彼の素性がわかったところで、私は正直に話すことにした。
「その、私……普通の人には見えないものが見えたり、声が聞こえたりするんです。だからわかるんです。この三方も、あなたのお母様のもとへ帰りたかったんです。あなたたちが暮らしていた、その家に」
男性はびっくりした表情のまま、私の突拍子もない話を聞いている。
信じてはもらえないかもしれない。
けれど、それでも伝えたかった。小麦ちゃんの思いを。
「この三方は、あなたたちの家が好きだったんです。だから帰りたかったんです。この子にとっての家族は、あなたたちだけだから」
自分の家。帰りたい場所。
それを失った悲しみは、私も痛いほどにわかる。
小麦ちゃんも、そしてこの男性も、きっと同じ思いを抱いている。
家族のもとへ帰りたかった。大事な思い出が詰まったその家に、ただ帰りたかったのだ。
「……その三方が、ほんまにそう言うてるんですか?」
男性は再び柚葉さんの手元へと目を落とす。
相変わらず、三方の上には小麦ちゃんがちょこんと乗っている。彼女は涙に濡れた瞳で、静かに男性を見つめ返している。
「確かに、物にも魂が宿る……と、昔から言いますもんね。特に長い年月を経た物には神様が宿るとか」
そう呟くように言った彼の瞳には、おそらく小麦ちゃんの姿は映っていない。
けれど、たとえ姿は見えなくても、そこにある存在を感じ取ってくれたのだろうか。
「その三方は、僕が物心ついた時からすでに相当古いものでした。一体いつごろ作られたものなのかもわかりません。もしかしたら母の代よりももっと前から、あの家にあったんかもしれません。……母は、その三方がお気に入りでした。木の色が小麦色っぽい言うて、綺麗な色やって」
小麦色、と呼ばれていたという小麦ちゃん。やはり彼女の持ち主は、この三方をとても大事にしていたのだ。
「残念ながら、母はもういません。でも……僕は、その息子ですから。もし可能であれば、その三方を僕に譲ってもらうことはできませんか?」
その申し出は、私たちにとっては願ってもないことだった。
「この三方は、母の形見ですから。……長いあいだ家にも帰らんと、何を今さらと思われるかもしれませんけど。母があの家で大事にしてきたものを、僕も大事にしたい思うんです。やから、どうか」
私と柚葉さんはお互いの顔を見合わせ、異論はないと頷き合う。
けれど、当の小麦ちゃんがどう答えるかはわからない。
彼女が最後の家族だと言っていたおばあさんはもういないし、思い出の家ももうないのだ。
「小麦さんは、どうしたい思てますか?」
猫神様が、いつもの穏やかな声で聞く。
小麦ちゃんはぴょこりと後ろ脚で立ち上がって、目の前の男性をまっすぐに見上げて言った。
「この人がもう一度、わたしの家族になってくれるのね?」
彼女の小さな尻尾が、フリフリッと揺れる。
どうやら喜んでくれているらしい。
私は猫神様と視線を合わせ、ホッと笑みを向け合った。
直後。池の周りから、ささやかな拍手が上がった。
見ると、特設舞台で行われていた法要が終わったところだった。
お坊さんがお辞儀をしている後ろで、真っ白な月が煌々と輝いている。
その光は池の水面にも映り、二つの月の間を、舟は音もなく滑っていった。



