ふとこんな話を思い出した。
王子に恋をした人魚姫のお話。
暁色に染まった海の中で、儚くもあぶくとなって散っていったことを。
いつかの記憶で、僕はその話を読んだことがあった。
けれど、真っ直ぐな恋情を抱き続けていた人魚姫の最後をどう思ったのか、その記憶はもうすっかり体から抜け落ちている。
どこか淡くて脆い光を纏うそのあぶくは綺麗だった。
そんなような気がする。


「うん、だいぶ良くなったね」
「あ、よかった、です」
「もうすぐ退院できるかもね」

顔馴染みの看護師さんが僕を見て、小さく頷く。珍しく笑みを浮かべる看護師さんに、僕の顔にも笑顔が浮かんだのは言うまでもない。
昔から体が弱かった僕。
人生の大半を病院で過ごしてきた。
肺に目一杯吸い込んだ空気は、病院の澱んだものだったし、目に焼き付いているのは天井のドッド柄だけ。
昔から心臓が弱かった僕は、そうすることが当然かのように育ってきた。
運動場を駆け回る子供達を見ると今でも、心臓をギュッと潰されているような感覚が襲う。
普通の子供時代や、少年時代。そんな溢れるキラキラ輝いた思い出は、僕には存在しない。
春の淡い彩りだって、夏の青い空だって、秋の寂しげな空気だって、冬の銀世界だって。
僕は病室の窓に切り取られたガラス越しで感じていたのだから。
普通の人生を歩めることを願って、屋上から飛び降りようか、なんて考えがよぎることも幾万とあった。
それでも、僕は生きてきた。
それはきっと、(うみ)がいたから。

暁良(あきら)くん、どうして鬼ごっこ一緒にやらないの?」

その一言で、僕と海は出会った。
たしか、夏休みが目前だった日のことだったと思う。
ピンク色のリボンがついた麦わら帽子を靡かせていたのを、今でも思い出す。
海は、まるで本物の海のように青くて、透き通った瞳をした女の子だった。
病気のせいで大好きな海に行く事ができなかった僕は、ただその瞳に吸い込まれるように見つめていたと思う。
ゆらゆらと僅かに揺れる瞳の中に僕がいることが不思議で仕方がなかった。
まるで海の中にいるみたいで。

「えーっと……」

当時は小学生低学年であっただろうか。
病院通いが続いていて、小学校に友達なんて一人もいなかった僕は、休み時間に一人でいることが日常となっていた。
そんな時だったのだ、海が話しかけてきたのは。
もちろん返答に詰まる。
大人を笑顔にする仕草や言葉だけを覚えていた僕は、どう接すれば良いか分からなかった。それでも海はぐいぐい距離を縮めてくる。
腕につけた心拍計が鳴り響いてしまうんじゃないかってくらい、顔に熱が集まったのを覚えている。

「みんな鬼ごっこしてるよ? 楽しいよ?」

ほら、と指を指す先は、光の溜まり場である運動場。
僕には眩しくて目を逸らしてしまった。
だって僕はその光の溜まり場に行くことはできない。ましてや走るなんて、一番に禁止されていることだから。
僕が許されているのはその光の影で、大人しく座っていること。

「ごめん、僕、走っちゃダメなんだ」
「……そう、なの?」
「うん」

その一言を呟くだけで、どれだけの勇気を必要としただろう。
元から避けられているのに、せっかく誘ってくれたことにも頷けない。きっとこの子も、僕の前からいなくなるのだろう。そして僕はまた、指を咥えるのだろう、と。
子供ながらにそう思ってしまった。
けれど、いつまで経っても海は僕の視界に入り込んだまま。

「じゃあ、海とお話しない? 実は海も、走るの苦手なの。いっつも一番最初に捕まるから、鬼ごっこってつまんなくて」

そう満面の笑みを浮かべて、僕の隣に腰掛ける。
狭い朝礼台がより狭くなって、隣に僅かな温もりを感じた。

「え、でも……僕は大丈夫だよ。それに、鬼ごっこは楽しいって」

そんな扱いを受けたことがなかった。
いつも隣にいるのは背が高くて、僕の姿を映してはくれない瞳の持ち主ばっかりで。だからその状況にただ驚いていた。

「あ……。でも海は暁良くんと話したいの!」

どこか気まずそうな表情をしたあと、それを全て拭うようにきっぱりと言い張る。
自分と話したい。
その言葉にどこか体がむず痒くなった。

「それに、人魚姫は鬼ごっこなんて出来ないし。おしゃべりが大好きだから」
「人魚姫?」
「そう! 海は人魚姫が大好きなんだっ! 海も人魚姫になりたくて。それに人魚姫は、王子様を一途に想っていて優しい人だし、綺麗なの」

頬を紅潮させながら、うっとりと、とろけるように手を握り合わせる。
……そうだ。
思い出した。
そして海は話してくれたんだ。
海が憧れている人魚姫という物語を。
一途に王子に恋情を抱き続けて、最後はあぶくとなって散っていく話を。
そうして初めて知った世界はただ新鮮で、僕は額に流れる汗を拭いながら時間も忘れるくらいに聞き入っていた。
僕が座っていた朝礼台は、光の満ちない影だったはず。
けれと海が隣に来てからは、僕にも光が注ぐようになった。
まともに相槌すら打てない僕に怒ることも責めることもせず、ただその広い世界を教えてくれた。

その次の日も、夏休みだって。
僕の隣は海の温もりで満ちるようになった。
鮮明で透き通っていて、柔らかく弧を描く、その瞳に僕は日々吸い込まれていった。
ただ病室の白く無機質な色しか知らなかった僕の世界。
そんな僕の世界に、海は色を与えてくれた。そして瞬く間に僕の世界は鮮やかに染まるようになった。
そんな海を見るたびに心臓が騒ぐようになるのは必然なことで。
当たり前のように、僕は海が好きになっていた。
恋に落ちた、というよりかは、引き寄せられたように離れなくなった、というのが正しいのかもしれない。
いつの間にか、僕の描く未来には必ず海が入り込んできて。

「また明日ね、暁良」

別れを告げる言葉が惜しくなって。
小学校を卒業しても、中学校に入学しても、高校に入学しても。
どんなに環境が変わったって、世界の色が濁ったって、それだけは変わることがなかった。
だから僕は、今日まで生きている。
太陽が沈むたび、病院に足を運ぶ回数が増えても、海がいる。その事実だけで生きてこれた。
そうして幼馴染となった僕たちは、あの日から毎日のように一緒にいた。

「あたしは暁良と一緒に、ぜったい海に行くんだから!」

その言葉をお守りにして。
その約束のために、寒い夜を超えて。
珍しく学校に行けば、先生の計らいによって海と隣の席だったし、お弁当だって共に食べていた。
変な噂が出回るくらいには、僕たちは仲が良かったと思う。
そしていつか隣にいる理由が約束なんてものじゃなくなれば良いな、と朧げに思っている。結ばれるのが必然である、そんな恋愛小説のようにいつの日か。

今日も僕は、真っ白なシーツの上にいた。

「海、遅いな」

ポツリと呟いたその声は、病院の喧騒に溶けていって。夏の日なのに、どこか寒くて虚しい空気が流れる。
一昨日まではお喋りなおじいさんが同室だったから、こうやって孤独を感じるのは久しぶりだけど。
今は虚空となってしまった隣のベッドに視線を送る。
あのおじいさんはもう、儚く散っていってしまった。
僕の恋路は全て筒抜けで、何を隠そうにも詮索してきたおじいさんは、医師からも看護師からも、もちろんお孫さんたちから慕われていた。
もうすぐ散ってしまう人だとは思えないくらいに、朗らかな声で笑って、時に面倒くさくて。
そんな存在感を放っていた人でも、最後は小さなあぶくとなって消えていってしまった。
案外寂しいものらしい。
僕はまた窓の外に目をやる。
窓に反射して浮かび上がる僕の表情は、何かに怯えているように色味を失っていた。
これじゃあ、海が心配するよな。
そう思って、僕は頬の肉を持ち上げてみる。それでもやはり変わらない。
今までどうにか取り繕ってきたけれど、日を追うごとにその正体は暴かれつつある。
なかなか退院できない日々。
呆気なく散ってしまう人。
その番が自分に近づいているような気がしてならないのだ。

「──ああ、もう」

首を振る。
違う、そうじゃない。
海と約束したじゃないか。
海と一緒に海へ行って、普通のことをして。そして夕暮れ時になったら、この気持ちを伝えるって。
僕にはまだこの世界に存在しないと行けない理由がある。
それまでは大丈夫。
無理矢理自分を押さえ込んで、僕は棚の上に山積みにされていた本を一冊手に取った。これらは海からオススメされた小説たちだ。
現代ドラマやヒューマンドラマが好きな海からオススメされる小説は、どれも自分の世界を広げてくれた。
新しい色を与えてくれた。
そしてその感想を語り合うのが、ささやかな楽しみとなっていた。
けれど最近は恋愛小説を持ってくることが多い。その度に自分の気持ちを見透かされているようでドキッと高鳴るのはここだけの話。

「海、遅いな。何かあった……のか?」
「呼んだ?」
「──うわっ!」

窓から見える空がオレンジ色に色づき始めてきたとき。
不意に視界の片隅に、悪戯に微笑む海が入り込んできた。
ピピッピピッ
僕の左手から、一定のリズムで電子音が発せられる。

「待って、ごめん! 驚かすつもりじゃなかったの!」
「ははっ、いいよ。少し驚いただけだから」
「で、でも!」

朗らかだった笑顔が、みるみる失せていく。
この電子音は、僕の脈を計るためのものだ。心臓の動きが正常に働いているかを確認して、正常でなければ音で知らせてくれる便利もの。
申し訳なさそうに八の字に歪んだ眉が、可愛らしくて僕は海に微笑んだ。
そっと心拍計を抑える。
この時だけは、海が突然来てくれて良かったなと思った。
だって、この心臓の高鳴りは、驚いたせいじゃない。持病のせいでもない。
今も鳴り止まない。
ただそうやって小さな笑窪を浮かばせながら、嬉しそうに弾む海を見たからだ。この心拍計は、時にタチが悪い。
けれど、そんなことも全て海に筒抜けだったら良いな、と僅かな期待を抱いていたりもする。

「あ、これ、読んでくれたの?」

海が病室に来ると、僕を纏っていた空気は一変する。
真っ白で無機質で、音なんて一つも存在しなかった世界に、色が、音が、光が満ちていく。
その瞬間が好きだ。
生きていて良かった、そう思えるから。
真っ直ぐに僕を見つめる瞳は、やっぱりあの頃と変わっていない。ゆらゆらと僅かに揺れて、繊細で、透き通っていて。
この瞬間だけは、僕だけがその瞳に写っている。それが嬉しくて仕方がない。

「いいや。今から読もうと思っていたところ」
「ええ! 残念。語りたかったのに。でも、絶対読んでね? それ本当に面白いからオススメなの」

そう言う割には、海はその小説を僕から手繰り寄せて、パラパラとページを捲り出す。
目を通してすらいないのに、クライマックスだろうというページまで開き始めて、語り始める。
その柔らかな瞳が文字をなぞり、形の良い唇から言葉が紡がれる。

「やめろよ。まだ読んでないんだって」
「ネタバレだった?」
「かなりな」
「──あは」

わざとらしく頭に手を置いて、とぼける仕草をする。
その仕草に、僕が指摘を入れる。
いつも通りの僕らが形成されてゆく。

「それにしても、今日は遅かったな」

コホン、とひとつ咳払いをして、僕は海に問いかけた。
いつもなら昼過ぎに、たくさんのお菓子を持って病室にやってくるのに。けれどもう時刻は夕暮れ時。
窓の外には青とオレンジが混ざり合った、空が浮かんでいた。
それに、今日の海はより一層、輝いて見える。
下ろしていることが多いその長い髪は、綺麗に編み込まれていて、夏によく映える白いワンピースを纏っている。
それに、頬はピンク色に染まっていて、心なしか唇がぷっくりしていた。
ただただ可愛いその姿は、まるであの時に読んだ人魚姫のようだ。
だらりと垂れている指先が僅かに痺れて、心臓に負荷をかける。
ドクドク、と心音が速くなる。
僕はゆっくりと視線を外して、窓の外に目をやった。
そのまま見つめ続けていたら間違いなく、電子音が響いてしまう。
隠すのは、大変だ。抑えていても、溢れ出そうとする音は止められない。
まだ、この気持ちは悟られたくない。

「──ちょっと出掛けてたの、今日。ごめんね」
「いいや。何かあったのかと思っただけ」
「今度はちゃんと、昼過ぎにくるね」

けれど、僕は、その一瞬の空気の揺らぎを感じてしまった。
どこか恥ずかしそうに頬を掻きながら、拳をギュッと握る海。まるで砂浜のようにきめ細かく白い肌が、ピンク色に染まったような気がした。
心臓が、ドクンと波打つ。
まさか、という悪い妄想が、世界に黒いインクを足していく。
唇が僅かに震えた。

「遊びに行ったの?」
「う、うん」

あんなに光を目一杯溜めて、口を開いて笑う海なのに。そう答える海は、視線を泳がせて、少しはにかんでいる。

「友達? と?」
「それ、聞いちゃう?」

その海の顔を見た途端、世界の時計が止まってしまえばいいのに、と思ってしまった。
どんな気持ちも言葉も、顔に現れる海。
その顔には──。

「実は、あたし、彼氏できたんだ」
「!」

……ああ、何も聞かなければ良かった。
目の前にいたのは、僕の知らない海だった。
透き通るその瞳は大きく揺らいで、窓の外の美しい夕焼けを映して。
僕はそんな海を知らない。
世界から色が、音が、光が消えていく。
オレンジ色の光に染められていたカーテンの色が、灰色に移り変わってしまうようだった。

「ほら、水泳部の先輩がすごいって話してたじゃん? ずっと憧れーって感じだったんだけどね。その先輩と、その、付き合えることになって。今日も先輩と出かけてたの」

頬を紅潮させながら語る海。

「そ、う」

そのたった二文字を吐き出すだけで、喉の奥が焼け付くように熱くなった。心臓が殴られたように痛む。
どこか夢の中でふわふわと浮いているような浮遊感が僕を襲った。

「暁良にはちゃんと紹介したかったんだけど……。暁良のこと、大事だからさ。あ、今紹介してもいい? 先輩、ここまで送ってくれたんだ」

きっと今の僕には絶望の、黒い空気が纏っているだろう。
海から放たれる大事だという言葉が、こんなにも鋭い刃で覆われているなんて思いもしなかった。
心臓に深く突き刺して、動きを止めるかのように。
あぶくのように、底へ沈んでいく。

「──うん」

海の笑顔が痛い。
そうやって笑う声が、涙を誘う。
けれど海はそんな僕に気づくこともなく、病室の扉に先輩、と語りかけた。

「センパーイっ。紹介したいから入ってきてくださいー!」

甘い声。
ふわふわと泳ぐように発せられるその声は、僕の時とまるで違っていた。
そして病室の扉がゆっくりと開かれる。
スローモーションのように、世界の動きが遅くなる。
見たくない。
海がその可愛らしい笑顔で語りかける姿なんて。僕以外の人と話す姿なんて。
それでも、怖いくらいに無機質な扉から視線を外すことなんてできなかった。

「……こんにちは……」
「先輩っ!」

そして現れたのは、僕とまるで正反対な男だった。
健康的な体つきに、顔色の良い笑顔。綺麗に整えられた髪の毛の先は、僅かに茶色に染まっている。けれどチャラい、という印象も抱かせない。
まるで人魚姫の隣にふさわしいような、男だった。
僕には無いものを、全て身に纏っていた。
海は椅子から立ち上がって、その男の隣に駆けていく。僅かに鼻をくすぐる淡い甘い匂いが、僕の黒い髪の毛を撫でていった。
温もりが、消える。
光が失せる。

「こちら、春野先輩です。本当にいい人だからさ、暁良にも紹介したかったんだ」
「こんにちは。暁良さん。海がいつもお世話になってます。海から色々聞いてたんで、会えて嬉しいっす」

紹介された春野、という男が僕に頭を下げる。
その頭を殴ってやりたくなった。
お世話になっている?
そんな言葉なんて聞きたくない。
この人を褒める言葉も、全部聞きたくない。大好きだった明るくて優しいその声で、そいつを褒めないでくれ。
俺とは正反対の、そいつを。
全部、全部、刺さるから。
けれど、僕はそんなことを言える度胸を持ち合わせていなかった。
この場から走り去りたいのに、足が棒になったように動かない。
あれから息を吸うのも儘ならなかった。
一体どんな表情を浮かべていたのかも、もう分からない。
ただ酸素の薄い水のなかで、溺れないように必死に水面に手を伸ばしていた。
そんなような気がする。

「じゃあ、暁良。また来るね」
「暁良さん、また」

二人分の声が降り注ぐ。
離れないように繋がれたその手を見ていられなくて、僕は視線を外した。
おもむろに口を開く。

「──海」
「ん? なあに?」

ゆっくりと海が振り返る。
ちょっと甘くふわふわとした声が、僕の鼓膜を撫でていく。
そんな柔らかい声も、大きく口を開けて笑うところも、僕を振り回すところも、自分勝手なところも、優しいところも、突飛なところも、全部好きだった。
でも、そうやって微笑んでいる海は、好きじゃない。
好きじゃ、ないから。
揺れる輪郭を必死に取り繕って、僕は小さく笑顔を浮かべた。

「おめでとう。幸せに」
「うん! ありがと、暁良! いつか暁良にも可愛い女の子紹介してあげるねっ」

いらない、その言葉は喉の奥にしまいこんで、僕はゆっくりと頷いた。

「じゃ!」
「うん」

そして二人は病室を去っていった。
だんだんと遠ざかってゆく足音と、笑い声。
本当の孤独が訪れる。
酸素の薄い空気だけが、僕を纏ってゆく。
窓の外はもうすっかり黒く染まっていて、目に痛い明るい光だけが病室に充満していた。

「──っ」

ああ、こんなはずじゃなかった。
血が滲むほど、下唇を噛む。
そうでもしないと、涙がシーツを濡らしてしまいそうだったから。
こんなにも惨めで、呆気なく終わるなんて、誰が想像できただろう。
いつか隣で寄り添う理由が変化して。
海も僕に好意を抱いてくれて。
病気が治った暁には、当たり前のように波の音を鼓膜に感じて、手を繋ぐんだと思っていた。
腕から聞こえる電子音を、海に揶揄われて。でも、幸せで。
そんな日々がいつか来るって信じていた。
何の確証もないくせに、そう思い込んでいた。
どうして気がつかなかったのだろう。
ポタッと、シーツに黒くシミを落としてゆく。
どうして今まで自分は、人魚姫が愛する王子だと勘違いしてしまったのだろう。僕は王子様なんかではなかった。
あぶくだった。
暁色の海の中に溶けていく、あぶくだったんだ。
この想いが届くこともなく、その温もりを奪い返すことも出来ず。
そして、海の中に溶けていくあぶく。
頭がガツンと殴られたように、世界の輪郭がぼやけていく。
まるで海の底に沈んでしまったかのように、音が聞こえなくなった。

一定のリズムを奏でて、満ち引きする波の音。
──失敗だったな。
失恋して海に来るなんて、あまりにも浅はかだったと自分を呪った。尻から伝ってくる冷気が纏わりついて、気持ちが悪い。
今頃、病院はいなくなった僕を探しているのだろうか。
けれど、そんなこと今はどうだっていい。
僕は目の前に広がる景色を見つめる。
ただ黒く闇の中で、きらめきを放つ満月。まるでその月に繋がる道のように、水面には光が伝っていた。
風が靡くとその光の筋はひらりと揺れる。
念願だった海は、それはそれは美しかった。
肺に吸い込んだ潮風は少しザラザラして、響く波の音は安らぎを与えてくれる。けれど、そんな光景が僕の涙を促進させていることは言うまでもなかった。

「……来るんじゃなかった」

満月を縁取っていた光が、歪んでいく。
何滴目か分からない涙がまた頬を伝った。
こんな日には、隣にあの温もりを求めてしまう。
けれど、その温もりはもう別の人のものだ。どんなに焦がれたって、僕の元にはやってこない。
海がいたから、僕は生きてこれたのに。
太陽のように明るい海がいたから、僕はこの世界で生きてゆくことを選んだんだ。
けれど、そんな海はもうどこにもいない。
僕はゆっくりと立ち上がる。水平線が、また僕から距離をとった。
僅かに痛む心臓を抑えながら、僕は防波堤の方に体を向ける。
こんなところにいたら、僕はそのまま海の中へ入ってしまいそうな気がした。命を差し出す理由が、失恋なのは嫌だ。
その一心で。
鉛のように重くなった体を引き摺る。
けれど、着いた先の防波堤で、僕は人魚姫を見た。
夏の海の中で。
水の流れに沿って、悠々自適に泳ぐ、人魚姫を。

「え、え?」

光の筋を辿るように水を掻いては、水面に浮かぶ。水の流れに沿って靡く黒い髪が、月光に照らされていた。
まるで、人魚姫だと思った。
けれど、この世界に人魚姫は存在しない。

「だ、大丈夫ですか!」

思い切り息を吸い込んだ反動で、心臓が僅かに揺れる。けれど、そうでもしないと僕の声は波の音にかき消されてしまう。
もう一度息を吸い込んで、僕はその人魚姫に問いかけた。

「あの! 大丈夫ですか!」

僕の声が、静かだった海辺に響き渡る。

「ぷはっ」

そんな僕の声に返答するかのように、人魚姫は水から顔を出した。
女の人だった。
長い髪を煩わしそうに掻き上げて、空を仰ぐ。水に濡れた髪の毛が艶かしく月光に照らされ、まるで人魚姫の鱗のようだ。

「──大丈夫ですか?」

もう一度だけ、呟いてみる。
するとその大きな双眸が、僕を視界に捉えた。

「わ、私? 私に言ったの?」

まさか普通に言葉が返ってくるなんて思わなくて、体が硬直した。心臓が跳ね上がり、腕から小さく電子音が響く。それを押さえ付けて、僕は大きく息を吸った。
大丈夫。
彼女は、人間だ。

「は、はい。あの、夜なのに、泳いでいるので……」

そう告げる唇が僅かに揺れる。けれど、そのまま彼女を放っておくことなんてできなかった。
夏と言っても、頬を掠める風は涼しい。水温だって、きっとそんなに高いわけではないだろう。
このまま放っておいて何かあれば、自分を疎んでしまうような気がしたから。
これ以上、この世界を黒く塗りつぶしたくない。

「あ、怖がらせちゃって、ごめんなさい。つい泳ぎたくなっちゃって」

彼女はぷかぷかと水面の漂いながら、小さく笑う。
月光に照らされたその柔らかい笑みが、僕の心臓をほぐしていく。自然と力が抜けていって、僕は防波堤の上にへたりと座り込んだ。

「こんな時間、にですか?」

僕が病院を出たのは、空からオレンジ色が抜けた時。夏だということも相まって、きっと七時過ぎくらいだろう。
だから今は、八時くらいだ。
そんな時間に、海を泳いでいるなんて普通じゃない。どんなに綺麗に軽やかに泳ぐ、人魚姫だったとしてもだ。

「うん。色々あって。だから泳ぎたくなっちゃった」

僅かに目を伏せて、また髪の毛をかきあげる。どこか色の抜けた、長い睫毛から滴る水滴が、涙に見えてしまう。
だからと言って、こんなところで泳ぐなんて。
彼女は、普通じゃない。
それなのに、僕は彼女を放っておくことができなかった。
彼女の頬に流れる透明な光が、僕の頬を走る乾いた跡と重なってしまう。

「……そうなんですね。でも危ないですよ」
「危なくないよ」

慣れているかのように、彼女はそう返答する。
ゆっくりと水を掻いて、彼女はまたぷかぷかと浮かびはじめる。
そう断言されては、僕は何も言葉を返せなかった。ただその近くで、同じく酸素の薄い空気を吸っては、吐いていく。
不思議だった。
あんなに締め付けられていた胸の痛みが、僅かに和らいだ気がするのだ。

「──君、そういえば坂口くんでしょ? 海ちゃんに振られたりでもした?」
「え?」

彼女の扱うチャプンという水の音と、波の音と、小さな呼吸音だけが満ちていた時。
彼女がふと思い出したように、口を開いた。
その言葉に、また心臓が縮まったように動きを止めた。
だって、その名前は僕の名前だった。それに海、という名前。一気に背筋に怖気が走った。

「あ、怖って思ってるんでしょ? バレバレ」

その小さな唇に手のひらを当てて、くすくすと彼女は笑う。全てを見透かされているような瞳から、視線を逸らせなかった。
けれどどんなに記憶を辿っても、彼女の顔は浮かんでこない。

「えっと──。どう、して」
「さあ、どうしてでしょう」

 彼女はそんな僕の反応を楽しむように悪戯に笑う。そしてしばらく経ったあと、水をチャプンと跳ねさせながら呟いた。

「私、同じクラスなんだよ? 三波(みなみ)。覚えていないなんて悲しいなあ。二年間も同じクラスなのに」

ああ、そういうことか。
僕は胸を撫で下ろした。
確かに、そういうことなら全てに辻褄が合う。
僕は、今じゃほとんど学校に行くことができていない。
小学校や、中学校の頃は、まだ病気の進行も遅く、通うことができていた。しかし高校生になってからは、門を潜る回数も減ってしまっていた。
席だけおいてあるような、言うならば幽霊生徒というのが正しい存在。
けれど、体調の良い時は、たまに顔を出している。クラスメイトにとっては、見ない顔が来ることは印象に残るだろう。

「そう、だったんですね。すみません、覚えていなくて」
「ううん。そりゃ覚えてないよ。私だったら、覚えようとしないもん」

柔らかく弧を描いて、クスクスと笑う彼女。
海とはまた違う、朗らかな笑顔だった。

「もう、そんな固くならないでよ。笑顔でいこうよ」

ゆらゆらと揺れる水を追いながら、不服そうに口を尖らせる。

「ほらっ」

そして次の瞬間。
パシャン、と、僕の肌にかかる冷たい水。突然の冷たさに驚いて、口を開けたその一瞬で、しょっぱい香りが広がっていく。
彼女が、僕に水をかけたらしい。

「え、ちょっと……」

海水が目に染みて、熱を帯びる。
けれどそんな僕を見て彼女は、またケラケラと笑う。

「あはっ! 大丈夫?」

そう顔を覗き込むくせに、また小さく水を掻いて、僕に浴びせる。
頬にかかる。
服に染み込んでゆく。
そしてその水は、頬に這う涙の跡を消してゆく。

「なんですか!」
「えへへ、気持ちいいでしょ」

僕がそう咎めても、彼女はただそう言って笑うだけ。
けれど、本当にどこか気持ちが良かった。
薄い服が体に張り付く気持ち悪さよりも、ただこの冷たさに、月光に照らされて光る水に、目を奪われてしまう。
そうやって、大きな声を出したからだろうか。少しだけ呼吸がしやすくなったような気がする。

その時、ふと、あの光景が蘇ってきた。
パシャパシャと音を立てる水面に、小さく泡が浮かんだからだろうか。そしてその泡の輪郭が僅かに光って、僕に降りかかってきたからだろうか。
あのワンシーンが脳裏に浮かぶ。
それはまた、あの人魚姫の物語だった。
暁色に染まった海の中で、儚くもあぶくとなって散っていた人魚姫の物語。

そうだ。
その話には続きがあった。
あぶくとなった人魚姫が、光を帯びた海の中に沈んでいくなか。そのあぶくはまるで引き寄せられたかのように動きを止めた。そしてそれは、月を求めるように浮かび上がっていく。
ああ、思い出した。
記憶が走馬灯のように流れ込んでくる。
人魚姫はあぶくとなって散っていったわけじゃない。風の精になったんだ。
春には、優しく大地を撫でて。
夏には、人々に安らぎを与えて。
秋には、落ちてゆく葉を美しく、舞わせて。
冬には、世界を輝かせて。
そんな、人々から愛される風の精に、人魚姫はなったのだ。
熱い血液が、身体中を駆けていく。
心臓がドクドクと高鳴っていくのがわかった。
ふと、彼女の顔を見る。
彼女は水を纏っていて、その水に月光が差し込んで、輝いていた。形の良い整った横顔の輪郭が、はっきりと映し出される。
釘付けになったように、視線を逸らせないでいた。
二人の間には、チャプンと跳ねる水の音と、一定のリズムと奏でる波の音。
そして、僕の左手から響くピピッという電子音だけが響いていた。