「お前、高校デビューでもするつもりか?」
中学校の卒業式の日、親友がからかうように言った。山岸航は曖昧な笑みを浮かべた。三月の柔らかな陽射しが、体育館から溢れ出る卒業生たちの声とともに、二人を包み込んでいた。
「まさか。俺には無理だって」
口ではそう否定しながらも、航の胸の奥には確かな期待が芽生えていた。新しい環境。新しい仲間。そして、新しい自分。その言葉が、まだ見ぬ未来への淡い希望として心の中で揺らめいていた。
中学時代の航は、どこにでもいる普通の生徒だった。成績は全体の中では真ん中ぐらいで運動も平均的。体育祭でも目立つことなく過ごした。いじめられることもなければ、特別親しい友人もいない。親友との関係も、同じ委員会に所属していたことがきっかけで、なんとなく続いていた程度のものだった。
そんな「無難」な三年間。振り返れば、それは安全な檻の中で過ごしてきた時間だったのかもしれない。
春風が桜の花びらを舞わせる中、航は県立東雲高校の校門をくぐった。新しい制服の襟元が少しきつく、背筋が自然と伸びる。周りには同じように緊張した面持ちの新入生たちが、それぞれの期待を胸に秘めて歩いていた。
「よし」
小さく自分を鼓舞する声が、誰にも聞こえないように消えていった。しかし、その声には確かな決意が込められていた。もう、あの「普通」だけを生きる日々は終わりにしたい。
だが、その期待は早々に裏切られることになる。
入学式を終え、クラス発表で配属された一年C組。航が割り当てられた教室では、すでにいくつかの小さな群れが形成されていた。中学からの知り合い同士で固まる者、入学式での出会いをきっかけに意気投合した者。
「あの、僕も…」
声をかけかけた言葉は、いつも途中で途切れた。どのグループにも、自分が入り込める隙間は見当たらない。休み時間になれば、航はそっと席を立ち、トイレという名の避難所へと足を向けた。
「ここなら、一人でも不自然じゃない」
そう自分に言い聞かせながら、個室に籠る。壁越しに、廊下を行き交うクラスメイトたちの談笑する声が漏れ聞こえてくる。
そして、最初のホームルームの時間。教室に座る生徒たちの間に、新しい担任を待つ静かな緊張が漂っていた。チャイムが鳴り、教室の扉が開く。
すらりとした長身の眼鏡をかけた男性教師が、ゆっくりと教壇へと歩み寄った。
「私の名前は館山誠一郎。この春から東雲高校に着任し、皆さんの担任を務めさせていただくことになりました」
館山は黒板に自分の名前を丁寧に書きながら続けた。
「前校での経験を活かし、この1年間、皆さんを全力でサポートしていきたいと思います。私も皆さんと同じ、東雲高校では新入りですから」
最後の言葉に、クラスから小さな笑いが漏れる。それを聞いた館山の表情が、わずかに満足げに緩んだ。
そして館山は、一人一人の生徒の目を見つめながら、長いこと沈黙を保った。その間、教室の空気は徐々に変質していった。私語は消え、携帯をいじっていた生徒も手を止める。全員の視線が、自然と館山に集中していく。
「私には、ある理想があります」
館山は、ゆっくりと、しかし確かな存在感を持って語り始めた。その声は、不思議な磁力を帯びていた。
「この教室を、理想の空間にすること」
館山は一歩、生徒たちに近づく。
「そして、君たち一人一人を、完璧な人材に育て上げること」
教室に張り詰めた静寂が広がった。誰もが、館山の言葉の持つ重みを感じ取っているようだった。その異様な熱を帯びた瞳に、航も思わず見入ってしまう。
「無駄な時間は過ごさせません。無意味な悩みも必要ありません。私と共に、理想を追求しましょう」
館山の言葉には、まるで魔力のような引力があった。特に、まだ自分の立ち位置も定まらない航には、その言葉が救いの手のように感じられた。自分の中の「普通」という殻を破るチャンス。そう直感的に感じたのだ。
完璧な人材。その言葉が、航の心の中で鮮やかに光を放っていた。もしかしたら、これが自分の求めていた「新しい自分」になるためのチャンスなのかもしれない。周りの生徒たちの表情も、不安と期待が入り混じったものに変わっていった。
その瞬間、航の目に館山の微笑みが映った。どこか打算的で、冷たい微笑みだったのだ。
入学から二週間が経った頃、最初の実力テストが行われた。結果は散々だった。航はクラスの真ん中よりもちょっとやや下。これまでと変わらない「普通」の成績に、航はため息をつくしかなかった。
「山岸、放課後、職員室に来なさい」
テスト返却後、館山がそう告げた時、航の心臓は小さく跳ねた。叱責されるのだろうか。そんな不安を抱えながら職員室を訪れると、館山は穏やかな表情で航を迎えた。
「君には才能がある。私にはそれが分かる」
意外な言葉に、航は戸惑いを隠せなかった。
「でも、俺はいつも普通で...」
「その『普通』という殻を、今日から破っていこう」
館山は分厚いファイルを取り出した。そこには、体系的に整理された学習プログラムが綴じられていた。問題の解き方から時間の使い方まで、全てが細かく指示されている。
その日から、航の生活は大きく変わり始めた。朝は六時起床。授業開始前の1時間を使って、その日の予習を行う。館山考案の専用ノートには、重要ポイントを決められた色のペンで書き込んでいく。青は公式、赤は注意点、緑は補足説明。些細な工夫の一つ一つに、確かな意図が込められていた。
放課後の補習も始まった。他の生徒が下校する頃、航は館山の机の前で新しい解法を学んでいた。館山の教え方は驚くほど明快で、どんな難しい問題も筋道立てて解いていく。
そしてまたテストがあり、航はクラスの上位に入った。それだけでも十分な進歩のはずだったが、館山は満足しなかった。補習の時間は延び、課題は増えていった。土日も図書館に通い、館山の作った学習計画をこなしていく。
中間テストまでの一ヶ月、航の生活は完全に勉強中心となった。
そして結果は学年8位。「普通」だった航が、たった二ヶ月でトップ10入りを果たした。
五月の終わり、教室の窓から新緑が眩しく差し込んでいた。それは、いつもなら心を明るくするはずの光だった。
しかし今、航の目には、その光すら違和感を覚えるものに映った。
「山岸、今回のテストの解答を皆に説明してあげなさい」
館山の声に促され、航は黒板の前に立った。解法を説明する声は、まるで録音を再生しているかのように機械的だ。完璧な説明。完璧な板書。そして、完璧な解答。かつての航からは想像もできなかった姿がそこにあった。
「さすが山岸。皆も見習いなさい」
館山の褒め言葉に、クラスメイトたちから小さなため息が漏れる。航の視線が教室を巡る。そこにあったのは、疲れきった表情の数々だった。
特に渡辺という女子生徒の様子が気になった。以前の彼女は、休み時間になるとスケッチブックを開き、窓の外の風景や友達の横顔を楽しそうに描いていた。その絵には不思議な温かみがあって、見ている者まで穏やかな気持ちにさせた。
「渡辺、その手は何をしているのですか?」
ある日の授業中、館山が鋭い視線を向けた。渡辺の左手が、無意識にノートの端に何かを描き始めていたのだ。
「申し訳ありません...」
渡辺は慌ててペンを置いた。しかしその後も、館山は彼女から目を離さなかった。
「芸術活動は素晴らしい。しかし、それは正しい時間に、正しい場所で行うべきもの。この教室は、学習に特化した理想の空間なのです」
その言葉は、単なる注意以上の重みを持っていた。それは、個性を否定する宣言のように響いた。
次の日から、渡辺の机の中からスケッチブックは姿を消した。代わりに積み重ねられた問題集。その角が、まるで檻のように彼女を囲んでいた。
「渡辺、数学の補習に来なさい」
放課後、館山は決まってそう告げた。渡辺の表情が、日に日に影を帯びていく。かつて絵を描く時に見せていた柔らかな微笑みは、どこかへ消えてしまっていた。
航自身の生活も、すっかり変わっていた。朝は誰よりも早く登校し、予習に取り組む。授業中は完璧な姿勢で臨み、ノートを取る。放課後は館山の補習を受け、帰宅後も深夜まで勉強を続ける。
「航、お昼ご飯できたわよ」
日曜日、母の呼び声が階段を上ってくる。しかし航は、机から離れることができなかった。
「後で食べるよ」
そう答える声が、どこか虚ろに響く。机の上には、館山から渡された課題が山積みになっていた。一日中解き続けているのに、その山は少しも減る気配がない。
携帯には、中学時代の親友からのメッセージが溜まっていた。
『最近どうしてる?』
『たまには遊ぼうぜ』
『返信くらいしろよ』
最後のメッセージには、かすかな怒りが混じっているように感じられた。返信しようとスマホに触れる。しかし、どんな言葉を返せばいいのか、もう分からなくなっていた。
鏡の前で制服を整える時、航は自分の顔が少しずつ変わっていくのを感じていた。目の下にはクマが現れ、頬はこけ、表情は硬くなっていた。それでも、成績は着実に上昇を続けていた。
「これが、俺の望んだ変化なのか?」
深夜、机に向かいながら、航はふとそんな疑問を抱く。しかし、その思考を深める余裕はない。次の課題が、次のテストが、彼を待っていた。
ある日の放課後、誰もいない教室で、航は渡辺の机の中に捨てられていたスケッチブックを見つけた。最後のページには、春先に描かれた教室の風景が残されていた。そこには、まだ笑顔で話すクラスメイトたちがいた。窓から差し込む光は温かく、空気は自由に満ちていた。
その絵の隅には、小さな走り書きがあった。
「私たちの教室」
今の教室には、もうあの頃の空気は存在しない。代わりにあるのは、重苦しい沈黙と、机に張り付いた背中の数々。
そう思っていると背後から館山の声が響く。
「山岸、まだ居たのか」
航は慌ててスケッチブックを戻し、「はい」と返事をする。その声は、完璧に調整されたトーンで響いた。しかし、その瞬間、自分の声が誰のものなのか、分からなくなっていた。
教室を出る時、航は廊下の窓に映る自分の姿を見た。それは確かに、かつての「普通」の航ではなかった。でも、この姿は本当に自分の求めていた「新しい自分」だったのだろうか。その答えは、まだ見つからないままだった。
六月の蒸し暑い午後、教室の空気が一瞬で凍りついた。
「渡辺さんは、しばらく休むことになりました。体調不良です」
館山の声に、クラス中の視線が渡辺の空席に集中する。誰もが知っていた。彼女が昨日の放課後、館山の補習でどんな目に遭ったのかを。
「この程度の問題も解けないのですか?渡辺さん」
黒板の前で、渡辺は震える手でチョークを握っていた。数式を書こうとするたびに、白い粉が床に落ちる。館山の追及は容赦なかった。
「基礎的な知識が全く身についていない。これでは理想の教室の妨げになります」
「申し訳、ありません...」
「明日までに、同じ類題を50問解いて提出しなさい。それと、当面は放課後の補習も倍に増やしましょう」
その日を最後に、渡辺は学校に来なくなった。「体調不良」という理由だったが、クラスの誰もがその言葉を信じてはいなかった。空席に置かれた教科書とノート。その上に重ねられた未提出の課題プリント。それらが、渡辺の不在を、より一層重たいものに感じさせていた。
渡辺の不在は、教室に深い亀裂を走らせた。特に目立ったのは、成績下位層への風当たりの強さだった。
「中野」
テストを返却しながら、館山の声が教室に響く。
「先週から実施している朝学習、君は一度も参加していませんね」
「すみません、電車が...」
「言い訳ですか?理想を目指す者に、言い訳は不要です」
そして他の生徒の田中にも。
「授業中の態度が目に余る。この程度の内容で居眠りとは、君の学習意欲を疑わざるを得ません」
次々と標的にされる生徒たち。誰もが息を潜め、自分が次の犠牲者にならないよう、必死に「完璧」を装っていた。休み時間でさえ、教室には会話の声が消え、ページをめくる音だけが響いていた。
その異様な空気の中、航は思いがけない出会いを経験する。
放課後の図書室。航が一人で参考書を開いていると、背後から物音がした。
振り返ると、そこにはクラスメイトの佐伯が立っていた。入学当初から成績優秀で、生徒会の一員で館山からも「理想的な生徒」として高く評価されている存在。完璧な優等生の代名詞とも言える彼女が、今、疲れ切った表情を見せていた。
「山岸君、少し話を聞いてもらえないかしら」
佐伯の声には、普段の凛とした響きがない。図書室の奥、誰にも見えない場所で、彼女は重い口を開いた。
「私、もう限界かもしれない」
航は思わず息を呑んだ。
「佐伯さんが?でも、いつも完璧じゃ...」
「完璧なんかじゃないわ」
佐伯は苦笑いを浮かべた。図書室の夕陽に、その表情が影のように揺れる。
「毎朝四時に起きて予習して、学校では生徒会の仕事をこなしながら授業を受けて、放課後も部活や補習。家に帰ってからも夜中まで勉強して...それでも、全然足りないの」
佐伯の声が震えていた。
「館山先生の『理想』の基準が、どんどん上がっていく。ついていけなくて...でも、ついていけないなんて言えなくて」
その瞬間、佐伯の目から涙が零れた。
「私、怖いの。渡辺さんみたいに、潰されるのが」
航は言葉を失った。佐伯のような優等生でさえ、これほどまでに追い詰められている。そう思うと、自分の中の何かが軋むような音を立てた。
図書室を出た後、廊下の曲がり角で聞こえてきた声に、航は足を止めた。
「もう耐えられないよ」
「あの先生、絶対におかしい」
「でも、誰も何も言えない。言ったら、次は自分が...」
物陰に隠れるようにして話す数人の生徒たち。その囁くような声の中に、確かな反発の感情が渦巻いていた。
その夜、久しぶりに机から離れ、航は中学時代のアルバムを開いた。文化祭でへまをして笑い合う写真。テスト前に必死で勉強する写真。どれも「普通」の思い出。
でも、その「普通」の中にあった温かさが、今の航には眩しいほど貴重に感じられた。テストの点数だけじゃない。成績なんかじゃ測れない、大切な何かが、確かにそこにはあった。
航は渡辺の空席を思い浮かべる。明日も、また空いたままなのだろうか。声をかければよかった。気付いていたはずなのに、気付かないフリをしていた自分が、今はひどく情けなく感じられた。
机の上には、明日提出の課題が山積みになっている。でも今は、それどころじゃなかった。航の心の中で、何かが大きく動き始めていた。
このままでは、渡辺のように誰かがまた消えてしまう。
このままでは、佐伯のような優等生でさえ、潰れてしまう。
このままでは、クラスの全員が、ただの「完璧」な人形になってしまう。
「これで、本当にいいのか?」
その問いに、まだ明確な答えは出せない。でも、少なくとも一つのことだけは、はっきりと分かっていた。
この異常な状況に、誰かが声を上げなければならない。
そして、その「誰か」は、案外自分なのかもしれない。
梅雨の晴れ間、航は図書室の本棚の間で立ち尽くしていた。向こう側から聞こえてきた会話が、まるで呪文のように頭の中で反復している。
「館山先生、前校で大変なことになったらしいわよ」
「え、どういうこと?」
「うちの母が、PTA役員の集まりで聞いたんですって。生徒を追い込みすぎて...」
足音が近づき、会話は途切れた。しかし、その断片的な言葉は、航の胸に棘のように刺さった。
翌朝、机の上に折り畳まれたメモが置かれていた。佐伯の几帳面な文字。
「一六時三十分、図書室の地理書コーナーで」
放課後、航は指定された場所に向かった。本棚の奥、誰にも見られない位置で佐伯が待っていた。彼女は慎重に周囲を確認してから、バッグから新聞のコピーを取り出した。
「三年前の地方紙よ。従姉妹が通っていた高校の記事」
黄ばんだ用紙には、小さな記事が印刷されていた。
『県立立花高校で不登校急増 原因究明を求める声』
『二年A組で前例のない不登校者数 学校側は「個人の問題」と説明』
『保護者から指導方法の改善を求める要望書』
「従姉妹から聞いた話なんだけど...」
佐伯の声が小さくなる。彼女の話によれば、館山の赴任と同時に、クラスの様子が一変したという。まるで今の自分たちのクラスのように。
「最初は、誰もおかしいと思わなかったそうよ。むしろ、素晴らしい指導だって評価する声も。でも...」
佐伯は震える手でスマートフォンを取り出し、メモ帳を開いた。従姉妹から送られてきた情報のリストだった。
『毎日深夜まで続く補習、些細なミスでの厳しい叱責、成績低下者への徹底的な追い込み、生徒間の相互監視の雰囲気、不登校者の続出、数名の転校者』
「最悪なのは...」
佐伯の声が震える。
「自殺をした生徒がいたこと。でも学校は隠蔽して、全て「生徒の心の弱さ」として処理したんですって」
航の背筋が凍る。教室に漂う異様な空気。渡辺の失踪。クラスメイトたちの疲弊した表情。全てが繋がっていく。
「私たち、このままじゃ...」
佐伯の瞳が潤んでいた。
「分かった」
航は静かに、しかし強い決意を込めて答えた。
「何かしなきゃ」
その日から、二人の密かな活動が始まった。
表向きは、完璧な生徒を演じ続ける。それは身を守るための必要な仮面。航は相変わらず高い成績を維持する。佐伯は生徒会の一員としての職務を全うする。館山の前では、申し分のない生徒であり続けた。
しかし水面下で、二人は着実に動き始めていた。
まず、クラスメイトたちの変化を見逃さないようにした。以前なら気づかなかった、あるいは気づかないフリをしていたサインに、意識的に目を向ける。
課題に追われて目の下にクマを作る生徒。
休み時間、独りぼっちでスマートフォンに向かう生徒。
テストの点数が急激に下がった生徒。
授業中、震える手でノートを取る生徒。
「ねぇ、大丈夫?」
「この問題、一緒に考えてみない?」
些細な声かけ。でも、その一言で表情が和らぐ生徒たち。少しずつ、確実に、変化は生まれ始めた。
ある日、数学の課題で行き詰まっていた生徒が、おずおずと航に近づいてきた。
「山岸君、その...これ、教えてくれない?」
以前の航なら、「自分で考えるべきだ」と突き放していただろう。それが「理想の生徒」のあるべき姿だと信じていたから。
でも今は違う。
「ここがポイントなんだ。一緒に考えてみよう」
机を寄せ合って問題を解く。そんな光景が、少しずつ教室に戻り始めていた。
しかし、それは決して安全な行動ではなかった。
「佐伯」
ある朝、館山が不意に声をかけてきた。
「最近、集中力を欠いているように見えますが」
佐伯は完璧な笑顔で返す。
「申し訳ありません。来月の体育祭の準備で少し慌ただしくて」
その夜、佐伯から新しいメモが届いた。
『要注意。監視が厳しくなっている』
そして新たな情報も入ってきた。佐伯の従姉妹が、当時の同級生に連絡を取っていた。そこから明らかになった事実は、想像以上に深刻だった。
精神的に追い込まれた生徒の具体的な症状。
卒業後も心の傷を抱える生徒たち。
誰にも相談できず、孤独に耐えていた日々。
「このままじゃ、また...」
航は拳を握りしめた。渡辺の空席が、今も教室に重くのしかかっている。このままでは、また新たな犠牲者が出る。
「佐伯さん」
図書室の薄暗がりの中、航は決意を込めて言った。
「もっと仲間を増やそう。でも慎重に」
佐伯は黙って頷いた。二人の影が、夕暮れの図書室の床に長く伸びていた。
そして今、始まりを告げた。それは静かな反逆が。
中学校の卒業式の日、親友がからかうように言った。山岸航は曖昧な笑みを浮かべた。三月の柔らかな陽射しが、体育館から溢れ出る卒業生たちの声とともに、二人を包み込んでいた。
「まさか。俺には無理だって」
口ではそう否定しながらも、航の胸の奥には確かな期待が芽生えていた。新しい環境。新しい仲間。そして、新しい自分。その言葉が、まだ見ぬ未来への淡い希望として心の中で揺らめいていた。
中学時代の航は、どこにでもいる普通の生徒だった。成績は全体の中では真ん中ぐらいで運動も平均的。体育祭でも目立つことなく過ごした。いじめられることもなければ、特別親しい友人もいない。親友との関係も、同じ委員会に所属していたことがきっかけで、なんとなく続いていた程度のものだった。
そんな「無難」な三年間。振り返れば、それは安全な檻の中で過ごしてきた時間だったのかもしれない。
春風が桜の花びらを舞わせる中、航は県立東雲高校の校門をくぐった。新しい制服の襟元が少しきつく、背筋が自然と伸びる。周りには同じように緊張した面持ちの新入生たちが、それぞれの期待を胸に秘めて歩いていた。
「よし」
小さく自分を鼓舞する声が、誰にも聞こえないように消えていった。しかし、その声には確かな決意が込められていた。もう、あの「普通」だけを生きる日々は終わりにしたい。
だが、その期待は早々に裏切られることになる。
入学式を終え、クラス発表で配属された一年C組。航が割り当てられた教室では、すでにいくつかの小さな群れが形成されていた。中学からの知り合い同士で固まる者、入学式での出会いをきっかけに意気投合した者。
「あの、僕も…」
声をかけかけた言葉は、いつも途中で途切れた。どのグループにも、自分が入り込める隙間は見当たらない。休み時間になれば、航はそっと席を立ち、トイレという名の避難所へと足を向けた。
「ここなら、一人でも不自然じゃない」
そう自分に言い聞かせながら、個室に籠る。壁越しに、廊下を行き交うクラスメイトたちの談笑する声が漏れ聞こえてくる。
そして、最初のホームルームの時間。教室に座る生徒たちの間に、新しい担任を待つ静かな緊張が漂っていた。チャイムが鳴り、教室の扉が開く。
すらりとした長身の眼鏡をかけた男性教師が、ゆっくりと教壇へと歩み寄った。
「私の名前は館山誠一郎。この春から東雲高校に着任し、皆さんの担任を務めさせていただくことになりました」
館山は黒板に自分の名前を丁寧に書きながら続けた。
「前校での経験を活かし、この1年間、皆さんを全力でサポートしていきたいと思います。私も皆さんと同じ、東雲高校では新入りですから」
最後の言葉に、クラスから小さな笑いが漏れる。それを聞いた館山の表情が、わずかに満足げに緩んだ。
そして館山は、一人一人の生徒の目を見つめながら、長いこと沈黙を保った。その間、教室の空気は徐々に変質していった。私語は消え、携帯をいじっていた生徒も手を止める。全員の視線が、自然と館山に集中していく。
「私には、ある理想があります」
館山は、ゆっくりと、しかし確かな存在感を持って語り始めた。その声は、不思議な磁力を帯びていた。
「この教室を、理想の空間にすること」
館山は一歩、生徒たちに近づく。
「そして、君たち一人一人を、完璧な人材に育て上げること」
教室に張り詰めた静寂が広がった。誰もが、館山の言葉の持つ重みを感じ取っているようだった。その異様な熱を帯びた瞳に、航も思わず見入ってしまう。
「無駄な時間は過ごさせません。無意味な悩みも必要ありません。私と共に、理想を追求しましょう」
館山の言葉には、まるで魔力のような引力があった。特に、まだ自分の立ち位置も定まらない航には、その言葉が救いの手のように感じられた。自分の中の「普通」という殻を破るチャンス。そう直感的に感じたのだ。
完璧な人材。その言葉が、航の心の中で鮮やかに光を放っていた。もしかしたら、これが自分の求めていた「新しい自分」になるためのチャンスなのかもしれない。周りの生徒たちの表情も、不安と期待が入り混じったものに変わっていった。
その瞬間、航の目に館山の微笑みが映った。どこか打算的で、冷たい微笑みだったのだ。
入学から二週間が経った頃、最初の実力テストが行われた。結果は散々だった。航はクラスの真ん中よりもちょっとやや下。これまでと変わらない「普通」の成績に、航はため息をつくしかなかった。
「山岸、放課後、職員室に来なさい」
テスト返却後、館山がそう告げた時、航の心臓は小さく跳ねた。叱責されるのだろうか。そんな不安を抱えながら職員室を訪れると、館山は穏やかな表情で航を迎えた。
「君には才能がある。私にはそれが分かる」
意外な言葉に、航は戸惑いを隠せなかった。
「でも、俺はいつも普通で...」
「その『普通』という殻を、今日から破っていこう」
館山は分厚いファイルを取り出した。そこには、体系的に整理された学習プログラムが綴じられていた。問題の解き方から時間の使い方まで、全てが細かく指示されている。
その日から、航の生活は大きく変わり始めた。朝は六時起床。授業開始前の1時間を使って、その日の予習を行う。館山考案の専用ノートには、重要ポイントを決められた色のペンで書き込んでいく。青は公式、赤は注意点、緑は補足説明。些細な工夫の一つ一つに、確かな意図が込められていた。
放課後の補習も始まった。他の生徒が下校する頃、航は館山の机の前で新しい解法を学んでいた。館山の教え方は驚くほど明快で、どんな難しい問題も筋道立てて解いていく。
そしてまたテストがあり、航はクラスの上位に入った。それだけでも十分な進歩のはずだったが、館山は満足しなかった。補習の時間は延び、課題は増えていった。土日も図書館に通い、館山の作った学習計画をこなしていく。
中間テストまでの一ヶ月、航の生活は完全に勉強中心となった。
そして結果は学年8位。「普通」だった航が、たった二ヶ月でトップ10入りを果たした。
五月の終わり、教室の窓から新緑が眩しく差し込んでいた。それは、いつもなら心を明るくするはずの光だった。
しかし今、航の目には、その光すら違和感を覚えるものに映った。
「山岸、今回のテストの解答を皆に説明してあげなさい」
館山の声に促され、航は黒板の前に立った。解法を説明する声は、まるで録音を再生しているかのように機械的だ。完璧な説明。完璧な板書。そして、完璧な解答。かつての航からは想像もできなかった姿がそこにあった。
「さすが山岸。皆も見習いなさい」
館山の褒め言葉に、クラスメイトたちから小さなため息が漏れる。航の視線が教室を巡る。そこにあったのは、疲れきった表情の数々だった。
特に渡辺という女子生徒の様子が気になった。以前の彼女は、休み時間になるとスケッチブックを開き、窓の外の風景や友達の横顔を楽しそうに描いていた。その絵には不思議な温かみがあって、見ている者まで穏やかな気持ちにさせた。
「渡辺、その手は何をしているのですか?」
ある日の授業中、館山が鋭い視線を向けた。渡辺の左手が、無意識にノートの端に何かを描き始めていたのだ。
「申し訳ありません...」
渡辺は慌ててペンを置いた。しかしその後も、館山は彼女から目を離さなかった。
「芸術活動は素晴らしい。しかし、それは正しい時間に、正しい場所で行うべきもの。この教室は、学習に特化した理想の空間なのです」
その言葉は、単なる注意以上の重みを持っていた。それは、個性を否定する宣言のように響いた。
次の日から、渡辺の机の中からスケッチブックは姿を消した。代わりに積み重ねられた問題集。その角が、まるで檻のように彼女を囲んでいた。
「渡辺、数学の補習に来なさい」
放課後、館山は決まってそう告げた。渡辺の表情が、日に日に影を帯びていく。かつて絵を描く時に見せていた柔らかな微笑みは、どこかへ消えてしまっていた。
航自身の生活も、すっかり変わっていた。朝は誰よりも早く登校し、予習に取り組む。授業中は完璧な姿勢で臨み、ノートを取る。放課後は館山の補習を受け、帰宅後も深夜まで勉強を続ける。
「航、お昼ご飯できたわよ」
日曜日、母の呼び声が階段を上ってくる。しかし航は、机から離れることができなかった。
「後で食べるよ」
そう答える声が、どこか虚ろに響く。机の上には、館山から渡された課題が山積みになっていた。一日中解き続けているのに、その山は少しも減る気配がない。
携帯には、中学時代の親友からのメッセージが溜まっていた。
『最近どうしてる?』
『たまには遊ぼうぜ』
『返信くらいしろよ』
最後のメッセージには、かすかな怒りが混じっているように感じられた。返信しようとスマホに触れる。しかし、どんな言葉を返せばいいのか、もう分からなくなっていた。
鏡の前で制服を整える時、航は自分の顔が少しずつ変わっていくのを感じていた。目の下にはクマが現れ、頬はこけ、表情は硬くなっていた。それでも、成績は着実に上昇を続けていた。
「これが、俺の望んだ変化なのか?」
深夜、机に向かいながら、航はふとそんな疑問を抱く。しかし、その思考を深める余裕はない。次の課題が、次のテストが、彼を待っていた。
ある日の放課後、誰もいない教室で、航は渡辺の机の中に捨てられていたスケッチブックを見つけた。最後のページには、春先に描かれた教室の風景が残されていた。そこには、まだ笑顔で話すクラスメイトたちがいた。窓から差し込む光は温かく、空気は自由に満ちていた。
その絵の隅には、小さな走り書きがあった。
「私たちの教室」
今の教室には、もうあの頃の空気は存在しない。代わりにあるのは、重苦しい沈黙と、机に張り付いた背中の数々。
そう思っていると背後から館山の声が響く。
「山岸、まだ居たのか」
航は慌ててスケッチブックを戻し、「はい」と返事をする。その声は、完璧に調整されたトーンで響いた。しかし、その瞬間、自分の声が誰のものなのか、分からなくなっていた。
教室を出る時、航は廊下の窓に映る自分の姿を見た。それは確かに、かつての「普通」の航ではなかった。でも、この姿は本当に自分の求めていた「新しい自分」だったのだろうか。その答えは、まだ見つからないままだった。
六月の蒸し暑い午後、教室の空気が一瞬で凍りついた。
「渡辺さんは、しばらく休むことになりました。体調不良です」
館山の声に、クラス中の視線が渡辺の空席に集中する。誰もが知っていた。彼女が昨日の放課後、館山の補習でどんな目に遭ったのかを。
「この程度の問題も解けないのですか?渡辺さん」
黒板の前で、渡辺は震える手でチョークを握っていた。数式を書こうとするたびに、白い粉が床に落ちる。館山の追及は容赦なかった。
「基礎的な知識が全く身についていない。これでは理想の教室の妨げになります」
「申し訳、ありません...」
「明日までに、同じ類題を50問解いて提出しなさい。それと、当面は放課後の補習も倍に増やしましょう」
その日を最後に、渡辺は学校に来なくなった。「体調不良」という理由だったが、クラスの誰もがその言葉を信じてはいなかった。空席に置かれた教科書とノート。その上に重ねられた未提出の課題プリント。それらが、渡辺の不在を、より一層重たいものに感じさせていた。
渡辺の不在は、教室に深い亀裂を走らせた。特に目立ったのは、成績下位層への風当たりの強さだった。
「中野」
テストを返却しながら、館山の声が教室に響く。
「先週から実施している朝学習、君は一度も参加していませんね」
「すみません、電車が...」
「言い訳ですか?理想を目指す者に、言い訳は不要です」
そして他の生徒の田中にも。
「授業中の態度が目に余る。この程度の内容で居眠りとは、君の学習意欲を疑わざるを得ません」
次々と標的にされる生徒たち。誰もが息を潜め、自分が次の犠牲者にならないよう、必死に「完璧」を装っていた。休み時間でさえ、教室には会話の声が消え、ページをめくる音だけが響いていた。
その異様な空気の中、航は思いがけない出会いを経験する。
放課後の図書室。航が一人で参考書を開いていると、背後から物音がした。
振り返ると、そこにはクラスメイトの佐伯が立っていた。入学当初から成績優秀で、生徒会の一員で館山からも「理想的な生徒」として高く評価されている存在。完璧な優等生の代名詞とも言える彼女が、今、疲れ切った表情を見せていた。
「山岸君、少し話を聞いてもらえないかしら」
佐伯の声には、普段の凛とした響きがない。図書室の奥、誰にも見えない場所で、彼女は重い口を開いた。
「私、もう限界かもしれない」
航は思わず息を呑んだ。
「佐伯さんが?でも、いつも完璧じゃ...」
「完璧なんかじゃないわ」
佐伯は苦笑いを浮かべた。図書室の夕陽に、その表情が影のように揺れる。
「毎朝四時に起きて予習して、学校では生徒会の仕事をこなしながら授業を受けて、放課後も部活や補習。家に帰ってからも夜中まで勉強して...それでも、全然足りないの」
佐伯の声が震えていた。
「館山先生の『理想』の基準が、どんどん上がっていく。ついていけなくて...でも、ついていけないなんて言えなくて」
その瞬間、佐伯の目から涙が零れた。
「私、怖いの。渡辺さんみたいに、潰されるのが」
航は言葉を失った。佐伯のような優等生でさえ、これほどまでに追い詰められている。そう思うと、自分の中の何かが軋むような音を立てた。
図書室を出た後、廊下の曲がり角で聞こえてきた声に、航は足を止めた。
「もう耐えられないよ」
「あの先生、絶対におかしい」
「でも、誰も何も言えない。言ったら、次は自分が...」
物陰に隠れるようにして話す数人の生徒たち。その囁くような声の中に、確かな反発の感情が渦巻いていた。
その夜、久しぶりに机から離れ、航は中学時代のアルバムを開いた。文化祭でへまをして笑い合う写真。テスト前に必死で勉強する写真。どれも「普通」の思い出。
でも、その「普通」の中にあった温かさが、今の航には眩しいほど貴重に感じられた。テストの点数だけじゃない。成績なんかじゃ測れない、大切な何かが、確かにそこにはあった。
航は渡辺の空席を思い浮かべる。明日も、また空いたままなのだろうか。声をかければよかった。気付いていたはずなのに、気付かないフリをしていた自分が、今はひどく情けなく感じられた。
机の上には、明日提出の課題が山積みになっている。でも今は、それどころじゃなかった。航の心の中で、何かが大きく動き始めていた。
このままでは、渡辺のように誰かがまた消えてしまう。
このままでは、佐伯のような優等生でさえ、潰れてしまう。
このままでは、クラスの全員が、ただの「完璧」な人形になってしまう。
「これで、本当にいいのか?」
その問いに、まだ明確な答えは出せない。でも、少なくとも一つのことだけは、はっきりと分かっていた。
この異常な状況に、誰かが声を上げなければならない。
そして、その「誰か」は、案外自分なのかもしれない。
梅雨の晴れ間、航は図書室の本棚の間で立ち尽くしていた。向こう側から聞こえてきた会話が、まるで呪文のように頭の中で反復している。
「館山先生、前校で大変なことになったらしいわよ」
「え、どういうこと?」
「うちの母が、PTA役員の集まりで聞いたんですって。生徒を追い込みすぎて...」
足音が近づき、会話は途切れた。しかし、その断片的な言葉は、航の胸に棘のように刺さった。
翌朝、机の上に折り畳まれたメモが置かれていた。佐伯の几帳面な文字。
「一六時三十分、図書室の地理書コーナーで」
放課後、航は指定された場所に向かった。本棚の奥、誰にも見られない位置で佐伯が待っていた。彼女は慎重に周囲を確認してから、バッグから新聞のコピーを取り出した。
「三年前の地方紙よ。従姉妹が通っていた高校の記事」
黄ばんだ用紙には、小さな記事が印刷されていた。
『県立立花高校で不登校急増 原因究明を求める声』
『二年A組で前例のない不登校者数 学校側は「個人の問題」と説明』
『保護者から指導方法の改善を求める要望書』
「従姉妹から聞いた話なんだけど...」
佐伯の声が小さくなる。彼女の話によれば、館山の赴任と同時に、クラスの様子が一変したという。まるで今の自分たちのクラスのように。
「最初は、誰もおかしいと思わなかったそうよ。むしろ、素晴らしい指導だって評価する声も。でも...」
佐伯は震える手でスマートフォンを取り出し、メモ帳を開いた。従姉妹から送られてきた情報のリストだった。
『毎日深夜まで続く補習、些細なミスでの厳しい叱責、成績低下者への徹底的な追い込み、生徒間の相互監視の雰囲気、不登校者の続出、数名の転校者』
「最悪なのは...」
佐伯の声が震える。
「自殺をした生徒がいたこと。でも学校は隠蔽して、全て「生徒の心の弱さ」として処理したんですって」
航の背筋が凍る。教室に漂う異様な空気。渡辺の失踪。クラスメイトたちの疲弊した表情。全てが繋がっていく。
「私たち、このままじゃ...」
佐伯の瞳が潤んでいた。
「分かった」
航は静かに、しかし強い決意を込めて答えた。
「何かしなきゃ」
その日から、二人の密かな活動が始まった。
表向きは、完璧な生徒を演じ続ける。それは身を守るための必要な仮面。航は相変わらず高い成績を維持する。佐伯は生徒会の一員としての職務を全うする。館山の前では、申し分のない生徒であり続けた。
しかし水面下で、二人は着実に動き始めていた。
まず、クラスメイトたちの変化を見逃さないようにした。以前なら気づかなかった、あるいは気づかないフリをしていたサインに、意識的に目を向ける。
課題に追われて目の下にクマを作る生徒。
休み時間、独りぼっちでスマートフォンに向かう生徒。
テストの点数が急激に下がった生徒。
授業中、震える手でノートを取る生徒。
「ねぇ、大丈夫?」
「この問題、一緒に考えてみない?」
些細な声かけ。でも、その一言で表情が和らぐ生徒たち。少しずつ、確実に、変化は生まれ始めた。
ある日、数学の課題で行き詰まっていた生徒が、おずおずと航に近づいてきた。
「山岸君、その...これ、教えてくれない?」
以前の航なら、「自分で考えるべきだ」と突き放していただろう。それが「理想の生徒」のあるべき姿だと信じていたから。
でも今は違う。
「ここがポイントなんだ。一緒に考えてみよう」
机を寄せ合って問題を解く。そんな光景が、少しずつ教室に戻り始めていた。
しかし、それは決して安全な行動ではなかった。
「佐伯」
ある朝、館山が不意に声をかけてきた。
「最近、集中力を欠いているように見えますが」
佐伯は完璧な笑顔で返す。
「申し訳ありません。来月の体育祭の準備で少し慌ただしくて」
その夜、佐伯から新しいメモが届いた。
『要注意。監視が厳しくなっている』
そして新たな情報も入ってきた。佐伯の従姉妹が、当時の同級生に連絡を取っていた。そこから明らかになった事実は、想像以上に深刻だった。
精神的に追い込まれた生徒の具体的な症状。
卒業後も心の傷を抱える生徒たち。
誰にも相談できず、孤独に耐えていた日々。
「このままじゃ、また...」
航は拳を握りしめた。渡辺の空席が、今も教室に重くのしかかっている。このままでは、また新たな犠牲者が出る。
「佐伯さん」
図書室の薄暗がりの中、航は決意を込めて言った。
「もっと仲間を増やそう。でも慎重に」
佐伯は黙って頷いた。二人の影が、夕暮れの図書室の床に長く伸びていた。
そして今、始まりを告げた。それは静かな反逆が。