「うーん、思い出せること……」
蜜柑くんはしばらく部屋の天井をぼんやりと眺めていたけれど、やがて何かに思い当たったのか、ほんのりと口元を綻ばせて言った。
「そういえば、桜がきれいだったよ」
「桜?」
急に私の名前が呼ばれたような気がして、一瞬どきりとする。
けれどもちろん、彼が口にしたのはお花の桜の方だった。
「桜の季節になるとね、その神社にはたくさんのお店が集まって、人もいっぱい来るんだ。みんなでおいしいものを食べながら、楽しそうに桜を見てたよ。ボクも、あの人も」
そう語る蜜柑くんの表情は、これ以上になく幸せそうだった。
きっと大切な思い出なのだろう。
「桜の時期にお店……ってことは、屋台のことかな? お祭りがあったってこと?」
私が聞くと、蜜柑くんは「そう、かも?」と曖昧に首を傾げる。
「この京都で桜祭りが行われる神社いうと、ある程度は絞られますね。平野さんに天神さん、やわたのはちまんさん、それから……」
猫神様がさん付けで並べたそれらの名前は、すべて京都にある神社のものだった。
京都の人は色んなものに『さん』を付けて呼ぶ文化がある。
いま名前が挙げられた神社は、平野神社、長岡天満宮、石清水八幡宮、平安神宮、梅宮大社、向日神社の六ヶ所だ。
さすがは案内人の神様。
現世での土地勘もしっかり持っているらしい。
「蜜柑くん。この六つの中に聞き覚えのある名前はない?」
「ごめん。ボク、あやかしになる前は人間の言葉はよくわからなかったから……」
「ああ、そっか」
確かにそうだな、と思う。
彼がまだ普通の猫だった頃は、こんな風に人と話すことはできなかったのだから。
とはいえ、たまに人の言葉を理解していそうな反応をする猫もいるけれど。
「その神社の桜はね、お昼に見るのも好きだったんだけど、夜に見るのも綺麗だったんだ。境内のあちこちに灯りがあってね、夜でもたくさんの人が見に来てた」
「夜桜のライトアップもあったいうことですね」
猫神様の言葉を聞いて、私はすぐさまスマホで夜桜の情報を検索する。
ちょうど今は桜の時期。
開花情報や祭りの日程など、桜に関する情報が日々更新されている。
「……石清水八幡宮と梅宮大社、それから向日神社では、夜桜のライトアップはないみたいです。他の三つの神社では開催されてますけど」
私がネットの検索結果を報告すると、猫神様は私と目を合わせて「ありがとうございます」と微笑んだ。
夜桜のライトアップがないということは、蜜柑くんの思い出の場所はそこではないということだ。
となると、残るは平野神社、長岡天満宮、平安神宮の三つ。
おそらくこの中のどれかが、彼の記憶にある場所なのだろう。
「蜜柑さん。その神社の桜は、色んな形をしてましたか?」
(形……?)
猫神様が不思議な質問をしたので、私はその意図を測りかねていると、
「あっ。うん! そうそう! お花の形がね、みんなバラバラだった。花びらが少ないのもあれば、いっぱいなのもあって。どこを見ても、ちょっとずつ形が違うんだ」
蜜柑くんは興奮気味に、猫神様の質問に食いつく。
「なるほど。桜の種類が多いいうことは、その神社は平野さんかもしれませんね」
猫神様はそう納得した様子で、今度は私に声をかける。
「桜さん。すみませんが、『平野神社』を検索してもらえますか。できたら境内の写真を蜜柑さんに見せてあげてほしいんですが」
私はもちろん快諾して、言われた通りに画像を検索する。
すると、画面には平野神社と思しき境内の写真がいくつも並んだ。
「蜜柑くん。あなたの思い出の場所って、ここのことかな?」
スマホの画面を蜜柑くんに見せると、彼はそれを目にした瞬間、ふわふわの耳をぴょこりと立てる。
「……うん。間違いないよ。ボクがあの人と一緒にいたのは、この神社だ!」