迷子のあやかし案内人 〜京都先斗町の猫神様〜

 
          ◯


 繁盛する店内はテーブル席が二十ほどあり、座っているのは女性客がほとんどだった。

 男性は猫神様ともう一人、二十代くらいのカップルの彼氏だけ。
 おそらくは彼女にせがまれて一緒に来たのだろう。

 店の外観と同じく、内装も和モダンな雰囲気がお洒落な空間だった。

 私もここに来るのは初めてで、つい物珍しさから辺りを見回してしまう。

「とりあえず、メニューを決めましょか」

「あっ……はい!」

 テーブルの向かいに座る猫神様が言って、私はやっと我に返る。

 そうだ、まずは注文しなきゃ。

 周りの人たちからすれば私たちは二人連れだけれど、たまたま四人席に案内してもらえたのはよかった。
 たとえ姿は見えなくても、私の隣には茶々丸くんが席に着いている。

「あ、俺これ食べたい!」

 茶々丸くんはそう嬉しそうに、フルーツの入った抹茶あんみつとみたらし団子のセットを指差す。

 しかし猫神様は、

「茶々丸さん。あなたはまだ半人前のあやかしですから、こちらの世界の人間が作ったものは食べられませんよ」

「えっ。そうなのか!?」

 ガーン、と擬音の聞こえてきそうな顔で、茶々丸くんはショックを受ける。

 私も「そういうものなのか」と、もはや何度目になるかわからない感想を抱く。

「本来なら、半人前のあやかしはこちらの世界へ来ることも許されてませんからね。残念ですけど、今は我慢してください」

「ちえっ。なら仕方ないか」

 茶々丸くんは本当に残念そうに唇を尖らせる。
 頭の上にある丸い耳もしゅんとして、見ているだけで可哀想になってくる。

 猫神様も同じ気持ちになったのか、彼はメニュー表にある写真をじっと眺めてから、

「よければ今度、私が作ったお菓子をご馳走しますよ。満足してもらえるかはわかりませんが」

 そんな彼からの申し出に、茶々丸くんは再び目を輝かせて顔を上げる。

「えっ、いいのか!?」

「ええ。ぜひまた、あちらの世界で私のところに寄ってください」

 二人の間で約束が交わされ、茶々丸くんは丸っこい尻尾をぶんぶんと嬉しそうに振る。

 そんな微笑ましいやり取りに私は目を細めながら、やがてメニュー表から注文するものを決めた。

 私はカラフルなお花のデザインの練り切りが三つ載ったプレート。
 猫神様はイチゴ大福とほうじ茶のセットだ。

 注文を取ってくれたのは大学生くらいのアルバイトっぽいお姉さんで、あたたかみのある笑顔がこのお店にとても似合っている。

 やがて運ばれてきたお水で喉を潤すと、私はふとあることを思い出した。

「そういえば、さっき言ってた『白雪』って名前……あれは、こっちの世界で使っている名前なんですか?」

 先ほど、猫神様が茜さんに対して名乗った名前。
 苗字なのか下の名前なのか判断は難しいけれど、どちらにせよ綺麗な響きだなと思う。

「ええ。名前が必要な場面では、そう名乗ってます。というより、『白雪』は私の本名なんです。皆さんが私を『猫神様』と呼ぶのは愛称みたいなものですから」

「えっ。そうだったんですか?」

 てっきり、『猫神様』が彼の名前なのだと思っていた。
 けれど考えてみればそんなはずはないか、と今さら気づく。

「私も『神』を名乗る以前は、普通のあやかしでしたからね。あやかしになる前は、茶々丸さんと同じで、私もこの現世で生きてたんです。ずっと昔、気の遠くなるほど古い時代に、普通の猫として生きてました。その時に名付けられたのが『白雪』なんです」

 あやかしになる前の猫神様。

 彼も茶々丸くんと同じで、この現世を去った後にあやかしになったのだ。

「ですから私も、茶々丸さんたちのように、こちらの世界へ迷い込むあやかしたちの気持ちはわかるつもりです。彼らにもそれぞれ過去があって、事情があって、何かを成し遂げたい気持ちや、心残りがあるでしょうからね」

 そう言って、彼は茶々丸くんの横顔を優しく見つめる。

 当の茶々丸くんは店の厨房の方に目を向けて、おそらくは茜さんの姿を捜していた。

 彼らにはそれぞれ、この世界に残してきた思いがある。

(猫神様も、過去に色々なことがあったのかな……)

 まだこの世に生まれて十六年しか経っていない私にとって、彼らが積み重ねてきただろう思いと年月は、想像するだけで途方もなかった。
 
 
          ◯


 和菓子がテーブルに運ばれてきた後も、茶々丸くんは茜さんの方をじっと見つめていた。

 茜さんは副店長なので、店のホールにずっと出ているわけではない。
 厨房とホールとを何度も行き来して、あちこちに指示を出している。

 家では明るくて優しいお姉さんという印象だけれど、ここではそれに加えてテキパキと仕事をこなす頼もしい面も見える。

「やっぱり、あいつ……なんだろうな」

 どこか確信を持ったように、茶々丸くんが呟いた。

「やっぱり茜さんが、茶々丸くんの捜してる人なの?」

 手元の練り切りを菓子切りで二等分にしながら、私は聞く。

「うん。見た目とか雰囲気が似てるってのもあるけど、何より……においが同じなんだ」

 におい。

 さすがは狸のあやかし。
 人を判別するのに嗅覚を使うのは、人間にはなかなかできない芸当だ。

「よかったですね。二十年前のあの情報だけで、本人と再会できるなんて奇跡に近いと思います」

 猫神様の言う通りだった。

 何の素性も知れない、一期一会の相手を捜し出すなんて。
 私がたまたま茜さんと一緒に暮らしていたからよかったものの、それがなければきっと見つからなかったと思う。

「では、あとは恩返しの方法を考えるだけですね」

「ん……」

 と、そんな二人のやり取りを耳にして、私はハッとする。

 そういえば、茶々丸くんの目的は恩返しなのだ。
 こうして茜さんと再会できたのは良かったけれど、彼女に自分の存在を認知してもらえない茶々丸くんは、一体どうやって恩返しをするのだろうか。

「茶々丸さんは、妖術はどれくらい使えるんですか?」

変化(へんげ)の術が少し……たぶん三十秒くらいなら」

 妖術。
 何やらファンタジックなワードが飛び出してきて、私は妙な高揚感を覚える。

「三十秒も持続できるのはすごいですね。それなら私の力と合わせれば、この現世で出来ることも多いと思います」

 やっぱり猫神様の力ありきなんだな、と思う。

 迷子のあやかしを幽世へ送り帰す案内人——と彼は名乗っていたけれど、もはや便利屋と化しているのは気にしてないのだろうか。

「それで……あの茜って奴のことだけど。あいつの喜びそうなことって、何か知ってるか?」

 と、茶々丸くんは今度は私の顔を見て尋ねてきた。

 茜さんの喜びそうなこと。
 そういえば、全然考えてなかった。

 茶々丸くんの恩人が茜さんかもしれないと気づいた時点で考えておくべきだったのに、私ってば間抜けすぎる。

「え、えーっと。茜さんは、人にしてもらったことは何でも喜んでくれる人だけど……」

「何か具体的なものはないのか?」

 具体的なもの。
 私は過去の記憶を手繰り寄せ、彼女が嬉しそうにしていた時のことを思い出す。

 私に友達ができたかもしれないと思って喜んでいたとき。
 ……って、これは私が主体だから関係ないか。

 あとは猫神様からのお弁当をもらったとき? ……と、私があれこれ悩んでいるうちに、近くの席からガシャンッ! と何かの割れる音がした。

「ひゃっ!」

 突如上がった大きな音に、私は思わず全身を強張らせる。

 隣に座る茶々丸くんも、耳と尻尾の毛を一気に逆立たせる。
 
 
「いい加減にしてよ!!」

 そんな声が、店内に響いた。
 あきらかな怒気を孕んだ金切り声。

 見ると、斜め後ろの席に座っていた二十代くらいのカップルが何やら揉めていた。

 女性はすでに怒りの頂点に達したようで、その場に立ち上がって向かいの席の男性を睨みつけている。

「もう、ほんまにうんざり! あんたってなんでいっつもそうなん!? もう付き合ってられへんわ!」

 そんな言葉を残して、彼女はさっさと荷物を手に取ると店を出ていってしまった。

 床には立ち上がった際にテーブルから落ちたのか、湯呑みが割れて破片が散らばっている。

 しん、と水を打ったようにその場は静まり返っていた。

(うわ……。人がフラれる瞬間を見ちゃった)

 なんだか、こちらまで気まずくなってくる。
 一体何があったのかはわからないけれど、このお店で話した内容が決定打になってしまったのなら、ちょっと悲しい。

 男性はイスに腰掛けたまま呆然としていた。
 そこへ先ほどオーダーを取りにきてくれた大学生くらいのお姉さんが慌てて駆けつける。

「大丈夫ですかっ?」

 男性にケガがないことを確認し、すぐさま床に膝をついて散らばった破片を集め始める。

 その間も男性は返事一つせず微動だにしないので、きっと放心状態なんだろうな——と気の毒に思っていると、

「……あのさぁ」

 男性はそう、やけに嫌味っぽい声で、足元のお姉さんに威圧的に語りかけた。

「こんなことになったのも、もとはといえばあんたらのせいやろ?」

「え?」

 急な言い掛かりに、お姉さんは目を丸くする。

「注文取りにくるのも遅いし、オーダーしてからもかなり待たされたし。そういうのの積み重ねで険悪な空気になったんや。やから、こんな結果になったのもあんたらのせいやろ。これ、どう責任とってくれるんや?」

 まさかの責任転嫁だった。
 自分がフラれたことをよほど認めたくないのか、彼はしきりに店側の非を主張する。

 お姉さんはどうしていいのかわからず、ペコペコと頭を下げている。

「な、なんか大変なことになってきたね……?」

 私が隣の茶々丸くんに小声で話しかけている間に、今度は店の奥から茜さんが飛んできた。
 どうやら今は店長が不在のようで、トラブルの対応は副店長である彼女の役目のようだ。

 男性はなかなか折れず、宥めようとすればするほどヒートアップしていく。
 ついには慰謝料を払えなんて言い出して、茜さんはほとほと困り果てていた。

「茶々丸さん」

 と、猫神様は茶々丸くんと目を合わせる。

「ん」

 茶々丸くんはそのアイコンタクトを受け取ると、スッとその場に立ち上がり、茜さんたちのもとへ向かった。

「え、茶々丸くん……?」

 茜さんのピンチに、後ろから茶々丸くんが駆けつける。
 けれど半人前のあやかしである彼は、その存在すら周りからは認知されない。

 男性はまだごちゃごちゃと駄々をこねている。

 一体どうするつもりなんだろう——と、私が固唾を呑んで見守る中。
 茶々丸くんは両手を胸の前で組み、印を結ぶようにして指を絡ませ、肩をいからせて言った。

「……変化(へんげ)ッ!」

 直後。
 ぼふんっと白煙をあげて、茶々丸くんの体は一瞬にして別の何かへと姿を変えた。

 筋肉質な背中。
 全長が二メートルはゆうに超える長身。
 黒っぽい肌をしたその全身には、真っ赤な炎をまとっている。

(あれって……)

 その姿を、私はどこかのお寺で見たことがあった。

 右手に剣を持ち、怒りの表情を露わにしたその姿は、不動明王(ふどうみょうおう)にそっくりだった。

 剥き出しになった鋭い牙。
 ぎょろりとした恐ろしい目が、茜さんの背後から男性をまっすぐに見下ろす。
 
 
「は……」

 と、男性は不動明王に化けた茶々丸くんと目を合わせた瞬間、ぴたりと口を止め、全身を凍りつかせた。

 二人の視線が、まっすぐ向かい合っている。
 猫神様の力のおかげなのか、どうやらあの男性にも、茶々丸くんの今の姿が見えているらしい。

「あ……あ……」

 目を見開いたまま、驚愕の表情を浮かべる彼に、茜さんは不思議そうに首をかしげる。

「お客様? どうかしはりました?」

「……で、でた……」

「え?」

「ごっ……ごめんなさい——ッ!!」

 そう叫ぶなり、男性は半泣きで茜さんの隣を通り過ぎ、店の出口へと走る。

 そのまま外に出ようとしたので、私は咄嗟に「あっ、食い逃げ!」と声を上げた。

 男性はもはやパニックになっていたけれど、さすがに無銭飲食は駄目だと理性が働いたのか、財布から取り出した五千円札をレジに叩きつけて店を出て行った。

 その(かん)、ちょうど三十秒。

 ポンッ、と再び白煙をあげて、茶々丸くんは元の中学生くらいの姿に戻った。

「……な、何やったんや? あれ」

 茜さんはポカンとした表情で、男性の走り去っていった方を見つめている。
 すぐ目の前には茶々丸くんが立っていたけれど、彼女には見えていないようだった。

 茶々丸くんの妖術のおかげで、迷惑な客を追い払うことができた。

 しかしその事実を茜さんが知ることはない。

 それでも、茶々丸くんはどこかやり切ったような顔で、満足げな笑みを浮かべて茜さんのことを見つめていた。


          ◯


「ほんまごめんなぁ、桜。白雪くんも。せっかくお店に来てくれたのに、嫌なところ見せてしもたなぁ」

 私たちが店を出ようとすると、茜さんは申し訳なさそうに見送りに来てくれた。

「でも、なんや不思議な感じやったなぁ。あのお客さん、えらい形相で怒ってたわりには、急に大人しなって……。何か心境の変化でもあったんやろか」

 うーん、と不思議そうに宙を見つめる茜さん。

 私は茶々丸くんの方を見てみたけれど、彼はもはや恩返しを終えたことで満足しているようだった。

 はるばる幽世からこちらの世界までやってきて、二十年前の恩を返しにきた茶々丸くん。
 あちらの世界へ帰った後は、きっともう茜さんと会うこともないだろう。

 二人が同じ空間にいられるのは、これが最後になる。

 だから私は、差し出がましいとは自覚しつつも、つい口を出さずにはいられなかった。

「あ……あのね、茜さん。昨日、糺の森の狸の話をしてくれたでしょう?」

「え? 狸?」

 急に振られた話題に、茜さんはきょとんとする。

「その狸の子がね、茜さんにお礼をしにきたの。あの森で助けてくれた恩を返すために」

 そんな突拍子もない私の話に、彼女は目をぱちくりとさせている。

 ああ、こんな話をしたらまた気味悪がられるかもしれない——そう思いながらも、私はいま彼女に伝えたい言葉を止めることができなかった。

「私、人には見えないものが見えるの。だから……さっき茜さんが困ってたのを助けてくれたのは、その狸の子なんだよ」

 きっと信じてはもらえないだろう、不可思議な話。

 それでも、このまま何事もなかったかのように彼女に伝えずにいるのは、私が堪えられなかった。

 茜さんはしばらくポカンとしていたけれど、私が真剣な目で見つめている内に、やがてふっと穏やかな笑みを浮かべて言った。

「狸かぁ。そっかそっか。あのときのことを覚えててくれたんか。それで、さっきのお客さんを追い払ってくれたんやね」

「……信じてくれるの?」

「もちろん。桜は嘘は吐かん子やからな。話してくれて私も嬉しいわ。桜も、その狸の子も、おおきに」

 そう言って、彼女はいつものように明るく笑った。

 どこまで信じてくれたのかはわからない。

 それでも、こんな私の話を受け止めて、ありがとうを伝えてくれる彼女の優しさに、私の胸はあたたかさで満たされるのだった。
 
 
          ◯


 あちらの世界へ帰る前に、最後にもう一度だけ糺の森が見たいと茶々丸くんが言った。

 猫神様は例の獣の姿になって、私たちをそこまで運んでくれた。

 西の空はほんのりと夕暮れの色を見せ始め、淡いオレンジ色の光を名残惜しげに境内へと注いでいる。

 茶々丸くんは森に住む狸たちに別れを告げると、もうやり残したことはないといった様子で、猫神様の前に立った。

 猫神様はすでに白く美しい青年の姿に戻っており、いつもの穏やかな笑みで彼を見つめ返す。

「色々とありがとな、猫神様。それから、桜も」

 桜、と初めて名前を呼ばれて、私はなんだかくすぐったい感じがした。
 あっちの世界に帰っても、彼は私のことを覚えていてくれるだろうか。

「こちらこそ、ありがとうね、茶々丸くん。私、あなたに会えてよかった。茜さんも喜んでくれたし……本当によかった」

 もう会えなくなるのは寂しいけれど、こうして素敵な思い出をつくることができた。
 今日のことを、私はこれからもずっと忘れないだろう。

「それでは、茶々丸さん。あなたを幽世へ送り帰しますね」

 猫神様はその場に(ひざまず)いて、茶々丸くんの右手をとる。

 そして、その手の甲にそっと口づけを落とす。

 すると、たちまち茶々丸くんの体は真っ白な光に包まれて、夕暮れ色に染まる森の景色の中へと、ゆっくりと溶けて消えていったのだった。

「……桜さん。先ほど茜さんにあの話をするとき、あなたは怖かったんじゃないですか?」

「え?」

 茶々丸くんのことを見届けてから、猫神様は再びその場に立ち上がると、今度は私の方へ体を向けて言った。

「あなたは、人には見えないものが見える。その話を誰かにするのは、あなたにとってとても怖いことでしょう。ましてや茜さんは、あなたと一緒に住んだはる人です。もしも嫌われてしまったら、という不安もあったんじゃないですか?」

 図星だった。

 私があやかしのことを口にすることで、周りの人たちはいつも私を気味悪がってきた。
 だから茜さんにあの話をするのは怖かった。

 でも、

「茜さんは、優しい人ですから……。私の話も信じてくれましたし、話してよかったと私は思っています」

「あなたがそう言うなら、いいんですが。前にも言いましたけど、桜さんは自分のことを後回しにする悪い癖がありますから。もっと自分のことも大切にしてくださいね。自分の気持ちを(ないがし)ろにすると、後から悔やむことになるのは、自分自身ですから」

 そう言ったときの猫神様は、いつになく寂しげな瞳を足元へ向けていた。

 もしかしたら彼も、過去に何かを後悔したことがあるのかもしれない。

 猫として、あやかしとして、神様として——長い年月を生きてきた彼にもまた、何か心残りがあるのだろうか。

「さて。風も冷たくなってきましたし、そろそろ戻りましょか。もしよければ、お夕食をご馳走しますよ」

「えっ……いいんですか!?」

「今日もたくさん手伝ってもらいましたからね。そのお礼です」

 もはや彼の手料理を常に待ち望んでいる自分がいる。

 完全に餌付けされた私の胃袋は、彼の言葉を耳にしただけで、卑しくも「ぐぅ」と甘えた声を出すのだった。
 
 
 しとしとと降り続ける雨の中で、女の人が泣いていた。
 四条大橋の欄干に肘をつき、華奢な白い手で顔を覆って、時折肩を震わせている。

 傘を持たないその全身は、すでにぐっしょりと濡れていた。

 藤色の着物に、長く伸びた黒髪。
 水を含んだそれらは痩せた体に張り付いて、ぽたぽたと雫を垂らしている。

 周りを行き交う人々は、誰も足を止めようとしない。
 というよりも、そもそも彼女の存在にすら気づいていない。

 ということは、彼女もまた人の目には見えないあやかしなのだ。

 いまこの場で彼女の姿が見えているのは、きっと私だけ。

(どうしようかなぁ……)

 そろそろ夏服が恋しい気温の中、私はシャツの袖を捲りながら考える。

 ゴールデンウィーク明けの、高校からの帰り道。
 例によって晩ごはんの食材を買うため、駅近くのスーパーへ寄ろうとしていたところだった。

 まだ日の明るいうちから、こういう存在に出くわす機会は最近どんどん増えている。
 もしかしたらこの京都という土地は、あやかしが特に集まりやすい場所なのかもしれない。

(さすがに、このまま放っておくのは可哀想……だけど)

 さめざめと泣いているこの女性を見て見ぬフリをするのは、さすがに良心が痛む。

 とはいえ、こういう存在にはあまり不用意に近づいてはいけないという教訓もある。

 過去には良かれと思って近づいて、(たた)られそうになったことも何度かあった。
 いま目の前で泣いているこの女性だって、私を罠に嵌めるために演技をしている可能性もある。

 けれど。

 今の私には、猫神様という頼もしい味方がいる。
 たとえ危険なあやかしに遭遇したとしても、きっと彼が助けてくれるだろう。

 ここひと月ほどの間に、私は彼と一緒に迷子のあやかしの困り事を何件も解決してきた。

 だから……——このときの私はきっと、調子に乗っていたのだと思う。

 あやかしというのがどういうモノなのか、ちゃんと理解していないのにもかかわらず、身のほど知らずに思い上がっていた。

 ゆえに私は、その女性に声をかけてしまったのだ。

「あの。どうして泣いてるんですか?」

 私はそう尋ねながら、自分の傘をその女性の頭上へと持っていく。

 すると彼女は、それまでしきりに震わせていた肩をぴたりと止め、顔から手を離してゆっくりとこちらを見た。

 血の気のない、青白い顔。
 ひとしきり泣いているように見えたその目元は、意外と充血していない。

 年は二十代半ばくらいだろうか。
 面長で整った顔をしているけれど、顔色が悪いせいでどこか不健康そうな印象が強い。

「あなた……私のことが見えるの?」

 探るようにこちらを見る彼女に、私はもはやお決まりの返答をする。

「はい。私、あやかしが見える人間なんです。なのでもしよかったら、どうして泣いていたのか理由を聞かせてもらえませんか? 私でよければ、何か力になれるかもしれないので」

 彼女のように困っているあやかしの力になれることが、私にとって心の拠り所となりつつあった。

 たとえ人間社会の中でうまくいかなくても、こうして誰かの役に立てることが嬉しくて仕方なかった。

 だから私は、やはり軽率だったのだ。

「そうなの……。じゃあ、お言葉に甘えて。私のこと、ちょっとだけ手伝ってくれる?」

 そう言って冷ややかに微笑んだ彼女に、私は「はい!」と得意げに返事をした。
 
 
          ◯


 とりあえず雨宿りができる場所へ移動しようと、私は女性を連れて京阪電車の方へ向かった。

 四条大橋のそばには、祇園四条駅の入口がある。
 改札やホームはすべて地下にあるので、階段を下りてしまえば雨に濡れることはない。

「まずは体を拭いた方がいいですよね。ハンカチじゃ足りないし……私、近くでタオルを買ってきます!」

 女性を地下の改札前まで案内してから、私がもう一度地上へ出ようとすると、

「ありがとう。でもお構いなく。私の体が濡れているのは雨のせいじゃなくて、私の()()のせいだから」

「え?」

 そう言われて、私は改めて彼女の姿を眺める。
 体質で濡れる……って、一体どういう意味だろう?

「私、『()(おんな)』っていうあやかしなの。何もしてなくても体はいつも濡れてるから、そう呼ばれているみたい。だから気にしなくていいのよ」

 何もしてなくても濡れている。
 そういうものなのか、と私は目を瞬く。

「そ、そうだったんですか。じゃあ、傘も特に必要ないってことですか?」

「ええ。私は幽世に住むあやかしだから、この現世で降る雨の影響は受けないしね」

 その説明を聞いて、そういえばそうか、と考えを改める。
 今まで私が出会ってきた他のあやかしたちも、この世界の物に触れたりする機会はあまりなかったように思う。

 女性の名前は、(あおい)さんというらしい。
 もともとこの現世に生きる人間だった彼女は、亡くなった後にあやかしとして生まれ変わったのだそうだ。

(人間の生まれ変わりって、初めて見たかも)

 それまで私が出会ってきたあやかしたちは、動物の生まれ変わりばかりだった。
 蜜柑くんは猫だったし、茶々丸くんは狸。
 他にも色々。

 葵さんが彼らよりも大人っぽい姿をしているのは、それも関係しているのだろうか。

「それで、さっきはどうして泣いていたんですか? もしかして道に迷っちゃったとか……」

「ええ。そうなの。私、行きたいところがあるのだけれど、道がわからなくて」

 やっぱり。
 彼女もまた、この現世で迷子になったあやかしなのだ。

 そしてこの四条通で途方に暮れていたということは、

「あの。もしかして、葵さんも猫神様を訪ねようとしていたんですか?」

 先斗町の奥に居を構える猫神様。
 彼に力を借りようとして、この四条通を彷徨っているあやかしは多い。

 葵さんもきっとそうだろうと思って私は尋ねてみたのだけれど、しかし彼女の反応は、

「猫神様……?」

 訝しむように、眉間にシワを寄せて顔を歪ませる。

 まるで心外だとでも言いたげな彼女の表情に、私は一瞬、悪寒のようなものを感じた。

「猫神様って、男の人じゃないの? 私、あまり男の人に相談したくないの。いま抱えている問題については、特に」

 どこか不機嫌そうに言った彼女の言葉で、私はハッとする。

 男性には相談したくない問題。
 もしかしたら、乙女心に関する繊細な内容なのかもしれない。

 そこまで配慮ができなかった自分自身に、私は情けなくなる。

「ご、ごめんなさい。えっと、それじゃあ……葵さんの行きたい場所って、この近くなんですか?」

「私は、貴船(きぶね)に行きたいの」

「貴船……。というと、貴船(きふね)神社があるところですか?」

 貴船神社といえば、ここから北へずっと行ったところにある山の中に鎮座する神社だ。
 そのそばを流れる貴船川の周辺には老舗の料理旅館がたくさん並んでいて、多くの観光客が訪れる人気スポットとなっている。

「ええ。その貴船よ。あなた、その場所を知ってるの? よかったら案内してほしいんだけど」

 彼女はそう言って、にんまりと目元を細めてみせる。

 いつもは猫神様に助けを求めるところだけれど、いま目の前にいる彼女は、私を頼りにしてくれている。

 そう思うと、私はなんだか大役を任されたような気がして、自分がしっかりせねばと心を奮い立たせた。

「わかりました。私が必ず、あなたを貴船まで送り届けます!」

 やってやるぞと意気込む私を見て、葵さんはとても満足げに、青白い顔で笑っていた。
 
 
          ◯


 祇園四条駅から京阪電車に乗り、出町柳(でまちやなぎ)駅で降りて、そこから叡山(えいざん)電鉄に乗り換える。

 出町柳駅は、ちょうど先日も訪れた糺の森のすぐそばにある。
 叡山電鉄に乗り込んで車体が動き出すと、家々の並ぶ隙間から一瞬だけ、森の木々が遠くに見えた。

「……ここもずいぶんと景色が変わったわね」

 車窓からの景色を眺めながら、葵さんはぽつりと呟く。

「葵さんは、この辺りの出身なんですか?」

 彼女と肩を並べて立つ私は、外の景色と彼女とを見比べながら聞く。

「いいえ。私は遠い所から、ここへ嫁いできたの。……だからこの土地には、あまり良い思い出はないわ」

 そう言った彼女は、どこか遠い目をしていた。

「そ、そうなんですか」

 なんだか悪いことを聞いちゃったかもしれない。

 私が口を噤むと、そこから気まずい沈黙が続いた。

 もしかしたら怒らせちゃったかも——と彼女の横顔をチラチラと窺ってみたけれど、基本的に表情の乏しい彼女の様子からは、その胸中を読み取ることはできなかった。

 やがて私たちを乗せた電車は、『青もみじのトンネル』と呼ばれる区間に差し掛かる。
 そこは車窓いっぱいに青もみじが咲き乱れるスポットで、景観を楽しんでもらえるようにと、電車も徐行運転をしてくれる。

(きれい……)

 青々とした新緑を目で楽しんだ後、電車は二駅ほどで目的の貴船口駅へと辿り着いた。


 その駅は緑深い山の中にあって、ここから貴船神社までは長い坂道を歩いて三十分ほどの距離だ。

 辺りはひんやりとした清涼な空気に包まれていて、雨に濡れた新緑の葉が、しっとりとした瑞々しい色を放っている。

「ああ、なつかしい……」

 葵さんは駅前の道路に出ると、周りを囲む高い木々を見上げて呟く。
 その顔には喜びとも悲しみともつかない複雑な表情が浮かんでいた。

 貴船は京都の中でも人気のある観光地だけれど、その日は雨のせいか、周りを歩く人の数は少なかった。

「葵さんの目的地って、この辺りなんですか?」

「ええ。この川沿いを登っていった先に、お店がいくつかあるでしょう? そのうちの一つに、私は嫁いだの。ずっと昔のことだから、今もそこにあるかどうかはわからないけれど」

 この貴船川を登っていった先に、今は料理旅館がたくさん並んでいる。
 それらは老舗も多いと聞いているので、葵さんの住んでいた場所も残っているかもしれない。

 雨は降ったり止んだりを繰り返していたので、私は手にした傘を開いたり畳んだりしながら、葵さんの後についていった。

 やがて道の先に、一軒のお茶屋さんが見えてきた。
 建物は比較的新しいカフェのような雰囲気で、おそらくはまだ歴史の浅い店だろう。

(さすがに、ここではなさそう……だよね)

 どう見てもまだ新しいお店。
 葵さんがこの世で生きていた頃には、きっと影も形もなかっただろう。

 そう思って、私はそこを通り過ぎようとした。

 しかし当の葵さんは、その店の前で足を止め、じっと中を見つめている。

「葵さん? どうかしたんですか?」

 もしかして、お茶屋さんのメニューに気になるものでも見つけたのかな? と私が呑気に考えていると、

「……ここも、()()()にしようかしらね」

「え?」

 何やら物騒なワードを、彼女は口にした。

「あ、葵さん? どうしたんですか。そこのお店って、たぶん葵さんが住んでいたところじゃないですよね?」

「ええ。わかってるわ。でも、それでもいいの。私は、この一帯に住む人たちのことを道連れにしにきたんだから」

 道連れ、と。
 彼女はまたしても物騒なワードを口にした。

 さっきのは聞き間違いではなかったのだと確信して、私は息を呑む。
 
 
「み、道連れって、どういうことですか? 葵さんは、幽世に住むあやかしなんですよね?」

「ええ、今はそうね。でも昔は、私もこの貴船で人間として生きていた。そして嵐の夜、氾濫した川の土砂に巻き込まれて、私は命を落としたの。後から知ったことだけれど、その日は私以外に死んだ人間は一人もいなかった。私だけが、この世を去ってあやかしになったの」

 彼女の口から語られた事実に、私は胸が苦しくなった。

 ずっと昔、この場所で命を落としたという葵さん。

 当時の悲しい記憶を抱いたまま、彼女はあやかしとして生まれ変わったのだ。

「寂しかったわ……。生前も、見知らぬ遠い土地に嫁いで、周りには心を許せる人もいなくて。その上、最後はひとりで死んでいくなんて……。あやかしに生まれ変わっても、この思いはずっと消えなかった。だからこの無念を晴らすためには、ここで誰かを道連れにしないといけないの。そうしないと、私の心はずっと苦しいままだから」

 彼女の悲しみを鎮めるためには、この地域の人を道連れにしなければいけない。

 それはつまり……——誰かを死なせるということ?

「ま、待ってください、葵さん。あなたが生きていた時代というのは、ずっと昔のことですよね? 今ここで生きている貴船の人たちは、あなたの知っている人たちではないんじゃないですか?」

 葵さんの生きた時代というのが、どれほど昔のことなのかはわからない。

 けれど、少なくとも京都の街中の景色が一変してしまうくらいには時間が経っているのだろう。

 ならばこの貴船に生きる人たちもきっと、葵さんがいた頃からは代替わりを重ねている。
 冷たい言い方をすれば、今ここにいる人たちはみんな、葵さんとは何の関係もない人たちだ。

「相手が誰かなんていうのは、どうでもいいの。ただ、この土地の人間を連れていくことさえできれば、私はそれでいい。この無念を晴らすためなら、私は何だってするわ。もちろん、あなたのことだって利用する」

 そう言って、彼女は今度は私の方へ体を向け、ゆっくりと近づいてくる。

「あ、葵さん……?」

 私はもはや恐怖で動けなかった。

 一体何をするつもりなのか——冷や汗を浮かべながら見つめていると、彼女はこちらの目の前で足を止め、その細い右手を私の鼻先まで持ち上げた。

 爪の先まで青白い手。
 それはたちまち白い(もや)とともに別の形へと変化する。

 そうして彼女の右手は、灰色の(うろこ)を持つ蛇となった。
 ぬめりけのある口元が開き、赤い口内と鋭い牙がこちらへ迫ってくる。

「いっ、いや……!」

 私が悲鳴を上げようとした瞬間、蛇は私の口の中へ入ってきた。
 細長い体が口内へ侵入する——というよりは、煙が中へ入ってくるような感覚だった。

 反射的に閉じてしまった目を再び開けると、いつのまにか葵さんの姿は消えていた。
 そして蛇の感触も、今は何も感じない。

(あれ……? ど、どうなったの?)

 慌てて辺りを確認しようとしたところで、私は違和感を覚える。

 体がいうことをきかない。
 手も足も首も動かせず、まばたき一つさえ満足にできない。

(何? 一体何が起こってるの?)

 自分の体に起きた異変に戸惑っていると、今度は私の口が、勝手に言葉を発した。

「心配しなくても大丈夫よ。ちょっと体を借りるだけだから。私の目的さえ果たせたら、すぐに元通りにするわ」

 私が、勝手に喋っている。

 私の意思に反して発声されるそれは、おそらく葵さんの言葉だった。