静かに揺れ動くチェック柄のネクタイからは、妙な異質さしか感じられなかった——。
目の前の人は僕の存在など気にも留めずに、ひたすらコーヒーを体内に流し込む。季節外れの大雨すらも気にならないのか、肩を半分だけ濡らしながら呆然と遠くを眺めていた。
体育館横に設置された自動販売機には、普段はたくさんの生徒たちが群がり青春を楽しんでいる。
しかし、雨が降ると濡れてしまう場所にあるため、雨の日は誰も近寄りすらしない。
だからこそ、僕は雨の日が好きだった。
日頃は利用できない自動販売機を、僕だけが独占して利用できるからだ。
今日だってそう思い、早くお昼ご飯を食べ終えてここまで来たのだ。
それなのになぜか、今日は妙に異質なこの人がいた。ここの自動販売機で姿を見るのは、今日が初めてだった。
「……神所先生、濡れていますよ。中で飲まれたらいかがですか?」
「……お前、2年の坂上だっけ?」
「え?」
「名前」
気怠げな目で見つめられ、心臓を掴まれたような気分になる。すこしクセのある黒髪に映える銀縁眼鏡がまた異質に思えた。
「……僕、3年の坂下です」
何ひとつ合っていない適当な神所先生に不快感を抱きつつ、冷静に訂正を入れる。当の先生はそのようなことなどどうでも良いとでも言いたそうに、すこしだけ顔を歪ませていた。
降り注ぐ雨に勢いが増す。
先生は濡れている肩のことが気にならないのだろうか。相変わらず気怠げな目で僕の方を見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
時折強い風が吹き、紅く色付いている木々を揺らす。雨と一緒に紅葉も連れていこうとする風の動きに合わせて、やはり先生のネクタイも変わらず揺れ動いていた。
「坂中、お前……学校楽しいか?」
「……坂下ですって」
丁寧に訂正しても先生は反応しない。
僕は小さく溜息をつき、自動販売機と向き合う。
実はこの学校の自動販売機でしか見かけない飲み物がある。それが飲みたくて、雨の日にわざわざ買いに来ているのだ。
お気に入りのジュース。
僕はこれひとつで、また頑張れる。
「……それでは神所先生、失礼します」
「待て」
「え……?」
振り向き、神所先生の顔を見る。
率直に、まずいと思った。
銀縁眼鏡から覗く瞳が『いつもの神所先生』ではなかったからだ。
その目は——、教師の目ではない。
気怠げなのはいつも通りだけど、そこに込められている力強さは、どのように表現をすればよいのだろうか……適切な言葉がすぐには思いつかない。
「な……なんですか?」
「お前、誰かの青春をぶっ壊してみないか?」
「……はい?」
「俺なぁ、生徒たちが青春だの恋愛だの言って、高校生活を謳歌している様子を見ることに嫌気が差しているんだ。正直、胸糞悪い。お前は青春も恋愛もしていなさそうだし。俺の話に乗ってくれよ、坂本」
「坂下ですって……」
目の前の人が言っている意味がまったく理解できなかった。
だいたい、僕のことを何も知らないくせに『青春も恋愛もしていなさそう』だと決めつけるのはいかがなものか。例えそれが正解だとしても、非常に不愉快である。
「……」
手に持っていたジュースを強く握りしめて、神所先生を睨みつける。
しかし、神所先生には効かないらしい。静かにコーヒーを飲みながら、気怠げな目で僕のことを見つめていた。
相変わらず濡れている肩からは吸いきれなくなった水分が滴り落ちている。その水の染みは、ワイシャツの襟にまで広がり始めていた。
「成功した暁には、そのジュースを奢ってやる」
「……」
「ついでに、数学の補習を受ける権利もやる」
「……それはいりません」
あまりにも本心が見えなかった。
胸糞悪いなどと言うわりに、顔からは一切その感情が見えてこない。
教師が生徒の青春恋愛を胸糞悪いと言うとはどういうことか。色々と思考を巡らせてみるけれど、その言葉の本意が見えずに、つい僕は先生を見つめる目に力を込める。
先生は、変わらずコーヒーを飲んでいた。
「とにかく、ここで俺とお前が会えたのは何かの縁だ。放課後、数学科準備室まで来い。詳しいことはそこで説明するから」
「えっ?」
「逃げんなよ、坂道」
「……」
僕はもう突っ込みを入れる気力すら失っていた。
コーヒーを飲みきった神所先生は、ゴミ箱に缶を投げ入れるように捨てて、スラックスに手を突っ込んで歩き始める。
僕は怠そうなその大きな背中を見つめながら、呆然と先生に言われた言葉の意味を全力で考えていた。