咄嗟に『アオハル・リライト』などと提案したものの、僕はあまりにも分からなかった。

 青春とはなにか、それを経験して来なかった僕には、なにをどうすれば良いのかがまったく分からなかった。
 神所(じんじょ)先生に『青春とはなにか』を何度か質問もした。だけど先生は嫌そうな顔をするだけで、何も答えてはくれなかった。

「……神所先生、恋愛ごっこでもしますか?」
坂梨(さかなし)……ふざけんな」
「ふざけていません。至って僕は真剣です」

 あと、坂下(さかした)です。そう小さく付け足し、数学科準備室の窓から外を見る。
 紅葉はすっかり姿を消し、薄く雲がかかる空からはひらひらと雪が舞い降りていた。

 どうにか、2学期が終わるまでに『アオハル・リライト』を実行したい。
 その思いで胸がいっぱいになり、すこしだけ焦りを覚える。

 雪を呆然と眺めながら黙り込んでいると、背後から神所先生の溜息が聞こえてきた。それが気になり先生の方を向くと、気怠げな目で僕を見ながら小さく言葉を継いだ。

「まぁ、いいや。坂尾(さかお)、屋上行ってみるか」
「……屋上?」
「青春の定番舞台だろ。違うか?」
「分かりません」
「分かれよ」

 お前が『アオハル・リライト』とか言い出したんだろ、神所先生はそう言いながら僕の頭を叩き、肩に腕を回してきた。

「……」

 単純な僕は先生の不意なこの行動ひとつに、青春を感じたような気がした。これを、人は青春というのだろうか?

 友達がいなくて、ずっとひとりぼっちの僕だ。
 どれだけ考えても青春の答えは見つからない。だけど不思議と、神所先生に肩を組まれたという事実が嬉しく感じた。

 結局僕も、こういうことに喜びを感じてしまうのか——、そう思うとなんだかおかしくて、つい笑いが込み上げてくる。

「なに笑ってんだよ」
「……いや、先生。なんだかこれ、青春っぽいと思いまして」
「……」

 そう小さく呟くと、僕はまた強く頭を叩かれた。
 だけど先生の表情も、なんだかまんざらでもない様子だった。





 雪が舞う放課後の屋上は一段と冷えきっていた。
 冷たい風が吹き、僕たちの体温を一瞬で奪っていく。

 隣に立っている神所先生は口元に手をやり、白い息を吐き出していた。
 すこしクセのある黒髪と水玉模様のネクタイが小さく揺れる。銀縁眼鏡の奥に見える気怠げな目はいつも通りだったけれど、どこか楽しそうな様子がすこしだけ見えるような気がしてむず痒かった。

 神所先生と並んでフェンスに向かい、グラウンドを眺める。陸上部がトラックを走り、すこし離れた場所ではバスケ部がシュート練習をしている。
 耳を澄ませば校舎のどこかからか、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。目線を右に動かして校舎裏を見ると、そこではダンス部がヒップホップの練習をしていた。

「……あの子に恋の方程式、教えなくていいのですか?」
「怒るぞ、コラ。俺は亡くなった彼女しか興味がない。誰も俺を落とすことなどできないんだ」

 僕に喧嘩でも売っているのかと思った。
 けれど、自信満々に言い切った先生がすこしだけ面白くて、それすらどうでもよく思ってしまう。

「……そうですか」

 小さく呟き、再度周りを見回す。

 みんながそれぞれの場所で、ここでしか経験できない『青春』を味わっているのだろうか。
 辛さも大変さも苦しさも、楽しさも。それらすべてが、ここでしか経験できない『青春』なのか……僕にはその感覚が分からない。

 だけど、それを妨害する権利など僕にも神所先生にもない。そのようなことを、不意に思った——……。

「……」
「なぁ、坂溝(さかみぞ)。お前はなぜ誰とも関わらずに、ひとりぼっちで学校生活を送っていたんだ?」
「……僕は、人と関わるのが苦手だからです。昔から誰かと仲良くなっても、小さなことで揉めて疎遠になって、ひとりぼっちになっていました。もう、繰り返したくないのです。そんな辛い思いをするくらいなら、最初からひとりでいればいいって思ったのです。青春も恋愛も、僕には不要だから」

 学校では勉強さえしていればいい。自動販売機が使えないなら、使えるタイミングで僕が行けばいい。
 それで僕は満足だったのだ。それが今まで僕のすべてだったのだから——。

「……でも、人って欲張りです。青春なんてしなくていいと思っていたのに、神所先生のせいで青春に対する憧れを抱いてしまいました。僕は僕自身の高校生活を『リライト』をしたくなってしまったのです」

 目の前のフェンスを掴み、強く揺らす。
 冷えきった手はかじかんで動かしにくいけれど、それにすら妙に複雑な気持ちを抱いた。

 神所先生は黙ったまま一点を見つめたまま固まっていた。
 そしてしばらくして、小さく溜息をついて言葉を継ぐ。

「——俺だってそうだ。青春や恋愛なんて胸糞悪いと思っていたのに、お前に妨害をさせようとあらゆるシチュエーションを考えていたのが逆効果だった。今しか言わないけれど、妨害したいと思う反面、青春や恋愛に対する強い憧れを抱いた。それは……お前のせいだ、坂岡(さかおか)
「……坂下(さかした)です」
「……知っている」
「あと、それは先生自身のせいあり、僕のせいではありません」
「……それも、ほんとうは分かっている」

 その返答に、思わず吹き出すように笑ってしまった。

 口角だけを上げて苦笑いをしている神所先生は、「ふっ」と小さく声を上げて、突然走り出した。
 そして僕たちがいた場所から反対の方向に向かって走り、そのままフェンスに飛びつく。

 僕も先生の背中を追いかけた。
 追いつきそうで追いつかない気怠げな背中を目指して、ひたすら走る。

 フェンスに飛びついた神所先生は大きく息を吸い込み、聞いたことのないくらい大きな声を出した。
 目の前に広がる山に向かって、大きな、大きな声を出す。

「青春なんて、クソ喰らえーー!!!!」

「俺と朱莉(あかり)の青春と、教師人生、返しやがれよ!!!! バカヤローー!!!!」

 はぁ……と息を吐き、軽く咳払いをした先生はゆっくりと僕の方を向いた。
 そして「お前も」と言って僕に微笑みかける。

「……」

 小さく唇を噛んで、ゆっくり頷く。
 僕もフェンスを掴み、大きく深呼吸をした。

「せ……青春なんて、クソ喰らえーー!!!!」
「ははっ、最高だな!! 坂下、よく言えました」

 神所先生に強く肩を叩かれ、今度は優しく頭を撫でられた。
 僕よりも大きな先生の手も寒さでひんやりとしていたけれど、それ以上に妙な温かさを感じて胸が熱くなった。


 結局、青春ってなんだろう。
 僕が先生に提案した『アオハル・リライト』とはなんだったのだろう。
 自分が言い出したことなのにその答えが分からず、僕はつい先生の顔を見上げる。

 隣に立っていた神所先生は溢れる涙を拭うこともせず、薄い雲から舞い落ちる雪をただ静かに眺めていた。





「……さて。お礼の補習、第1回目」
「……」
「しかもお前の好きなジュース付きだ」
「……」

 お礼がしたい、そう言って僕を数学科準備室に呼び出した神所先生は、分厚い数学の問題集を手に持っていた。
 なんでも、高校3年間の総復習をしてくれるらしい。それが先生なりのお礼だと、口角をすこしだけ上げて笑っていた。

「僕、数学は嫌いです」
「そんなこと言うなよ。ほら、補習っていう響きがなんだか青春っぽくないか?」
「……分かりません」
「分かれよ」

 神所先生の机の横に置かれた生徒机に座り、渋々と渡された問題集を開く。
 先生は丁寧に解説まで用意をしてくれていた。

「……ていうか僕、先生にお礼をしてもらうようなこと、しましたか?」
「ん?」
「先生は『リライト』できましたか?」
「……」

 机に置かれた缶コーヒーを手に取り、神所先生はいつものように体内に流し込む。
 すこし何かを考えているような様子だった先生だが、銀縁眼鏡の奥に見える目は気怠げではなかった。いつになく目に力が宿っている。

「『リライト』ができたかどうかは知らん。だけど俺——、死ぬまで朱莉の想いも背負って、教師人生を全うしてやろうって本気で思った。それがすべてだろ」

 神所先生は力強いその目を僕に向けて、最大級の笑顔を見せた。
 その笑顔ひとつで、もう先生は大丈夫だと僕は強く確信をする。

「……へへ。じゃあ僕は、先生の補習を受けて青春を『リライト』することにします」
「おう、望むところだ。高校3年間で俺の補習がいちばん楽しかったと、卒業式の日に言わせてやる」
「望むところです」

 ふたりで微笑み合い、どちらからともなく窓の外に目を向ける。青空の元で舞う雪が視界に入ると同時に、自動販売機の奥——、生徒の告白スポットで、男女が向き合っている様子が見えた。

 それを見て、僕は神所先生の顔を見上げる。
 同じ光景を見ていた先生は軽く口角を上げて、小さく呟いた。

「青春なんて、クソ喰らえ……その気持ちは変わらんけどな。もう、妨害はしねぇよ」

 その一言が面白くて、僕は吹き出すように笑って同じように呟く。

「……ふふ、青春なんてクソ喰らえっ」

 神所先生はジュースを手に取って僕に渡す。そして自身の缶コーヒーも手に取り、そっと僕のジュースにぶつけた。

「目を付けた生徒が、坂下でよかった」
「先生はやっと、僕の名前を覚えましたね」
「……最初から分かってたよ。『坂』がつく苗字を考える方が大変だったんだ」
「えっ?」

 意味不明なカミングアウトに、思わず目が点になる。

 当の神所先生は、子供のような無邪気な笑顔を浮かべて、呑気にコーヒーを体内に流し込んでいた。







アオハル・リライト   終