暗くなった部屋と同化するように、俺はベッドに身体を沈ませて瞼を閉じて意識を黒に溶かしていく。まだ慣れない高校へ行って帰ってきて纏ってしまった疲れと心地よい毛布の暖かさによって、急速に向こう側へ連れられていって。

「……ん?」

 時間感覚や自己認識が薄れつつあったのだけど、ちょっとしたドアが静かに開く音がなぜだか恐ろしく鮮明に聞こえ、瞬時に意識が蘇り、全身を覆っていたぬくもりをめくって上体を起こした。

「……」

 廊下からの光が入ってきて来訪者はすぐにわかった。それは水色のふわふわなパジャマを着ている俺の妹だった。小学三年生となっているが、まだまだ兄に甘えてくれて、暇さえあれば構ってもらおうとしてきたり、寝れない時は布団に入り込んできたりとしてくる。そんな愛らしい妹なのだが、その右手には似つかわしくないものを手にしていた。

「お兄ちゃん、起きてたんだね」

 カッターナイフの刃を出しながら、変わらない声音とあどけない笑顔を見せてくる。そしてドアをゆっくり閉めて、彼女は長い髪を揺らして部屋に入ってきた。差し込む光がなくなり、再び夜闇に包まれる。まだ完全に目が暗がりに慣れておらず、枕元にあったスマホのブルーライトで妹を照らした。

「な、何か用か?」
「お兄ちゃんを殺そうと思って来たよ。さようなら」
「待て、妹よ。ここは一旦話でもしないか」
「ん。いいよ」

 意外にも快諾してくれて、彼女はベッドの側面にちょこんと座った。俺は突如として現れた死にあまり身体を動かせず、足を引っ込めて体育座りをする。

「その前にその物騒なものを仕舞ってくれないか」
「嫌だ」
「ですよね」

 素直な子だからワンチャン聞き入れてくれると期待したが当然の如く拒否された。

「そうしたらお兄ちゃんに殺されるもん」
「いや、俺は危害をつもりはない」
「ううん、絶対私を殺す。だからその前に殺しに来たんだから」

 とうてい現代日本の兄妹の会話と思えない、単語が飛び交っている。

「待ってくれ。何故俺が殺すことが確定しているんだ。襲われたら防衛はするが、命を奪う気はない。それに、襲われなければそもそもお前の命を脅かす事はないぞ」
「確定しているものは確定しているから。お兄ちゃんが私を殺すから、その前に殺すの」
「……どうして俺が殺すと?」

 ショックだ。俺は妹の甘えも我儘も全て受け入れてきて、こちらからも常に愛を言葉でも態度でも伝えてきたはずなのに。一体俺の何がそう思わせてしまったのだろう。

「夢を見たから。お兄ちゃんが私をカッターで刺してくる夢」
「え、それが理由?」
「うん」

 我が妹は真面目な表情で強く頷いた。彼女の瞳は一切の曇りがなく真っ直ぐ俺を見据えている。

「ゆ、夢にそんな全幅の信頼を置いているのか」
「私の夢はただの夢じゃないよ。だって私には予知能力があるから」
「嘘だろ……」
「本当だよ」

 信じたくない、もう小三の妹がこんな意味不明な事を言って行動をしているのが。頭が痛くなってくる。もしかして、俺が無知なだけで八歳の子はこういう思考になるのは普通の事なのだろうか。

「それにしょーこもあるの」
「ほう? それは?」
「元気に生きてる今の私」
「詳しく説明してくれ」

 妹はぴょんとベッドから立ち上がり、まるで先生を真似するような態度で説明をしてくれる。

「テレビとかネットとかでさ、事故とか事件とかいっぱいあるでしょ? そんな世界の中で私は何事もなく生きている。それって凄いことでどうしてだろうって考えていたの」
「うんうん」
「それでわかったの。実は私には予知能力があってそのおかげで無事でいられるんだって。そう思うと全部に説明がつくもん」
「うん……う?」

 おだやかに飛空していた論理が突如飛躍して雲行きが怪しくなる。彼女は世界の秘密を解き明かしたような自慢げな表情でいて。子供らしくていいのだが、状況が微笑ましさを蹴散らしている。

「そんな私が今日、お兄ちゃんに殺される夢を見た。つまり、これは予知夢ってことになる。だから、やられる前にやろうって思ったんだ」

 そう結論をづけて締めくくり、彼女は刃を出したり仕舞ったりしているカッターを恍惚そうに眺める。

「話はおしまい。そしてお兄ちゃんもおしまいだよ」
「ストップしてくれ。俺も言いたい事があるんだ」
「むーしょうがないなー」

 渋々といった感じだが待ってくれる。きっと日頃の行いが良かったからだろう、ナイスだ今までの俺。
 しかし、彼女の中では理屈があるというのが面倒だ。感情論や子供だましの言葉じゃ説得できない。かといって、無言のまま考え込むわけにもいかない。

「そ、そういえば、学校ではどうなんだ? いい子にしているのか?」
「うん。でも、最近先生に二回怒られたんだー。私は悪いことしていないのに」
「それは大変だったな。良ければ聞くぞ」

 上手いこと会話が繋がりそうだ。彼女も話したい事らしいし、この隙に思考をまとめておこなければ。

「あのね、道徳の授業があったの。そこでいじめられている人を見つけたらどうするか書かなきゃいけなくて。私のやり方を書いたらそれは駄目って言われたの」
「何て書いたんだ?」
「いじめてる子もいじめられてる子も全員正義の鉄槌でやっつけるって書いた」
「まじかよ」

 パワー系過ぎるだろ。しかも、被害者にまで鉄槌を食らわせているし。抗生物質かこいつは。

「もう一つは?」
「クラスの女の子が本当にいじめられてたから、その子もいじめっ子も傍観者もまとめて殴ったら怒られた」
「ガチかよ」
「だって、自分で言った事は実行しなきゃ駄目でしょ」

 ちゃんと行動に移している点は凄い誠実で良い。ただ、いじめを止めようとはしているものの手法が最悪すぎて手放しに褒められない。

「っていうか大丈夫なのか? 標的にされてたりとか」
「皆私を怖がってるからそんな事はないよ」
「じゃあ、その殴った子は? ちゃんと謝ったか?」
「うん。それに、いじめも無くなってその子にありがとうって言われたし友だちになった」

 めちゃくちゃハッピーエンドになってる。我が妹はマジで預言者なんじゃ。

「それは良かった」
「お兄ちゃんそろそろいいかな?」

 どうやら時間切れらしい。何度かびっくりして頭がバグりそうになったが、この状況を打開する説得の言葉の連なりはすでに完成した。

「まぁ待て妹よ。今から言う真実を聞き逃すと後悔する事になるぞ」
「しん……じつ?」

 予想通り食いついた。カッターを動かす手が止まり耳を傾け出す。

「ああ。実はな、お兄ちゃんも予知能力者なんだよ」
「……!」
「もちろん、お前がいつか予知能力を得るともわかっていたぞ」
「じゃ、じゃあ。しょーこはあるの? 無いと信じないよ」

 一瞬信じて羨望の眼差しを向けてくるも、はっとしてころっと疑いの視線にシフトしてきた。

「もちろんある。……それは元気に生きている今の俺そのものだ」
「っ!」
「お前と同じだ。危険に満ちた現代社会で、俺は事故も大きな怪我もなく平穏に過ごせている。それが証拠」

 そう、彼女が使った論理で証明すればより説得力を持って抵抗感なく伝える事ができる。

「それにな、お前が来た時に起きていたのもな、本当はお前が殺しに来るってわかっていたからなんだ」
「す、凄い! お兄ちゃんも予知能力あったんだね!」

 どうやら完全に信じ切ってくれたようだ。だが、俺の生命を延ばすにはここからが本番となる。

「それだけじゃない。俺はお前よりも長く生きている。その意味、賢い我が妹ならわかるよな?」
「私の予知よりも凄いってこと?」
「流石だな、正解。そして、そんな俺の予知によるとだな……俺がお前を殺すことはないって出たんだ。だから、安心して欲しい。そして、その危ないものをこっちに渡してくれ」
「はーい。お兄ちゃんが言うなら、どーぞ」

 刃を引っ込めてから手渡してくれる。瞬間、凍りついていた俺の身体は氷解し、素早く窓を開け、庭へと放り投げた。

「ふぅ……」

 すぐに窓を閉じてしっかりと鍵をかける。途端に安堵が心の奥底からこみ上げてきて一気に脱力した。

「さて、一件落着だ。もう遅いから寝な」
「……あのねお兄ちゃん。怖い夢見ちゃったから――」
「りょーかい。一緒に寝ますか」
「うん!」

 先に俺がベッドに横になり、その後に小さく温かな体がもぞもぞと入ってくる。目の前に可愛らしい顔があって、いつもなら癒やされるのだが、若干恐怖感情が浮かんできた。

「おやすみなさ―い」
「おやすみ」

 いつものように、眠りやすくなるよう背中を一定のリズムで軽くぽんぽんとしてあげる。すると徐々に穏やかな眠りに落ちていく。その姿を見ているのは普段なら大変微笑ましいのだが、今は危険な猛獣を無力化したい一心で余裕はあまりない。

「……すぅ……すぅ……すぅ」
「ようやく……か」

 十分も立たずに小さな寝息が聞こえてくる。安心しきった無防備な寝顔をしていて、完全に夢の中へと飛び立ったようだ。

「……」

 俺は仰向けになり一度身体をうんと伸ばしてから目を閉じる。そして大きく息を吸い込んで。

(危ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! マジで死にかけたんだけどぉぉぉぉぉ!)

 息を吐きながら心の中で叫んだ。声に出したい欲が溢れているが、何とか抑える。

(やば過ぎだろこいつ! マジでどんな教育されたらこんな思考回路になるんだよ! 親の顔を見てみたいわ! いや毎日見てるわ!)

 もう明日から妹を妹として見れないかもしれない。これで反抗期とかになったら、本当に命を奪われる恐れが出てくる。あれだけ恐れていた嫌われる事の方がだいぶマシに感じてきて、インフレが凄まじい。

(っていうか、道徳の授業の件とかいじめの件とか二重の意味で信じられないんだけど! 全然知らなかったし、親はどうして言ってくれないんだよ! 今日の件も合わせて話し合わなければ!)

 そう溜め込んだものを心内で言葉にしているとだんだんと嫌な緊張感がほぐれて落ち着いてくる。

(……まぁ、妹とはいえ殺そうとしてきた相手と寝ようとしている俺もどこかおかしいのかもしれないな)

 そんな自分にも苦笑しつつ、俺は本格的に眠ることにした。足から頭までの力を抜いて、思考を止めて、意識を手放していく。

「……お兄ちゃん……だい……すき」

 そんな妹の声を最後に俺は、ほんのり温かな眠りの沼に落ちていった。




「……っていう事が本当にあったんだよ! 流石にやばくないか?」

 早朝、まだ妹の起床を時間よりも前に、俺は仕事前でゆっくりと朝食を食べている両親に昨夜のことを話した。

「とうとう知ってしまったのね」
「時間の問題とは思っていたが……」
「な、何で言ってくれなかったんだよ」

 やはり二人は知っていたようで、俺の嘘みたいなエピソードを納得したように頷いている。

「隠していてごめんなさいね。だけど言わなかったのは、あなたがあの子の味方でいて欲しかったからなの」
「それってどういう?」
「先生も含めてあの子のために色々しているんだが、場合によってはその想いが伝わらず、孤独を感じさせてしまうかもしれない。そんな時絶対的な味方が必要だと考えていてな」
「それが俺だと」

 置いてけぼりにされたように感じていたが、その理由なら理解はできる。それこそ、先生に怒られた事に理不尽を感じていた。ガス抜きが出来る存在が必要なのは明白だ。

「ああ。ただ、理由があったとはいえ、お前に知らせず怖い思いをさせてしまったのは事実だ。味方でいて欲しいとは言わないよ」
「そ、それは……」

 続きを口にしようとする前に、後ろからてくてくと足音が聞こえて。振り返ると、そこにはまだ眠そうにしている我が妹がいた。

「おはよう……お兄ちゃん」

 とろんとした瞳で、にへらと微笑みながらそう挨拶をしてくれた。そんなあどけない彼女を見てしまうと、あんな事があってもほっとけるわけがなかった。

「味方でいるよ、兄として。それに、多分もう大丈夫だと思うし」
「……そうか」
「ありがとうね」
「何のお話?」

 当然ながら話についていけていなく小首をかしげている。そんな姿も愛らしく、どうやら俺は相当な馬鹿でシスコンみたいだ。

「何でもない。それよりもちゃんと眠れたか?」
「うん、とっても良い夢を見られたから」

 腰を落として目線を合わせて尋ねると、キラキラとした笑顔を見せてくれた。

「へぇ、どんな?」
「あのね、お兄ちゃんと大きくなってもずっと仲良しでいる夢!」
「……奇遇だな。俺も同じ夢を見た」

 そう言うとぱぁっと嬉しさと驚きの混じった表情を咲かせる。

「それって!」
「ああ」

 今この瞬間、もう妹を恐れる必要はなくなった。この単語が確定させてくれたから。

「「予知夢!」」