猫神様、と彼は言う。
けれど、道の先にいるのはどう見てもただの猫だ。
真っ白な毛並みはツヤがあって、ところどころに赤い線のような模様が入っている。
鼻と耳がピンク色をしていてとても可愛い……じゃなくて。
あの白猫が、本当に例の『猫神様』なのだろうか。
「あ……蜜柑くん、待って!」
こちらがぼーっとしている間に、蜜柑くんの背中はどんどん遠くなって、私は慌てて追いかける。
白猫はそんな私たちをどこかへ誘うように、身軽な体を翻らせて路地の奥へと駆けていく。
道の両脇に並ぶ店の提灯が、次々と赤い光を灯していく。
どうやら日没を迎えたようで、空はいつのまにか夜の色を連れてきていた。
白猫はやがて、路地の途中で右へ曲がった。
同じようにして私たちもそこを曲がろうとすると、
「わっ……」
思わず、そんな声が出た。
曲がり角の向こうに続く道は、さらに細くて暗かった。
人がひとりギリギリ通れるくらいの狭い道が、長ーくまっすぐ続いて、その突き当たりの左側からほんのりと灯りが漏れている。
なんだか、この先に秘密の隠れ家でもあるような雰囲気だった。
けして覗いてはいけない世界が、そこに広がっているかのような。
「きっとあそこだね、猫神様のところ!」
蜜柑くんは変わらず明るい声で言って、そのまま道の先へと走り出す。
そして私はといえば、その場の雰囲気につい怖気づいて尻込みしていた。
この先で、猫神様が待っている。
蜜柑くんと違って人間である私は、このまま足を踏み入れてもいいのだろうか——と、今さらになって不安を覚える。
「桜おねえちゃん、何してるの。早くおいでよ!」
蜜柑くんが早く早くと嬉しそうに手招きする。
そんな彼を見て、私はようやく前へ進む決心をした。
そうだ。
私は道案内を引き受けたのだから、最後まで見届けなきゃ。
意を決して足を踏み出し、真っ暗な細い道を進んでいく。
やがて突き当たりの手前までやってきて、左側をそっと覗いてみると——、そこには何かのお店と思しき入口があった。
閉じられた木製の格子戸から、淡い光が漏れている。
足元には行燈もあって、一見すると他のお店と変わらない佇まいだ。
けれど看板のようなものは何もないし、暖簾も表札も出ていない。
本当にここがそうなの? と訝る私の目の前で、蜜柑くんは無遠慮に扉を横へスライドさせた。
「おじゃましま——す!」
「あっ……ちょ、ちょっと蜜柑くん!」
いきなり入ったら怒られるんじゃ、と焦る私の耳へ、今度は別の声が届く。
「いらっしゃい。ようここまで辿り着きましたね」
男の人の声だった。
京都っぽい訛りのある、穏やかで、どこか甘い響きのある透き通った声。
見ると、扉の奥にはまるで旅館のような広い土間があり、上り框の向こうには客を迎えるためのスリッパが揃えてある。
そして、さらにその奥。
淡い暖色の絨毯が敷かれた正面には、一人の青年が立っていた。
その姿は、一目でこの世のものではないとわかる美しさだった。
雪のように真っ白な、腰まで伸びる長い髪。
それを赤い組紐で高く結び、身に纏うのは白を基調とした羽織袴。
肌も抜けるように白く、やや切れ長の瞳は黄金色。
そして鼻筋の通った端正な顔の上には、ふわふわの三角形の耳がぴょこんと立っている。
「猫神様!」
蜜柑くんは嬉しそうに言って、すぐさま彼のもとへと駆けていく。
あれ?
さっきはあの白猫のことを猫神様って言ってたけど、こっちが本物?
確かに見た目の神々しさでいえば、こちらが正解のような気はするけれど。
「よしよし、蜜柑さん。あなたはまだ半人前なんですから、こっちの世界に来たらあかん言うたはずでしょう」
猫神様は、自分の腰にしがみついてきた蜜柑くんの頭を優しく撫でる。
「ごめんなさい。でもボク、どうしても会いたい人がいて……」
どうやら二人は顔見知りらしい。
彼らの会話についていけない私は、どういう顔をしていればいいのかわからず、所在なく視線を泳がせる。
と、そんな私の様子に気づいたのか、猫神様は今度は私の方を見てにこりと笑いかける。
「そちらのお嬢さんも、遠慮せんと中に入ってくださいね」
「えっ。あ、はい。ありがとうございます……」
思いのほか優しげに声をかけられて、私はオロオロとしながら土間に足を踏み入れた。
「さて。蜜柑さんがわざわざこっちの世界に来たいうことは、込み入った事情があるわけですね。お腹も空いてるやろうし、三人でご飯でも食べながらお話ししましょか」
「え。ご飯……?」
猫神様からのまさかの提案に、私のお腹は卑しくも「ぐぅ」と鳴る。
「わーい、ごはんー! ボク、猫神様の作ったごはん大好き!」
蜜柑くんは飛び上がって喜び、それを見た猫神様は穏やかに微笑んで、私たちを奥の座敷へと案内する。
そうして足を進ませる度、何やら美味しそうな香りが漂ってくる。
「お腹が空いてると、気持ちも沈みますからね。ようさん食べて、ゆっくりしてってくださいね」