授業中の神所先生はいつも通りだった。
昨日、胸糞悪いなどと言っていた先生はどこへ行ったのか。教壇に立ってチョークを握る先生は、いつも通り生徒に向かって軽く微笑みかけていた。
日頃の神所先生は愛想だけは良い。
若くて見た目も格好良い先生は、実は密かに女子生徒から人気だったりもする。
「さて、今日の授業で分からなかったところはありますか? 質問があれば挙手をしてくださいね」
「はいはーい、せんせー! 神所先生を落とす恋の方程式を教えてください!」
キャーっと教室中にピンク色の悲鳴が響き渡る。
質問とはいえない発言をした女子生徒は、クラスの人気者だ。可愛い容姿、たくさんの友達、しかもダンス部に所属する生徒会執行役員である。
その女子生徒はなんの悪気もなさそうに、上目遣いで神所先生を見つめていた。
しかし、僕は知っている。
神所先生にはまったく通用しないということを。
先生は眉毛をピクっとすこしだけ動かしたが、表情は崩さなかった。そして何も言わずに教科書を閉じる。
「……質問はないみたいなので、本日はここで終わります」
「えー!? 先生、無視しないでくださいー!!」
「日直、号令」
神所先生は無理やり授業を終わらせ、足早に教室から出て行く。
その様子を見ていた僕は、放課後に先生と会わなければならないという現実に不安を覚えていた。
◇
「失礼……します」
放課後になり、馬鹿正直な僕は真面目に数学科準備室へ向かう。
静かにノックをしてゆっくりと扉を開くと、中には銀縁眼鏡を外してネクタイを緩めている神所先生がいた。先生はまた椅子に座り、背もたれにもたれかかっている。
すこしだけ開いている部屋の窓からは、強い風が入ってくる。その風に軽く揺れる朱色のネクタイからは、やはり妙な異質さを感じた。
先程まで青空が見えていた空は、徐々に厚い灰色の雲に覆われ始める。雨が降りそうな空は、なんだか神所先生の心を現しているような——、不思議とそのような感覚がした。
「……坂西、今日は屋上でダンス部が練習をするらしいぞ」
「え?」
「なんだか、青春の気配がしないか?」
「……」
「これから雨が降る。その前にお前が、青春を大爆発させに行くんだ」
先生は微かに口角を上げたが、その目には一切の光が見えなかった。
気怠げな目を僕に向けて「ほら、早く」と言って煽る。
青春とはいえ、部活動だろう。それを大爆発させに行けとはどういうことなのだろうか。神所先生の言葉の意図が分からず、ついその場に立ち尽くす。先生は気怠げな目をしたまま、机に置いていた缶コーヒーを手に取り、体内に流し込んでいた。
「……あ、恋の方程式」
「あぁ?」
「……あの子が、ダンス部だから」
「……」
数学の授業で質問の代わりに『神所先生を落とす恋の方程式を教えて欲しい』といったあの女子生徒は、ダンス部である。
それが関係しているのだろうか。
そう思いさらに問おうとしたが、先生に冷たい目を向けられて、僕は言葉が何ひとつ出てこなかった……。
「……ほら坂村、時間がない。雨が降る」
「せ……先生がひとりで行ってくださいよ!! 僕、どうすれば良いのかが分かりません!!」
「俺には無理。だから坂牧に頼んでいるんだ」
「ぼ……僕は、坂下です!!!!」
咄嗟に数学科準備室から飛び出そうとした。しかし、その動きは神所先生によって止められる。
僕をまっすぐ見つめる気怠げな目には、ほんのすこしだけ、力が宿っているような気がした。
「お前、もうすぐ卒業だろう。青春を楽しんでいる奴らのせいで好きな時にジュースを買うことすらできない、そんな寂しい状況で高校を卒業してもいいのかよ?」
「……は?」
「お前が雨の日しか自動販売機に来れない理由は、青春している奴らのせいだろ。その鬱憤を晴らさなくていいのか?」
「……」
神所先生の言葉が理解できなくて、つい首を傾げる。
雨の日にしかジュースを買いに来れないというのは僕自身の問題であって、そこで青春をしている人達のせいではない。ほんとうに欲しければ、割り込んででも買えばいいのだ。だけど僕がそこまでしない理由は、『僕はそれで満足をしているから』だ。
雨の日にだけ買えるジュース、それが僕にとっての楽しみなのだ。
僕は昔から友達がいない。
それは高校に入っても変わらなかった。
かつては青春や恋愛に憧れたこともあった。
けれど今の僕はその山を乗り越えたのだ。今はもう、青春も恋愛も興味や関心がない。
教室の隅で静かに過ごし、卒業の日を迎える。
僕はもう、それで満足なのだ。
「……先生がどういう理由で青春や恋愛を胸糞悪いと言っているのか、僕にはひとつも分かりません。先生はひとりぼっちの僕を見て、勝手に仲間だとか思っているのかもしれませんが、僕は青春も恋愛も関心がないので、厳密には仲間ではないと思います。腹いせに人の妨害をしたいとは1ミリも思いませんし、先生も僕みたいな人を唆すのはやめた方がいいですよ」
どちらが教師なのか、それすら分からなくなっていた。
僕は目に力を込めて、睨むように神所先生を見つめる。先生は相変わらず気怠げな目をしていた。
しかしその目の奥で、今度はわずかな悲しみが見えたような気がした。それになんだか調子が狂う。
その瞬間、外が真っ白に光り、数秒後に大きな音が鳴り響き床を大きく揺らした。そして滝のような大雨が降り出し、外は一瞬で土砂降りとなる。
「……ほら、間に合わなかった」
「……」
「まぁ、今日はいいや。また明日も来いよ、坂井」
「もはや文字数すら合ってませんけど……」
小さく呟くと、神所先生はゆっくりと口角を上げた。
先生の意図は分からない。
先生が僕を使って青春や恋愛を妨害して、この先どうしたいのかがまったく分からない。
だけどなんとなく僕は、神所先生は心の奥底で『なにか』と戦っているような気がしていた。
妙な異質さを放つネクタイ。気怠げな目の奥に隠れる悲しみ。それらは神所先生からのSOSなのではないか。なんとなく、そのような気がしていた——。