空を眺めることが嫌いだった。
「お父さんは空に行っちゃったんだよ。空の上からずっと海來を見ててくれてるよ」
幼い頃にそう母に言われてから、父を連れ去ってしまった空が嫌いだった。痛いほど澄み渡っている空を見ると怖くなった。まるで「こっちにおいで」って、空虚な口を開けて僕を待ち構えているみたいで。
流石に高校生にもなれば、空が父を呑み込んでしまった訳ではないことくらい解る。でも、空を見て綺麗だなんて思えたことはない。
思わなくていい、思えなくていい。
空の綺麗さなんてわからなくていい。
他にも綺麗なものなんて、きっと幾らでもあるのだから。
「ねぇコヅカ。私、空を飛びたい」
そんなことを突然言い出したのは、僕が高校で最初の2学期に入ったその日に転校してきた友人である。
「突然何を言い出すのさ、ナユキは」
名前を、名雪想空という。
夏休みに入ったばかりの頃に僕が住むマンションのひとつ下の階に越してきて、夏休みが終わるまでかなり頻繁に家に押しかけられ続けたから、いつの間にか仲良くなってしまった。
「なんかさ、自分じゃなくても、自分が目をかけた物とかが空飛べたら嬉しくない?」
生憎僕は空が好きではないし、第一そんなロマンチックなことを思う質ではない。
「じゃあ鳥を飼うことを勧めるよ。うちのマンションでも飼って良いことになってるし」
「鳥はなー、自分で飛べちゃうからなんか違う」
「えぇ、全部制御したがるなんて……独裁者予備軍がこんなところに」
「それとこれとは全くもって別物でしょう」
ナユキが少し剝れたように頬を膨らませた。
「じゃあ飛行機でも作ったら?」
本気で言ったわけではなかった。「無理じゃん」とか言って笑ってくれるのを期待した。
「うん」
「え?」
顔を上げると、ナユキは真っ直ぐ僕を見ていた。透き通った双眸の中に僕が映っている。
「コヅカも一緒に作ろうよ、紙飛行機」
ナユキがにっと笑った。
「………えぇ?」
夏の終わりの蒸した教室の中で、ツクツクボウシの鳴き声が遠くに聞こえた。
翌日の昼休み、僕は図書室にいた。
目当ての棚から何冊か本を引き出して、カウンターに持って行く。お願いしますと言うと、司書の先生にクラスと名前を訊かれた。
「1年5組の狐塚です」
「はい、9月15日までです」
カラフルな表紙をお腹で隠すようにして、教室に戻る。高校の図書室に、折り紙に関する本があったこと自体が驚きだ。
おかえり遅かったね、なんて呑気に言うナユキに、人をナチュラルパシリにしておいてとぼやきながら、借りてきた本を机に置く。
「で?紙飛行機の作り方探して作ると?」
「うん、大筋はそうなんだけど、飛ばす練習するからいっぱい作るよ。コヅカも手伝って」
「…分かった」
「ねぇ、前から気になってたんだけどさ」
僕の声に、ナユキが顔を上げた。
「ナユキって、なんで僕のことコヅカって呼ぶの?本名はキツネヅカなんだけど」
「キツネヅカって長いじゃん」
「確かにね」と返すと、「それに、本当のことを言うと」とナユキの目が僅かに泳いだ。
「表札見てコヅカだと思って、その印象が尾を引きまくり……」
しょんぼりとするナユキに、「……マジかお前」と呆れて、思わず笑いが零れた。
「ちゃんとキツネヅカだって知ってはいるよ」
「良かったよ、最初に名乗ったのにも関わらずコヅカだと思われてたりしてなくて」
頬杖をついてそう言っていると、さっきの僕みたくナユキが音を立てて何かを机の上に置いた。苛々したわけじゃなくて、単純に片手で持つには分厚すぎたのだろう。「わわっ」なんて間の抜けた声を上げながら、散らばったそれを──散らばって初めて折り紙だと分かったが──拾い集めていく。
「随分たくさん持ってきてたんだね」
「練習には多い方がいいと思って」
絶対そんなにいらないよ、と言いたいのを堪えた僕の皮肉に気付かず、ナユキが笑った。
その日の放課後。
「できた」
本をぱらぱらと捲っていた僕が顔を上げると、ナユキの手に鮮やかな赤色の紙飛行機があった。ふわりとナユキの手を離れたそれは、へにゃへにゃと頼りなさげに落ちていく。
「飛ばないね。風がないからかな?」
「屋上出てみる?」
「入っちゃダメじゃなかった?」
首を傾げるナユキに、にっと笑って答える。
「バレなきゃ犯罪じゃない」
「うわ、犯罪者予備軍め」
そう言って笑ったナユキに「行かないの?」と意地悪く尋ねると、「行く」と顔を輝かせてナユキが答えた。規則は律儀に守る癖に、いざ破るとなるとワクワクするようだ。
「じゃあ待って、それ用の作る。コヅカは飛ばす時のコツ調べてよ」
了解、と返して本を斜め読みしてみたけど、それらしい記述はない。スマートフォンを取り出してインターネットに繋げると、《紙飛行機の飛ばし方》というページがあった。
「あ」
「どうしたの?」
「面白いよ、紙飛行機って風上に向かって投げるとよく飛ぶらしい。鳥と一緒だね」
「え、鳥って風に向かって飛ぶの?」
「空気に乗っかって浮かぶわけだから」
「なるほど、よく知ってるねコヅカ」
「両翼の後ろを1ミリか2ミリぐらい反らせると宙返りするらしいけど。やってみる?」
「ううん、遠くまで飛ばしたいから良いや」
そう、と言って僕も折り紙の山に手を伸ばす。ナユキは準備が良くて、正方形の折り紙と長方形の折り紙が並んでいた。ここまで種類があると、折り紙屋さんが開けそうな気さえしてくる。
僕は本を眺めながらマイナーな長方形の白い折り紙を手に取ったから、ナユキが折り紙の山を持ってきたことに皮肉を言ったことを少し後悔した。
半分に折り筋をつけて、片側の角をそこに合わせて三角に折る。折って出来た2つの三角を一緒に内側に折り込んで、三角形の底角を中心に向かって折る。飛び出た小さな三角を折ってから、線対称になるように谷折り。
出来上がった紙飛行機は、普段あまり見ない形で新鮮に思った。
「なにそれコヅカ、変なカタチ」
「揚力のバランスが良いらしいよ」
「へぇ。それ飛ばす?じゃ、行こっか」
「そうだね」と答えて立ち上がり、2人で並んで廊下に出て、階段を登る。
5階に上がると、部活動で廊下をランニングをしていたクラスメイトと鉢合わせた。
「あれ、海來くんと想空ちゃんじゃん。2人揃ってどこ行くの?」
5階には他所の教室と楽器庫しかない。彼女が疑問に思うのも当然だろう。
「…指定校推薦の資料を見に行こうと思って。ほら、出たばっかりでしょ?」
ナユキがさらりと嘘をついた。なるほど、3年生の教室はこの先だ。誤魔化すのが上手い、なんて言ったらナユキは怒りそうだけど、流石の機転である。偉すぎる、なんて言いながら、クラスメイトは去っていった。実際は偉いどころか、これから校則違反しようとしているところだけど。
「よし、行こっかコヅカ」
「よしって。でも助かったよ、ありがとう」
息を弾ませながら人気のない階段を登って、埃を被ったドアノブを回した。ガチャリと音がして、視界一面が青く染まる。
「……鍵かかってないんだ」
「うん、前に迷い込んだ時も開いてたから今日も入れるかなって」
「なるほどね。うわぁ、空綺麗」
「……うん」
「コヅカ、あんまり空見るの好きじゃない?」
「……なんか、空っぽすぎて怖くない?」
何それ意味わかんない、と突っぱねられることが多かったから、少し恐る恐るといった調子で訊いてしまった。
「確かに。でもさ、空っぽだからどこにだって行けそうだよ。虹に追いつけたりするかも」
にっと笑ってナユキが言う。はは、と僕の口から笑い声が零れた。
「確かに」
「でしょ。さぁ、どこまで行けるかな」
ナユキが真っ白な紙飛行機を掲げた。僕も彼女を真似て、真っ白な紙飛行機を掲げる。
空を見上げる僕らの声が揃った。
「「せーの」」
ふわりと紙飛行機が僕らの手を離れて舞い上がった。
風に乗って、すいすい進んでいく。
2機の飛行機が、青空をそこだけ白く切り取る。僕の目が吸い寄せられるようにそれを追いかける。
あぁ本当に、どこまでも、そしていつまでも、飛んで行けそうだ。
「コヅカ、どうしたの?泣いてるの?」
ナユキの心配そうな声が聞こえて、初めて僕の頬に温かな雫が伝っている事に気付いた。
大丈夫?と此方に手を伸ばすナユキに、手を振って「大丈夫だよ」と答える。
目尻の雫を指で拭って、笑った。
「空が綺麗って言う人の気持ちがちょっとだけ分かった。それだけかな」
「そっか」とナユキが頷いて、嬉しそうに、安心したように、ふふっと笑った。
もう、僕らが飛ばした紙飛行機はどこにも見えない。
あの真っ白な紙飛行機が、空の中で真っ青に染まるのを、虹に追いついて七色に染まるのを、何だか見てみたくなった。
「お父さんは空に行っちゃったんだよ。空の上からずっと海來を見ててくれてるよ」
幼い頃にそう母に言われてから、父を連れ去ってしまった空が嫌いだった。痛いほど澄み渡っている空を見ると怖くなった。まるで「こっちにおいで」って、空虚な口を開けて僕を待ち構えているみたいで。
流石に高校生にもなれば、空が父を呑み込んでしまった訳ではないことくらい解る。でも、空を見て綺麗だなんて思えたことはない。
思わなくていい、思えなくていい。
空の綺麗さなんてわからなくていい。
他にも綺麗なものなんて、きっと幾らでもあるのだから。
「ねぇコヅカ。私、空を飛びたい」
そんなことを突然言い出したのは、僕が高校で最初の2学期に入ったその日に転校してきた友人である。
「突然何を言い出すのさ、ナユキは」
名前を、名雪想空という。
夏休みに入ったばかりの頃に僕が住むマンションのひとつ下の階に越してきて、夏休みが終わるまでかなり頻繁に家に押しかけられ続けたから、いつの間にか仲良くなってしまった。
「なんかさ、自分じゃなくても、自分が目をかけた物とかが空飛べたら嬉しくない?」
生憎僕は空が好きではないし、第一そんなロマンチックなことを思う質ではない。
「じゃあ鳥を飼うことを勧めるよ。うちのマンションでも飼って良いことになってるし」
「鳥はなー、自分で飛べちゃうからなんか違う」
「えぇ、全部制御したがるなんて……独裁者予備軍がこんなところに」
「それとこれとは全くもって別物でしょう」
ナユキが少し剝れたように頬を膨らませた。
「じゃあ飛行機でも作ったら?」
本気で言ったわけではなかった。「無理じゃん」とか言って笑ってくれるのを期待した。
「うん」
「え?」
顔を上げると、ナユキは真っ直ぐ僕を見ていた。透き通った双眸の中に僕が映っている。
「コヅカも一緒に作ろうよ、紙飛行機」
ナユキがにっと笑った。
「………えぇ?」
夏の終わりの蒸した教室の中で、ツクツクボウシの鳴き声が遠くに聞こえた。
翌日の昼休み、僕は図書室にいた。
目当ての棚から何冊か本を引き出して、カウンターに持って行く。お願いしますと言うと、司書の先生にクラスと名前を訊かれた。
「1年5組の狐塚です」
「はい、9月15日までです」
カラフルな表紙をお腹で隠すようにして、教室に戻る。高校の図書室に、折り紙に関する本があったこと自体が驚きだ。
おかえり遅かったね、なんて呑気に言うナユキに、人をナチュラルパシリにしておいてとぼやきながら、借りてきた本を机に置く。
「で?紙飛行機の作り方探して作ると?」
「うん、大筋はそうなんだけど、飛ばす練習するからいっぱい作るよ。コヅカも手伝って」
「…分かった」
「ねぇ、前から気になってたんだけどさ」
僕の声に、ナユキが顔を上げた。
「ナユキって、なんで僕のことコヅカって呼ぶの?本名はキツネヅカなんだけど」
「キツネヅカって長いじゃん」
「確かにね」と返すと、「それに、本当のことを言うと」とナユキの目が僅かに泳いだ。
「表札見てコヅカだと思って、その印象が尾を引きまくり……」
しょんぼりとするナユキに、「……マジかお前」と呆れて、思わず笑いが零れた。
「ちゃんとキツネヅカだって知ってはいるよ」
「良かったよ、最初に名乗ったのにも関わらずコヅカだと思われてたりしてなくて」
頬杖をついてそう言っていると、さっきの僕みたくナユキが音を立てて何かを机の上に置いた。苛々したわけじゃなくて、単純に片手で持つには分厚すぎたのだろう。「わわっ」なんて間の抜けた声を上げながら、散らばったそれを──散らばって初めて折り紙だと分かったが──拾い集めていく。
「随分たくさん持ってきてたんだね」
「練習には多い方がいいと思って」
絶対そんなにいらないよ、と言いたいのを堪えた僕の皮肉に気付かず、ナユキが笑った。
その日の放課後。
「できた」
本をぱらぱらと捲っていた僕が顔を上げると、ナユキの手に鮮やかな赤色の紙飛行機があった。ふわりとナユキの手を離れたそれは、へにゃへにゃと頼りなさげに落ちていく。
「飛ばないね。風がないからかな?」
「屋上出てみる?」
「入っちゃダメじゃなかった?」
首を傾げるナユキに、にっと笑って答える。
「バレなきゃ犯罪じゃない」
「うわ、犯罪者予備軍め」
そう言って笑ったナユキに「行かないの?」と意地悪く尋ねると、「行く」と顔を輝かせてナユキが答えた。規則は律儀に守る癖に、いざ破るとなるとワクワクするようだ。
「じゃあ待って、それ用の作る。コヅカは飛ばす時のコツ調べてよ」
了解、と返して本を斜め読みしてみたけど、それらしい記述はない。スマートフォンを取り出してインターネットに繋げると、《紙飛行機の飛ばし方》というページがあった。
「あ」
「どうしたの?」
「面白いよ、紙飛行機って風上に向かって投げるとよく飛ぶらしい。鳥と一緒だね」
「え、鳥って風に向かって飛ぶの?」
「空気に乗っかって浮かぶわけだから」
「なるほど、よく知ってるねコヅカ」
「両翼の後ろを1ミリか2ミリぐらい反らせると宙返りするらしいけど。やってみる?」
「ううん、遠くまで飛ばしたいから良いや」
そう、と言って僕も折り紙の山に手を伸ばす。ナユキは準備が良くて、正方形の折り紙と長方形の折り紙が並んでいた。ここまで種類があると、折り紙屋さんが開けそうな気さえしてくる。
僕は本を眺めながらマイナーな長方形の白い折り紙を手に取ったから、ナユキが折り紙の山を持ってきたことに皮肉を言ったことを少し後悔した。
半分に折り筋をつけて、片側の角をそこに合わせて三角に折る。折って出来た2つの三角を一緒に内側に折り込んで、三角形の底角を中心に向かって折る。飛び出た小さな三角を折ってから、線対称になるように谷折り。
出来上がった紙飛行機は、普段あまり見ない形で新鮮に思った。
「なにそれコヅカ、変なカタチ」
「揚力のバランスが良いらしいよ」
「へぇ。それ飛ばす?じゃ、行こっか」
「そうだね」と答えて立ち上がり、2人で並んで廊下に出て、階段を登る。
5階に上がると、部活動で廊下をランニングをしていたクラスメイトと鉢合わせた。
「あれ、海來くんと想空ちゃんじゃん。2人揃ってどこ行くの?」
5階には他所の教室と楽器庫しかない。彼女が疑問に思うのも当然だろう。
「…指定校推薦の資料を見に行こうと思って。ほら、出たばっかりでしょ?」
ナユキがさらりと嘘をついた。なるほど、3年生の教室はこの先だ。誤魔化すのが上手い、なんて言ったらナユキは怒りそうだけど、流石の機転である。偉すぎる、なんて言いながら、クラスメイトは去っていった。実際は偉いどころか、これから校則違反しようとしているところだけど。
「よし、行こっかコヅカ」
「よしって。でも助かったよ、ありがとう」
息を弾ませながら人気のない階段を登って、埃を被ったドアノブを回した。ガチャリと音がして、視界一面が青く染まる。
「……鍵かかってないんだ」
「うん、前に迷い込んだ時も開いてたから今日も入れるかなって」
「なるほどね。うわぁ、空綺麗」
「……うん」
「コヅカ、あんまり空見るの好きじゃない?」
「……なんか、空っぽすぎて怖くない?」
何それ意味わかんない、と突っぱねられることが多かったから、少し恐る恐るといった調子で訊いてしまった。
「確かに。でもさ、空っぽだからどこにだって行けそうだよ。虹に追いつけたりするかも」
にっと笑ってナユキが言う。はは、と僕の口から笑い声が零れた。
「確かに」
「でしょ。さぁ、どこまで行けるかな」
ナユキが真っ白な紙飛行機を掲げた。僕も彼女を真似て、真っ白な紙飛行機を掲げる。
空を見上げる僕らの声が揃った。
「「せーの」」
ふわりと紙飛行機が僕らの手を離れて舞い上がった。
風に乗って、すいすい進んでいく。
2機の飛行機が、青空をそこだけ白く切り取る。僕の目が吸い寄せられるようにそれを追いかける。
あぁ本当に、どこまでも、そしていつまでも、飛んで行けそうだ。
「コヅカ、どうしたの?泣いてるの?」
ナユキの心配そうな声が聞こえて、初めて僕の頬に温かな雫が伝っている事に気付いた。
大丈夫?と此方に手を伸ばすナユキに、手を振って「大丈夫だよ」と答える。
目尻の雫を指で拭って、笑った。
「空が綺麗って言う人の気持ちがちょっとだけ分かった。それだけかな」
「そっか」とナユキが頷いて、嬉しそうに、安心したように、ふふっと笑った。
もう、僕らが飛ばした紙飛行機はどこにも見えない。
あの真っ白な紙飛行機が、空の中で真っ青に染まるのを、虹に追いついて七色に染まるのを、何だか見てみたくなった。



