迷子のあやかし案内人 〜京都先斗町の猫神様〜

 
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 学校は夏休みに入り、八月がやってきた。
 祇園祭も終わって、お盆の時期が近づいてくる。

 京都の夏はとても暑い。
 人が多いせいかなと思っていたけれど、これは盆地になっている京都の地形も関係しているらしい。

 街のあちこちではかき氷のポスターや看板が目立つ。
 どこからともなく風鈴の音も聞こえてきて、改めて夏だなぁと感じる。

 通気性の良いワンピースを着て、私は朝から図書館へ向かった。
 目的はもちろん、向日葵ちゃんに関する情報を見つけることだ。

 彼女はまだ現世にいて、猫神様のところでお世話になっている。

 そろそろ幽世へ送り帰さないと猫神様も困るんじゃないかと思うのだけれど、当の彼がまだ大丈夫だというので、そういうことにさせてもらっている。

 私はここのところ毎日図書館に通って、過去の新聞や地方紙を漁っていた。
 この十年ほどの間に嵐山周辺で亡くなった子どもの記事がないか、目を皿のようにして文字を追う。

 しかし、目ぼしいものは見つからない。

 そもそも彼女がどうやって亡くなったのかもわからないし、もし病気でこの世を去ったのなら、きっとニュース記事になることもない。

 結局その日も収穫がないまま、私は図書館を後にした。

 午前中は図書館で過ごし、お昼以降は猫神様たちと合流することになっている。



 いつものように先斗町へ向かうと、細長い小路の途中に、見覚えのある猫の姿があった。
 鼻と耳がピンク色で、体のあちこちに赤い線のような模様が入った白猫。

「こんにちは、猫神様」

 私が話しかけると、彼は「なぁーん」と可愛らしい声で鳴いて、右側の路地へ私を案内してくれる。

 こうしてお出迎えをしてくれるとき、なぜ猫の姿になっているのか、その理由はわからない。
 聞けばきっと教えてくれるのだろうけれど、私はあえて聞かなかった。

 猫の姿は可愛くて癒されるし、そのふわふわの尻尾を追いかけて路地に飛び込む瞬間も楽しい。
 もふもふが堪能できるならそれで幸せなので、そこにわざわざ理由を求めるなんてナンセンスだ。

「さくら、おかえり!」

 例の狭間の場所に辿り着いて、入口の扉を潜ると、建物の奥からは幼い声が届いた。

 見ると、鞠の柄が入った黄色い浴衣姿の向日葵ちゃんが、嬉しそうに笑ってこちらに駆け寄ってくる。
 髪の毛は猫神様に結ってもらったのか、今日は一本の三つ編みにしている。

「ただいま、向日葵ちゃん。いい子にしてた?」

「うん!」

 彼女は勢いのまま、私の胸に飛び込んでくる。
 背丈はすでに私のお腹ぐらいまであって、人間でいえば小学校の低学年くらいに見える。

「ちょうど今、そうめんを湯がいたところやったんですよ。よかったら桜さんも一緒にどうですか?」

 白い青年の姿に戻った猫神様が言って、私は目を輝かせる。

「わ。いいんですか!」

 時刻はちょうどお昼時で、私のお腹は規則正しく「ぐぅ」と鳴る。
 おそらくこうなるだろうなとは思っていたので、私も私で今日はお菓子の手土産を持ってきていた。

 夏休みに入ってから、こうして三人でゆったりとした時間を過ごすのが当たり前になっている。
 おいしいものを食べて、楽しくおしゃべりして、お腹も心も満たされる。
 それがとても心地よくて、できるならこの時間がずっと続けばいいのになと思ってしまう。

「では、すぐに用意しますね。ゆっくり食べながらお話ししましょう。今日は、桜さんに相談もありますから」

「相談、ですか?」

 何の相談だろうと私が首を傾げていると、猫神様は向日葵ちゃんの方を見て、「ね」と微笑む。
 向日葵ちゃんもこくりと頷いて、猫神様とアイコンタクトをとる。

 そんな二人を見ながら、私はひとり頭の上にハテナマークを浮かべていたのだった。
 
 
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 夏といえば、やっぱりそうめんだ。
 暑さにやられて食欲がないときでも、これならツルっと胃におさまってしまう。

 とはいえ、猫神様のお料理を目の前にすれば、私はいつだってぺろりと平らげてしまうのだけれど。

 涼しげなガラスの器に取り分けられたそうめんの上には、彩りとして青もみじが添えられている。
 こういうさりげない心遣いがさらに食欲をそそるんだよね。

 別のお皿には、色とりどりの薬味と具材とが盛り付けられていた。
 定番のネギとしょうが、胡麻、海苔、みょうがの他にも梅や大葉、トマトにオクラ、錦糸卵、きゅうりなど。

「こっちの()()()()もね、いっしょに食べてね。つゆにひたしてもおいしいから」

 向日葵ちゃんがそう言って運んできてくれたのは、大皿に載った揚げ鶏だった。
 外側の皮はパリッとしていて、均等に切り分けられた断面からはやわらかそうなお肉が覗いている。

「それでは、いただきましょか」

「いただきます!」

 三人で食卓を囲み、一斉に手を合わせる。

 いざお箸を持つと、どれからいこうかと迷う。

 まずは大葉としょうが、胡麻と海苔をつゆに入れて、艶やかな麺と絡み合わせて口に含む。
 すると、大葉の香りが鼻から抜け、つゆの程良いしょっぱさと清涼感が舌の上に広がる。

「うー……。おいしい」

 夏の太陽を浴びて火照った体に、ひんやりとした味わいが沁み渡る。

 続けて今度は揚げ鶏に手を伸ばす。
 麺と一緒につゆと絡めて、一気に口に頬張る。
 すると、ジューシーな肉の旨みと冷たいしょっぱさが絶妙に絡み合って、思わず頬が落ちそうだった。

「うう……揚げ鶏もおいしいです。さすがは猫神様」

「それは良かった。その揚げ鶏、実は向日葵さんが作ったんですよ」

「えっ?」

 猫神様に言われて、私はびっくりして隣の向日葵ちゃんを見る。
 彼女はニコッと可愛らしい笑みを浮かべてこちらを見上げる。

「さくら、おいしい?」

 改めて聞かれて、私は驚いた顔のままこくこくと何度も頷く。

「これ、向日葵ちゃんが作ったの? 本当に? すっごく美味しいよ。向日葵ちゃん、お料理上手すぎるよ!」

 お世辞ではなく、本当にそう思った。

 カラッと揚がった表面にはムラがなくて、焼き色もとても綺麗だった。
 たぶん、私がやるよりずっと上手いんじゃないだろうか。

「向日葵さんが、ぜひ桜さんに食べてほしいと作ったんです。どうやらお気に召したようで、何よりです」

 そんな猫神様の言葉に、向日葵ちゃんは照れたようにはにかむ。
 ふにゃりと笑ったその顔が可愛すぎて、私はたまらず彼女の小さな体を抱きしめてしまった。

「すごいよ向日葵ちゃん。私のために作ってくれたんだね。嬉しいよ。ありがとう!」

 嬉しさで食欲はさらに増し、夏バテなんてどこへやら。

 テーブルの上にあったたっぷりの麺と揚げ鶏を、私はあっさりと完食してしまったのだった。



「私もお料理、練習しないとなぁ……」

 満腹感の幸せに浸りながら、私はぽつりと呟く。

 家では茜さんに食べてもらえるよう、できるだけ料理をするようにしているけれど、最近はこうして猫神様にご馳走になることが増えている。
 ……いや、かなりの頻度で食べさせてもらってるな?

 猫神様の料理の腕前には到底敵わないけれど、このままでは向日葵ちゃんにも先を越されてしまうかもしれない。
 むしろ、すでに越されていてもおかしくない気もする。
 それくらい、さっきの揚げ鶏はとても美味しかった。

「さくら、お料理がうまくなりたいの?」

 向日葵ちゃんに聞かれて、私はうーんと考える。

「上手くなりたいっていうより、ならなきゃって気持ちの方が強いかも。……私のお母さんは、すごくお料理が上手だったって聞いてるから」

 言いながら、もうほとんど覚えていない母のことを思い出す。

 母は、私が三歳の頃に病気でこの世を去った。
 もともと体が弱くて、あまり長生きはできないと言われていたらしい。
 それでも子どもは絶対に欲しいと願っていた母は、早くに結婚して私を産んで、二十歳を迎える前に亡くなってしまった。

「もしお母さんが生きてたら、私もお料理を教えてもらって、上手くなってたのかなって……たまに考えちゃう、かな」

 また無いものねだりをしているな、と思った。
 叶わないことを口にしていたって、むなしいだけなのに。

「って、ごめんね。話が逸れちゃったね。とにかく、お料理は上手くなりたいって思ってるよ」

 そう慌てて話を戻す私に、向日葵ちゃんは、

「さくら。さっきの揚げ鶏の揚げ方、おしえてあげよっか?」

「え?」

 ふふん、と胸を張ってドヤ顔をする向日葵ちゃん。

 もしかして、本気で教えてくれようとしてる?

「向日葵さんのお料理講座ですか。いいですね。私もぜひ見学させてほしいです」

 猫神様まで。

 どうやら料理素人の私のために、見た目は七歳の女の子がレクチャーしてくれるらしい。

 自分の不甲斐なさを感じながらも、イメージ的にはおままごとの進化系かな、という気持ちで臨んだお料理講座。
 しかしその内容は意外にも本格的で、お肉の下ごしらえもしっかりしていて。
 もしかしたら向日葵ちゃんは前世で料理人だったんじゃないかな? と思うほど、手際が良かった。

 そして何より、私にお料理を教えてくれるときの彼女の顔が、とても嬉しそうで。
 その笑顔が見られたことで、私の胸はいっぱいになった。
 
 
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「そういえば向日葵ちゃん。私に何か相談があるって言ってたよね?」

 お料理講座を終え、三人で再び座卓を囲みながらお菓子の箱を開けている時、私はふと思い出した。

 私に相談がある、と猫神様が言っていた。
 そのときの様子からすると、相談があるのは彼ではなく向日葵ちゃんのような気がする。

 彼女は無言のまま、猫神様と目を合わせる。
 すると猫神様はこくりと頷いて、例の白煙をポンッとあげ、手元に何やら一枚の紙を取り出した。

「向日葵さんが今度、一緒にここへ行きたいそうなんです」

 そう言ってテーブルの上に広げられた紙は、写真付きのチラシだった。

 チラシの真ん中には『嵐山灯籠流し』と、白い筆文字で大きく書かれている。

 背景にある写真は、日が暮れた後と思しき嵐山の風景だった。
 渡月橋の下を流れる桂川(かつらがわ)に、淡い灯籠の光がいくつも浮かんでいる。

「あっ。これ、五山送(ござんのおく)()の日にあるやつですよね。映像では見たことがあります」

 写真の美しさに、私は思わず見惚れてしまう。

 嵐山灯籠流しは、その名の通り嵐山で行われる灯籠流しだ。
 毎年八月十六日、京都では大文字焼(だいもんじや)きでお馴染みの五山送り火が行われる日に、灯籠流しも開催される。

 送り火も灯籠流しも、どちらも死者の魂を弔うためのものだ。
 お盆の時期にこの世へ帰ってきたご先祖様たちの魂を、再びあの世へと送り出すための篝火(かがりび)

「この日にね、わたしの灯籠を流してほしいの」

 向日葵ちゃんが言った。
 彼女は猫神様ではなく、隣に座る私の方へまっすぐ目を向けている。

「向日葵ちゃんの、灯籠を?」

「正確には、向日葵さんの前世を弔うための灯籠ですね。彼女があやかしとして生まれ変わる前、この現世で生きていた頃の彼女の魂を、桜さんに弔ってほしいんだそうです」

 猫神様がそう補足する。

 おそらくは今から十年ほど前にこの世を去った、向日葵ちゃんの前世。
 その魂を悼むための灯籠を、私が?

「そ、そんな大事な役目……私なんかでいいの? 向日葵ちゃん」

 ここ一ヶ月ほどの間、ほとんど毎日会っていたとはいえ、まだ出会って間もない私に任せて本当にいいのかと恐縮していると、

「さくらがいいの」

 と、彼女は私の目をまっすぐ見つめたまま言う。
 その瞳の奥には強い意思が宿っているように見えて、私はますます緊張してしまう。

「そんなに身構えんでも、灯籠流しは誰でも参加できますから。向日葵さんもこう言うてることですし、やってみませんか。桜さん」

 二人に挟まれてそう言われると、それならやってみようかな、という気持ちになる。
 灯籠流しは映像で見ただけでもすごく幻想的で綺麗だったし、いつか体験してみたいなと私も思っていた。
 
「向日葵ちゃんが、それでいいなら……」

 おずおずと私が了承すると、向日葵ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。

「では、決まりですね。灯籠流しは来週の八月十六日、お盆の最終日。日没後の午後七時からです。この世に留まるご先祖様の魂を、あの世へ送り出すための篝火。それを見届けたら、向日葵さんも幽世へ帰るそうです」

「えっ」

 猫神様の最後の言葉に、私は不意を突かれた。

「向日葵ちゃん、帰っちゃうんですか? でも、まだこの世でやり残したことがあるんじゃ——」

「彼女のやりたかったことは、このひと月ほどの間にほとんどやり尽くしたそうです。もう他に思い残すこともないんで、あとは灯籠流しだけをお願いしたいそうなんです」

 もう思い残すことはない。
 本当にそうなのだろうかと、私は疑問に思う。

「向日葵ちゃん。本当に、もう心残りはないの? あなたがこの現世で生きていた頃の記憶も、思いも、全部思い出せたの?」

 私は彼女から何も聞いていない。
 彼女の前世のことも、彼女がこうして現世へやってきた理由も。

「……心残りが、まったくないわけじゃないよ。でも、もう十分だから」

 向日葵ちゃんはそう、わずかに視線を落として、寂しげに微笑んで言った。

「ほんとうなら、わたしは……ここに来ることも叶わないはずだったから。ここに来て、さくらと会えて、すごく楽しかった。だからわたしは、もう十分。しあわせすぎて、これ以上ワガママを言ったらバチが当たっちゃうよ」

 幸せすぎて、バチが当たっちゃう——それは、私もよく考えることだった。

 私のこれは、もともとは母の口癖だったらしい。
 それを父が真似するようになって、さらに私も真似をするようになったのだ。

「だから……最後のワガママに、さくらに灯籠を流してほしいの。おねがいしてもいい?」

 そう尋ねられて、断る理由なんてなかった。
 向日葵ちゃんからの最後のお願い。
 私なんかでよければ、お安い御用だ。

「わかった。当日は、必ず向日葵ちゃんの灯籠を流すからね」

 来週まで迫った、お盆の最終日。

 向日葵ちゃんとお別れをするのは寂しいけれど、それは仕方ない。
 私たちはもともと、本来なら出会うことすらできなかったはずなのだから。

「それじゃあ、残りの一週間はたくさん遊ぼっか。向日葵ちゃんは、何かやりたいことはある?」

「さくらの話が聞きたい」

 間髪入れずにそんな返答があって、私は目を丸くした。

「えっ……私の話? そんなのでいいの?」

 彼女の残りの貴重な時間を、私の話なんかで費やしてしまうのは勿体無さすぎる。

 けれど彼女は、

「うん。聞きたい。たくさん。今のうちに、さくらのことをいっぱい知りたいの」

 まるで何かに急かされるように、そんなことを言う。

 私の話、なんて。
 これまでの十六年の人生の中で、胸を張って話せるようなことなんてほとんどないけれど。

 それでも、向日葵ちゃんがそう言ってくれるのなら。

 彼女が私を知ろうとしてくれるのは、素直に嬉しかった。

「では、私は台所で明日の仕込みをしてますので。お二人でゆっくり過ごしてくださいね」

 まるで自分は邪魔者だと言わんばかりに、猫神様はそう笑顔で言って部屋を離れていく。
 なんとなく気を遣われたような感じがしたけれど、気のせいだろうか。

 とにもかくにも、部屋に残された私たちは改めて、二人だけの会話に花を咲かせたのだった。
 
 
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 八月十六日。

 お盆の最終日。
 この世に帰ってきたご先祖様の霊を、再びあの世へと送り出す日。

 日暮れを迎えた嵐山は、川のせせらぎと、多くの見物客たちの声に包まれ、そこにカラコロと鳴る下駄の音が響いていた。

 昼の猛暑もやっと落ち着いて、体に溜まっていた熱も川風がやんわりと逃がしていく。

 灯籠流しのメイン会場となる桂川の両脇では、場所取りを終えた人々が腰を下ろしていた。
 川の上に架かる渡月橋も、欄干には人がびっしりと並んでいる。
 周辺には屋台も並び、空が暗くなるにつれてどんどん人の数も増えていく。

「灯籠の受付はあそこですね」

 猫神様が言った。
 彼は今は人間の姿で、グレーの浴衣に身を包んでいる。
 その視線の先には、『灯籠販売所』と書かれたテントがあった。

 私は先日と同じ紫陽花の柄が入った浴衣。
 向日葵ちゃんもいつもの黄色い浴衣姿で、お互いに手を繋いで人混みの中を進んでいく。

「あそこで灯籠を買えばいいんだね」

 私が言うと、向日葵ちゃんは「うん」と小さく頷いてから、

「さくら」

 と、どこか改まったように私の名前を呼んだ。

 なんとなく違和感を覚えて、私は彼女の顔を見下ろす。
 すると彼女もこちらをまっすぐ見上げて、いつになく大人びた声色で言った。

「ありがとう、さくら。わたし……この一ヶ月のあいだ、さくらと一緒にいられて、本当に本当にしあわせだった」

 これから訪れるお別れを前に、向日葵ちゃんは真剣な目をして言う。

 そんな風に挨拶をされると、やっぱり彼女とはもう二度と会うことはできないのかなと思って、私も寂しくなる。

「私もだよ。向日葵ちゃんと会えて、本当によかった」

 彼女と一緒に過ごした、高校二年の夏。
 この季節を、私はこれからもずっと忘れないだろう。

「次の方どうぞー」

 灯籠販売所の方から声が聞こえて、私たちはさらに歩を進めた。
 受付で灯籠を一基購入し、今度は『手書き記載所』と書かれたテントの方へ移動する。

 こちらのテントでは、購入した灯籠と水塔婆(みずとうば)に故人の名前を記入するらしい。
 近くにあった説明書きを読んでみると、どうやら名前は本名ではなく戒名を書くのだとか。

(そういえば私、向日葵ちゃんの戒名どころか本名も知らないな……)

 これは本人に確認しなければ、と私は辺りを見回す。
 しかし近くには向日葵ちゃんの姿も、猫神様の姿もない。

「あ、あれ? 二人ともどこに行っちゃったの?」

 先ほど灯籠を購入する際に、向日葵ちゃんとは手を離してしまった。
 そうしてここに来るまでに、どうやらはぐれてしまったようだ。
 
「ど、どうしよう……」

 一瞬悩んだものの、私が今いるのは手書き記載所のテントであることを思い出す。
 私が灯籠に名前を書くことは猫神様たちもわかっているはずなので、ここにいればきっと見つけてもらえるだろうと思い至る。

 とりあえず二人を待ちながら、私はテントの下に用意された机に向かった。
 周りでは皆それぞれ手元の水塔婆に故人の名前を書き込んでいる。

 筆ペンを手にして、私は机の上の灯籠を見下ろす。

 向日葵ちゃんの本名って何だろう。
 戒名は知ってるのかな——とぼんやり考えているうちに、

「……戒名がわからない場合は、『先祖代々』でもいいそうですよ」

 と、耳元で男の人の声がした。
 穏やかで、甘い響きのある透き通った声。

「ひゃっ!」

 突然のことにびっくりして顔を上げると、そこにはいつのまにか猫神様の姿があった。

「おや、すみません。驚かせてしまいましたね」

「あっ、いえ。こちらこそ大きな声を出してすみません……」
 
 つい反射的に謝ってしまったけれど、猫神様の距離感の近さは反則だった。
 こんな綺麗な顔で、そんな色気のある声を出されたら誰だって悲鳴を上げるに決まっている。

 けれどそんな私の胸中も知らずに、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて言う。

「向日葵さんの戒名は、本人も知らんようですから。『天沢家先祖代々之霊』で大丈夫ですよ」

「……天沢家?」

 猫神様の言葉に、私は首を傾げる。

 天沢というのは、私の苗字だ。
 私のご先祖様たちを弔うなら、その名前でいいと思うのだけれど。

「天沢って、それは私の苗字ですよね? でも、これは向日葵ちゃんのための灯籠ですから。向日葵ちゃんの名前でないと——」

「問題ありません。向日葵さんの前世の魂も、そこに含まれますから」

「……え?」

 猫神様が口にしたことを、私はすぐには理解できなかった。
 
 
「桜さん。あなたのお母様は、『菜乃花(なのか)』さんという名前やないですか?」

 菜乃花。
 猫神様が口にしたそれは、確かに私の母の名前だった。

「え。なんで……それを、猫神様が知ってるんですか?」

 私の母の名前を、彼に教えた覚えはない。
 なぜ彼がそれを知っているのか、私はわからなかった。
 それに、なぜ今このタイミングで母のことに触れるのかも。

「向日葵さんが言うてました。向日葵さんの前世の名前は……——『天沢菜乃花』さんやったと」

 その言葉の意味を、私は頭の中で何度も反芻(はんすう)した。

 向日葵ちゃんの前世。
 彼女がこの現世で生きていたときの名前は、天沢菜乃花。
 私の母と同じ名前だ。

 それが何を意味するのか、一瞬考えて、いやそんなはずはないよねと思い直す。

「……す、すごい偶然ですね、それ。向日葵ちゃんの本名が、私の母と同じだなんて……」

「偶然でも何でもありません。向日葵さんの前世は、あなたの母親なんですから」

 彼はそう、はっきりと言った。

 そのときの私は、一体どんな顔をしていたのかわからない。
 呆けていたのか、びっくりしていたのか、はたまた感情が追いつかなくて無表情だったのか。

「向日葵ちゃんが……私の、お母さん?」

 どくん、どくん、と心臓が跳ねる。

 まるで信じられない話を突きつけられて、私は混乱していた。
 けれど思い返してみれば、それが事実である可能性は確かにあった。

 座敷童子のあやかしは、人間の子どもが生まれ変わったものだと猫神様が言っていた。

 私の母は、私を産んだ後、二十歳を迎える前に亡くなった。
 当時の成人年齢は二十歳以上と定められていたため、母は大人になる前に亡くなったといえる。

 母が亡くなったのは、今から十三年前。
 私が三歳だったときだ。

 向日葵ちゃんがあやかしとして生まれ変わったのが十年ほど前だとしたら、時期も近い。

「そんな……。本当に、向日葵ちゃんが私の……?」

 いまだ半信半疑のまま、私は辺りを見渡した。

 テントの周辺には多くの人がごった返していて、向日葵ちゃんの小さな姿はどこにも見当たらない。

 一体どこへ行ってしまったのか。
 もしかして迷子になったんじゃ——と焦る私に、猫神様が言う。

「向日葵さんは、先ほど幽世に帰りました」

「え……?」

 帰った、と彼は言う。
 その神妙な様子からすると、どうやら冗談ではないらしい。

「桜さんに合わせる顔がないと言うてました。前世の彼女は、まだ幼かったあなたを残してこの世を去ったことで、今まであなたの成長を見守ることすらできなかった。なのに今さら自分の都合で会いにきてしまって、申し訳なかったと」

 申し訳ない……って、何それ。

 合わせる顔がどうとか、そんなの、どうだっていい。

 母が私に会いにきてくれた。
 その事実だけで、私は泣きそうになるくらいに嬉しかったのに。

「……お母さん……」

 本当に、彼女はもう行ってしまったのか。

 周囲をゆっくりと見回しながら、私は考える。
 これだけたくさんの人がここに集まっているのに、彼女は本当にもうここにはいないのか?

「……お母さん!」

 私は居ても立っても居られず、その場から駆け出して、母の姿を捜した。

 母は、私に会いにきてくれた。
 私に会うために、はるばる幽世からこの世界へやってきたのだ。

「お母さん……お母さん!」

 人混みを掻き分け、川の方へと向かう。

 ずっと会いたかった、私の家族。
 それが、今の今まで私のそばにいたのだ。

 彼女と繋いだ手の温もりが、この手にまだ残っている。
 なのに、どこを捜しても、彼女の姿はもう見当たらない。

 やがて渡月橋の上までやってくると、欄干に沿って並んだ人々の隙間から、オレンジ色の淡い光が見えた。

 橋の下を流れる桂川。
 その表面を、いくつもの淡い光が音もなく流れていく。

 いつのまにか、灯籠流しが始まっていた。

 死者の魂を弔う光。
 この世に帰ってきたご先祖様の魂を、再びあの世へと送り出すための篝火が、ゆらゆらと川の向こうへ遠ざかっていく。

「桜さん」

 後ろから猫神様の声が届いて、私はすぐに振り返った。

「猫神様……。いつから知っていたんですか」

 半ば咎めるように聞くと、彼は困ったように黙り込む。

「どうして、今まで話してくれなかったんですか。もっと早くに教えてくれていたら、私は……もっと、お母さんのこと……っ」

 勝手に涙が溢れてきて、止まらなくなった。

 あの向日葵ちゃんが、まさか私の母だったなんて。
 今さら知ったところで、私はもう母に会うことはできないのに。

「……向日葵さんにお願いされたんです。彼女があちらの世界へ帰るまでは、このことは桜さんには内緒にしておいてほしいと。……先ほども言いましたが、あなたのお母様——菜乃花さんは、あなたの母親として、あなたに合わせる顔がなかったんです。あなたを自分の手で育てられなかったことに、負い目を感じていました」

 私が三歳のときにこの世を去った母。
 亡くなったのは病気が原因だったのだから、それは仕方のないことなのに。

「座敷童子として生まれ変わった彼女は、あなたのことが心配で、それだけが心残りで、この世界までやってきたんです。前世の彼女もあなたと同じように、あやかしの姿が見えていたようですから……。その生きづらさを知っていたために、あなたがつらい思いをしているのではないかと心配して、その感情に引っ張られて、記憶がないままこの世界へ迷い込んだんです」

 母もまた、私と同じようにあやかしの姿が見えていた——その話は初耳だった。
 もしかしたらこの体質は、遺伝するものなのかもしれない。

「あやかしが見える人間は、周りと打ち解けるのが難しいときもあります。だから彼女はあなたを心配していた。でも、あなたには柚葉さんという友達もできましたから。そんなあなたを見て、菜乃花さんも安心したようです」

 言われて、私は先日の宵山でのことを思い出す。

 ——……よかったね、さくら。

 あの日。
 柚葉さんと本音で話し合って、本当の友達になれたとき、向日葵ちゃんは私のために泣いてくれたのだ。

「……そう、だったんですね。だから向日葵ちゃんはずっと、私の心に寄り添ってくれてたんですね」

 私のために、はるばる幽世から会いにきてくれた母。

 前世の記憶をいつ思い出したのかはわからないけれど、最初にこの嵐山に心惹かれたのは、やっぱり昔、家族で一緒にここへ来たことがあったからなのかもしれない。

 先週、私にお料理を教えてくれたのもきっと、私が母に習いたかったという気持ちを吐露したからなのだろう。
 私の気持ちを汲んで、彼女は私の願いを叶えてくれたのだ。

 そんな母の思いを理解した、そのとき。
 川の周囲にいた人たちが、一斉に歓声を上げた。

 釣られて顔を上げると、川の向こう——遠くに見える山の表面に、『大』の形をした赤い火が浮かび上がっていた。

 五山送り火。
 死者の魂を、あちらの世界へ帰すための光。

「お母さん……」

 彼女も、無事にあちらへ帰っただろうか。
 最後にさよならを言えなかったのは寂しいけれど、

「会いにきてくれて……ありがとう」

 優しい母の思いを受け止めて、私は胸の前で手を合わせ、彼女の冥福を一心に祈った。
 
 
 八月の終わり。
 夏休み最後の日。

 私は柚葉さんと一緒に、四条河原町の辺りでカフェめぐりを堪能していた。

「はー。さっきのほうじ茶ラテ、ほんま美味しかったなぁ」

「うん。もう一杯頼んじゃおうかと思って、危なかった……」

 柚葉さんとこうして二人で遊ぶのは、これが二回目だった。

 この京都に来て、初めて出来た学校の友達。
 最初は緊張していた私も、彼女の明るい人柄に触れて、少しずつ会話の量を増やせていっている気がする。

「明日はもう学校かぁ。夏休み短かったなぁ。あっという間やったわ」

 彼女の言う通り、明日からはまた授業が始まる。
 学校に行ったら、私はまたクラスメイトたちと顔を合わせることになる。

 今はこうして柚葉さんがたくさん話しかけてくれて、とても楽しい時間を過ごせているけれど、学校で他のみんなとも上手くやっていけるかどうかはまだわからない。

「あ。天沢さん、また不安になってるん? 大丈夫やって。うちのクラス、怖い子おらんし。教室でも堂々としてればええねん」

「う、うん」

 正直、不安を拭うことはできない。
 けれど、こうして柚葉さんに励ましてもらうと、明日はいつもより頑張れるような気がしてくるから不思議だ。

 これからは私も、もっと自分の心に素直になって、積極的に人と関わっていけるようにしたい。

「そろそろ六時かぁ。晩御飯はどうする? この辺で食べてく?」

 聞かれて、私はうーんと頭を悩ませる。

 柚葉さんと一緒に食べるのも魅力的だけれど、今日も仕事に向かった茜さんの晩御飯を作りたいという気持ちもある。

 どうしようかな……と何気なく顔を上げると、視線の先には四条大橋があった。
 多くの人が行き交う橋。
 その欄干の上に、ちょこんと白い毛玉が乗っているのが見える。

(あれは……)

 見覚えのあるその白いふわふわは、猫だった。
 鼻と耳がピンク色で、体のところどころに赤い線のような模様がある。
 ペロペロと可愛らしく前脚を舐めているその姿は、猫神様だ。

「ん? 天沢さん、どうかしたん? ……もしかして、また『あやかし』が見えるん?」

 隣から柚葉さんに聞かれて、私は我に返った。

「あ……。その、ええと」

 彼女とこういう話をするのはまだ慣れていなくて、私はあたふたとしてしまう。

 そんな私に、柚葉さんは優しく笑って、

「ええよ。『猫神様』が待ってるんやろ? ゆっくり会ってきいな」

 ポン、と肩を叩いて、私を彼のもとへ送り出してくれる。
 彼女は私にしか見えないあやかしの話を信じてくれて、理解してくれる。

「……うん。ありがとう、柚葉さん」

 じゃあね、と彼女に見送られて、私は猫神様のもとへと向かった。

 すると、こちらに気づいた猫神様はぐーっと背伸びをした後、欄干を下りて橋の袂まで走り、私を誘うようにして細い道へ入っていく。

 車が通れないほど狭いその小路は、先斗町だ。

 白猫の姿をした猫神様は、町家の並ぶその細い通りをまっすぐ走り、途中で右へ曲がる。

 曲がった先には、さらに狭い路地が伸びている。
 暗く細長いそこを突き当たりまでいけば、左側にあるのは例の狭間の場所だった。

「いらっしゃい、桜さん。どうぞ中へ」

 入口の前で待っていた猫神様は、いつのまにか白い青年の姿に戻っていた。

 すらりとした長身に纏うのは、白を基調とした羽織袴。
 雪のように白く長い髪を高く結い上げ、頭の上にはぴょこんと猫の耳が立つ。

 優しい彼に促され、座敷の方へ向かうと、そこには珍しく先客の姿があった。

「あなたは……」

 座卓の前で腕をこまねいていたのは、一人の青年だった。
 気難しそうに口元を真一文字に結んでいるその顔は、猫神様に負けず劣らずの美男子である。
 黒い束帯姿に、ゆるいウェーブのかかった栗色の髪。
 その髪にまぎれて、獣のような耳が垂れ下がっている。

「遅かったな。待ちくたびれたぞ」

 はぁ、と溜息を吐きながらそう言ったのは、犬神様だった。

「え、え。どうして、犬神様がここに?」

 彼は確か、幽世で警察のような役割を担っている人物だ。
 そんな彼がここにいるということは、何かあったのだろうか。

「どうぞ、桜さんも座ってくださいね。今日は犬神様がお話をしてくらはるそうですから」

「お話?」

 犬神様が直々に、私にお話をしてくれるらしい。
 私が緊張しながら彼の正面に腰を下ろすと、

「おい、猫。俺を呼び出したのはお前の方だろう。適当な説明をするな」

 と、犬神様は眉間にシワを寄せて不機嫌そうに言う。

 私は話が見えなくて、オロオロしながら猫神様の顔を見上げた。

「ふふ。そうですね。確かに彼をここへお呼びしたんは私です。でも、私の要望を飲んで、わざわざここまで足を運んでくらはったのは犬神様の方ですから」

 猫神様はどこか嬉しそうに言いながら、私の隣に腰を下ろして、手にした紙をこちらへ差し出す。

「これは……?」

 彼から手渡されたのは、便箋(びんせん)だった。
 まだ何も書かれていない、誰かへの手紙。
 ついでにペンも渡されて、私はさらに混乱する。

「桜さん。もし、あなたさえよければですが。あなたの書いた手紙を、幽世へ送ってみませんか?」

「え……?」

 私の手紙を、幽世へ。
 猫神様が口にした言葉に、私は目を瞬く。

「それってもしかして、向日葵ちゃんにも……——私のお母さんにも、お手紙を届けられるってことですか?」

「ええ。犬神様が、特別に許可を出してくらはったんです」

 その言葉を受けて、私が恐る恐る犬神様の方へ目をやると、彼は不機嫌そうな顔をしながらも、渋々といった様子で言った。

「今回だけ、特別だからな。一回ぶんの往復ぐらいなら許してやる。ここのところ、猫の奴が世話になってるそうだからな。人間に貸しを作るのは俺も趣味じゃない」

「そういうわけですから。どうですか、桜さん。幽世にいる向日葵さんに、お手紙を書いてみませんか?」

 まさかの提案に、私は胸が震えた。

 おそらくは猫神様が、犬神様に頼み込んでくれたのだろう。

 もう二度と言葉を交わすことはできないと思っていた母に、手紙を送ることができる。

「……いいんですか、猫神様。犬神様も」

「だから早くそうしろと言っている」

 犬神様はぶっきらぼうに言う。
 けれど、そんな強い口調とは裏腹に、彼の行動はとても慈悲深いものだった。
 彼は優しい人だと猫神様も言っていたけれど、本当にそうなんだろうなと思う。

「ありがとうございます、犬神様。猫神様も。……私、幸せです。いつもいつも、こんなに優しくしてもらえて」

「お礼を言うのはこちらの方ですよ。桜さんのおかげで、これまでもたくさんの迷子のあやかしを助けることができましたから。それに——」

 彼はそこで、珍しく照れたように、困ったような笑みを浮かべて言った。

「……桜さんのために、私にできることがあれば何だってします。あなたには、今度こそ幸せになってほしいですから」

「え?」

 今度こそ、というのはどういう意味だろう。
 すぐに聞き返そうとした私を遮るようにして、彼は再びその場に立ち上がった。

「そろそろお夕食の時間ですね。よかったら二人とも、ゆっくり召し上がってってください。もちろん、茜さんの分もありますので」

 そんないつもの台詞を耳にして、私は感激するとともに「ぐぅ」とお腹で返事をする。

 心なしか、犬神様もちょっとだけ不機嫌さを解いた気がする。

 台所の方からはすでに美味しそうな匂いがしていて、私はつい期待に胸を膨らませる。

「おい人間。早く手紙を書けよ。俺が食べ終わる頃には幽世に持っていくからな」

「はい。ありがとうございます!」

 猫神様が台所へ向かったのを見届けてから、私はあらためてペンをとった。

 本来なら決して届けることはできなかった、私の思い。
 それを、猫神様たちの優しさが届けてくれる。

 書きたいことはいっぱいある。
 伝えたい思いが胸に溢れている。

 私はたくさんの感謝を抱えながら、今まで心の奥に留めてきた気持ちを書き綴った。


 『拝啓 大好きなお母さんへ』——。







(終)




 最後までお読みいただきありがとうございました。
 まだまだ続きが書ける物語ですが、ひとまずここで一区切りと致します。

 当作品はアルファポリス第8回キャラ文芸大賞に応募し、〈ご当地賞〉を受賞しました。

 書籍化できるかどうかはまだわかりませんが、いつか良いご報告ができることを祈っております。
 
 

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