翌日の放課後、数学科準備室に向かったが、中には誰もいなかった。

 僕はチャンスだと思った。
 静かに部屋に入り、真っ先に神所(じんじょ)先生の机へと向かい眺める。

 実は机の上にある【ある物】がずっと気になっていたのだ。
 綺麗に整頓されている机の上には、数学の参考書と難しそうな文献が置かれている。そして、僕が気になっていたもの——……シンプルな写真立ての中に飾られている、1枚の写真だ。

 その写真には、学校の教室らしき場所を背景に、学ランを着た神所先生と、セーラー服を着た女性が2人で写っていた。
 よそよそしく微妙な距離間のふたりは、頬を赤く染めて力の抜けたピースをしている。

「……」

 青春や恋愛なんて胸糞悪いなどと言うくせに、自分はそれなりに青春を謳歌しているではないか——、そう思うとなんだか無性に苛立ちを覚えた。それと同時に、神所先生が『なにか』と戦っているような気がするなどと、すこしでも同情してしまっていた自分に嫌気が差す。

 僕が男女の告白現場で転げたのはなんだったのか。神所先生の言うことを聞かずに止めておけばよかった。きっと先生は、僕を馬鹿にして笑っていただけなのだろう。

 そう思えば思うほど、湧き立つ感情を抑えられない。



「——お、坂部(さかべ)。来ていたのか」
「……神所先生」

 先生は僕が写真を見ていたと分かると、一瞬で表情を変える。そして足早に駆け寄ってきて、写真立てを手に取り背後に隠した。

「……見たのか?」
「見ました。なんですか、先生だって青春や恋愛をしていたじゃないですか。なにが青春や恋愛は胸糞悪いですか。そんな写真を机に置いちゃって。もしかして先生は、ひとりぼっちの僕を見て遊んでいたとでも言うのですか?」
「……」

 神所先生は目を伏せて、小さく溜息をついた。

 否定はしない。
 それが先生の答えだというのだろうか。

 体が怒りで震え始める。
 無性に苛立ち、溢れる感情を抑えるので精一杯だった。

「……神所先生には付き合いきれません。帰ります」
「待て、坂入(さかいり)
「……」
「ジュース、奢る。絶対に部屋から出るなよ」

 先生は机から財布を取り出し、颯爽と数学科準備室から出て行った。窓の外に目を向けると、先生が走って自動販売機に向かう様子がよく見える。

 今日は雨が降っていない。
 雲ひとつない青空から差す眩しい太陽の光が、数学科準備室の中を煌々と照らしていた。



 ジュースを買って戻ってきた神所先生は椅子に座り、僕にも部屋の隅に置かれていたパイプ椅子に腰をかけるよう促した。
 言われた通りに座ると、先生は僕にジュースを差し出してくれる。ここでしか買えない、僕が大好きなジュース……【フルーツサイダー】だ。

「……ありがとう、ございます」
「おう」

 神所先生は缶コーヒーを手に持っていた。プルタブを開けて、そっと缶に口付ける。
 僕はジュースを握りしめながら、その様子を無言で見つめる。銀縁眼鏡の奥に見える目は、やはり今も気怠げだった。


「はぁ……お前にしか話さない。誰にも言うなよ」
「……えっ?」

 唐突にそう切り出した先生は、コーヒーを飲みながら写真を眺めていた。そしてそっと手を伸ばし、写真に写る女性を撫でる。
 先生の気怠げな目には、しだいに涙が浮かび始めた——。

「彼女は俺の幼馴染であり、恋人だった。だけど、高校2年の夏に亡くなったんだ。原因は信号を無視した車に、はねられたこと」
「……」
「俺には他に友達とかいなくて、この彼女が俺のすべてだったからさ。喪失感があまりにも大きくて、その日を境に、青春や恋愛が憎く感じるようになったんだ。楽しそうな奴らを見ると、胸糞悪くて……吐きそうだった。それは今だって変わらない。ほんとうに大嫌いなんだ、青春や恋愛という響きが」

 とにかく胸糞悪いから、生徒が青春や恋愛をしている様子を見ることすら嫌だったらしい。だからどうにか妨害をしたい……その思いが強くなった時、偶然『雨の日にしかジュースを買いに来ない』僕の姿を見かけて気になったとのことだ。
 それで僕に偶然を装って声をかけて、生徒の妨害をするよう誘ったんだと、先生は苦笑いをしながら言った。

「そ、そんなの……教師なんて辞めてしまえば済む話ではありませんか……」

 つい、思いが声となって漏れ出た。
 しかし神所先生は表情ひとつ変えずに、写真を眺め続ける。その視線の先に見ているのは過去だろうか。軽く目元を拭い、また苦笑いを浮かべる。先生の気怠げな目には、強い悲しみが滲んでいた。

「……あぁ、そうだ。お前の言う通り、教師なんて辞めれば済む話だ。だけど俺は、彼女と約束をしていたんだ。一緒に教師を目指そうと」
「……」
「そして……車にはねられて、彼女が亡くなる直前、俺は……教師になりたいという彼女の思いを託された。だから俺は、その思いを無下にしない為にも、教師としてこの人生を全うしなければならないと心に誓ったんだ」

 強く言い切った神所先生の目からは、ついに涙が一筋零れ落ちた。先生は口角を上げて微笑んでいるのに、気怠げな目は悲しみでいっぱいになっている。

 先生は銀縁眼鏡を外して机に置き、取り出したハンカチで目元を拭う。
 その様子を僕はただ静かに見つめていた。


「……」


 買ってもらったジュースを開けて、ひとくちだけ口に含む。


 そこで僕はふと思った。
 今の神所先生に必要なのは、人の青春や恋愛の妨害をすることではなくて、『過去に囚われたままの心の脱出』なのではないかと。
 大切な人を亡くした悲しみに囚われたままの心を解放し、先生の教師人生をより良いものにする。
 それが必要なのではないか——、僕は不意にそう思った。


 もしほんとうにそうならば、僕ができることは——……。


「……ねぇ、神所先生。僕決めました」
「ん?」
「僕と『リライト』しませんか?」
「リライト?」
「卒業までの残り数ヶ月で、〝僕の〟青春の記憶を書き換えます。それに神所先生も付き合ってください」
「はぁ?」

 僕の青春を『リライト』することに付き合ってもらうことで、先生自身の青春の記憶も『リライト』させる。それが、僕の思いついた作戦だった。
 亡くなった彼女さんのことを完全に忘れるのは不可能だ。だけど上手くいけば、青春や恋愛を胸糞悪く思う心はすこしでも改善できるかもしれない——、これは僕なりの賭けだった。

「あのさぁ、俺は青春や恋愛が胸糞悪いと言っているんだ。なのになぜお前の青春に付き合わんといけないんだよ。バカなことを言うな」
「ぼ、僕は意味も分からず、先生に言われるがままに告白現場に乗り込んで妨害をしました。素直に先生の言うことを聞いたのですから、今度は僕の言うことも聞いてください」
「……」
「アオハル・リライトです」

 神所先生は不満げに、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 しばらく考えごとをしているような様子だった先生は、しだいに口角を上げて、外していた銀縁眼鏡をかける。そして「格好つけんな、坂下(さかした)」と初めて僕の名前を呼んで、とびきりの微笑みを見せてくれた。


 先生の動きに合わせて、胸元で小さく深緑色のネクタイが揺れ動く。
 そのネクタイからは、もう妙な異質さを感じることはなかった。