朝からずっと胃が痛い。気持ちが悪い。頭痛もする。昼間に羽川と話したせいだ。あの胡散臭い、気持ちの悪い笑顔が頭からこびりついて離れない。吐き気がする。
なんとか5限目の授業を終えたけれど、どうにも気分が悪い。いつも以上に誰とも関わりたくない。
ただでさえ昨日の出来事で、僕はクラスメイトたちから嫌な視線を受け続けている。今朝上履きが片方無くなっていたのも、僕の先まで数学のプリントが回ってこなかったのも、きっと気のせいではないだろう。確実に始まっている。
このまま教室にいるのはひどく苦痛だ。直接手を下されるまでそう時間はかからないだろう。耐えられない。
6限目を待たずにこのままサボろうかと、廊下に出たところで。
「ねえ赤坂、ちょっといい?」
突然声をかけられた。昨日下ろしていた髪をポニーテールに結った秋山さんだった。
◆
「あのさあ、」
できれば人目のつかないところで、という気持ちは僕も秋山さんも同じだったのだろう。会話のないまま生物化学室までやってきた。僕は正直この部屋には来たくなかったが、先を歩いていたのもこの部屋を選んだのも秋山さんだから仕方がない。
秋山さんの声はひどく低かった。昨日のことをまだ怒っているのかもしれない。だとしたらあまりに理不尽じゃないか。僕はただ美術の授業を真面目に受けていただけなのに。頭痛がひどくなる。
「……昨日言いすぎた、ごめん」
「え」
思わずまぬけな声が出た。
勢いよく頭を下げた秋山さんがゆっくり顔をあげる。
「あれ、そんなに怒ってなかった?」
「いや、秋山さんの方が怒ってただろ」
「そう、ごめんね、ちょっと嫌なこと思い出してさ」
まさか彼女の方から謝られるとは思ってもみなかった。心の中で悪態をついていたことを即座に反省する。
いや、でも、秋山さんの自分勝手さと一時的な感情的任せに言葉を発するところには軽蔑さえ生まれる。クラスメイト達の嫌な視線を思い出して吐き気がする。
「いや、別に……謝ってもらうようなことでもない」
「でも、わたしのせいでクラスの皆、ちょっと嫌な感じになってるじゃん? そういうの、ちょっと気分悪くてさ」
その状況を作り出した張本人が何を言うのだろう。第一、昨日僕に対して『気持ち悪い』と言葉を放ったことを忘れたのだろうか。
そう思うのとは裏腹に、やはり彼女に逆らうのは得策ではないとわかっている僕は、何も気にしていないような素振りで「大丈夫だから」と話す。
正直彼女とはもう関わりたくない。これで話が済んだかと思ったけれど、秋山さんはまだ教室を出ようとしない。
頭が痛い。早くここから出たいのに。
「……あのさ、勘違いだったらごめんなんだけど、」
僕の怪訝そうな表情をくみ取ったのか、ぼそぼそと秋山さんが口を開く。未だ何かあるのか。
いつもハッキリとしている彼女にしては珍しい声色だった。言葉を濁す秋山さんに段々と苛立ちを覚えて「うん、それで?」と少々乱暴に聞き返す。
「……赤坂、今日昼休み、ここに来てなかった?」
「え?」
「生物化学準備室」
想像もしていなかった話題に思わず固まってしまう。今いる生物化学室と、昼間訪れた生物化学準備室は隣接しているのだ。
何故秋山さんがそんなことを?
どこかで見られていたのだろうか。昼休み、生物化学準備室まで向かう道のりはそう短くなく、廊下には人がいつも溢れかえっている時間帯だ。誰かに見られていても変な話ではない。
話の先を聞きたいというはやる気持ちをなんとか抑え、冷静を装う。
僕と羽川の会話を聞かれていたらまずいことがある。それは僕が“カンニングをしている”という事実だ。
「まあ、うん。それがどうかした?」
副担任の羽川の話題になること自体はおかしな話ではない。けれど、それは秋山さんがわざわざこんなところへ僕を呼び出す理由にしてはどうだろう。
「わたしが言うことじゃないかもしれないけど、」
「うん」
「気をつけた方がいいよ、あいつちょっとおかしいと思う」
秋山さんの言う『あいつ』が、羽川を指すのだということは容易に想像がついた。
意外な返答だった。羽川は教師らしくない整った容姿のおかげで、ひどく好感度が高いことを知っているからだ。
「……なんで?」
「……」
好奇心か悪戯心か。僕は秋山さんの返答を待つ。
「ここ、生物化学室で飼ってた魚、半年前から何匹もいなくなってる。今じゃ1匹もいないの、気づいてた?」
秋山さんがこの部屋を見渡す。僕も同じように視線を泳がせる。
言われてみれば、窓際に並べられていた水槽はすべて空になっている。唯一、一番黒板に近い大きな水槽に、一匹だけ綺麗な色をした小さなサカナが泳いでいるけれど。
化学実験や生物の授業でたまにここを訪れるけれど、全く気がつかなかった。
一体いつから消えていたのだろう。この部屋を管理するのは生物化学準備室と同様───即ち羽川先生だ。
「気づかなかった。週1はここで授業があるのに」
「段々、ゆっくり少なくなってたんだよ。1ヶ月にひとつ水槽が減って、1日に1匹サカナがいなくなる。誰も気がつかない」
「なんで秋山さんがそんなこと……」
「わたし動物というか、生き物が好きなんだよ。だからここのサカナたちもよく観察してたし、校舎裏の猫だって……」
「猫?」
秋山さんが気まずそうに目を伏せた。彼女が生き物好きだなんて知らなかったけれど、確かに缶のペンケースには蛙と猫のシールが貼られていた気がする。変な組み合わせだと思ったことを思い出した。
「あいつ大事に育ててると思ってたのに、」
「え? どういうこと?」
言われたことが理解できない。彼女は一体なんの話をしているのだろう。いや、頭ではなんとなく予想が出来ている。理解したくない、が正しいのだろう。
これは秋山さんの、忠告なのかもしれない。
「1ヶ月前くらいに、南先生が拾ってきたの。親子の捨て猫。生物教師だから生き物に詳しいだろうって、羽川先生にも協力してもらって……一緒に育ててた、のに」
つまり、南先生が拾ってきた捨て猫を、秋山さんと羽川と3人で育てていたということだろうか。
頭痛がひどくなってくる。やけに酸素が薄い気がする。
「でも、ここのサカナたちと、同じ事になっちゃった」
秋山さんの目に涙がたまった。その先の言葉はなんとなく予想ができていたけれど、ひどい頭痛で目眩がする。考えたくない。
「死んじゃったの、昨日の朝、突然。まだ小さかったのに」
告げられた核心的な言葉に目を閉じる。
頭が痛い。割れそうだ。
◆
揺れる感覚と聞き慣れないエンジン音にゆっくりと目を開く。真っ暗だった視界が少しばかりの光を拾う。ぼんやりとした視界のなかで、段々と手放していた意識が戻ってくる。
「目が覚めましたか?」
降ってきた聞き覚えのある声にはっとして目を見開く。急に視界と思考がクリアになる。
走る車の中。助手席。聞いたことのない洋楽が小さな音で流れている。外は暗く、小雨が降っているようだ。
「な、んで、」
「すみません、驚かせましたか」
横を見ればゆったりとした口調の羽川が運転している。狭い車内、ふたりきり。
どうして僕はこんなところに。記憶がない。5限終わり、秋山さんと生物化学準備室で話をしいる最中、ひどく頭が痛くなって、それから……。
「6限目をサボって生物化学室にいたようですね」
「え……」
「秋山さんが保健室に駆けこんだそうですよ。赤坂くんが倒れたって。小柄な高校生とはいえ、気絶している人間を運ぶのは大変でした」
何を。
その淡々とした口調に背筋が凍る。車は進んでいく。
夏の蒸し暑さと小雨が混ざり合って生ぬるい空気が漂っている。吐きそうだ。
「担任の相川先生と僕、数学の山田先生もですね。担架に乗せてひとまず保健室に運びましたが、どうやら深い眠りについているようだったので、こうして僕が家まで送り届けることになったんです」
そうだ、僕はあの時急激に頭が痛くなって、意識を手放したのだ。
「体調はどうですか?」
「……さっきよりは、悪くないです」
「そうですか、それならよかった。少し寝て落ち着いたのかもしれませんね」
「……」
「過敏なきみのことです。連日の僕の話や秋山さんとの一件でひどく大きなストレスを感じていたんでしょう。いくらきみが賢いとはいえ、少々負担をかけてしまいましたね。すみません」
突然意識を手放した僕に秋山さんは相当驚いただろう。さっきより体調は戻ったものの、まだ頭の後ろがずきずきと痛んでいる気がする。
───『死んじゃったの、昨日、突然。まだ小さかったのに』
秋山さんが言っていたことを思い出す。
ゆっくりと気づかれないようにいなくなった生物化学室のサカナたち。大切に育てていた校舎裏の子猫。
僕が死ぬ夢を見たという羽川先生。
疑うのも当たり前だ。小さなサカナ、大切に育てていた子猫、次に消し去るとすれば。
「先生、」
「ああよかった、返事がなかったのでまた気を失っているのかと思いました」
「……家まで送ってくれるんですか」
「はい。倒れた生徒を放っておく教師はいませんよ」
「親に連絡は、」
「担任の相川先生がしてくれましたよ。親御さん、毎日仕事で帰宅が遅いそうですね。迎えに来られないとのことだったので、家の方向が近い僕が送ることになったんです」
親に連絡がいっていると知って安堵する。秋山さんが遠回しに僕に忠告したように、もし羽川が僕を何らかの理由で狙っていたとしても、自身がやったと確実にバレる状況で行動に起こすタイプではないだろう。生物化学室のサカナのようにじっくりと、校舎裏の子猫のように突然に、証拠を残さず消し去る。少なくとも親にも他の教師たちにも”僕を家まで送り届ける”と知られている状態で、おかしなことはしてこない筈だ。勿論、警戒するに超したことはないけれど。
「ところで赤坂くん、美術の南先生に聞きましたが、」
「はい、」
「昨日、やはり秋山さんと色々あったようですね」
「……」
車窓が小雨で濡れて光の粒がぼやけて落ちていく。高校から僕の家まで車で40分程度だろうか。
羽川の予知夢が当たっていることを指摘されたようで僕は黙り込む。
「昨日の美術の授業で、何故彼女がきみに対して怒ったのか理解していますか?」
「そのシーンを夢で見たんですか」
「そうですね。もちろん、予知夢はあくまで断片的ではありますが」
「……彼女が怒った理由は、僕にじろじろ見られるのが気持ち悪かったから、です」
「そうですね。きみが邪な気持ちで彼女を見ているんじゃなかと疑いひどく不快に思った。咄嗟に出た『気持ち悪い』という言葉がきみを傷つけるかもしれないという予測をすることなく。彼女は一時的な感情を抑えることのできないタイプです。けれども自身のせいできみがクラスメイトから好奇の目で見られた途端同情が湧く。我に帰って後悔した後、きみに謝罪を述べたのでしょう」
それは秋山さんに対しての羽川の主観だろう。
何も答えない僕に触れることもなく、羽川は言葉を止めない。まるで黙る僕に言い聞かせるようだ。
「すみません。また僕の主観を織り交ぜて話をしてしましました。悪い癖ですね。ですが聞いてください。僕は副担任に過ぎないですが、意外と生徒たちのことを見ています。これは勿論、僕に限ったことではなく、きみたちのことを熱心に考えている教師全員に共通していることですが」
小雨がつよくなる。車窓は水滴に反射する夜のひかりで膨張していく。視界がやけにぼやけて見える。
「さて、今回の件について、きみに邪な気持ちがあったかなかったか、それを図ることは誰にもできません。秋山さんの言動が正しかったかどうかは一旦置いておきましょう。要は、被害を受けた側がどう感じるか。この世の中はそこが1番重要なはずなんです」
「……」
「つまり、秋山さんが引き起こしたクラスメイト達のきみへの態度は、決して褒められたものではないですが、正当な報復とも言えます」
こいつ、どうかしている。
秋山さんが僕の視線に嫌な気持ちを抱いたのなら謝るが、僕は美術の授業を真っ当に受けただけじゃないか。僕の方が声を上げることのできない被害者だ。
ただ、確かにあの時、少しだけ故意的な思想があった。わざと嫌な気持ちにさせてやろう、という残虐性。
「報復といえば、ですが。赤坂くん、きみはハンムラビ法典を知っていますか」
今度は突然何の話をするのだろう。
ハンムラビ法典。知っている。中学の社会で習った。バビロン王ハンムラビが紀元前中頃に制定した法典だ。一般教養だろう。
沈黙は肯定だと理解したのか、或いは優秀な僕が知らないわけがないと判断したのかもしれない。羽川は続ける。
「有名ですよね。目には目を、歯には歯を。同害同復法。有名な復讐方法です」
目を潰された者は仕返しに相手の目を潰し、歯を折られた者は相手の歯を折ってもいい。加えられた被害には同じような方法で仕返しするという報復方法。
「きみはこれについてどう思いますか?」
「……どうって?」
「残虐だと思いますか。それとも、報復するのは当たり前だと思いますか」
どちらでもない。強いて言えば、行った悪事に対して同等の報復をするのは至極当たり前とも思える。
相変わらず反応の薄い僕に対して、羽川の声色はずっと変化しない。
「……ハンムラビ法典の復讐方法は一見残虐そうに見えますが、過度な復讐を抑制する意図があるんです。つまり、受けた被害よりも大きな報復をしてはならないということですね」
僕が秋山さんに対して行ったことと、秋山さんが引き起こした僕に対するクラスメイトの態度は、同列に成り得るだろうか。傷跡が見えない痛みは大きさを図ることがひどく難しい。
「同じだけの痛みならば与えていい。そういった考えを持った人はたくさんいます」
「……自分がした悪事に対して同じことが返ってくるのは当たり前ってことですか?」
「そうですね、そう言った考えもあります。では、日本の死刑制度についてはどう思いますか?」
さっきから何の話をしているのだろう。秋山さんと僕の話なのか、或いは明日死ぬという僕の死因についての前置きなのか。
何にせよ早くこの車内から脱出しなければならない。息が詰まりそうだ。僕は普段と違う状況にひどく弱い。
「日本の死刑制度はハンムラビ法典と比べるとひどく優しいと言えます。人をひとり殺しても死刑にはなりません。ましてや動物虐待は罪にも問われないことがある」
秋山さんの言葉をまた思い出す。
消えていった生物化学室のサカナたち。突然亡くなった校舎裏の子猫。動物虐待は罪に問われないと言う羽川先生。
『人をひとり殺しても死刑にならない』───喉元がひゅっと嫌な音をたて、心臓の音が早くなる。
「この国では、余程の重罪でない限り、更生の余地が与えられるんです。それを悪とするか善とするかは意見が別れるところですが」
羽川がもしサカナを消し去って、校舎裏の子猫を殺して、それだけじゃ飽き足らず、人に手を掛けようとしているのだとしたら。
───『人をひとり殺しても死刑にはならない』
───『更生の余地が与えられる』
身震いする。羽川が予知夢という特殊能力をつかって、僕のことを狙っているのだとしたら。明日死ぬのだと言い聞かせ、それに怯える僕の姿を楽しんでいるのだとしたら。
冷や汗と共に手足の震えを感じる。ずっと表情の変わらない羽川の笑顔がやけに嘘っぽく感じて気持ちが悪い。緩やかに進んでいく自動車のスピードとは逆行して鼓動が早くなっていく。
「すみません、少し話をし過ぎましたね」
「いえ、」
「悪事に対して同列の痛みを与えるか、それとも更生の余地を与えるか。正解はないんです。要は、他人にどこまで信頼をおけるかの違いなのかもしれません」
「……羽川先生、」
「そうだ、話は変わりますが、赤坂くん。きみのご両親はひどく教育熱心なようですね。言い方を変えれば過保護、というのでしょうか」
「え……」
何故突然そんなことを。身体が固まる。
「怖がらないでください。言ったじゃないですか、僕たち教師はきみたちが思っている以上に生徒のことを考えているんです」
「っ、」
「優秀なきみがカンニングなんてしなくちゃいけない理由は、厳しいご両親に成績低下を知られるのがまずいからではないですか?」
「羽川先生、」
「つまり、きみはカンニングしていることをバレるのがひどく怖い。僕ら教師にバレることよりも、ご家族にバレることがいちばん厄介でしょう」
羽川の言いたいことはわかる。これは脅しだ。
「赤坂くん、明日放課後、生物化学準備室に来てくれますか? きみを死なせない為です。どうか僕の言うことを聞いて下さい」
返事をする前に車が停まった。見れば僕の家の前だった。
視線を運転席に戻すと、羽川の手には僕がカンニングして高得点をとった世界史のテスト用紙と、昼間羽川に奪われたカンニングの為のメモ用紙が握られていた。



