「桜さん。今日は、あなたの心を休める日です。私の役目に付き合う必要はないんですよ」

 そう言ったときの彼は、どこか寂しげだった。
 全く予想外だった彼の反応に、私は目を瞬く。

「え……。で、でも。あの人、たぶん迷子ですよね? 困ってるなら助けてあげないと——」

「彼女のことなら、私に任せといてください。桜さんは周りのことは気にせず、今は心と体を休めて。もっと自分のことを大切にしてください」

 自分のことを大切に。
 それは、以前にも何度か言われたことだった。

 きっと猫神様は、私のことをとても心配してくれているのだ。もともとここへ誘ってくれたのだって、私が受験勉強で無理をしていると案じていたから。

 そう思うと、彼の優しさに思わず涙腺が緩みそうになる。
 彼はいつだって、私のことをあたたかく見守ってくれている。

「……ありがとうございます、猫神様。でも、私は大丈夫ですから。それに目の前で困っている人がいるのに、放っておくことなんてできません」

 ね、と私が笑うと、彼もまた困ったように苦笑する。

「そうですね。あなたはそういう人でした」

 私の肩を掴んでいた猫神様の手が、するりと離れていく。
 私はもう一度例のあやかしの方を向き直ると、相手を驚かせないよう、ゆっくりと近づいていった。

「あの、お姉さん。もしかして道に迷ったりしていませんか?」

 私がそう声をかけると、あやかしのお姉さんはちょっとだけびっくりした様子でこちらを見た。

「……あなたは、わたくしのことが見えるのですか?」

「はい。私、あやかしが見える人間で、天沢桜っていいます。それから、こちらは猫神様。今は人間の姿だけど、本来は猫又のあやかしなんです」

 私のすぐ後ろで、どうも、と軽く会釈する猫神様。そんな彼を、お姉さんはぼんやりと見上げる。

「猫神様……。そういえば、聞いたことがあるような」

「おや、ご存知でしたか。私は、現世に迷い込んだ半人前のあやかしを、幽世へ送り返す案内人です。何か、あなたのお役に立てることはないかと思ったんですが……」

 お姉さんは最初こそ戸惑っていたけれど、猫神様の穏やかな人柄に触れて、少しずつ警戒を解いていったようだった。

「立ち話もなんですから、一度どこかで休憩しましょか。もしお腹が空いてるようでしたら、私のところでご馳走しますよ」

 ご馳走、という単語を耳にして、私のお腹はもはや条件反射で「ぐぅ」と鳴る。
 恥ずかしさから思わず苦笑いした私を見て、お姉さんはくすりと柔らかく笑った。

「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 お姉さんもお腹が空いていたのか、あるいは私のお腹を心配してくれたのか。
 どちらなのかはわからなかったけれど、お姉さんが笑ってくれているならなんでもいいか、と私は思った。