その男と出会ったのは、秋の夜長のことだった。日々が徐々に冷えていく中、街灯に照らされたカフェの窓際席で、私は手帳に何かを書き込んでいた。小説の断片であるのか、それとも単なる落書きであるのか、自分でも定かではない。


「失礼、君は小説家さんだろう?」


 カフェの窓際に座る私に声をかけてきたのは、痩せぎすで長身の男だった。30代くらいの、草臥れたサラリーマンのような見目だった。彼の眼鏡の奥に光る瞳は、どこか異様に輝いている。その輝きには、いわく言い難い粘着質なものがあって、不快までとはいかずとも落ち着かない。

「いや、小説家というほど大それたものではありませんが……」


と答えながら、私は彼に椅子を勧めた。こうした見知らぬ者との対話が、新しい物語のきっかけになることもある。彼は薄い笑みを浮かべて座り、メニューに目を落とす。だが、その間も私に向けられる視線は消えない。


「普段はどんなのを書いているんだい?」

「私は、ミステリとホラーを少々……」

「いいねぇ。僕も好きなんだ。最近だと桐野蘭人の『秋の木』 あれはとても良かった」


 そこで私のペンネームを呼ばれて、驚く。それ程メジャーな作家でもない。出版するたびに細々とした反響はあるものの、いわゆる大衆向けの小説ではなく、むしろ読者を選ぶような内容ばかりだ。

 特に、彼が挙げた『秋の木』はその典型だった。物語は郊外の古びた廃屋を舞台に、一家が経験する惨劇を描いたものだが、その中身はお世辞にも万人受けするものではなかった。詳細に描かれる惨たらしい描写、容赦ないスプラッタ、そして登場人物たちの心理的追い詰められ方は、読者に息苦しささえ感じさせる。もっぱら奇特な読者にしか読まれていないと自覚していた。そんな自分の小説に、読者が好意的な感想を述べてくれて、幸せでない小説家がいるだろうか。


「えぇ、ありがとうございます。それは作家冥利に尽きますね」

「おや、もしや桐野先生本人かい? 嬉しいなあ、大ファンなんだ」


男が握手を求めてきたので、私は素直に応じた。


「光栄です。でも、そんなに大衆向けのものではありませんが……」

「いいや、僕には十分だ。君の文章は冷たい刃物のようで、読んでいると胸の内にじわじわと痛みが広がる。それが気に入ったんだ」


男はコーヒーを注文し、ストレートに本題を切り出してきた。


「実は、君に僕の話を書いてほしいんだよ。そう、僕自身の物語をね」


その言葉は意外だった。が、同時に何かぞくりとするものが胸の奥に走った。


「話といいますと?」


「僕の生き方、僕が観察してきた人々、そして君のような人間……そんなものをね」

彼は静かに語り始めた。




 彼の話は次第に明らかになっていった。彼が語るには、彼は「観察者」なのだという。人々の日常生活を、決して気づかれないように遠くから観察し、その些細な癖や秘密を収集するのだと。


「観察は面白いよ。人は皆、ありふれた平凡な日常の中で、自分だけの秘密を抱えている。それを覗き見るのが、僕の生き甲斐だ」

私が答えを探す間もなく、彼は続ける。


「たとえば、ほら。あの向かいのテラス席にいる二人。あの夫婦は、夫が密かに仕事を辞めていることを妻に隠している。妻はといえば、月に2度、別の男とホテルで会っている。どちらも平然としているが、実は薄氷の上を歩いているようなものだ」


そう言って彼は、楽しげにコーヒーを一口飲む。

 彼が指さした窓の外に、確かにカフェのテラス席で語らう夫婦の姿があった。私は目を凝らすが、彼らの外見からでは何一つそんな事実は窺えない。お互いに笑顔を見せながらカップを傾けている。その穏やかな光景が、彼の言葉によって薄暗いものに変わった気がした。


男はさらに口を開いた。


「さっきコーヒーを運んでくれたウェイターの彼、ほら、そこにいる彼だよ」


 彼の視線の先には、忙しなくテーブルを片付ける壮年の男性がいた。薄い髪を気にする様子もなく、エプロンのポケットからメモ帳を取り出しては、注文を取る姿がやけに手馴れて見えた。


「24年前、彼はちょっとばかしやらかしていてね。周囲の誘いを断り切れずに薬物に手を出してしまったんだ。もう今はやっていないし、バレることもなかったみたいだがね。彼の家にあるクローゼットの隅に、新聞紙で包まれた葉っぱがいまだ捨て切れず残っているのさ」


 その言葉を聞いた瞬間、冷や汗がじっとりと背中を伝った。どうしてそこまで詳細に知っているのか。いや、それ以上に気になったのは別の点だった。

 彼の話の中で、ウェイターが「24四年前」に薬物に手を出したというくだりだ。私は目の前の男の顔を見つめ直した。どう見ても30代半ば程度にしか見えない彼が、24年前の出来事をどうやって知ったというのだろう。彼がその頃に生きていたとしても、せいぜい幼い子どもだったはずだ。

「……24年前、ですか?」

私は思わず尋ねてしまった。男は薄く笑みを浮かべ、カップをテーブルに置いた。

「そうだよ。彼が薬に手を出したのはちょうどそれくらい前だ。驚いたかい?」


 驚きというよりも、言いようのない違和感が胸に広がった。彼の言葉が本当であるならば、この男は幼い頃からウェイターの人生を観察し続けてきたことになる。しかし、それが現実的に可能なのだろうか? それとも、彼の語る「観察」が単なる妄想ではなく、何かしらの超常的な真実である何よりの証拠なのだろうか? どちらにせよ、目の前の男は得体が知れず、気味が悪い。


彼の話は、まだ終わらなかった。

「あとはそうだなぁ……。あ、たった今、勘定をしているあの女。あれはついさっき、お手洗いへ行った際に、誰かの財布の忘れ物を発見した。そしてその中から札を何枚か抜き取り、それを今、素知らぬ顔をして出しているんだよ」

 視線を向けた先には、中年の女性が財布から現金を取り出し、レジで支払いを済ませている姿があった。私は記憶を辿る。彼女がテーブルを離れたのは10分ほど前のことで、本当に「ついさっき」のことだ。そして、私がこの男と話し始めたのは、それよりもさらに、少なくとも10分以上前。当然だが、彼は、私と話し始めてから一度もテーブルを離れていない。彼女がお手洗いで何をしていたのかを、彼が知る術はないはずなのだ。これもまた不可解で、彼の語る「観察」に対する疑念を増幅させた。



 まあ、男はそんな風に、人の秘密を暴くことに無上の快感を覚えると言った。私は不快感を抱きながらも、話を切ることができなかった。むしろ、その異様な熱意に引き込まれるように、彼の言葉を聞き続けた。


「人を観察するだけで満足なんですか?」

私の問いに、男は薄く笑った。

「観察だけでは飽き足らないよ。時には、少し手を加えることもある」


その言葉に、私の背筋が冷たくなる。彼は、観察対象の生活に「微小な改変」を加えるのだという。たとえば、書斎のペンの向きを変えたり、冷蔵庫の調味料の配置を少しずらしたり。方法に関しても、気味の悪いくらいペラペラと喋ってくれた。

「最初は誰も気づかない。けれど、小さな違和感が積み重なるうちに、彼らは不安定になる。生活の基盤が揺らぐ感覚に苛まれ、やがて自分自身を疑い始めるんだ」

「例えばさ、そうだな……」

彼は続けた。

「冷蔵庫の中身を少しだけ違う位置に入れてみたりするんだ。ほら、右のドアポケットにあるはずの調味料を、反対の扉側に移動するとするだろう? そうすると、最初のうちは気づかない。けれど、毎回毎回探すときに違和感を覚える。そうやって、だんだんと自分の空間が変わっていくのに気づかざるを得なくなるんだよ」


 私は彼の言葉を聞きながら、ぞっとした。彼の言葉が恐怖を伴うのは、その異常なほどの具体性にある。


 彼はその行為を「遊び」と称した。そして、それがどれほど残酷なものであるかを、意識的に無視しているように見えた。私は言葉を失いながらも、興味に突き動かされて問いを重ねる。彼の話は恐ろしくも魅力的だった。


「でも、そんなことをして何になるんです?」

「何もならない。ただ、面白いからやるだけさ。人間というものはね、ほんの少しのズレで崩壊していく生き物なんだよ」



 彼が語り終える頃には、店内の時計は午後十一時を指していた。周囲の客はすっかりいなくなり、静寂が店を包み込む。

「さて、これで話は終わりだ。どうだった?」



彼は満足げに微笑んでいる。


「興味深い話でした。それで、私にその話を小説にしてほしい、と?」

「そうだ。君なら、この話を上手に書けるだろう?」


彼は立ち上がり、シャツの襟を整える。だが、最後に振り返りこう言った。


「ああ、先生。そういえば昨日は、用紙にインク瓶を倒してしまって慌てていたねえ。確か、原稿用紙番号43番。『っぱなしだった缶を手に取り、口元へと運ぶ。期待していた冷たい刺激は失われ、すでにぬるくなった液体が舌の上を滑り落ちたが、その淡白な味が頭痛を和らげるどころか、かえってさらに憂鬱な気分を引き出すように感じられた。』……だったっけ?」


 その言葉を聞いた瞬間、血の気が引くような思いが襲ってきた。彼の言っていることが一言一句、まさにその通りだったからだ。確かに昨日、手元が狂いインク瓶を執筆原稿に倒してしまって大慌てだった。その日の執筆で、机と床に広がったインクの跡がいまだに記憶に新しい。ここまででも恐ろしいのに。更に、彼はインクを被った原稿の番号と、その書き出しまで当ててしまった。現在執筆中で、世に出ていない作品であるにも関わらずだ。

 彼はなぜそこまで詳細を知っているのだろうか? その事実に、恐怖がじわじわと迫ってくる。彼が本当に全てを「観察」しているのか? その疑問が、頭をぐるぐると回る。彼の視線、言葉、態度。何もかもが、私の中に入り込んでいるかのようだ。だが、どうして? どうやって? 私が執筆している時も、誰にも見られた覚えなどない。なのに、彼はそこにいて、すべてを見ていたのだ。そう理解せざるを得なかった。


「そうそう、言い忘れていたけど……私が最近観察していたのは、君なんだよ。君が机に向かい、何度もため息をついている様子。夜中にペンを持つ手が止まる瞬間。そんな君を見るのが実に楽しかった」


 私は声を失った。その言葉を信じたくないという思いが、胸の中でかすかに揺らぐ。だが、目の前の男の視線と、その声の調子には、冗談や作り話を言っているような雰囲気は微塵もない。むしろ、真剣であり、どこか不気味なくらいの確信を持っているのだ。

 彼は満足そうにして、机に金を置いて去っていった。その背中を呆然と見送った後、私は彼が座っていた椅子に、何か書かれた紙が置かれているのに気づいた。

── 『君の部屋にも、いくつか手を加えさせてもらったから。気づけたら、君の勝ちだ』

その瞬間、私は凍りついた。口から悲鳴が漏れそうになったが、声が出なかった。男が冗談を言っているのだと信じたかったが、冗談だと受け流す余裕はなかった。その紙片をくしゃくしゃに握りしめ、ただただ、自分の部屋へと急いで帰ることしかできなかった



 私は急いで家に帰り、部屋中を調べ回った。しかし、どこにも目立った異常は見当たらない。家具も調度品も、すべて元の位置にある。はずだ。だが、その「異常がない」という事実が、かえって私を不安にさせた。彼の言葉は嘘だったのか、それとも、気づかないだけで何かが確実に変わっているのか。



 数日後、夜中に目が覚めて書斎に向かうと、執筆机の上に、原稿用紙に走り書きされたメッセージが一枚、静かに置かれていた。紙を手に持つとインクが掠れた。そこには、こんな文字が記されていた。


── 『なんてね! 冗談だよ。なんてね。全部、冗談だよ。
         ps.そんなにくしゃくしゃにしちゃ、紙が可哀想だ』


 その瞬間、背後に微かな視線を感じた。気がした。振り返ることはできなかった。
それが男の観察の一環なのか、それとも単なる私の妄想だったのかは、未だに分からない。だが、それ以来、私は自分の生活が少しずつ狂っていく感覚から逃れられないでいる。

 私はもう、以前のように平穏でいられない。小さな違和感が、何もない日常を少しずつ侵食しているように思えてならない。たとえそれが偽物だろうが本物だろうが、私にとっては十分に恐ろしいものであるのだ。