「これはハングリッヒ家自慢の一皿です」

そう言ってセバスチャンが差し出した料理はハムエッグのサンドイッチ。イザベラとシモンヌは変わった取り合わせだな、と不思議に思う。それにシェフがみずから「自慢の」と口にするのも違和感があった。

ニーナは迷いなくサンドイッチを手にした――その瞬間、ニーナの笑顔がふっと消えた。真剣なまなざしでサンドイッチを見つめた後、ぽつりとこぼす。

「このサンドイッチって……」

顔を上げてリアンと視線を合わせる。リアンも気づいたようで、ふたりで同時に母のトリンケンに目を向けた。けれどトリンケンは意味ありげな微笑を浮かべるだけでなにも語らない。

そう、このサンドイッチだけはシェフ製ではなく、トリンケン手製のものだ。リアンもニーナも、そのサンドイッチには思い出があったのだ。

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リアンとニーナの冒険には、いつも母の作るサンドイッチがあった。

ゲゲッセンは「貴族はシェフの作った最高級の料理を口にするものだ」と難色を示したが、トリンケンは「料理はわたしの趣味なの。可愛い子にわたしの味を伝えたって罪はないでしょう?」と引かなかった。

内向的だった少年リアンは、ニーナとちいさな冒険を重ねるうち、活発で前向きな性格になっていた。母はそんなニーナの貢献に気づいていたからこそ、休日はリアンにふたりぶんのサンドイッチを持たせていた。

動物を追って野山を駆け、宝捜しに洞窟を探検し、度胸試しに川に飛び込む。そんな冒険の後、ニーナはいつも「もうお腹ペコペコ!」と言ってサンドイッチを美味しそうに頬張っていた。その満足そうな笑顔はリアンの蒼い恋心をあたたかく灯していた。

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ニーナは懐かしそうな顔でサンドイッチを見つめる。リアンとの思い出を振り返るかのように目を細めた後、ひと思いにかじりつく。

「お母さま、やっぱりおいしいです! あのときの味といっしょです!」
「この味を覚えていてくれて嬉しいわ」

サンドイッチは次から次へと胃の中へと落ちてゆく。ところが最後のひとつを残して、ニーナはぴたりと動きを止めた。しばらくの間のあと、湿り気を帯びた声でぽつりとこぼす。

「リアンと食事するの、きっとこの晩餐会で最後なんですよね……」

誰も、なにも答えなかった。答えられるはずがない。ニーナもまた、この晩餐会の意味を察していたのだから。思いつめた表情でトリンケンに目を向ける。

「あたしがこの晩餐会に呼ばれたのは――最後の思い出を作ってあげようっていうお母さまの計らいなんですよね」

ゲゲッセンは髭をこすりながら視線をそらす。一方のトリンケンに否定するそぶりはない。ニーナを招待したのが母の意向なのは明白だった。

ニーナは最後のサンドイッチを手に取るが、口に運ぶことができないでいる。

「あれ、まだお腹いっぱいじゃないのに、お母さまのサンドイッチが食べられない……」

そう言い終わると同時に、涙があふれてきた。サンドイッチを持つ手が力なくテーブルに落ちる。その手の上に涙がこぼれ落ちた。

「お母さま、ごめんなさい。今夜はすっごく楽しい、夢のような時間でした。でも……最後のひとつはどうしても食べられません」

ニーナはナプキンで顔を覆って涙をぬぐい、リアンに向かって最後のあいさつをする。

「一番のお相手と、必ず幸せになってね、リアン」

ニーナは立ち上がり、両親とふたりの来賓者におじぎをしてからゆっくりときびすを返す。

悲しげな背中姿が去ってゆく。冷たい扉の音がダイニングルームに響き渡った。