下には舞台予定が載っていて、一番早いのは近くの老人ホームで敬老の日に行われるミニコンサートらしい。
『そういえば……こないだ篠山先生いたから名前出してみたんやけど……〝ああ、そう。〟って感じで終了やったわ』
やはり篠山は、美咲のことを良くは思っていないようだ。
美咲が公民館に到着すると、練習に借りている部屋からガヤガヤと声がした。ドアを開けて中に入り、『あ、この感じ、久々』と少し嬉しくなる。
朋之は代表ではないけれど一応指導する立場のようで、すぐに姿を見つけた。楽譜を見ながら高齢の男性と何か話していた。
「あ、紀伊さん──小山さんの方が良い?」
「どっちでも良いよ」
朋之は男性との話を中断し、美咲を手招きしてから男性に紹介した。
「こないだ話してた、同級生の小山さん」
「小山です。よろしくお願いします」
「それから──うちの代表、井庭先生。俺らと同じ中学やって」
「えっ、そうなんですか」
井庭は美咲たちより三十年ほど前に卒業して大学を出てから教師になり、その後、退職してからHarmonieの指導を始めたらしい。
練習開始時刻になって、朋之は全員を注目させた。練習内容と今後の予定を話したあと、美咲のことも簡単に紹介した。美咲はとりあえず伴奏担当なので、歌のパートには入らないことになった。
練習が始まり、朋之はテナーのメンバーの元へ行った。美咲は井庭のところに残り、話を続けた。
「小山さんは確か、前にえいこんにいたって聞いたんやけど」
「はい。学生のときやから、だいぶ前ですけど」
「そのとき、何弾いた?」
次の練習に行くと朋之に伝えたとき、出来れば以前に伴奏を担当した楽譜があれば持ってきてほしいと頼まれていた。篠山のことがあってあまり思い出したくなかったので押し入れの奥に封印していたけれど、思いきって引っ張り出してきた。
「ふんふん……なるほど……。あ、これ、難しかったんちゃう?」
「はい……コンサートで弾いたんですけど……普段はスリッパとかで練習してるのに、当日はヒールで焦りました」
音自体が複雑な上にペダルを上手く使わないと汚く聞こえる曲で、弾けるようになるまでに随分苦労した。それを本番の衣装──黒いスーツに合わせたパンプスで弾くことに会場で気付き、ヒールのある靴を履いてきたことをものすごく後悔した。最初に練習で弾いた時は、音が汚すぎて篠山に怒られた。
美咲は井庭の隣に座り、メンバーの練習をしばらく見学していた。美咲が以前にいたえいこんよりは小規模ではあるけれど、平均年齢が自分より上に思えたので少し安心していた。
「小山さんは、山口君とは中学の同級生?」
「はい。二年の時に同じクラスで……小学校は違ったんですけど」
「あの学校、大きいからなぁ。小山さん、小学校一年生のとき──自転車と正面衝突したんやろ?」
「え? ……なんで、知ってるんですか」
自転車と正面衝突したのは事実ではあるけれど、つい先ほど知り合ったばかりの井庭はもちろん、朋之にも話したことはない。おそらく両親も忘れているし、美咲も一時期それを忘れていた。
「もしかして……井庭先生って」
言葉に詰まる美咲の隣で井庭は、ははは、と笑った。
話は中学二年の三学期に遡る。
その年も美咲は合唱コンクールで伴奏をすることが決まっていて、少し前から練習をしていた。当時の本来の音楽の先生は産休を取っていて代わりの先生が来ていたけれど、三学期から復帰してきた。その最初の授業のあとで、友人・彩加と教室に戻ろうとしていると呼び止められた。
コンクールでの伴奏を少し弾いてほしいと言うので、最初の何小節かを弾いた。大丈夫だろう、と言われたので帰ろうとすると、こんなことを言われた。
「紀伊さん、七年前──小学校一年生のとき、自転車とぶつかって怪我したでしょ?」
「小学校一年のとき……? ……あっ、した!」
美咲はあの日、家を出るのが遅くなってしまい、通学路を走っていた。車道横の歩道で少し狭く見通しも悪いところがあって、そこを通るときに正面から来た自転車の女子中学生とぶつかってしまった。痛かったし、中学生も心配してくれたけれど、美咲はそのまま学校へ急いだ。
「出勤してきたら女の子らが、小学生の女の子とぶつかってもぉたーどうしよう! って慌ててて、名札見たら平仮名で〝きい みさき〟って書いてたって」
先生は小学校に電話して、その後、美咲のところに保健の先生がやって来た。美咲はいつも通り授業を受けていて、大怪我をしていることには気付いていなかった。
「もうすぐあの子が入学してくるんやなぁ、って……産休明け間に合って良かったわ」
それが、美咲と篠山の出会いだった。
美咲と彩加は篠山との距離が近くなり、いつの間にか敬語を使うこともなくなった。篠山は他の先生と比べても話しやすかったので、嫌っていた生徒も少なかったと思う。
井庭がなぜか知っていたのは、美咲のその事故だ。
篠山との話を彩加は聞いていたけれど、教室に戻ってから誰かに話した記憶はないし、ましてや当時は特に親しくはなかった朋之にも話すはずがない。
「篠山先生は──私の教え子やからね。ときどき相談も兼ねて、飲みに行ったよ」
井庭のその発言で、美咲は粗方の事情を理解した。
美咲が事故に遭ったとき。篠山が結婚して、子供が出来たとき。産休が明けてから、美咲を受け持つことになったとき。それから自身が代表を勤める合唱団に美咲が入ったとき。
その話を井庭は篠山から聞いていて、そして今、朋之から伴奏に同級生を誘ったと聞いてピンときたらしい。
「篠山先生のとこをフェードアウトしたのは、あかんかったけどな」
「私がここにいること、篠山先生は知ってるんですか?」
「あ──山口君が同級生に声かけた、とは話したけど、誰とは言ってない」
でも何となく気付いてるやろな、と井庭は呟いた。
それから荷物の中から楽譜の束を出してきて、いま練習中のものを美咲に渡した。敬老の日のステージは、伴奏無しのアカペラにするらしい。予定しているのは一般に知られている曲や美咲も知っている簡単な合唱曲だったけれど、美咲はその日は雑用係で参加することになった。
「秋に近くのホールでコンサートあるんやけど、来れるかな?」
美咲にはその日の伴奏を頼みたいようで、井庭は先に楽譜を渡してくれた。メンバーたちには今日の帰りに配る予定らしい。
井庭から渡された楽譜は美咲の知らない曲だったけれど、特に難しそうなものではなかったし、コンサートの日も今のところ予定は入っていない。
「何それ? あ──次のやつ?」
声をかけてきたのは、朋之だった。練習は一旦止めて休憩になったようだ。
「うん……コンサートのやつやって」
「これは……まだやってないやつやな」
「ごめん小山さん、これもやわ」
井庭が慌てて美咲に楽譜を一つ持ってきた。
「去年もやったから抜けてたわ」
追加された楽譜を見て、美咲は思わず息を飲んだ。
「井庭先生、これ……」
「ごめん、いきなり難易度高めやな。……小山さん、曲は知ってるやろ?」
タイトルを見ただけで、メロディが浮かんできた。美咲が伴奏をした曲ではないけれど、歌った記憶はある。以前いたえいこんでは、プロのピアニストが伴奏した曲だ。美咲の他に何名か伴奏担当がいたけれど、少々難しい伴奏はいつも彼女が担当してくれた。美咲がヒールを履いて後悔したステージも彼女が伴奏の予定だったけれど無理になってしまい、美咲ともう一人に声がかかって一曲ずつ弾いた。
「帰ったらすぐ練習せなあかん……」
「いけるって。まだ時間あるし」
朋之はそう笑っていたけれど、美咲に余裕はなかった。家でも家事が待っているので、ピアノを弾いてばかりではいけない。航を仕事に送り出してから、ゆっくりしている暇はなさそうだ。
練習が終わってから、女性メンバーの何人かが声をかけてきた。もし歌うことになったらどこになるかと聞かれたので、以前はソプラノだったけれど高い声が出なくなったからアルトかも、と答えた。実際、美咲は若いときに高音は難なく歌えていたけれど、結婚してから久々に歌うと笑えるほどに音が出なかった。
「それじゃ小山さん、次──来れるときで良いから、練習しといて。じゃ」
「はい……お疲れ様です」
メンバーが帰るのを見送ってから、井庭も公民館の職員に挨拶して停めてあった車で帰っていった。美咲はため息をついた。
「お疲れさん」
「わっ、びっくりした」
最後まで残っていたのは朋之だったらしい。朋之は窓口に部屋の鍵を返してから、美咲と外に出た。
「紀伊さん、電車?」
「うん」
「じゃあ、送るわ」
「え? あ──ありがとう……」
朋之が車で送ってくれるというので、美咲は助手席に乗った。美咲は朋之の帰宅経路の途中の方向が変わるあたりで良いと言ったけれど、朋之はもう少し近くまで行ってくれた。
「歩いたら暑いやん。転んで手怪我してもあかんし」
ははは、と笑うので美咲も釣られて笑い、道の広いところで車を停めてもらった。
もう十年ほど早くにこうなっていたら──、と思ったけれど。お礼だけ言って車を見送り、そのままマンションに帰った。
美咲が井庭にもらった楽譜は、歌だけを見れば簡単だっただろう。しかし伴奏は歌とは別物で、特に最後に追加された楽譜は美咲の記憶通りの音符が並んでいた。
メロディ自体は軽やかで秋らしく、三分もないけれど。
利き手ではない左手は十六分音符の連続で、動きも大きいのですぐに外してしまう。右手はさほど難しくはないけれど、左に気を取られているとうっかり間違える。
自分が歌っていたときの楽譜も出してきて、メモしていた強弱を確かめる。ピアニストの演奏を思い出して、滑らかに弾こうとする──そして、間違えてしまう。
「まだ練習始めたとこやろ? 弾けてるほうやと思うで」
土曜日の午後、朋之が個人的に利用しているスタジオがあるというので一緒に行くことになった。彼は歌の練習のほかに、趣味でギターを弾いているらしい。
「いつからやってんの? 高校入ってから?」
「そうやな……友達に誘われて」
持ってきたギターは一旦置いておいて、朋之は歌の練習を始めた。話す声が少し低くなっていたけれど、出せる高さはそれほど変わっていないらしい。彼が歌うのを聞きながら、美咲は脳内でピアノを弾いてみる。
「……どうかした?」
「え? あ──ううん。よし、私も練習……」
彼の歌に聴き惚れていた、なんて言えるはずがない。
美咲は姿勢を正してから練習を再開し、しばらくすると朋之が歌うのをやめた。同じところを繰り返している美咲の隣に立ち、楽譜の一点を指差した。
「ここ、おかしくない? 〝向こうから~こっちから~〟の次、〝あーあーああー〟のとこ」
右手と左手を合わせて八音続けるのは、成功すると流れるように聞こえるけれど。失敗するとブツブツ切れて聞こえるし、左右の音の強さも変わってしまう。同じようなメロディが続いているから、違う音で覚えてしまうと修正が大変だ。
美咲は指摘されたところを繰り返し、スムーズに弾けるようになってから楽譜を最初に戻した。鍵盤に指を乗せ、一呼吸置いてから一通り弾いてみた。まだまだ完璧とは言えないけれど、それでも一応、止めてしまうことなく最後まで弾いた。
「やっぱ凄いよなぁ、紀伊さん」
朋之が気配を消して後ろに立っていた。
「そうかなぁ……」
「そやで。中学のときだって、楽譜もらって一週間くらいで弾けてたから、練習困らんかったし」
そう言われると、そうだった気がする。何かの都合で隣のクラスと合同で女子だけ音楽の授業をしたときも、隣のクラスの生徒に『伴奏代わってほしい』と言われたことがある。
「明日は練習どうする? 行く? ちなみに俺は行けへんけど」
「明日は私も用事あるから……もうちょっと仕上げてから行くわ」
「了解。井庭先生に言っとくわ。俺ちょっと遊ぶから、適当にしといて」
朋之がギターを弾き始めたので、美咲はピアノを音を小さくして練習した。
それから数週間後の日曜日の午後。
敬老の日のコンサートの前日、休憩のあとで美咲の出番があるというので練習に顔を出した。あれから美咲は伴奏の練習を続け、都合が合えば朋之とスタジオを借りて、なんとか楽譜を見なくても弾けるようになった。美咲が知っていた曲はもちろん、他のやつもだ。
「へぇ、二人で練習してたん? どう? 山口君、小山さんは」
「もう完璧です。目瞑っててもいけそう」
「それは無理、さすがに……こんなにピアノと向き合ったの久々やから手が痛い……」
練習が始まる前にそんな話をしていると、ドアノブが回る音がした。メンバーが来たのだろう、と軽く思っていると、足音は近づいてきた。
「こんにちは、井庭先生。ああ、山口君も──、あら久しぶり」
入ってきたのは、篠山だった。
井庭と朋之は普通に挨拶を返していたけれど、美咲は声が出ずに固まってしまった。篠山は特に何も言わず、そのまま井庭と何か話していた。
「篠山先生──お久しぶりです……。あの……」
美咲が話しかけると、篠山は振り返った。井庭は話を中断して朋之を連れて離れていった。
「あの、……すみませんでした。勝手なことばっかりして……」
美咲は頭を下げたまま動けなかった。篠山の表情は見えないし、何も話さないので感情がわからない。怒られるのを覚悟して、じっと耐えていた。
「頭あげなさい。みんな見てるから」
顔を上げるとやはり、篠山は怖い顔をしていた。
「あなたとは──美咲ちゃんとは、長い付き合いやからね。嫌な思いしたくないし、私がいつまでも引きずるの嫌いって知ってるでしょう。十年以上前やし、あの時のことは忘れます」
「すみません……」
「そのかわり、今後一切、うちの合唱団には入らないでください。それから、井庭先生に迷惑かけんように。それが条件です。──練習に来ないし連絡もつかなくなるし、心配したんよ。まぁ、元気そうで何より……」
篠山は笑顔になり、握手を求められたので美咲は応じた。
フェードアウトしてからのことを篠山が聞いてきたので、大学を卒業して就職し、数年前に結婚して今は地元を離れて専業主婦だと伝えた。
「山口君とは、同窓会で会ったの?」
「はい。佐藤さんって覚えてますか? 佐藤華子……」
「えー……はいはい、あの元気な子?」
「ハナちゃんが、旦那の母方の親戚やったんです。それで、同窓会しよう、ってなって」
華子の手伝いを兼ねて参加した同窓会で再会し、裕人の美容室にも通いだしたと話した。そういえば最近は忙しくなって行けてないな、と思い出し、近いうちに予約しようと考えながらも、頭の中にあるのはこのあとに待つ伴奏だ。
練習開始時刻になり、朋之が全員を注目させて連絡事項を伝える。裕人の成長に驚いたけれど、朋之も同じように立派な大人になった。子供のときの自分の目に間違いはなかったな、と思わず笑ってしまう。
「それから今日はえいこんの篠山先生が来られてるのと、あと──小山さんもいるので後でピアノに合わせます。まずは明日の曲を──」
そしてメンバーが練習を始めてから、美咲は井庭と翌日の打ち合わせをした。篠山は練習を聞いたり井庭と話したりしながら、えいこんの近況を美咲にも教えてくれた。美咲が伴奏するのを聴いて、うちに欲しいな……、と笑っていた。
九月下旬になってから、美咲はようやくHair Salon HIROを訪れた。伴奏を始めてから練習に時間を取られてしまい、日曜の午後はメンバーと会って、ステージ前の土曜は朋之とスタジオに行くこともあって、延ばし延ばしになっているうちに航にも「そろそろ行ったら?」と言われてしまった。
前回がいつだったか、はっきり覚えていない。
四人で飲み会をしてからは切った記憶がないので、朋之と会った日が最後だとしたら二ヶ月は経っている。
「そんだけ放置してたら、伸びるわな」
美咲の髪を見て、裕人は笑った。どんな髪型にするか考えずに来てしまったので、まだまだ暑いか、涼しくなるか、天気の長期予報を思い出しながら一緒に考える。
「俺は紀伊は髪長いイメージやったけどな。癖毛やから中途半端にしたら跳ねそうやし……。ショートにしたことある?」
「あるよ。人生で二回くらい」
それなら前と同じ感じで行くか、と笑ってから裕人は美咲の髪を切り始めた。今回は先にカットして、カラーは後らしい。
「そういえば……トモ君とこでピアノ始めたんやってな。こないだトモ君来てくれて、話してたわ」
「うん……久々やから緊張するけどね」
「でも、助かってるらしいで。トモ君だいぶ前から、ピアノの人辞めるからどうしよう、って言っててん」
なんとか責任は果たせているようで、とりあえず安心した。敬老の日コンサートはアカペラだったので美咲は袖から見ていただけだったけれど、秋にはちゃんとしたホールでの伴奏が控えている。朋之が以前、『手を怪我したら大変』と言っていたけれど、篠山のところで伴奏をしていたときも演奏会前に『指挟んだらあかんから離れとき!』と、ピアノの準備をさせてもらえなかったことがある。ステージに立つのが近くなると、代わりがいない貴重な人材は危ないことから遠ざけられるらしい。
「あのさ──一個聞いて良い?」
「うん……なに?」
裕人はハサミを持つ手を止めて美咲のほうを見た。
「中学のとき──トモ君のこと好きやったやろ?」
予想外の質問で、美咲は顔をひきつらせてしまった。鏡に映る裕人を見て、口を少し開けたまま返事に困ってしまった。
「ま──まぁ……嫌いではなったけど……」
「佐方もそんな感じやったよなぁ……。あいつとは連絡取ってんの?」
「ううん。高校入ってしばらくはメールしてたけど、今は全然。大学のときにSNSで見つけて連絡したけど、一言しか返ってこんかったから、そんな人か、って思って」
「ふぅん……俺も高校一緒やったけど、二年でクラス離れてから知らんな」
彩加の話題が出てきたので話が逸れた、と気を抜いていると、裕人は改めて朋之の話題に戻した。これは正直に言うしかないか、と美咲は言葉を探した。
「確かに──気にはなってたよ。彩加ちゃんもそうやったと思うけど……。でもあの頃、他にも何人か気になってたし」
「えっ、誰?」
「それは秘密ー。あ、高井君は入ってないから」
高井佳樹と話すことは増えたけれど、ほとんどの女子から嫌がられていた彼に恋愛感情を持ったことはない。
「俺は入ってた?」
「さぁ? どうやろね」
「ちなみに──トモ君は、紀伊のこと好きやったみたいやで。俺もまぁ、クラスの中では上位やったかな。あ、俺が言ったこと、トモ君に言わんといてな?」
全く想定していなかった発言に、美咲は再び口を開けたまま固まってしまった。けれど裕人はカットが終わったようで、交代でやってきたアシスタントにシャンプー台に案内されてそれ以上の話は出来なかった。
アシスタントはシャンプーをしながら美咲に話しかけていたけれど、美咲は半分しか聞いていなかった。先ほどの裕人の発言が頭から離れずに、朋之の顔が浮かんできてしまう。
「さっきの話、ほんまやで」
美咲が鏡の前に戻ると、裕人が待っていた。
「山口君とは──そんなに話せんかったけどなぁ……」
「あいつ、知り合い多かったからな。紀伊もしょっちゅう音楽室行ってたし……そもそも、誰かと付き合ってた子自体、あんまりおらんかったしな」
恋人をつくる、ということが珍しかった当時、そんな話が出た途端に学年中で噂になっていた。それが嫌で何も言わなかったのか、あるいは単純にタイミングがわからなかっただけなのか。
あの頃、朋之はどんなだったかな。
と美咲が考えている間に、裕人はカラーの準備を始めていた。二ヶ月も放置していたから、全体を塗り直す必要があるらしい。
「ところで、話変わるんやけど……佐藤はあれから彼氏できたん?」
「佐藤? ……ああ、ハナちゃん? どうやろう、あれから連絡ないけど……まだなんちゃうかな」
「それならさぁ、俺の高校の先輩でフリーの人おるんやけど……紹介して良いかな?」
裕人の高校時代のクラブの集まりがあって、彼女と別れたから新しい恋がしたい、と言っている先輩がいたらしい。会ったときに写真を撮っていると言うので見せてもらうと、それなりにイケメンだった。今は普通のサラリーマンで、住んでいるところも華子と近いらしい。
美咲は帰宅してから華子に連絡し、近いうちに先輩と会ってもらうことになった。イケメンだったと美咲が言うと、華子は嬉しそうにしていた。
『やったぁ。あ、でも、性格が大事やからなぁ……』
「詳しくは聞いてないけど、今まで付き合ってた人は平均期間が長いみたいやで。優しいからよっぽどのことなかったら怒れへんとか、そうそう、大手で働いてて給料も良いんやって」
『ほうほう……。大倉君と同じ高校ってことは、頭も良いよなぁ』
それから世間話を少ししてから、また会おうと約束して電話を切った。
華子に幸せが来ますようにと願いながら、裕人にも連絡した。
※Hair Salon HIROにて。
店に入るといつものようにアシスタントに案内されて、すぐにシャンプーをしてもらった。裕人が俺のところに来たのは、鏡の前に座って少ししてからだった。
「あのな……左、紀伊やで」
入れ違いにはなるが美咲と会うかもしれないとは、予約のときに裕人から聞いていた。裕人にタオルを巻かれながら横を見ると、ドライヤーをしてもらっている女性がいた。アシスタントが間にいたのであまり見えず、彼女もドライヤーの音で周りのことは気にしていないらしい。
「ちょっと待っといてな、あいつ先してくるわ」
裕人が俺にクロスをかけて美咲のところへ行くのを見てから、手元にあった雑誌を捲っていた。会話が聞こえたので、聞き耳を立てた。
裕人と美咲は一緒に過ごした時間が長いので、いつの話なのかはわからない。佳樹の名前が出てきたということは、三年のときだろうか。
「塾でもうるさかったよなぁ。私、テストのやり直しか何かで居残りしてたら、こっちは早く帰りたいのに、隣からブツブツうるさいし、名前連呼してきたし……イライラしたわ」
「それ、覚えてるわ。紀伊が残ってるのビックリしてたよな。俺ら三年五組やって、五組、五組、五組、とか、他の学校の子にもクラス聞いてたよな」
「そうそう。それで、五組じゃなかったから、あかんわ、とか、意味わからんかった」
佳樹は高校は裕人と一緒だったが、塾に入って最初のクラスは美咲と裕人よりも下だった。同じクラスで雑談ができる仲ということは、佳樹の成績が上がった三年後半の出来事だろうか。
話しながら裕人は美咲の髪を整え、鏡のほうを見た。
「それで何やったっけ? 方べきの定理って」
聞いた記憶はあるが、思い出せなかった。
考えていると、美咲が答えを言った。
「円の上に点A・B・C・Dがあって、直線ABとCDの交わる、円の上にはない点Pとで、PA×PB=PC×PD、ってやつ」
「そんなんやったなぁ。全く使わんけどな」
思わず声に出してしまった。美咲はやはり俺の存在には気付いていなかったらしい。
美咲は数学が大の苦手だったはずだが、どうして覚えていたのかは不明だ。塾に入ってから一度だけ、全国規模の試験で数学で一位を取り、同じ学校の奴ら全員で驚いた記憶はある。塾長から〝数学の成績優秀者向けの特別講座〟の案内をもらっていたが、場所も遠かったし行ってはいないはずだ。
美咲はカットが終わったので立ち上がり、店を出ていった。別れ際に鏡越しに手を振ってくれた。俺には嫁がいるが、思わずドキッとしてしまった。
「あいつの記憶力すごいやろ。俺も忘れてることいっぱい聞いたで」
美咲を見送って裕人が戻ってきた。俺のこともいろいろ覚えているのではないか、と笑う。
「記憶もやけど、成績も極端やったよな。それくらいわかるやろ、ってやつ答えられんかったこともあったし、塾の試験の数学で、全国一位とかとってたやろ? あれビビったで」
「……あったなぁ! そうやそうや」
美咲は一番上のクラスではなかったのに、一番上のクラスでも全国ランキングでは最後のほうに載ればラッキーくらいだったのに、そんな奴らを押さえて一位だったということは、ほぼ満点だったということだ。
「一番ビックリしたのは紀伊やろうけどな。聞いてみる? さっき、今度メシ行こうって誘ってん」
返す言葉が一瞬わからなかった。俺が困っていると、裕人は続けた。
「同窓会ときもあんまり話さんかったし……そうや、トモ君、ピアノ弾ける人探してたやん。誘ったら?」
「あ、そうそう、それ同窓会ときから思っててん。あいつ上手かったし……聞いてみよ」
美咲は結婚しているので、三人では来てくれないかもしれないと思ったので、同級生女子を誘ってもらうことになった。誰になるかはわからないが、俺と裕人が知っている人を選んでくれるはずだ。
「俺あとで連絡しとくわ。あ、店も決めとくで。個室が良いよな」
全て裕人が決めてくれるようで、面倒なのでお願いすることにした。詳細は美咲ともう一人の都合を聞いてから決めることになった。
美咲にピアノの話をするのはいつが良いだろうか。待ち合わせでは到着時間がわからないし、話す時間があるかもわからない。飲み会中では──他の二人に申し訳ない。ということは、住んでいるところが近いので帰りの電車だろうか。
そんなことを考えて、いつのまにか俺は沈黙していたらしい。
「トモ君、何考えてるん?」
「え? あ──いつ言おうかと」
鏡越しに裕人は不気味に笑っていた。
「俺の感やけどな──紀伊たぶん、トモ君のこと好きやったで」
「えっ、そうなん?」
裕人はいつも、美咲の行動を観察していたらしい。美咲は俺と友人たちが騒ぐのをいつも冷やかに見ていたが、視線は俺を追っていたらしい。
「たぶんやけどな。聞かなわからんで。あとな──これも、俺の感やねんけどな」
「うん?」
「トモ君もあいつ好きやったやろ?」
思わず俺は鏡の中の裕人をじっと見た。しばらく黙って見つめていたが、裕人はなかなか負けてくれなかった。
「そうやな……」
仕方ないので観念して話すことにした。
「いつの間にかな」
「やっぱり? でも俺には教えてくれんかったよな」
「言うわけないやん。気になりだしてから、クラスも違ったし」
俺が美咲を好きになったのは、学年が終わる頃だ。裕人は休み時間は寝ていたし、そもそもそんな話をする奴は周りにはいなかった。三年はクラスが離れたし、俺も一緒にいる奴が変わった。
「三年とき、クラスに紀伊のこと好きな奴がおってな」
それは初耳だ。
「いろんなことしてアピールしたり、音楽の先生の耳にも入ったから合唱コンクールでそいつに指揮やらしたり、俺らも協力したりしてたんやけど、あいつ全然気付かんかってな」
「……鈍感やったん?」
「どうやろな。ほんまに気付いてなかったか、遊ばれてると思ってたか、……そもそも眼中になかったんちゃうかな。だからな、誰かを好きやったはずやねん。何もなかったら気付くで?」
それが誰なのかはわからないが、裕人の感では俺が有力らしい。もっと早くに知っていれば美咲と付き合っていたかも知れないが、それはもう無理な話だ。
だからせめて週末だけでも一緒に過ごせれば良いな、とそのときは思った。