昼休み明け、5限目。美術の授業にて。
 美術室では名簿順になるので、さっき羽川先生───もとい羽川が言った秋山さんと毎回隣の席だ。
 羽川が言ったように、僕は今日午前中から調子が優れなかった。理由は明白で、毎朝飲んでいる牛乳を飲めなかったからだ。日々のルーティーンを壊されるとひどくストレスを感じてしまう。この過敏さは昔から治らない。

「今日の授業は友人の絵を描いてもらいます。所謂”似顔絵”ですね。夏休みに入る前に完成させてください」

 年老いたおばさんの美術教師は大きな黒板に『似顔絵』と書く。
 友人。それが一番難しい。

「好きな人とペアになって、と言いたいところですが、今回は隣の席でペアを組むことにしましょうか。普段中々相手の顔を見ることもないでしょう。じっくりとよく観察して描いてみてください」

 自分たちでペアを作って下さい、と言われるより随分マシだ。友人と呼べる人が殆どいない僕にとっては。
 けれどこれでは、羽川に言われたことと同じになってしまった。まるで僕と秋山さんがペアになることを事前に知っていたような口ぶりを思い出していらいらする。『ペアにならない方がいい』なんて言ったって、これじゃ回避する術がない。
 羽川が本当に予知夢を見ているとして。それはひどく断片的なものではないかと思う。事実、今現在秋山さん以外とペアを組む選択はできそうにない。
 逆に言えば、秋山さんとペアになれば羽川の予知夢が信頼できるものか再度確認出来るともいえる。
 友人が多くクラスのカースト上位である秋山さんからすれば、僕とペアになるのは少々不満だと思うけれど。彼女とペアになって何が起るのかは僕も気になるところだ。

「あーあ、最悪、わたしミカと組みたかったのに」
「……」

 美術の授業は週1回。火曜日の5.6限目。連続2時間だ。美術教師の南先生は、5限目で鉛筆下書き、6限目で色を塗るように、と指示をした。



 秋山さんの容姿はひどく整っている。大きな二重の眼に小さな顎。胸下まであるストレートの艶髪に陶器のような肌。明るい彼女の性格はもちろんだけれど、この容姿もクラスメイトを惹きつけるひとつの要因なのだろう。スカートのポケットから垂れるスマホのキーホルダーや、蛙と猫のシールが貼られたペンケースから少しだけ秋山さんの特性が見える気がした。蛙と猫って、変な組み合わせだ。

 鉛筆での下書きを殆ど終えて、6限目に差し掛かった頃。僕に見向きもせず友人と駄弁っていた秋山さんが、怪訝そうに詰め寄ってきた。

「あのさあ、赤坂」
「……何?」
「じろじろ見るなよ、気持ち悪い」

 突然のことで驚いた。僕は美術の課題に集中していただけなのに、こんな言われようはあんまりだ。
 けれど冷静さを欠いたら負けだと思った。秋山さんに逆らうべきじゃない。

「……気分を害したならごめん。でも、美術課題だから仕方ない。他意はないよ」
「だとしても、あんたの視線キモいんだよね。なんかこう、ねっとりしてるっていうかさ」
「そう言われても、」
「ていうかこんなの適当に描けば。アンタに描かれるの、嫌なんだけど」
「わかった、もう下書き終わったし、色つけは適当にやるよ」

 こっちだって、見たくて見ているわけじゃない。自意識過剰だろ。ふざけんな。
 けれどそんな気持ちを吐露するのは得策じゃない。秋山さんはこのクラスの絶対君主だ。
 下書きの時点で確かに秋山さんのことを凝視していたかもしれない。絵を描くことはどちらかというと得意分野なので、後先考えず没頭してしまっていた。

 この先はもう色を付けるだけだ。秋山さんの実物を目で追わなくても大体の色合いは想像で描ける。
 焦げ茶の髪に紺色のセーラー服。肌色はひとよりも幾分か白い。頬は少し赤らんでいて、唇は……どんな色だっただろう。
 想像の中で描いていく秋山さんと、夕方の美術室で見る秋山さんは色が変わって見えるはずだ。何故か好奇心のような、或いは悪戯な気持ちが高ぶる。今朝、牛乳を飲まなかったせいかもしれない。ずっと調子が悪くていらいらしている。この気持ちの落とし所がわからない。

 僕はわざとじっとりと彼女を見つめた。昼過ぎの光があたる彼女の髪や頬を一概に“茶色”や“赤色”で表現したくない。
 栗のようにこっくりとした深い茶色に、光が当たる部分はひどく(つや)やかで(なま)めかしい。肌はほんのりピンクがかっていて、乳白色よりももっとぬるりとした質感を放っている。セーラー服の紺色は想像よりもずっと鮮やかで───

「だからさ、きもいって言ってんじゃん」

 ばしゃ、と。
 一瞬なにが起きたのかわからなかった。途中まで色を重ねていた僕のキャンバスに、秋山さんがひどく鮮やかな赤色をぶちまけた音だった。

「何度も言わせんなよ、あんたのその目、気持ち悪いんだって」

 気持ち悪い。
 さっきも言われた言葉が急に熱を帯びて降ってくる。
 確かに今回は、秋山さんが言うように、じっとりと彼女を見ていたかもしれない。当てつけのように。
 けれど決して、(よこしま)な視線ではない。
 ただ、そんなことが他人に図れるはずもない。
 はっと気を戻すと、クラスメイトたちが一斉に僕を見つめていた。その冷めた視線に思わず息をのむ。
 秋山さんはこのクラスの絶対君主だ。
 赤く染まったキャンバスから、自身が描いた秋山さんの視線が僕をひどく鋭く射抜いているようで思わずこぶしを握る。

『午後の美術の授業は気をつけてください。隣の席の秋山さんとは、ペアにならない方がいいかもしれません。若しくは、彼女の絵の具とは距離をとって下さい。物理的に、若しくは精神的に、彼女はきみを傷つけるかもしれない』

 ほらね、だから言ったじゃないですか、と。羽川がどこかで笑った気がした。