雀の鳴き声。
私は耳を澄ませてみたけれど、それらしきものは聞こえなかった。
すでに日が暮れた今は辺りが真っ暗で、雀の姿は見当たらない。昼間はあちこちを飛び回っていた彼らも、今ごろはきっと巣に戻っているだろう。
周りから聞こえてくるのは車の音と、道行く人々の笑い声。それから、私と彼女と、栗彦くんを含めた三人の会話だけだ。
「一体何を言っているのだ? 雀の姿なんて、今はどこにも……」
栗彦くんも首を傾げている。彼は背中の羽を動かして、女性の肩の上へと移動した。すると、
「あっ。また聞こえた」
女性は今度こそ確信した様子で、キョロキョロと視線を巡らせる。しかし依然として雀の姿はどこにも見当たらず、まるで狐につままれたような顔をする。
(もしかして……栗彦くんの声が、雀の声として聞こえてる?)
栗彦くんが何か言葉を発する度に、女性は雀の声が聞こえると言う。
本来なら聞こえるはずのないあやかしの声が、彼女の耳に届いている。
もしや猫神様の力だろうか——と、私は後ろに立つ彼を振り返った。
すると、背後からいつもの優しい瞳で見守ってくれていた彼は、ふっとやわらかな笑みをこちらに向けて言った。
「何も不思議なことはありませんよ。栗彦さんは、『夜雀』のあやかしです。夜雀は、夜になると雀の声で鳴きながら、人の近くに現れるんです。まだ半人前なんで、本来なら普通の人間に声は届きませんが、ほんの少しだけ私もお手伝いさせていただきました」
それを聞いて、私はやっぱり、と微笑む。
猫神様が力を貸してくれて、栗彦くんの声が、彼女の耳に届いている。
私は再び彼女に向き直って、嬉しさを堪えきれずに言った。
「今あなたに語りかけているのが、さっき言っていた雀の子です。あなたに感謝の気持ちを伝えたくて、今もあなたのそばで、声を届けようとしているんです」
女性は未だ半信半疑のようで、困惑した表情を浮かべている。
そこへ栗彦くんがさらに続けた。
「自分の声が、聞こえているのだな。言葉は伝わらないかもしれないが……自分は、そなたに感謝している。それは間違いなく事実だ。だからどうか、あのときのことを後悔しないでほしい」
栗彦くんの、切なる願い。
女性はしばらくその声に耳を澄ませた後、いよいよ助けを求めるようにこちらを見て、
「……ほんまに、この声がそうなんですか? あの雀の子が、私に会いにきてるんですか? なら、一体何て言うてるんですか、あの子は」
縋るような視線を向けてくるその瞳は、わずかに潤んでいた。
ようやく、信じてくれたらしい。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、二人の会話の橋渡し役を申し出たのだった。
◯
「二人とも、世話になった。これで自分も思い残すことはない」
女性が病院の中へ戻っていくのを見送った後、栗彦くんが言った。
彼は猫神様の両手のひらの上で正座している。その横顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、満足げな微笑みを浮かべていた。
「桜さんのおかげで、一件落着ですね。これで私も心置きなく、栗彦さんを幽世へと送り帰せます」
こちらの世界へ迷い込んだあやかしを、あちらの世界に送り帰す——それが猫神様の役目だ。
半人前のあやかしである栗彦くんは、本来ならまだこちらの世界へやってくることはできない。そしていずれ一人前になって再びこちらへ来る頃には、私も生きているかどうかはわからない。
だからきっと、私と栗彦くんが顔を合わせられるのは、これが最後になるだろう。
「栗彦くん。私、あなたと出会えてよかった。あっちの世界に帰っても、どうか元気でね」
「自分も、そなたと出会えてよかった。何から何までかたじけない。この恩はけっして忘れない。桜どのも、猫神どのも、どうか元気で」
猫神様の手のひらの上で、栗彦くんは深々と頭を下げる。そうして覚悟を決めたように、猫神様の方を向き直った。
「それでは栗彦さん。あなたを幽世へ送り届けますね」
猫神様がそう言うと、栗彦くんはこくりと頷き、その小さな右手を前へ差し出す。
そこへ猫神様がそっと口づけを落とすと、たちまち栗彦くんの体は真っ白な光に包まれて、秋の夜の星空へと、ゆっくりと溶けて消えていった。



