犬神様が声を荒げたとき、前方で盛り上がっている観客の中から一人だけ、こちらを振り返る人の姿があった。

 錫さんだった。
 群衆の中でただ一人、あやかしが見える彼女だけは、犬神様の声を聞きつけたのだ。

 「何かあったの?」とでも言いたげな視線が、私たちの方へ向けられる。
 けれどそれも束の間、今度は彼女の横から伸びてきた手が、その華奢な肩をツンツンと小突いた。

「……え?」

 彼女が驚いた様子で目を向けると、すぐ隣にいたのは狐の面を被った子どもだった。
 小学校三、四年生くらいの、浴衣を着た男の子。

 妖怪の仮装をした子だろうか——と私が呑気に考えていると、その子は無言のまま、急に錫さんの右手を掴み、ぐいっと力任せに手前へ引っ張った。

「わっ……!?」

 不意を突かれた彼女は、勢いよく前のめりになる。そのまま倒れそうになったところを、今度は別の子どもたちが瞬時に駆け寄ってきて支えた。

「えっ。何……?」

 混乱する彼女をいつのまにか取り囲んでいたのは、これまた小学生くらいの子どもたちだった。

 ざっと十人はいるだろうか。
 彼らは全員が面を被っていて、それらは猫やら犬やら狸やら、それぞれデザインが異なっている。そしてお尻のあたりからはもふもふの尻尾が生えている。

(あの尻尾は……本物?)

 やけにリアルな毛並みの尻尾。あれがもし本物だとしたら、あの子どもたちは人間ではない。

「あいつら……あやかしか!」

 犬神様がそう確信した、直後。

 子どもたちは一斉に錫さんの体を上に持ち上げ、胴上げをする形になった。そのまま一直線に走り出して、彼女をどこかへ連れていこうとする。

「えっ、えっ!? ちょっと待って!」

 複数の幼い手に支えられながら、錫さんが叫ぶ。けれどいくら訴えても子どもたちの足は止まらない。

 周りにいる人間は皆ステージ上の妖怪たちに夢中で、誰一人として錫さんの悲鳴に気づいていない。

「貴様ら、止まれ! その娘をどこへ連れていく気だ!?」

 犬神様が慌てて走り出し、私も一拍遅れてその後を追う。

 子どもたちの姿はやはり周りの人間には見えていないようで、誰にも止められることなく村内を駆け抜けていく。

 そうして向かった先は、映画のオープンセットが広がるエリアだった。
 江戸の下町。今は人の気配がなく薄暗いその場所へ、錫さんは連れ去られていく。

 やがて道の突き当たりまで来たところで、子どもたちはようやく足を止めた。
 かと思うと、彼らは両手で抱え上げていた錫さんの体を、ぺいっと投げ捨てるようにして前方へ放り出した。

「ひゃっ!」

 一瞬だけ宙に浮いた彼女の体は、やがてぽすんっと一人の青年の腕の中におさまった。

「へっ……?」

 たくましい腕に横抱きにされながら、彼女は恐る恐る顔を上げる。
 すると、月の光に照らされて見えたのは、やけに優しい微笑だった。

「よお、錫。久しぶりだな。また美人になったんじゃないか?」

 青年が、穏やかに話しかける。
 襟足が長めの銀髪に、燃えるような赤い瞳。薄墨色の着物に、藍色の羽織を肩から掛けている。

 その姿を目の前にして、錫さんは声を裏返らせた。

「えっ……。ひ、ひいおじいちゃんっ?」