「ほぅ、来たな」
「……来ましたけれど」
特別教室棟の1階、数学科準備室からは昼休みに過ごした自動販売機の姿を見ることができた。
教室の半分くらいの大きさしかない小さな部屋に、複数の本棚と机がひとつ。どうやらここで過ごしているのは、神所先生だけのようだ。
神所先生は椅子に座り、背もたれにもたれかかっていた。いつもの銀縁眼鏡は机の上に置かれており、緩められているネクタイからは、やはり妙な異質さを感じてしまう。
そして、気怠げな目は相変わらずだった。
「なぁ坂原、早速あれを見てみろ。なんだか不穏だと思わないか?」
「……」
神所先生は窓の外に目を向けて怠そうに一点を指さした。坂原って誰だよ、と心の中で呟きながら、言われるがままに僕も外に目を向ける。
自動販売機のすこし奥、体育館と校舎を結ぶ渡り廊下の端で、微妙な距離感の男子生徒と女子生徒が向き合って立ち尽くしていた。
今も雨は強く降り注いでいる。
すこしだけ開いてる窓からは雨音しか聞こえてこないが、なんとなく2人の雰囲気から、これから何が始まるのかが想像できるような気がした。
「あの場所、生徒たちの告白スポットなんだ。毎日誰かしらが告白しているぞ」
「……」
「坂川、お前今からあの告白現場に乗り込んで来い」
「はぁ!?」
「そして恋の妨害をしてくるんだ。これは俺からの命令である」
気怠げな目で俺を見つめていた神所先生は、フッと小さく声を上げて口角を上げていた。
妨害とは……一体どうしろと言うのだろうか。
最初から意味不明だった神所先生は、どれだけ考えてもやはり意味不明だった。
「坂巻、早く行け。告白が成功してしまうだろ」
「そ、そういうなら先生が自分で行ってくださいよ!」
「俺は行かない、坂崎が行け」
「い……いや、もう……意味不明なんですって!!」
だいたい、僕は坂下だ!!
出てきそうになったその言葉は飲み込み、促されるがまま数学科準備室を飛び出した。そして勢いで自動販売機の元まで行き、告白しそうな雰囲気の2人を見る。
どうするのが正解か——、それを考えながらなんとなく振り返り、数学科準備室の方を向く。
すると気怠げな目の持ち主と、普通に目が合ってしまった……。
「……」
戻れない。ならば、進むしかない。
僕は覚悟を決めて強く両手を握った。そしてその場から逃げるように走り始め、男女2人の場所へ向かう。
目的は、恋の妨害——。
ならば……僕のできることは、ただひとつ。
2人の真横で、盛大に身を転がすことだ。
「——だいくん、好き」
「みかちゃん……俺も……」
「うわあああああああ!!!!」
「!?」
体育館横の渡り廊下を走り、床を蹴ってそのまま体勢を崩す。僕は硬い床の上に身を転がし、頭の天辺から足先までが床にすべて触れたことを確認して、告白中だった男女2人の方を見た。
2人は唖然としていた。
キスでもする寸前だったのか。
顔を近付けあっていた2人は目をまん丸にして僕の方を見て、ポカンと口を空けている。
「……さ、坂上? 何してんの?」
「あは……雨で滑ったみたい。じゃ、邪魔してごめんね。あと、僕は坂下だから」
それだけを言い残し、僕は急いで立ち上がってまた走り出した。足早に校舎の方へ向かい、数学科準備室に戻る。
ノックもせずに数学科準備室の扉を開くと、神所先生はお腹を抱えて大爆笑をしていた。椅子から落ちるのではないかと思うくらい仰け反り、目には涙を浮かべている。
神所先生とは1年の頃から関わりがあるが、ここまで笑っている様子を見るのは初めてだった。
そこまで笑う要素があっただろうか。
「はは……あれ何、お前。あれがお前なりの妨害? 体張ってんな、坂口」
「……だって、急に言われても分からないですよ」
「そうだろうけど、他にもやり方あるだろ」
神所先生はハンカチを手に取り、目元をゆっくりと拭っていた。
先生に言われてやったことなのに、その先生に笑われて心底不愉快だ。
だいたい、僕はなぜ神所先生に言われるがままに恋の妨害とやらをしたのだろう。それすらも分からなくて、複雑な感情で胸がいっぱいになる。
僕はどうしたいのか。なんだか僕は、自分自身のことすらよく分からなくなっていた。
「いやぁ。しかし成功だよ、坂内。キスしそうだったあの2人、お前のおかげでキスをせずに帰って行ったぞ。やったな」
「やったのか……?」
何をもって成功なのか。
それを知るのは神所先生のみ。
しばらくして笑いが治まった神所先生は、机の上に置いていた銀縁眼鏡を掛けた。そして緩めていたネクタイを締め直して、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「さて、今日のところは勘弁してやる。坂倉、明日も放課後になったらここへ来い」
「え!?」
「明日も胸糞悪い青春恋愛をぶっ壊してやる。ただ、お前がな」
「えぇ!?」
「じゃあな、坂谷」
「ええええ!?」
神所先生に背中を押され、無理やり数学科準備室から追い出された。廊下に追い出され振り返ると、先生はニヤッと口角を上げてそのまま扉を閉める。
「ふははははは!!!!」
「……」
そして数学科準備室の中から、不気味な笑い声が聞こえてきた。
今もまだ雨は強く降り注いでいる。
微かに聞こえてくる神所先生の笑い声を際立たせるかのように、強く強く、雨は地面を打ち付け、大きな音を立てていた——……。