恋をすると世界はキラキラして見える、らしい。したことないからわからないけど。相手のことが輝いて見える。その周りも。とにかく意中の人物のいる景色そのものが鮮やかになる、らしい。知らないけど。
「ほんと少女漫画すきだよな、海斗」
ノックも何もなく、ドアを開けると同時に見下ろされる。幼馴染だから許されるってわかっているんだろう。
一緒に夏休みの宿題を、と言っていたのに。新の両手はお菓子とペットボトルで塞がっている。ま、俺も漫画読んでたんだけど。
「すきっていうより、わからないから読んでるかんじ」
床には姉の部屋から借りてきた単行本たちが積まれている。漫画といえば我が家では少女漫画が基本で、物心ついた時には母と姉が楽しそうに話すのを羨ましく思っていた。自分も仲間に入れてほしくて文字が読めるようになってからは家中の漫画を片っ端から読んだ。中学生の今は読み始めたシリーズがどうなるのか気になるってほうが大きい。あと、やっぱりわからないってのもある。
「恋」がどんな症状で、「好きな人」がどう見えるか、他人に教えられるくらい知識は増えたが、現実には初恋もまだなので、検証ができない。本当にこんなことあるのだろうか。どの作品にも共通してるから、真実なのだろうけど。でも、自分が体験しないことにはわからない。
「へぇ。海斗、わかんないんだ」
ドサッと折りたたみテーブルに荷物を置き、新が隣に座る。手には俺が先ほど読み終わったばかりの単行本。中は開かず、表紙を眺めている。
「わかんねー。キラキラして見えるとか、なんでって感じ。やっぱ自分がなってみないとわかるわけないよなぁ」
ぐっと体を伸ばし、ベッドに背中を預ける。エアコンの風が薄く鼻を掠め、窓の向こうには青空が広がる。白い雲。緑の葉。強い日差し。恋なんてしなくても夏の景色は鮮やかだ。
「海斗、初恋もまだのお子様だもんな」
新は男のくせにクスクスと小さく、くすぐったそうに笑う。
「なんだよ。新だって――」
頭をベッドに預けたまま振り返る。新も同じように頭を載せていたから思いがけず至近距離で目が合う。笑っていると思ったのに新の視線はまっすぐで、揶揄うような表情はない。トン、と心臓が小さく跳ねた……気がした。
「え、もしかして、新、好きなやついるの?」
保育園で出会って中二の今までずっと一緒にいた。新に彼女ができたことはない。放課後も休日も一緒に過ごすのは俺だったし。
いつから、だろう。最近のことだろうか。それともずっと前からだろうか。
「いるなら言えよなぁ。内緒にされてたとか傷つくんだけど」
笑って言ってみたけど、結構ショックだった。
新のことなら誰よりも知っていると思っていたのに。どうしてすぐに言ってくれなかったのだろう。もともとそういう話したことなかったけど。でも、新なら俺に一番に言ってくれると思っていたのに。ツン、と胸が痛んだ……気がする。
背中を戻し、新の方に体ごと向き直る。
「で、誰なの?」
聞き出さないことには宿題なんてできない。
「……」
エアコンの稼働音。窓越しの蝉の声。聞こえるのはそれだけ。静か、だった。
「知りたい?」
リリーン、と換気のために作っていた隙間からの風で風鈴が揺れ、新の声に重なる。
「知りたいに決まってるだろ」
「なんで?」
「なんで、って」
幼馴染の好きなやつ。知りたいって思うの普通じゃない?
「教えてくれたら協力できるし」
「協力してくれるんだ」
「当たり前だろ。つっても俺の知識なんて少女漫画レベルだけど」
新の背中がベッドから離れる。
俺と同じように体ごとこちらへと向き直る。あぐらをかいた姿勢で向かい合えば、視線は同じ高さで結ばれた。それだけの、なんでもないことに、心臓が揺れた……気がする。
新がまっすぐ俺を見る。笑っても怒ってもいない、真剣な表情。こんな顔するやつだっけ、と見慣れない幼馴染の表情に、トクトクと鼓動が速まる。
「俺が」
新の薄い唇から目が離せなくなる。
聞きたいと自分から言ったのに、心臓の音が内側から耳を塞ぎ、風鈴も蝉も全部が遠くなる。
「好きなのは」
それなのに新の声だけが落ちてくる。
まっすぐ、体の奥まで。
「……か」
「待って!」
思わず右手を突き出していた。
「ちょっと、待って……」
なんかわかんないけど耐えられなかった。
俺の方が明らかに緊張している。心臓がこれ以上ないってくらい動いて、苦しくて、呼吸すらうまくできない。何がいつもと違うのか。自分の手の向こう側。新の視線はこちらへと向けられたまま。そうだ、新がこんな顔するから。纏う空気が違うから。だから、俺もおかしくなっているのだ。
いつものように笑って言ってくれたなら、こんなふうにならなかったのに。
「海斗」
名前を呼んだ新が、ふっと表情を緩めた。
手を握られ、下ろされる。視界の真ん中にいるのは見慣れた幼馴染の顔。
「しょーがねーから、待ってやるよ」
呆れたように吐き出された言葉が優しく響く。こんなに柔らかく笑うやつだったっけ、と思ったのと同時――ふわりと風が胸を満たす。窓からでもエアコンからでもない。内側から生まれた温かさ。落ち着いていたはずの心臓が再び揺れ出す。
「宿題やるか」
解かれた視線がテーブルへと向けられる。
繋いだままだった新の手が離れていく――瞬間。
「え」
跳ねたのは新の声。
思わず握り返していた。
驚き振り返った新に、自分がしでかしたことを一瞬で自覚する。
「わ、ごめん」
咄嗟に掴んだ手を離し、宙に浮かせる。何やってんだろ。体温は離れたのに心臓は落ち着かない。
「海斗」
「な、なに」
声は不恰好に揺れる。
エアコンで冷えたはずの顔が熱くなる。
「今、どう見えてんの?」
「どうって」
小さく傾けられた顔。覗き込むように向けられる視線。柔らかく上がった口角。
夏の空ではない自分の部屋。
見慣れた幼馴染の顔。
それなのに……。
「べつにふつー」
「ふつー、ね」
「なんだよ」
「鏡見てきなよ」
「……べつにいい」
視線を逸らせば、床に置いたままの漫画が目に入る。表紙には頬を赤く染めた女の子。切なげな視線は好きな人に向かっている。――今なら、わかる。
「エアコンの温度下げる?」
新の弾んだ声に、俺は小さく頷くことしかできなかった。
「ほんと少女漫画すきだよな、海斗」
ノックも何もなく、ドアを開けると同時に見下ろされる。幼馴染だから許されるってわかっているんだろう。
一緒に夏休みの宿題を、と言っていたのに。新の両手はお菓子とペットボトルで塞がっている。ま、俺も漫画読んでたんだけど。
「すきっていうより、わからないから読んでるかんじ」
床には姉の部屋から借りてきた単行本たちが積まれている。漫画といえば我が家では少女漫画が基本で、物心ついた時には母と姉が楽しそうに話すのを羨ましく思っていた。自分も仲間に入れてほしくて文字が読めるようになってからは家中の漫画を片っ端から読んだ。中学生の今は読み始めたシリーズがどうなるのか気になるってほうが大きい。あと、やっぱりわからないってのもある。
「恋」がどんな症状で、「好きな人」がどう見えるか、他人に教えられるくらい知識は増えたが、現実には初恋もまだなので、検証ができない。本当にこんなことあるのだろうか。どの作品にも共通してるから、真実なのだろうけど。でも、自分が体験しないことにはわからない。
「へぇ。海斗、わかんないんだ」
ドサッと折りたたみテーブルに荷物を置き、新が隣に座る。手には俺が先ほど読み終わったばかりの単行本。中は開かず、表紙を眺めている。
「わかんねー。キラキラして見えるとか、なんでって感じ。やっぱ自分がなってみないとわかるわけないよなぁ」
ぐっと体を伸ばし、ベッドに背中を預ける。エアコンの風が薄く鼻を掠め、窓の向こうには青空が広がる。白い雲。緑の葉。強い日差し。恋なんてしなくても夏の景色は鮮やかだ。
「海斗、初恋もまだのお子様だもんな」
新は男のくせにクスクスと小さく、くすぐったそうに笑う。
「なんだよ。新だって――」
頭をベッドに預けたまま振り返る。新も同じように頭を載せていたから思いがけず至近距離で目が合う。笑っていると思ったのに新の視線はまっすぐで、揶揄うような表情はない。トン、と心臓が小さく跳ねた……気がした。
「え、もしかして、新、好きなやついるの?」
保育園で出会って中二の今までずっと一緒にいた。新に彼女ができたことはない。放課後も休日も一緒に過ごすのは俺だったし。
いつから、だろう。最近のことだろうか。それともずっと前からだろうか。
「いるなら言えよなぁ。内緒にされてたとか傷つくんだけど」
笑って言ってみたけど、結構ショックだった。
新のことなら誰よりも知っていると思っていたのに。どうしてすぐに言ってくれなかったのだろう。もともとそういう話したことなかったけど。でも、新なら俺に一番に言ってくれると思っていたのに。ツン、と胸が痛んだ……気がする。
背中を戻し、新の方に体ごと向き直る。
「で、誰なの?」
聞き出さないことには宿題なんてできない。
「……」
エアコンの稼働音。窓越しの蝉の声。聞こえるのはそれだけ。静か、だった。
「知りたい?」
リリーン、と換気のために作っていた隙間からの風で風鈴が揺れ、新の声に重なる。
「知りたいに決まってるだろ」
「なんで?」
「なんで、って」
幼馴染の好きなやつ。知りたいって思うの普通じゃない?
「教えてくれたら協力できるし」
「協力してくれるんだ」
「当たり前だろ。つっても俺の知識なんて少女漫画レベルだけど」
新の背中がベッドから離れる。
俺と同じように体ごとこちらへと向き直る。あぐらをかいた姿勢で向かい合えば、視線は同じ高さで結ばれた。それだけの、なんでもないことに、心臓が揺れた……気がする。
新がまっすぐ俺を見る。笑っても怒ってもいない、真剣な表情。こんな顔するやつだっけ、と見慣れない幼馴染の表情に、トクトクと鼓動が速まる。
「俺が」
新の薄い唇から目が離せなくなる。
聞きたいと自分から言ったのに、心臓の音が内側から耳を塞ぎ、風鈴も蝉も全部が遠くなる。
「好きなのは」
それなのに新の声だけが落ちてくる。
まっすぐ、体の奥まで。
「……か」
「待って!」
思わず右手を突き出していた。
「ちょっと、待って……」
なんかわかんないけど耐えられなかった。
俺の方が明らかに緊張している。心臓がこれ以上ないってくらい動いて、苦しくて、呼吸すらうまくできない。何がいつもと違うのか。自分の手の向こう側。新の視線はこちらへと向けられたまま。そうだ、新がこんな顔するから。纏う空気が違うから。だから、俺もおかしくなっているのだ。
いつものように笑って言ってくれたなら、こんなふうにならなかったのに。
「海斗」
名前を呼んだ新が、ふっと表情を緩めた。
手を握られ、下ろされる。視界の真ん中にいるのは見慣れた幼馴染の顔。
「しょーがねーから、待ってやるよ」
呆れたように吐き出された言葉が優しく響く。こんなに柔らかく笑うやつだったっけ、と思ったのと同時――ふわりと風が胸を満たす。窓からでもエアコンからでもない。内側から生まれた温かさ。落ち着いていたはずの心臓が再び揺れ出す。
「宿題やるか」
解かれた視線がテーブルへと向けられる。
繋いだままだった新の手が離れていく――瞬間。
「え」
跳ねたのは新の声。
思わず握り返していた。
驚き振り返った新に、自分がしでかしたことを一瞬で自覚する。
「わ、ごめん」
咄嗟に掴んだ手を離し、宙に浮かせる。何やってんだろ。体温は離れたのに心臓は落ち着かない。
「海斗」
「な、なに」
声は不恰好に揺れる。
エアコンで冷えたはずの顔が熱くなる。
「今、どう見えてんの?」
「どうって」
小さく傾けられた顔。覗き込むように向けられる視線。柔らかく上がった口角。
夏の空ではない自分の部屋。
見慣れた幼馴染の顔。
それなのに……。
「べつにふつー」
「ふつー、ね」
「なんだよ」
「鏡見てきなよ」
「……べつにいい」
視線を逸らせば、床に置いたままの漫画が目に入る。表紙には頬を赤く染めた女の子。切なげな視線は好きな人に向かっている。――今なら、わかる。
「エアコンの温度下げる?」
新の弾んだ声に、俺は小さく頷くことしかできなかった。